嫌いになってくれた?
『もしもし遥ちゃん今暇?ってゆーかお昼食べた?』
固定電話の方が鳴って驚いた。もしかしたら初めて使ったかも知れない。
「いえ、まだですけど」
『じゃーちょっとだけお時間拝借。一通り全員とデートしたんだから、今度は僕の番ねー』
「……はい」
ロビーに行ってみると、脇田が待っていた。相変わらず独創的な服だが、今日は雰囲気に合わない大きなバスケットとビニール袋を持っている。
「やっほー遥ちゃん。まずは僕についてくるべし」
脇田に連れられてやって来たのは、隣町にある公園だ。なだらかな芝生が広がり、遠くで子ども連れの女性たちがお喋りをしている。脇田がビニール袋からシートを取り出して芝生に広げてくれたので、腰を下ろす。脇田はバスケットを開くと、豪華な弁当箱を取り出した。
「手作りのお弁当的な?後で意外って言われるの面倒臭いから、なるべく趣味嗜好や動作の傾向は明かしとくことにしてるんだー」
三段重ねの弁当箱の中には色とりどりのおかずと一口サイズのおにぎり、タッパーには飾り切りされた果物がぎっしりつまっている。水筒のお茶は変わった香りだが、温かく心が落ち着く。
「自分の口が小さいからおにぎり小さめだけど、大きい方が良かったかな?」
「いえ、私も小さめの方が嬉しいです。」
「おぉ、良かった。ま、嫌だって言われても今更取り返しつかないけどねー。さ、食べて食べて」
プロ級やお店の味という表現は似つかわしくないが、家庭的でどこか懐かしい味だ。脇田のハイペースもあって、弁当はあっという間に無くなった。
「ご馳走さまでした。美味しかったです」
「どういたしまして。……遥ちゃんさぁ、運命って信じてる?」
食後のお茶を注ぎながら、脇田が小さな声で言った。お茶はわざわざ食前と食後の二種類用意されているようだ。
「あったら素敵だな、とは思います。運命が結んでくれる縁とか、与えてくれる試練とか。残酷なこともあるけど、それを乗り越えるのって生きていく上で大事なことですよね。」
「『僕が貴女と出会ったのは運命だ』」
余りに無感情な言い方だし、今のは誰かに対する言葉ではなさそうだ。
「『僕が貴女を好きになったのは運命だ』、『僕が貴女と付き合うのは運命だ』」
食後のお茶も変わった香りだ。こちらは少し薬みたいな風味が混ざっていて、消化に良さそうな感じがする。
「『僕が貴女と喧嘩するのは運命だ』、『僕が貴女と仲直りするのは運命だ』、『僕が貴女とまた喧嘩するのは運命だ』、『僕が貴女と別れるのは運命だ』、『僕が貴女に未練を残すのは運命だ』、『僕が貴女にメールを送るのは運命だ』、『貴女が冷たい反応をするのも運命だ』、『僕が貴女を忘れられないのは運命だ』、『僕が貴女にまたメールを送るのは運命だ』、『貴女が返事をくれないのは運命だ』、『僕が貴女の家に行くのは運命だ』、『貴女が僕に怒りをぶつけるのは運命だ』、『僕が貴女の為に花を送るのは運命だ』、『貴女が花を投げ捨てるのは運命だ』、『僕が貴女の為に包丁を買うのは運命だ』、『僕が貴女の血で手を赤く染めるのは運命だ』……」
「って、途中からストーカーだし、最後はエスカレートして殺人事件になってるじゃないですか。そんなの運命じゃないです」
「じゃ、何処までが運命のせいだった?」
「えっと…………相手が嫌がったら運命じゃないとか?」
「ちなみに今のケースだと、『貴女』が『僕』を愛してるっていう確証は得られないよねー。付き合うのも理由はいろいろでしょ?」
「いろいろって、」
「まあ、お金の為とかいうのは夢を壊すからやめておくとして……例えば女性は親に『この人が貴女の許嫁よ』って言われたかも知れないし、男性が押しの強い人で根負けしたけど意外と好きじゃなかったかも知れないし」
橙乃が以前言っていた、『本当に好きかどうかなんて人間には分からない。けど本当に嫌いかどうかは簡単だ』ということだろうか。
「僕は運命っていう言葉が嫌いなんだよねー。説明出来ないことは運命のせい、説明出来ることはその人のせいでしょ?それってどうなのかな?人間なんかが運命って言葉を軽々しく使って良いものなのかな?」
「じゃあ、一目惚れとかって……あっ、」
運命と恋愛の話題だったせいか、自然と口をついて出てしまった。
「僕?そりゃー、遥ちゃんが美しかった、それだけのことだよ。」
「……すみません、最悪の質問でした」
「どうして?僕にとっては千載一遇のチャンスだったよ?」
遠くで遊んでいた子どもが転んで大泣きしている。
「……こんなことしてるから駄目なんだよねぇ、僕」
「えっ?いえ、駄目だなんて……私てっきり、和泉さんはもっと慣れていらっしゃると思ってました」
「浅葉か白瀬あたりから聞いたんだねー。確かに遊んでた時期もあるけど、女遊びをして上手になるのは女遊びだけだよ。恋愛は別物。……いや、する人がすれば何か得るものがあるのかも知れないけど、僕には忘れられない恋なんか無いし、手元には何も残ってない。完全に、ただの出遅れた初心者よねー」
泣いている子どもの所に、母親らしき女性が駆け寄って行った。
「人生は短いって言うけどさぁ、僕にはたった数年でもこんなに長いんだ。退屈や後悔なんかしないで矢のように過ぎる年月って、きっと楽しいんだろうねー。あるいは……楽しかったんだろうね。あの子みたいに」
子どもは母親に手当てをしてもらうとすぐに立ち上がり、また他の子どもたちと一緒に遊び始めた。
「人間は痛みに慣れるなんて嘘だよ。痛みは繰り返すほど強くなる。二回目は深く、三回目はもっと深い。痛みに慣れるって言ってるのは、心が傷ついても分からないくらい削れてるだけなんだ。そしてある時力尽きて、ボロボロになった心を前にして何故反省を、後悔をしなかったんだろうって絶望に打ちひしがれるのよねぇ」
「けど、人間は変われますよ。後悔や反省をしなかったって思ったなら、そこから変われば良いんです」
「僕も橙乃みたいに出来たら良いけど……人間は変われるなんて、変われた人の、変われる人の言うことだよ。変われない奴の絶望は、そういう人には一生分からないのかも知れない」
「私にも……ですか」
「そ。僕は人の痛みなんか分からないし、人に僕の痛みが分かるとも思えない。けど、分からないって分かってれば傷つかずに済むような気もしてる。それでも分かりたいって気持ちが、実は一番人を傷つけるんじゃないかって思うんだ」
「今のは、私に対する言葉ですか。……自己弁護ですか」
「その通り。僕も往生際が悪いよねぇ、ここまで連れて来ておいて、まだ遥ちゃんに嫌われようとしてるなんて。」
あの子がまた転んだが、今度は手当てをしようとする母親に「大丈夫」と言って走り出した。
「和泉さんって、不思議な言い回しが多いですよね。白瀬さんが『威力を高める為』とか言ってましたけど」
「現代なんて、天才っぽい人でいるのも技術の時代でしょ。」
「天才でいる……技術?」
「いやいや、『っぽい人』ね。天才っぽくするだけなら簡単、3歩先のことを言えば良いんだよー」
「先を読んで発言するんですか?」
「うーん、ちょっと違うってゆーかそんなの無理?遥ちゃん、善人になるにはどうしたら良いと思う?」
「それは……自分の周りの困っている人に手を差し伸べて、自分の為より他人の為を思うこと、でしょうか」
「僕ならこう答える、『人を困らせること』」
「えっ?逆じゃないですか?」
「だってさぁ、困ってる人がいなきゃ助けられないでしょ?それに、人を困らせたことが無い人に誰かが困っている状況を理解して助けてやることなんか出来るのかなぁ」
何も言えない私を、遠くの子どもたちが大声で笑った。
「今のを解説すると、『善人になるにはどうしたら良いか』という問いに大して、1、普通の人は『自分が誰かを助ける』、2、少し飛び出てる人は『他人を使って誰かを助ける』、そして3、天才あるいは手のつけられない馬鹿は『人を困らせる』って答えると考えて、3の『人を困らせる』を選んだんだ。これが正しいかどうかは別にして……ううん、多分本気の天才はそんなこと答えないんだろうけど、そうやって言えば『この人は理解出来ない』、更に言えば『だから天才じゃないか?』って思わせることが出来るよねー。青山君はこれを無意識にやってのけてる訳だけど、僕はそこまでの人間じゃないから意識的にやってるー」
「……何の為にですか?」
「あくまで僕の中での定義だけど、人間は3種類ある。すなわち凡人、秀才、天才ね。このうち、秀才は生まれた時からある選択を迫られている。それは、凡人に甘んじて生きるか、天才のふりをして生きるか。」
「秀才のままじゃいられないんですか?」
「そういう人間もいるけど、僕はそこまで人間出来てないねー。秀才はねぇ、凡人の中にいると『なんでこんな下々の所にいるんだ』って言われるし、天才の中にいると『なんでこんな身の丈に合わない所にいるんだ』って言われるんだよー。『帯に短したすきに長し』なんて良く言ったものだよねぇ」
空は晴れているけど、風が段々強くなってきた。
「そんなこと……秀才は凡人より秀でてる所があるんだから、活かすことも出来るんじゃないでしょうか」
「そーゆー世の中にする為に僕はこうやって天才のふりをしてるんだよねー。ちなみに、僕は凡人が劣ってるとは微塵も思ってないけど」
「でも……普通、」
「僕的には、天才が天才たる所以は『理由あるいは意味を知らずに出来るから』もしくは『無意識に出来るから』。つまり、苦労しない、あるいはごく僅かな苦労で出来てしまうってことね。それが何に対して表れるか分からないから、世の中に対して成果を残せるかは別の話だけどねー」
「人より上手くなるのが早いってことですか?」
「それもあるけど、僕としては無意識に出来るって方を強調したいところだねー。ちなみに努力の天才っているけど、あれも万人がなれる訳じゃなく、努力を意識せずに、もしくは苦労無く出来る人間を指してる言葉よねー」
「けど、やっぱり天才が優秀なことになりますよね。苦労しなくても出来るなら、練習とかする時間を他の……もっと違う練習なんかに当てられますし」
「それは天才の長所ねー。そしてそれは短所にもなり得る」
「……?」
「だって無意識にやってるんだから、自分がどうやってやってるか知らないんだよ?何かあって出来なくなった時、その天才はどう対処して良いか分かんないんだよ?そこで凡人の出番。凡人は習得に時間がかかるけど、どうやってやってるか、どうやって習得するか分かってるから練習も修正も効率的に出来るんだよねー。天才はずーっと出来てれば天才のままだけど、ちょっとでも綻びが生まれれば凡人に逆転の可能性は十分あるんだ。そして僕が思うに、全く綻びが無い人間なんかいない」
そういえば、今日は録音機を持ってきていない。でももうここまで来てしまったし、今日の話には基本的に感情が混ざっているというか、いつものような理解の追いつかない感じは受けない。
「何か、希望が持てました。ところでその場合、秀才はどういう立ち位置なんですか?」
「どうなんだろうねぇ」
近くにあるらしき学校のチャイムが鮮明に聞こえた。そろそろ昼休みも終わりだろうか。
「自分のことになると何にも浮かばないのよねー。自分の必要性って自分ではさっぱり分からない。才能も個性も無く、地道な努力も、自分の持ってなさを認めることも出来ない僕は、一体何になれるのかな?」
「和泉さんがそうやって考えたことは、きっと和泉さんと同じような悩みを抱えた人たちの助けになりますよ。私は私を凡人だと思うので和泉さんの気持ちを分かるのは難しいかも知れませんけど、きっと和泉さんの言葉を待っている人がいるはずです」
「……あぁ、これが『ノートを貸してくれ』なのか」
「……はい?」
「白瀬がよく言ってるんだけど、聞いたこと無い?人間のアイデンティティー形成において、『ノートを貸してくれ』でも『私たちの子どもなんだから』でも『人間って素晴らしい』でもなく、純粋に『貴方が必要だ』って言われることが重要だってやつ」
「あっ、はい。聞きました」
「もう何年も一緒にいるのに、今やっと意味が分かったよ。なるほど、これは確かに辛い」
「あの……私、何か失礼なことを」
「ううん、そうじゃない。むしろ逆かな?誰も悪くない状況っていうのは、時に何よりも辛いものよねー。今遥ちゃんは僕を励ましてくれた訳だけど、内容的には僕は僕と同じ悩みを持ってる人に対して発言する為に存在してる訳で、それって裏を返せばそれ以外の人にはあんまり僕の必要性が分かんない、更に言えば遥ちゃんには僕の必要性が分かんないってことでしょ?」
「……やっぱり私、」
「僕が勝手に傷ついてるだけだよー。勉強をする時に役に立つ奴は勉強が終わったらいなくても良いし、自警団をやる時に役に立つ奴は自警団が終わったらいなくても良い。だとしたら、人生をやる時に役に立つ奴は人生が終わるまで必要なんだよねぇ。青山君に言わせれば『常に公の人間はいないし、常に私の人間はあってはならない』訳だけど、結局公と私どっちか選ばなきゃいけなかったら僕は私を選ぶと思うんだ。恐らく白瀬も同じように考えて、人生に必要な奴になる為に私の象徴とも言える恋愛に必要な奴になりたいって言ったんだねー。」
「けど、それだけが」
「人生ではない、だよね?分かってる、公の部分が殆どを占める人生もあるよ。けどね……そう出来ないんだよ、僕みたいな人間は」
「……いえ、違います」
「うん?」
「確かに公だけとか私だけの人生は不自然ですけど、それはその人が自由に選べば良いと思います。そうじゃなくて……私はそれが何処であろうと居場所があるって大切なことだと感じるし、今和泉さんがここにいるのも素晴らしいことだと思います。いなくて良い人間なんて、いないですよ。」
「……やっぱり遥ちゃんって(自 粛)っぽいよね」
「はい?」
「僕は何処かであの子たちが羨ましいと思ってるし、また別の何処かであの子たちが転べば良いと思ってるってこと。僕は、本音を隠せない白瀬が羨ましかったし、本音を隠せる橙乃が羨ましかったし、本音を隠さない浅葉が羨ましかったし、本音と建前を使い分けられる青山君が羨ましかった。そして今、こんなに綺麗な遥ちゃんが羨ましい……けど、同時に危ういとも思ってる。遥ちゃんを見つめていると、あの子どもを見つめているような気持ちになるんだ。純粋で真っ直ぐで、だからこそいつ転ぶか分からない。お節介なんだろうし、殆どは僕の妬みから来てるんだけどね。」
今度は別の子どもが転んだ。こっちの子は母親が側に行っても泣き止まず、他の母親が心配して集まっている。
「僕はあの子たちのようにはなれないし、なる資格は失ってしまった。だからってあの母親たちのようにはなれないし、なる才能も無い。僕は僕の居場所を探すのに精一杯で、それを忘れることも、終えることも出来ないんだ。何でこんな風になっちゃったんだろうね。……って、こんな愚痴聞かされても面白くないよねぇ」
「また、自己弁護ですか」
「そ。趣味嗜好や動作の傾向は明かしとかないと、仲良くなって急にこんなこと話して『こんな人だと思わなかった』なんて言われたら傷の深さ100倍よねー」
「それが原因で、嫌われてもですか?……それとも、またその為に言ってるんですか」
「嫌いになってくれた?」
「…………嫌です」
「今のは語弊があるよ?」
「どう取られようが結構です。私はそんなことで誰かを嫌いになんかなりません。そうすれば居場所が見つかるなら……試したいなら、幾らでも試してください」
脇田が急に視界から消えて、後ろから独創的な服を纏った細腕に抱き締められる。
「愛する人との時が永久に続けば良いなんて言うけど、こういうのは僕にはまだ辛いし、苦しい。多分、この苦しさを乗り越えようと思える心が恋心なんだろうねぇ。そして今、僕は今まで感じたことが無いくらい前向きな気持ちと、今まで陥ったことが無いくらい後ろ向きな気持ちを抱えてる。これを乗り越えたい……そして、今この瞬間に死んでしまいたい」
腕の力は強くなったり弱くなったり、不安定だ。
「今まで、誰かを苦しめてまで何かが欲しいと思ったことなんてあんまり無かった気がするけど……あるいは、自分を苦しめない為の言い訳だったんだろうねぇ。僕の腕は遥ちゃんから離れたくて仕方が無いみたいだけど、もう暫くだけこのままにさせて。」
さっきまであれだけ晴れていたのに、西の方から黒い雲が迫って来た。
「雨が降る前に帰ろうね。」
脇田は突然立ち上がると私を投げるようにどかし、シートをぐしゃぐしゃに丸めてビニール袋に突っ込み、バスケットを抱えて歩き出した。慌ててついていくと、脇田は私に歩調を合わせてくれた。
「……ねぇ、遥ちゃん」
ぽつ、ぽつと雨が降りだして、脇田が大きな傘を開いてくれた。中に入ると、服に負けないくらい独創的な模様が描いてある。
「もし僕に次が許されたなら、その時は星を見に行こうよ」
「天体観測ですか?」
「ううん、プラネタリウム。本物は大変でしょ?もしこんな風に雨が降ってきたら、僕の心が砕けて星屑になっちゃうよー」
マンションに着いてすぐに、雨が本降りになった。この時期には珍しいほどの大雨だ。
「うわー、僕逆に奇跡呼んじゃってるじゃん。じゃ、僕はこれで。本当に今日はありがとねー」
「……あの、和泉さん」
「なーあーに?」
「私、今度は和泉さんと図書館に行きたいです。『ノートを貸してくれ』から始まる何かもありますよ、きっと。」
少し間があって、脇田が笑いだした。今度は何にも例えられない、ただの笑顔、ただの笑い声で。いつもこんな風に笑えば良いのに……。
「いやー、参った参った……考えとく。暇だったら白瀬にも言ってあげてよ。白瀬はそんなこと、絶対に自分じゃ気づかないから。じゃあねー」
それだけ言うと、脇田は風のように消えてしまった。大きなくしゃみが聞こえて振り返ると、白瀬がまた大量の防寒具を積み上げて本を読んでいた。




