こんな時に何なんだが
結局殆ど眠れなくて、5時半にはベッドから出た。視界をうろつく茶色い影が、昨晩のことが夢ではないと証明していた。
『おはよう、遥チャン。眠れなかったみたいだね』
私が眠るのを見ていたのだろうか。顔を洗い、朝食のトーストを焼く間ずっと、縫いぐるみは片時も離れずに私を見ていた。朝食を机に運ぶと、縫いぐるみはまた机に乗った。
「いつもそうしているつもりですか?喋るサボテンならついて来なくても」
『遥チャンを見守るのがキャラクターカウンセラーの役目なのです。もし嫌だったら、電気のスイッチの下に僕のスイッチもあるのでオフにするのです。ただし、その場合は目覚まし機能が使えないのです。』
「じゃあ、昼間はオフにしておいて寝る前だけオンにすれば、目覚ましとして使えるんですか」
『不本意ながら、そうなのです』
不本意ながら、ということは、やはりこれはカウンセラーをやりたいということだろうか。まあ、これから出掛けるから放っておこう。
朝食を終え、歯を磨き、服を着替える。今日は動きやすい格好の方が良いだろうか。簡単に化粧をして髪を整え、鞄を持って出発だ。……いや、鞄は活動の邪魔になるかも知れない。部屋を探すと、随分前に誰かから貰ったウエストポーチがあった。格好は悪いが、背に腹は替えられない。これで出発……エンブレムを忘れるところだった。エンブレムにはクリップと安全ピンが付いていて、どこに付けても良いらしい。少し窪みがあるが、不良品だろうか。後で青山に確認することにして、無難に左胸に安全ピンで留め、今度こそ出発だ。
「……行ってきます」
『行ってらっしゃい、遥チャン』
ドアを開けると、猛烈な熱気が掴みかかってきた。そういえば、引っ越してから冷房を点けた覚えが無い。どこかで一括管理しているのだろうか。
『遥チャン、大丈夫?』
「行ってきます」
ドアを閉めると、縫いぐるみの声は聞こえなくなった。
ロビーには約束より15分くらい前に着いたが、白瀬は既に来ていた。近づくと微かな良い香りがして、胸元にエンブレムが光っている。
「おはようございます、白瀬さん」
「おはよう、神谷。良い心掛けだな」
「流石に、初日に遅刻する訳にはいきませんから。」
「それもそうだが、鞄を持って来なかったのは正解だ。青山に言われたのか」
「いえ、動きやすい方が良いと思って」
「青山には常々、鞄についての指示をするようにと言っているのだがな。あるいは、神谷が持っているような物を制服にしてしまうか。時々、友人と買い物にでも行くような格好の団員を見かけるが、……いや、これはまた今度にするか」
白瀬の視線の先に、青山が歩いていた。今日も白い手袋だが、流石に上着は着ておらず、エンブレムを胸元に着けていた。
「おはよう、遥さん」
「おはようございます、青山さん」
「あ、出来たらなんだけどさ、」
「何か不備がありましたか?」「ううん、むしろ逆かな。僕、『Our Justice』は上下関係が無いのが好ましいと思ってるんだ。だから、出来たら『青山さん』は止めて欲しいな」
「では……何てお呼びすれば」
「他の団員は『嗣彦さん』が多い。俺は『青山』と呼び捨てだし、浅葉は『青山殿』などと言っているな。橙乃は『青山君』、脇田は『青ちん』『嗣やん』など安定しない」
「白瀬は説明が長いんだから。つまり、青山さん以外なら何でも大丈夫だよ」
「分かりました。以後気をつけます」
「もう、真面目なんだから……。さて、遥さんにプレゼント。」
「プレゼント?」
「うん。はい、これ。」
手渡されたのは小指の先位の黒い箱だ。よく見ると、先にレンズが付いている。
「カメラですか?」
「流石遥さん。ここがスイッチね。これは僕たちが活動する上で絶対に必要な物なんだ。無くしたり壊れたりしたら、すぐに言ってね。上着やエンブレムの裏にこれを嵌める窪みがあるから、付けてみて」
「活動の監視……とかですか?」
カメラはエンブレムの窪みにぴたりと嵌まった。
「まあ、広く言えばそうだね」
「俺たちは原則、現行犯、準現行犯を逮捕する。逆に言えば、それ以外は原則逮捕出来ないということだ。そのカメラは、俺たちが逮捕権を濫用していないかを見張り、また俺たちが正しい逮捕をしたことを証明する為の物だ。だから、活動をする時には絶対に携帯するように。」
「ちなみに、誰がどうやって見ているんですか?」
「基本は監視カメラと同じく、『Our Justice』の本部に映像が3日程度保存される。逮捕があった時には警察に犯人と共に提出する」
「白瀬ったら、犯人を『提出する』なんて」
「揚げ足を取る暇があったら説明に協力しろ。映像は3日程度保存されると言ったが、廃棄の前に警察に提出する決まりになっている。一応任意ということになっているが、実質ライセンスを持っていることの証明として義務づけられている。全ての映像を見ているとは到底思えないが、手抜きや不正はするものではないな。」
「ちなみに、僕たちは全部なんて見られないから、活動報告はしっかり書いてね。映像はこのメールアドレスに時間と自分のナンバーを書いて送信したら送ってくれるから。じゃあ、少し早いけど出発しようか。」
「どこに行くんですか?」
「駅だ。近くには紋白線の西螟蛉駅、三竦線のくちなわ駅の2つがあるが、今日は西螟蛉だ」
「僕と白瀬は毎朝、どちらかの駅に行って電車に乗るんです。」
「電車に……?駅の治安維持ではないんですか?」
「勿論それもあるけど、制服を身に着けて電車に乗ると、痴漢とかの対策になるでしょ?出来るのは西螟蛉駅から隣の螟蛉駅までと、くちなわ駅から隣の括湯駅までだけど、僕たちの町でそういう犯罪が起こるのは嫌だしね。だから、通勤・通学が落ち着く9時頃まで電車に乗るんです。では、行きましょうか」
西螟蛉駅、螟蛉駅はさほど大きい駅ではないが、周辺が住宅街で通勤・通学の時間にはバス停があるロータリーから電車のホームまでかなり混んでいる。駅にはエンブレムと橙乃の顔が写ったポスターが貼ってあった。青山が駅員に声をかけ、何かを受け取って来た。
「はい、遥さん」
「『入場許可書』?」
「自警団用の特別措置みたい。これを貰えば、西螟蛉駅から螟蛉駅は自由に移動出来るよ。ただし、貰った駅で降りること。遥さんも、制服とメンバーズカードがあれば貰えるからね」
「分かりました。ありがとうございます」
入場許可書を改札に通してホームに入ると、白瀬が辺りを見回した。
「3両目だな」
3両目の前には、女子高生や若い女性が並んでいた。
「先程も言ったが、我々の目的は主に軽犯罪の抑止及び痴漢などの対策だ。よって被害に遭いやすい若い女性のいる車両に乗ることが多い。無論窃盗などになると被害者は女性のみではないから、なるべく視野は広くしておくように」
電車は満員という程ではなかったが、手を伸ばせば人に当たるくらいには混み合っていた。白瀬と青山は少し離れて立ち、吊革に両手をかけた。私は何となく白瀬の側に立った。
「吊革……届かないです」
「神谷は必要ないだろう。我々が痴漢に間違われては本末転倒だから、俺はいつもこうして両手を上げているんだ」
螟蛉駅には4分程で着いた。電車を降り、反対側のホームから今度は下り、西螟蛉駅方面行きの電車に乗る。こちらはかなり空いていたが、吊革は半分くらい埋まっていた。今度は青山の側に立ってみる。
「つまらない作業でしょ?」
「いえ、これで犯罪が減るなら何でもありません」
「団員が皆そういう人ならな……」
「えっ、」
「ううん、何でもないよ。正直な所、実際にどれくらい犯罪が減っているかは分かりにくいんだよね。勿論毎日犯罪が起こるわけがないし、それはとても喜ばしいことなんだけど、やっぱり僕や白瀬は何回か痴漢を捕まえたりしているからさ。毎日全ての駅、全ての電車、全ての車両に制服を着た警察官がいる訳にもいかないから、僕たちの活動は必要なんだと信じているよ」
西螟蛉駅に着いて、すぐに上りの螟蛉駅方面行きへ。上りの時には白瀬の側に、下りの時には青山の側に立った。何度か繰り返し、8時半を回った時だった。上りの電車で、女性の後ろに立つ中年男性の手元が一瞬光ったように見えた。白瀬も同じ男性を見ているようだ。
「白瀬さん、」
「ああ」
男性はしきりに携帯を持った手を動かし、時々不自然に前に出したりしていた。
「あの男、先程も電車に乗っていたな。……現行犯にするには、画面を確認する必要がある。少し近づかなくては」
男性が女性の後ろを離れて、エスカレーターに向かった。追いかける私たちに気づいて、青山もタブレットを操作しながら後を追ってきた。男性はエスカレーターを降りて、すぐに隣の階段を上り始めた。目の前には女子高生が歩いている。
「神谷、画面は見えるか」
「いえ……なかなか」
その時、男性が携帯を持ち上げた。画面にはスカートの中が写っている。
「見えました」
「行くぞ」
青山と白瀬が走り出し、私もそれに続いた。男性にはすぐに追いつけた。
「すみません、ちょっと良いですか?」
青山がエンブレムを見せながら男性に声をかける。
「何だよ、急いでるんだよ」
男性が咄嗟に携帯をポケットに入れようとするのを、青山が止めた。画面には犬の写真が写っている。
「何するんだよ。犬を見ていちゃ悪いかよ」
「貴方、西螟蛉と螟蛉を行ったり来たりしていますよね。先程、貴方の携帯に女性のスカートが写っているのを見たんです。確認にご協力ください」
青山がエンブレムのカメラで録った映像をタブレット端末で男性に見せる。
「何でだよ、警察でもないくせに。偉そうにすんじゃないよ。離せよ、こら、返せよ」
青山が男性の携帯からスカートの写真を見つけた。スカートの中が写る写真も沢山保存してある。白瀬が男性の前を歩いていた女子高生を連れて来た。
「事情は話した。確認を」
青山が女子高生の写真を見せる。
「アタシだ……超コワイ」
女子高生は半笑いだ。本当に恐い時、不思議と恐い以外の感情が出てしまうことがあるんだよな。
「こんな時に何なんだが、」
白瀬に耳許で言われて、思わず飛び上がりそうになる。
「青山は今、恐らく神谷か俺の映像を請求したんだと思う。信用出来る団員や共に行動することが多い団員のナンバーは、控えておいて損は無い」
騒ぎを知り、駅員が駆けつけてきた。
「盗撮の現行犯で逮捕します。駅員さん、警察に連絡をお願いします」
「何が逮捕だよ、警察でもないくせに!」
男性が青山の手を振り切ろうと暴れだした。
「一般人でも現行犯、準現行犯なら逮捕出来るんですよ。僕たちはライセンスも取っていますし」
「何がライセンスだよ、偉そうに。こんなことで、」
「『こんなこと』じゃありません」
考えるより先に言葉が出ていた。けど、私はこの為にここにいるんだ。
「なんだよ、写真の1枚や2枚、……それに、そんな短いスカート履いてる方が悪いだろ。見てくれって言ってるようなもんだ」
「どんな格好であれ、合法なら問題ありません。犯罪をした方が絶対に悪いです。それに、盗撮とか痴漢とか、された方は一生残る心の傷になるんです。反省してください」
男性が暴れるのを止め、数分で警察官が駅に到着した。
「何だよ、警察なんか役に立たないじゃないか。偉そうにすんじゃないよこの税金ドロボー!」
再び暴れだした男性を、警察官が押さえつけながら連れて行った。
「遥さん、大活躍だね」
「青山。……神谷、確かにお前は正しいが、なるべく感情的になるのは止めた方が良い。相手も感情的になると取り返しがつかなくなるからな」
「はい、気をつけます」
「良いじゃない、今はきちんと出来ていたんだから。遥さん、その調子で頑張ろうね!」
「はい!」




