2 だってこの国は鎖国してるんだもの
がらがらがら。
「ぎゃ!」
その戸の端に頭をぶつけた。
勢いが良すぎて、力が入りすぎたのだ。戸車の調子が良すぎるのよ!
「何だ?」
高い、よく通る声の女教師が、あたしに鋭い声で問いかける。
「遅れましたあ。転入生の、森岡さつきですう」
あえて明るく言ってみせる。こうなったら笑いを取れ、だ。
あたたたたた。ぶつけたほっぺたを思わず手でさする。まったく、こんなとこあざになったらどうするのよ!
視界は見事に男ばかりだった。同じくらいの、短い頭の群れ!
坊主と言ってしまうにはちょっと長い。まあ慣れたけれど、やっぱり何か変。決まりなのかな。指ですいて、そこから毛が出たらだめ、とかさ。
今までも色んな学校を見たけれど、ここ程皆同じくらいの刈り込み方をしてるとこは見たことがない。
それでもって、やっぱり、だとは思うけど、こっちを見て、びっくりしてる。
期待が半分裏切られた、と言うような。
そんなに珍しいかしらね。赤茶の髪は。
伸ばしているのに編んでもいない、あちこちが跳ね回っている、狼みたいな髪型は。
確かに今までの学校のどこでも見なかったけどね。あ、でもあの窓際の奴は結構長めだ。耳に髪を掛けてる。
「森岡… 初日からずいぶんな時間だな」
「すみません、ちょっと途中で」
「まあいい、とにかく遅くなりはしたが、紹介せねばならん。来なさい」
女教師――― 戸の上の板には生田、と書いてあった――― は、仕方ないな、という口調で手招きする。
「…えーと、その遅れた原因があるんですが…」
「遅れた原因?」
あたしはぐい、と「原因」を引っ張った。やん、と「原因」はとっさに口にする。可愛らしい声だ。そのままぐい、と彼らの前に押し出す。
「人を捜してるんですって。えーと」
がたん、とその時席を立つ音がした。
「規ちゃん!」
「原因」こと、今泉若葉は、立ち上がった男子生徒の一人に向かって、そう声を張り上げた。
「お前の知り合いか? 松崎規雄」
「…は、はい」
ちょっと来い、と生田は松崎と呼ばれた生徒を手招きする。五分間自習してろ、と言い放つと、そのままあたし達は廊下へと出た。
「五分で話せる理由、か? 森岡さつき」
「あたしの方は話せますけどね」
首を少し傾けると、ざらりと後ろの長い髪が流れるのが判る。
「ここに来る道の途中でこのひとを拾ったんだけど、彼女の自転車がパンクしてたんで、直してたんです。でちょっと時間が。あ、ここに来たのは時間少し過ぎたくらいだったんですけど、自転車置き場に手間取って」
「なるほどそれは納得の行く説明だ。くどくどしいのに一分も掛からない」
妙な感心のされ方だ。
生田は腕を組むと、頭半分小さいあたしの顔をのぞき込む。
「…おお、あざができてるぞ、森岡さつき。松崎、彼女達を保健室に連れていけ。伊庭先生に診てもらえ。そうしたらそのまましばらくついていろ」
「…は、はい」
行こう、と松崎はあたし達をうながした。
生田は再び教室へと戻っていく。なるほど、この知り合い同士に話す時間を与えてくれたって訳ね。
無言のまま、あたし達は廊下を歩いていく。
木造の校舎は歩くたびにぎしぎしと音がする。
いつまで経っても慣れない音だ。こんなのであの教室の男子が走り回れば、ずいぶんうるさいだろう。や、うるさいどころか、踏み抜きはしないか?
それにしても長い廊下だ。
外側から見たところ、この校舎は二階建てだった。焼き板を張りつめたような外壁に、窓枠だけが白かった。
工法のせいか、上に伸ばせないなら、確かに廊下は長くなる。十ばかりの教室と特別教室を越えたところに、ようやく目指す保健室はあった。
「失礼します」
「失礼だったら来るなあ」
のんびりしたその声に、何だ何だ、とあたしと若葉は目を丸くした。首のあたりでふわふわした髪が妙に質量がありそうな白衣の女が、机に突っ伏している。
「今私は空腹でしかも疲れているのだよ。察してくれるなら君、その扉を閉じて、即刻教室に帰るがいい」
「お言葉ですが伊庭先生、患者です」
「何」
ぱっ、と松崎の言葉に伊庭と呼ばれた保健医は姿勢を正した。
同じ女教師でも、さっきの生田とはずいぶんと違う。顔もずいぶんと童顔だ。その上に黒ぶちの大きな眼鏡を掛けていて、似合うのか似合わないのか微妙なところだ。
「患者はどこだ?」
つかつかと近寄ってきた伊庭は、あたし達の前まで来ると、三人の顔を交互に見渡した。小柄だ。見渡す顔が心持ち上向きになっている。
「あ、あたしですが」
「君か? おお、ずいぶんと赤い髪! これはここでは直せないぞ」
「違いますって、さっき戸に顔をぶつけて」
そうなのだ。さっきはあえて笑いにしようと思ったが、実は結構痛かった。
「あざになってませんか?」
湿布をしてくれる彼女にあたしは問いかける。
「あざ? あざの一つ二つは学生の勲章だ」
「あたし女の子なんですよっ」
「お?」
そしてあらためて、彼女はまじまじとあたしの顔と、その下へと視線を這わす。
「そう言えば、その胸の膨らみは女だな。…と言うと、君が噂の越境生か」
「噂ですか?」
「そうだろう?」
今度は黙って様子を見ていた松崎にふった。
松崎はああ、とかええ、とかあいまいな発音を返す。心ここにあらず、という感じだ。それとも若葉の出現がそんなに驚きだったのか。
「で、こっちの君もよく見れば女だな。越境生は実は二人だったのか? それとも君が分裂したのか?」
「違います!」
どういう反応だ、と返す言葉を見失ってたら、若葉が口をはさんだ。
「じゃあ何だ。君は部外者か。部外者が高等学校に足を踏み入れるのは基本的にはまずいのだぞ」
「え…」
あたし達は顔を見合わせる。そう言えばそうだったような、気がする。
だけど彼女の用事は、ここに通う幼なじみにあった訳だから、仕方がない。人を捜すなら、人の集まっているところの方が都合がいい。
ミキさんはそう教えてくれた。
「でもまあ、生田が君等をここによこしたなら、事情があるのだろう。ま、しばし居るがいい。松崎は―――」
「あ… 俺は」
「松崎くんに用があるんですよ、この子は! ねっ!」
ここぞとばかりにあたしは声を張り上げた。
「用… って」
松崎は戸惑う。
「あたしが知るものか! 直接聞きなよ」
ほらちゃんと相手の方向く、とあたしは彼の肩をぐい、と掴んで若葉の方を向かす。
「えー… と。なあ、何があったんだよ、若葉…兄貴か? 兄貴に何かあったのか?」
「雄生さん」
その名前はどうも彼女の涙腺を刺激したらしい。大きな目に、じわ、と涙がたまった。みるみる間にその涙は大きな粒になって、ぽろぽろとその頬を転がり落ちる。
「…お、おい若葉」
「規ちゃん… 雄生さんが…」
「本当に、兄貴に何かあったって言うのか?!」
彼女は首を横に振る。
「ううん違うの」
「じゃ」
少しばかり松崎は安心したように息をつく。
だが甘かった。
「雄生さんだけじゃないの。村が」
村が?
あたしは思わず身を乗り出した。
「雄生さんだけじゃないの。村のみんなが、消えちゃったの」
ああ! とあたしは思わず右目の下がびく、と震えるのを感じた。
*
「小さい村なんです。私達の東永村は。広いんですけど」
彼女はそう話し出した。
保健室の、丸い木の椅子にちょこんと座った彼女は、「規ちゃん」に会って気がゆるんだのだろう。さっきまでのかみつきそうな子犬の様な気配は消えて、大人しくなっている。
実はちょっと前まで、わんわん泣いてた。
保健医の伊庭が「特別だからね」と渡した冷えた茶を口にして、ようやく落ち着いたところだ。どうやら保健医は、薬品用の特別な冷蔵庫に茶を入れてるらしい。
休憩時間になって、生田もやってきた。次の時間は彼女の授業は入っていないようだ。
「そうなのか?」
と生田は松崎に訊ねる。ええ、と彼はうなづく。
「昔、まだ東永町と言って、人が多かった頃でも、五千人くらいだった、と聞きます。山の方ですし」
「そういえばこの地区で、あの村出身なのは全校でもお前一人だものな」
「そうなんですか?」
あたしは聞いてみる。腰に手を当てた生田はああ、と答える。
「森岡がどういう学校を今まで見てきたか、私は知らんが、まあだいたいあのあたりの… 山側の地域の連中はいいとこ、村から一人、というところだな」
「じゃあ、どちらかというと、ここいらの…海側から来てる人が多いんですか?」
「まあな」
「そりゃあ昔は、全国第三の都市、と呼ばれたところだ。君ら知ってたか? 尾張名古屋はなあ」
伊庭もけけけ、と笑いながら口をはさむ。
「そう。まあだから規模は小さいが、ここいらも、わりあい関東管区や関西管区と同じような構図にはなっているな…中心のここだけが、でかいんだよ」
「それは思いました」
そう、それは思った。
「お前はどこから来たんだっけ? 森岡」
「つい前までは関東管区に」
「だったら余計にそう思わないか? もっとも私等はここ以外の場所を知らないんだが」
どうでしょうねえ、とあたしは少しあいまいにぼかす。
生田の言うことは間違ってはいない。数日前、自転車で関東管区の、旧都地区にある「自宅」からあたしは出発した。
長い道のり、はじめは人も家もあきれるくらい多かった。
けどそれは、進むうちにどんどん消えていく。やがて緑と畑と田んぼばかりになっていった。
山中すぎて、泊まる場所もなくなった時にはさすがに参ったけれど、それは仕方ない。あいにく野宿も慣れてるのだ。今が真夏という季節だからできることだけど。
太平洋を左手に見て、箱根の関所を越えて、富士山を右手に見て、茶畑とみかん畑を越えて、そして再び太平洋を左手に見ながら走ってきた。
今の時代、管区を越える鉄道は、輸送目的以外には走らない。自動車は特殊なお仕事についてる人々以外使えない。
だから一週間くらいかかったのかな。
ようやくこの地区あたりにたどりついたけど、それでも相変わらず緑と畑と田んぼばかり。ところがこの名古屋付近に来たら、急に家がどっと増えて、昔からある鉄筋コンクリートの建物が目に飛び込んできたから驚いた。
壊さないから残っている、というだけだけど、やっぱり高い建物があるとないではずいぶん違う。
「で、その小さな村で、何が起こったというんだ?」
生田は訊ねる。
「一週間くらい前のことです」
一週間。…同じ地区なのに… 迷ったな。
「別にその日も何かあった訳じゃないんです。少なくとも、私にとっては」
若葉は少し首をかしげる。
「ただ、ここしばらく、村中… というか、私の父の周囲は少し騒がしいな、という感じはしてました」
「若葉の親父は、今の村長なんだ」
松崎が付け足す。
ほう、と女教師と保健医はそろってうなづいた。
「私はでも、父の仕事には口を出すな、と言われていましたし、私には私の仕事がありましたから、忙しくて、それに気を止めてもいなかったんです」
「仕事?」
「私も村の田畑に出てますから…」
ああそうだったよな、と松崎はうなづく。あたしも、どういう生活なのかは、彼女の手を握った時の、その堅さから想像はできた。
今の時代、村という一つの生活する集団は、基本的に農業が中心なのだ。
村ぐるみで田畑の管理をし、村の人々が皆それに従事する。
一種の生活共同体だ。その中で怠け者が出るか出ないか、はまた別の問題で…
なかなかあたしには馴染めないのだけど、それが今の日本だった。
子供達は、初等四年中等四年、計八年の義務教育を終えると、まず自分の村で管理する田畑に出る。
人手はいつも足りない。
子供の頃からちょっとした手伝いはしている彼らは、すぐに実作業に出ても戦力になる。
だが中には、農作業そのものより、それを支援する機械や、農作物の品種改良に興味関心を持つ者がいる。
そんな子が成績優秀だった場合、村が支援して、このような都市部にある高等学校へと進ませる場合がある。
あくまで、村のために。この時代、機械は貴重だったりするのだ。
自分の土地を持って、好きなものを作って売って生活する時代は終わっていた。それではやっていけないのが、今の日本だった。
好きなものを作って売って行くという農業では、この人口の多い国の人々の胃袋を満たすことはできない。
何せ、農作物を輸入することができないのだから。
二百年前から、この国は鎖国していたのだ。