1 やってきました越境先
「アイスクリーム?」
彼は口をゆがめた。
「何だって君、まあそんな」
呆れてる。
「何だっていいじゃない」
あたしは言い返した。
「だって、あなたいつも言ってるじゃない。終わったら何でも『ごほうび』で好きなものを一つあげるって」
嘘はいけないのよ嘘は。
「だからってね君… アイスクリームはないだろう?」
ほらほら、そうやって眉間にシワを寄せるとどんどん老け込むのよ。ただでさえ、おっさんなのにさ。
「いーじゃないの。あたしはそれが欲しいのだもん」
そういう態度を取ると、こっちもむきになるからね。
「それも一種類じゃないんだから。そう、基本はバニラよね。一口食べると甘味が舌にふわーっと広がってそれだけですごいシアワセ感じるようなの。それにチョコ。あ、それともチョコチップがいいかな。全部チョコでチョコな、チョコクリームがいいかな。それとそーよね。これははずせないわ、ラムレーズン。絶対それよ。それがいいの。それにして。三種類よ。基本はバニラ。それにチョコチップとラムレーズン。絶対よ。約束。しないとあたしは動かないから」
あたしは一気にまくしたてた。
「君はね…」
彼はふう、とあきれたようにため息をついた。
「どぉ?」
ぐい、とあたしは相手に迫る。
判ったよ、と彼は苦笑いを返した。
***
「おんや?」
思わず声に出してしまったではないの。
自転車を止める。ブレーキを握ると、きぃ、と甲高い音がする。そろそろ油させって悲鳴を上げてる。
足を下ろすと、じりじりと道路から熱が上がってくる。
何がいけないって、アスファルトが黒いのがいけないのよ。
思わず八つ当たりしてみる。
何だっけ、黒は確か、熱を吸収する色だったっけ。でも白は紫外線を通すから日焼けを防げないんだっけ。
視線の先には、久々の人影。
割れた道路の端に自転車を立てて、縁石に座り込み、うつむいてる。
何のへんてつもない、白の木綿の開襟半袖。長い三つ編みが肩からずるりと落ちた。
女の子だよな。女の子だから三つ編みってのは納得いかないんだけどさ。
自転車のスタンドを立てて、あたしはそろそろと女の子に近づいて行く。あんな首すじ丸出しってのは良くないよ。
のぞきこむ。げ。
思わず口に手を当てる。寝てるよ、このひと。
こりゃあかんわ。こんなとこで寝てちゃ、絶対日射病や熱射病になるわ。
「ねえ…」
そっと手を伸ばす。肩に手をやる。動かない。やべ。本当にこりゃまずいんじゃないかい?
「ねえねえねえねえねえねえねえ」
ゆさゆさ。
ぱっ、と女の子は顔を上げた。眼を見開く。あ、結構可愛い。数秒、見つめ合う。あ、目でかい。
そして次の瞬間。
「あああああなたなに、だれ、だぁ? れ?」
…何って大きな声。思わず肩をすくめる。えーと。あたしは眉を寄せる。誰はいいけど何はないでしょ。
えーとえーと、と向こうも、突如自分を揺さぶっている奴に、何が何だか訳わからなくなってるらしい。
「あたしはただの通りすがりだけど… あんたね、こんなとこで寝てると、肌焼けるよ」
はっ、と顔に手を当てる。彼女は上目づかいに軽くあたしをにらみつけると、くやしそうにこう付け加える。
「…夏は焼けるものよ」
それはそうだけどさ。確かにくっきりと、腕に半袖の線ついてるし。
「んー… じゃ、そうじゃなくてさ。こんなとこで寝てると、日射病になるよ」
「…私の勝手よ」
「ふうん」
ちら、と彼女のそばに立てられている自転車を見る。
何かずいぶんごつい車体だった。少なくとも女の子仕様じゃない。
だってこんな、でかくてごつくておまけに後ろの荷台が広くて四角い。
こうゆうのは、仕事に使うもんよ。物を乗せるためのものだもの。
くくりつけてある黒いゴムは、きっと元はチューブだったシロモノ。荷物の滑り止めにつけてあるのよね。
そりゃこの時代だし。女の子だって自転車を乗り回して仕事することはある。当然だ。
だけどこれはどう見ても、大の大人の男が運転するような奴だ。
だいたい車体の色が濃いめのカーキだなんて、渋すぎだっていうの。
ふと心当たりがあって、その下に目をやる。
…はいはいはいはい。
「何すんの!」
よいしょ、と後輪を持ち上げ、スタンドをがちゃ、と上げてみる。う、重い。
後輪を下ろす。ぺしゃん。
「やっぱり」
あ、と彼女の口が大きく開く。
「パンクしたんだよね」
そしてがっくりと肩を落とした。
ついでに三つ編みもぽろんとひざに落ちた。ふうん。綺麗な髪だ。黒くて、まっすぐで、つやつやとしてる。
あたしの髪とは大違いだ。
「直してあげよか?」
ぱっ、と彼女は顔を上げた。できるの? とお願い、が入り交じった視線を添えて。
「ただし」
眉がちょっと寄せられる。
「名前を教えてね」
は、と彼女は今度は目をぱちぱちとさせる。けっこう表情が豊かだ。
「わ、私の?」
「他に誰がいるの?」
それはそうだわ、と彼女は左の頬に指を当てる。
「…若葉。今泉若葉というの」
「あらさわやかさん。あたしは、森岡さつき」
*
後で聞いた話だと、その日は朝から大騒ぎだったらしい。
「…おい聞いてきたぜ!」
早耳・早足・早弁が取り柄の高橋が、教室の戸をがらがらと勢い良く開ける。
と同時に、わらわらとその回りに皆が集まった。
夏期休暇が間近。そんな時期柄、黒ズボンに白シャツの男子生徒達が群れている図は、非常にむさ苦しい。
しかし当の本人達にはそんな意識はない。
「…それで高橋、どうだったのよ?」
「噂は本当だったのかよ?」
ぐるりと回りを取り囲み、男子生徒達は口々に高橋を問いつめる。
そう、これは彼らにとって大切なことなのだ。
思った通りの反応。高橋は思わず両手の拳を握りしめる。それまでこらえていたのだろう表情が、ぴくぴくと動く。
「ふふふふふ。よくぞ聞いてくれたぜ!」
「…と、言うと…」
「前々からの噂は…」
「そうなんだよ諸君! ほんっとうに珍しい『越境生』だって言うのに、しかも女だぜ女!」
うぉぉぉぉ、と歓声が教室中に鳴り響く。
「うううううれしい… なあ、一応ここって、共学のはずだよなあ」
「俺もそう信じていたのによ…」
口々に、非常に正直な言葉が上がる。
「入った時にはだまされた、って思ったものなあ」
「だよなあ」
「だけど村の手前、女の子がいないから嫌です行けません行きたくないです、なんて言えねーし、よぉ…」
「お前もかぁ…」
「おおっ同志よっ」
顔を見合わせ、抱きつくふりなどもしている奴もいる。暑苦しい空気が余計に暑苦しくなっているのに、誰も気付かないのが不思議である。
とはいえ、そんな奴が全てではない。
「けっ」
遠山、と誰かが口にする。
シャツの裾をズボンから出し、ボタンを全部外した背の高い生徒が一人、窓際に居た。あぢー、と言いながら襟をぱたぱたとはためかせている。
「女おんなって、お前等、そんな珍しいかねえ」
「そりゃあお前はいいけどさ。俺達はそうそうお前のようにはいかねーよ」
「はれ。けど松崎、お前だって、実家のほうに婚約者がいるって言ってなかったか?」
「違うよっ!」
松崎と呼ばれた生徒は、即座に否定する。
「婚約者がいるのは兄貴だよ! 俺じゃねえって」
「何でえ違うのか。つまんねーの」
肩をすくめると、遠山は興味を無くしたように窓の外へ視線をやる。
周囲はそのまま「越境生」の話題を続けていたが、彼には関心のないことのようだった。
松崎もその輪の中にしばらく加わっていたが、どうも一度下がってしまった調子というものはなかなか戻らないらしい。口の端がぐにゃりと下がってしまっているのが自分でも判る。
せっかくの明るい話題なのに、だ。
管区を越えて転校してくる「越境生」は、高等学校に在学する四年のうちに、見られるか見られないか、の存在だった。
しかも女。
義務教育の中等学校を卒業してからは、まず学校という場所で見かけることがない存在。
だったらやっぱり話題としては明るいはずではないか。
もちろん故郷には昔なじみの女友達もいるだろう。知り合いがゼロ、という者はまずいない。
だが遠く離れてしまっては、その関係を続けるのは難しい。かと言って新しくそんな関係を作れるというものではない。
だいたい自分達は、高等学校の生徒なのだ。義務教育の初等四年と中等四年を卒業したら、まず大半は仕事をする今の時代に、こんなところに送られている存在。
生活の大半を学校と、附属の寮で、野郎ばかりの中ですごさなくてはならない。
気楽ではある。だが、そんな生活を送っていると、女の子とどう接していたのか、忘れそうになる。
だから皆、自分がそうなってしまうことを恐れてか、少しでも女の子と関わる機会があるなら、過敏な程に積極的になるのだ。
だがしかし―――
「やかましいぞお前ら!」
高い声が、騒がしい低音の喋り声を一気に切り裂く。
やべ、生田だ、と蜘蛛の子を散らしたように、男子生徒達は自分の席へと戻る。
こういう女だったら、ちょっと勘弁願いたい、と松崎は口の端を下げたまま、がたがたと木の椅子に座った。
「出席を取る。安西!」
紺色の、厚手の綿の体操着を上下に着込み、女教師生田は、とん、と硬い表紙の出席簿を教壇に立てる。
「斉藤… 杉山… 曽根… 高橋」
「はい! 先生質問です!」
「何だ」
高橋は立ち上がる。生田もその声に顔を上げる。二つに分けたたっぷりした黒い、長い髪が揺れる。
化粧気はないが、きりりとした端正な顔に、平均よりはやや背の低い高橋とちょうど視線が合う。
「越境生が来るのは今日と聞きましたが」
「何だ、その話か」
何だじゃありませんよー、と堰を切ったように、口々に低い声が飛んだ。彼らにとっては大問題なのだ。
「まだ来ていないだけだ。騒ぐな、ガキども」
「まだって」
「まだ、だ。初日から遅刻するとはけしからん」
とん、と生田は再びとん、と出席簿を立てる。はっ、と生徒達は身構える。こういう時の彼女は怒っているのだ。静かに。だけど確実に。
「滞在先からは、今朝こっちへ直行する、という連絡があった。それだけだ」
出席を続ける、と彼女は宣言し、それ以上の無駄口を押さえる。まあそんなところだろうなあ、と高橋も腰を下ろす。
「あ、でも一つよろしいですかぁ?」
のんびりとした口調で、別の生徒が席を立った。
「何だ森田」
「へえ、すんません。その越境生って、男でしょか、女でしょか」
「私は言ってなかったか?」
「へえ」
その声と同時に、言ってない、と再び一斉に声が上がる。そうだったかな、と今度はそらとぼけた顔で生田は天井を見上げる。
「女だ」
とたんに、教室中に歓声が上がる。
「静まれガキども。だがまだ私もどんな奴かは知らんのだ」
「写真とかは」
「顔は関係なかろう? 森田も座れ。越境してくるんなら、優秀には違いあるまい」
それはそうだ、と松崎は思う。
越境生というのは、現在この日本でも珍しい、全国の管区を移動できる存在なのだ。
現在の日本は、十二の管区に分かれた地方分権制を取っていた。
彼らが住む東海管区は、太平洋側の、本州中部にある。
管区としては大きな方である。地区数も多い。
微妙な差はあるのだが、今では「地区」と呼ばれている区域。それが昔は「県」という単位だったという。
ただ、そのことは高等に入るまで、松崎も知らなかった。
大人達も知っているのか知らないのか、故郷ではまず誰も口にしたことはなかった。
いや、そうではない。
松崎は例外を思い出す。兄貴。
口にはしていた。ただ自分にはその意味が分からなかっただけなのだ。
二百年も昔には、この国は他の国ともつきあいがあったんだよ。その頃は、管区なんて強力な境もなく、自由に国中を行き来できたのにね。
今では、一部の公務員と、越境生くらいしか、生まれた管区を離れた行動はできなくなっているらしい。勝手に離れれば、それは罪になる。
当たり前だ、と彼は思っていた。上の学校に上がるまでは。
だけどここへ来て、それが当たり前ではない時代があったことを知った。
彼は思う。自分はここに本当に来てよかったのだろうか? 自分がここに来た理由は…
そのまま授業が始まった。口の端が下がったまま、松崎は教科書を開く。何代もの三年生が使ってきた教科書は、手ずれのした年季ものだった。
授業が始まって三十分くらいした時、廊下でぱたぱたと音がした。
がらがらがら。
引き戸が勢いよく開かれた。