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僕たちの正義へようこそ  作者: 末広 有夏
16/31

勇者だよねー

この話には哲学思想とその解釈が出てきますが、あくまで創作の上でのこととご理解ください。また、後書きに参考資料を書かせていただきますので、併せてお読みください。

 いよいよ、青山との食事の日が来た。青山はカジュアルだと言っていたが、一応襟つきのブラウスと膝丈のスカートを着ることにした。

 青山はマンションのロビーで待っていて、服装はいつも通り、この暑いのにシャツと高そうなジャケット、下は精一杯カジュアル感を出そうとしたらしいチェックのパンツと飾りの付いた靴だ。今日は流石に白い手袋もエンブレムも外している。

「こんばんは、嗣彦さん」

「こんばんは、遥さん。どうぞ、僕の車へ」

ドアの開閉をしてもらい、車の乗り降りの時には手を貸される。恥ずかしいと言うより、扱いに戸惑ってしまう。

「緊張してるの?」

「あ……はい」

「フフ、皆初めはそうなんだよね。」

 レストランは予想通りと言うべきか、ドアボーイがいて非常に堅苦しい雰囲気だ。

「ちょっと遥さん、ガチガチじゃない。Tシャツの人もいるんだから、楽にしてよ」

「Tシャツの人」というのは、Tシャツの上から明らかにハイブランドのジャケットを羽織り、英語でドレスの女性と談笑している男性のことだろうか。

「こういうこと言うのは狡い(ずるい)かも知れないけど、」

「はい?」

「ここ、オーナーが父の知り合いなので、ちょっとくらい何かあっても大丈夫ですよ。食事をするだけなんだし、そんなに恐縮していたら折角の料理も味が分からなくなってしまいます」

オーナーが青山の知り合いだと余計に緊張してしまうということは、多分説明しても理解してもらえないんだろう。

「嫌いなものとか、アレルギーはありますか?」

「いえ、特には」

「じゃあ、オーダーは僕に任せてよ。きっとまた来たいと思うから」

「はあ……」

今のところもう帰りたいし、また来たいとは思わない。喉が渇くが、水はいかにも繊細なグラスに注がれていて持つのが怖い。

「子ども用のグラスにしてもらう?」

「えっ、」

「フフ、遥さんったら。本当、気楽にしてよ」

青山は慣れた手つきでグラスを持ち、ひらり、と水を飲む。オーダーは外国語にしか聞こえないし、「気楽に」する余裕なんかある訳がない。

「さて、正義の話は食事にはそぐわないから、また後でね。今は、そうだな……遥さん、好きな人とかいる?」

「はい?」

「ちょっと不躾ぶしつけだったかな。恋愛とか、興味無い?」

「さあ……今まではそんなこと、考えてもみなかったですし」

「僕はこれからのことを訊いたつもりだったんだけど。」

「これからですか……。勿論そういうことがあったら嬉しいですけど、それより今は自警団の活動を一生懸命頑張りたいので」

「『仕事と私、どっちが大事なの?』」

「えっ?」

「仕事とプライベートを比べるのはナンセンスですよ。だって、仕事があって初めてプライベートがあるんですから。常におおやけの人間はいないし、常にわたくしの人間はあってはならない」

原因ははっきりとは分からないが、話しにくい。

「例えば自警団の仕事が順調にいっていて、余暇も十分にあるとして、その余暇は何に当てますか?」

「えっと……最近、読みたい本が増えているので」

「なるほど、読書は良いことですね。でもそれって、結局は自警団に活かす為じゃないかな?」

「ええ、まあ……」

「厳密には、それは余暇ではありませんよ。僕が聞きたいのは、してみたい遊びとか、そういうことです」

「遊び……ですか」

「紅野には違うことを言われたかも知れないけど、僕だって遊びたい時もあるんです。遥さんにだって当然あるだろうし、出来るなら僕は友人として、遥さんのしたいことはしてもらいたいんです」

 ウエイターがオードブルの皿と飲み物を置いていった。

「勿論両方ともジュースですから、安心してくださいね。」

こちらは更に繊細そうなグラスに入っている。

「大丈夫?手が震えているけど」

「すみません、不慣れなもので……」

「そう?では改めまして、遥さん自警団『Our Justice』入団おめでとう。乾杯」

青山は軽くグラスを持ち上げ、またひらりと飲み物を口にする。ジュースだと言っていたが、今まで飲んだこと無いような濃い味だ。

「このジュース、オーナーがお酒を飲めない方にもワインの素晴らしさを知って欲しいっていう思いで開発を始めたみたいです。結果ただの葡萄ジュースに落ち着いて未成年にも積極的に提供されるようになりましたが、禁酒中の身にはこういう味は嬉しいですね」

「禁酒……してらっしゃるんでしたね」

「ええ、恥ずかしながら、僕は酒癖が悪くて。いわゆる絡み酒ってやつですね。紅野に『暫く酒を抜いて頭冷やせ』って言われたので」

「へぇ、意外です……」

オードブルの食べ方が分からないので、青山を真似してみる。……上手くいかない。

「普段の食べ方で良いですよ。さて、さっきの続きを訊いても良い?」

「余暇の話ですか?」

「それもだけど、出来たら恋愛の話かな。」

「……さっき以上の話は出てこないと思いますけど」

「フフ、遥さん、不躾ついでに言いますけど……男性が女性にこういう話題を振る時は、大抵下心があるんですよ」

「……はい?」

「遥さん、白瀬と似てますね。自分にはそんな気を起こさせるなんてあり得ないと考えている……あるいは、そうやって何かから逃避しているのかな?」

「あの、」

「遥さん、貴女は貴女が考えているよりもずっと美しい。もっと人生を楽しむべきですよ」

「……からかってるんですか?」

「とんでもない。僕は本気です」

「……、」

「例えば、好きなタイプは?あるいは、嫌いなタイプは?どんなお付き合いがしたいとか、どんなデートがしたいとか。」

「そう言われても……」

「フフ、無欲っていうのは時に何よりも罪深いですね」

やっぱりからかわれているようにしか思えない。

 何とかオードブルを食べ終えると、スープが出てきた。手の震えがスプーンに伝わって音が出てしまい、それを直そうとするとさらに手が震える。

「タスカップですから、持ち手を持って直接飲んでも構いませんよ」

スープは薄い訳ではないが、何の味なのか分からない。色も曖昧なクリーム色だし、香りはミルクっぽい……気がする。

 飲み終わると、魚料理が出てきた。

「なるべく食べやすそうなものを選んだけど、困ったことがあったら言ってね。」

「ありがとうございます」

 オードブルもそうだが、ここの料理はオリーブオイルが強く、パンにまでオリーブオイルがつけてあるようだ。普段食べない味だし、緊張もあってか食が進まない。

「ファミリーレストランの方が良かったかな?」

「えっ……いえ、」

「けど、大切な方には良いお店で良い時間を過ごしてもらいたいから……」

「えっと、私、本当に不慣れなだけで」

「フフ、優しいんだから。口に合わなかったら残してくださいね。」

「すみません……」

 結局、魚は全部は食べられなかった。次はデザート……と思いきや、チーズが出てきた。

「これ、オーナーがかなりこだわったみたいです。ジャムも手作りなんですよ」

チーズにジャムをつけるなんて初めてだが、考えてみればお菓子に使えるんだから、合わない訳が無い。

「気に入ってもらえたみたいだね。良かった」

 デザートはさっぱりしたアイスクリームで、これもかなり美味しかった。食後のコーヒーには、一緒に小さなお菓子が出てきた。

「これもオーナーのこだわりがつまっているので、是非。」

口に入れると、バターやチーズの風味が広がる。オーナーは相当チーズが好きなんだろう。コーヒーも香りが良いが、少し薄い気がする。

「……さて、そろそろ移動しますか。」

次はどんな所に連れて行かれるんだろうか。

「そんなに心配しないで、普通のバーだから。勿論両方ともソフトドリンクですし」

そもそもバーなんて行ったことが無いし、不安で仕方がない。

 青山は上機嫌で車を走らせ、10分ほどで目的地に到着した。

「さあ、どうぞ」

青山に手を引かれる。バーは地下に降りた所にあり、店内は薄暗くて凝った照明が置いてある。ここも英語で談笑している客が何人かいるし、奥では初老の恰幅の良い男性が葉巻をふかしている。

「お久し振り、マスター。」

「お久し振りです、青山さん」

「『さん』はやめてって言ったじゃない。」

「いえ、そういう訳には」

ということは、ここも青山の父親の知り合いがやっているお店なんだろうか。

「僕はいつもの。運転するからノンアルコールの方ね。こちらには……おまかせで、未成年なので同じくノンアルコールにしてください」

「かしこまりました」

「さて、遥さん」

「は、はい」

「もう、まだ緊張してるの?」

「まだ……っていうか、」

時間が経つほど緊張も増している。

「フフ、じゃあ……そろそろ善悪の話をしようか。」

「あっ、はい」

慌ててメモ帳を取り出す私を見て、青山は小さい機械を机に置いた。

「そういう人、多いんだよね。これはプレゼントです。許可は取ってあるし、そんなに遠くの声は拾わないと思うよ。」

機械は録音機のようだ。すでに録音は始まっているらしく、ライトが点滅している。

「遥さんは、自分で善悪の明確な基準は持っている?」

「いえ。それを確立する為にも、いろんな方にお話を聞きたくて」

「なるほど、それは良いことです。……僕のはとても簡単です。『快楽は善である』そして『苦痛は悪である』」

「……えっ、」

「よく意外って言われます。遥さん、功利主義って知っている?」

「すみません、漢字も分からないです」

青山は出しっぱなしだったメモ帳とペンを手に取ると、「功利主義」と書いて机に置いた。相変わらず定規を当てたような文字だ。

「功利主義は大きく言えば快楽主義を基礎にした思想で、快楽と苦痛が物事の原因や善悪を決めるという考え方です。ベンサムという人は快楽は足し引き出来ると考えていて、ある行為や事象が快楽と苦痛を生む場合、快楽と苦痛を足し引きして快楽が上回れば善、苦痛が上回れば悪だとしています(※1)。またJ.S.ミルという人は、功利主義の原則は認めながらも、快楽には質的な違いがあって、肉体的な快楽よりも精神的な快楽の方が人間らしいと考えていたようです(※2)」

「嗣彦さんは……」

「僕はベンサムの方が好きです。ミルが言うように快楽に質的な違いはあるけど、結局は快楽であることに変わりはないですから」

「そして、快楽こそが善である……ということですか」

「別に、自分勝手な欲求を満たすことだけしていれば良いって訳ではないんです。ただ、欲求を満たして得られる快楽そのものは、人間にとって悪いことではあり得ないから。」

「欲求にもいろいろありますよね?」

「良い所に気づきましたね。ベンサムは動機には常に善、常に悪のものは存在しないと言いましたが(※3)、僕は動機、あるいは欲求には善いものも悪いものもあると思います。ですが、その欲求が何であれ、快楽そのものは善なんです。」

「欲求の善悪と結果の善悪は別っていうことですか?」

「流石遥さん。その通り、たとえ欲求がとても悪いものでも、それで得られる快楽そのものは善だということです。同じように、たとえ欲求が良いものでも、それで受けた苦痛は悪です。偽善者が自分の利益や名誉の為に貧しい子どもに寄付をして子どもの命が救われたならそれは善だし、貴方の為にやったんだって言われても迷惑だったら悪ですからね。快楽も苦痛もある場合は、先程も言いましたがベンサムが言うように快楽と苦痛を足し引きして、快楽が勝れば善、苦痛が勝れば悪です(※1)」

「結果の善悪は分かりましたけど、欲求の方の善悪はどうやって決めるんですか?」

「さっき、快楽は善であるって言いましたよね。ということは、その人の生活が善であるか、つまり個人が幸福かどうかは、その人が快楽を得られているかどうかで決まります。」

飲み物が来た。下が緑、上が赤のグラデーションで、何か分からない葉っぱが浮かんでいる。

「ここで僕は、社会というのは個人が沢山集まって作られているものだというベンサムの考え方(※4)を前提として利用します。」

「はい。」

「だとしたら、社会の幸福は個人の幸福が沢山集まったものです。さて、個人の幸福は何でしたか?」

「快楽を得られているかどうかです」

「そう、つまり社会の幸福とは、社会を構成している人たちが快楽を得られていることです。ここで……あ、飲んでくださいね。ここのジュースはとても良いものを使っているんです」

「いただきます……」

一口飲んでみたが、甘くも酸っぱくもないし、ハーブのせいなのか薬のような香りがする。飲めないほど不味くはないが、水の方が良い。

「ここで、国民が100人いる国があるとします。政治家は10人います」

「はい」

「この国で、犯罪が起きたとします。犯人は3人、被害者は1人です。被害者には妻と子どもがいます」

「罪状は……」

「ここでは気にしなくて大丈夫です。さて、犯罪が起きると、犯人は快楽を得ますし、被害者は苦痛を受けます。また、被害者の家族も苦痛を受けるでしょうし、国内で犯罪があったことに心を痛める国民もいるでしょう。さて、遥さん。今、この国の国民は幸福だと思いますか?」

これは誘導尋問だ。被害者とその家族なら分かるが、心を痛める国民まで含めるかは人によって違う。けど、今回は青山の話を聞きに来たんだから、合わせるべきだろうか。

「……いいえ。」

「理由は?」

「さっき、快楽と苦痛がある場合は足し引きして勝った方っておっしゃっていたので。快楽を受けた犯人は3人しかいないけれど、苦痛を受けた人は明らかに3人より多いです」

「その通り。つまり、国民のうちで快楽を受けた人が多ければその国は幸福だし、苦痛を受けた人が多ければその国は不幸です。言い換えれば、国民が幸福だということは、国民全ての快楽が国民全ての苦痛を上回っているということです。ところで、さっきこの国に政治家は何人いると言いましたか?」

「10人です」

「そう。ここで、この政治家たちが国民に厳しい税を課したり、無茶苦茶な裁判で罪の無い国民を牢獄に入れたりしたとします。この時、この国民は幸福ですか?」

「いいえ。快楽を得たのは10人、苦痛を受けたのは90人なので」

「そうです。今、凄いことが起きたのにお気づきですか?」

「えっ?」

「普通は、国民の快楽よりも政治家の快楽が優先されますよね。けど、今は政治家もその他の国民も関係無く、その国が幸福かどうかを考えられたでしょ?」

「ああ……はい」

「つまりこれは、全ての人間に平等にある善悪の基準だということです。さて、欲求の善悪はどうやって決めるのか、ということでしたが、もう分かりますよね。」

「……多くの人に快楽を与える欲求は善、苦痛を与える欲求は悪ですか?」

「そうです。以前、僕の正義は『なるべく多くの人が気持ち良く過ごせるように努力する』だと言いましたが、これはつまり、より多くの人がより大きい幸福を得られるように行動するよう全ての人間に求める、ということです」

「あの……快楽って、どういうものですか?」

「良い所に目をつけましたね。ミルと同じく、僕のいう快楽は食や睡眠で満たせるものだけではありません。(※2)誰かの為に尽くす快楽もあるし、社会に貢献する素晴らしいことを為し遂げる快楽もあります」

「自警団みたいな……?」

「まさにそうです。自警団は僕に快楽を与えてくれるし、社会にも快楽をもたらすものだと信じています。……もう一杯、いかがですか?」

「あ、はい……あの、もう少し甘いものって」

「分かりました。マスター、」

青山がまた外国語のような注文をしている。向こうで赤いワンピースの女性が大きな声で笑った。綺麗な人だ。とても、私ではなれないくらい……。

「ところで遥さん、」

「はいっ」

「フフ、もう。……遥さん、自警団って地方では何をしているか知っていますか?」

「治安の維持じゃないんですか?」

「うーん、半分正解。勿論治安の維持も大切な仕事だけど、地方の自警団の中には猟友会のようなこと、害獣の駆除などを行っている所もあるんです」

「へぇ……知らなかったです」

「この辺みたいな所にいると、そういうものの必要性って分かりにくいですよね。けど、これは大切な仕事なんです。今まで、人間はいろんな仕事をしてきました。誰かが必要としていることを出来る人がやって、対価を貰う。ところが、それはある時から変わってしまった。誰かが必要としていることをする、という考え方から、自分が対価を必要としているから仕事を探す、あるいは作り出すという考え方に変わってしまったんです。労働は社会の幸福の生成から離れてしまって、個人の幸福を満たすだけのものになってしまいました」

「多数の幸福を考えずに、自分だけとか、少数の人が幸福なら良いと考え出したということですか?」

「ええ、まさにその通りです。それは結局、社会の不幸を生み出してしまいました。労働は意味を失い、苦痛を与えるだけのものに成り下がった。そして今、僕たちは本当の労働を取り戻しているんです。社会の幸福を生成する、『必要だからやる』労働です。」

「『必要だからやる』……」

「そうです。今の社会をいろんな言葉で言う人がいるけど、僕は黎明期れいめいきだと思います。正しい労働が社会に組み込まれ、社会に幸福をもたらす時代の始まりなんです」

「壮大ですね……」

「そんなことはないですよ。さっき遥さんも言っていたように、僕の考える善は全ての人に平等なんです。勿論、遥さんにも」

 新しい飲み物が来た。今度は黄色っぽいクリーミーな質感で、果物が飾られている。飲んでみると見た目通りクリーミーで、さっきのものより甘くて飲みやすい。

「気に入ってもらえたみたいだね。」

「はい。美味しいです」

「さて、ではさっきの続きを。」

「えっ……と、」

善悪の話はもう大体終わったと思ったが。

「フフ、恋愛の話に決まっているじゃないですか。」

「あの……ですから、」

「じゃあ、僕のことはどうですか?」

「どうって……」

「正直に言ってもらって構いません。例えば、第一印象は?」

「……王子様とか、貴族っぽいっていうか……すっごく綺麗な方だと、」

「僕が?嬉しいな。あ、それとも近寄りがたいって思われてるのかな?」

ここでそんな風に笑われると、やっぱり馬鹿にしてるんじゃないかと勘繰ってしまう。

「今まで、誰からも告白とかされなかったの?」

「はい、残念ながら……」

「ふうん、遥さんの周りの男性はちょっと見る目が無かったみたいだね。」

バーテンダーの男性が一瞬、笑いをこらえるそぶりを見せた。誰に、そして何に対しての笑いなんだろう。

「ねぇ、遥さん」

急に肩を抱かれて、耳元で囁くように名前を呼ばれる。全身に鳥肌が立った。

「今、誰もそういう人がいないんだったら……僕と付き合ってみない?」

「あの……ですから、」

「分からない、なんて言わせないよ?そう……さっきと一緒だよ。それは快楽か否か、それだけの単純な問いです」

青山が脇田と一緒にいる理由が分かった気がする。

「青山さん、あんまり若い子をいじめるものじゃありませんよ」

マスターに助けられた。バーテンダーは相変わらず笑いをこらえている。

「フフ、田原さんったら意地悪なんだから。……帰ろうか。」

 マンションに帰る道中、青山は一言も話さなかった。駐車場に車が止まり、青山がドアを開けた。

「今日はありがとうございました。」

「うん。あのさ、遥さん」

「はい。……うわっ」

青山が突然、私に覆い被さってきた。

「嗣彦さん、」

「今、僕は2つの声に悩まされています。1つは『守りなさい』、もう1つは『奪ってしまえ』。どちらが快楽の声なのか、どちらが幸福の声なのか?」

背中側のドアにはロックがかかっていて、後ろ手ではうまく解除出来ない。

「無欲で清らかな貴女を振り返らせるものは何なのか。大切に、節度を守って接すればいつか叶うのか、あるいは貴女の初めてを奪ってしまえばこちらを向いてくれるのか」

ロックが外れた。鞄を掴んで車外に飛び出し、そのまま駐車場を走り抜けてマンションに戻る。青山は追ってこなかった。

「あれ、遥ちゃん?」

脇田の声だ。応えたいが、声が出ない。

「大丈夫?」

「…………はい」

「大丈夫じゃなさそうだねぇ。部屋まで送るよー、荷物貸して」

脇田は部屋まで荷物を持ってくれた。

「今日、青山君と食事だったよね?2人っきりとか勇者だよねー」

私の表情を見て、脇田は部屋のドアを閉めた。

「何かされた?」

「いえ、あの……」

「ふぅん、話したくないなら良いけどねー。これはいわゆる老婆心ってやつだけど、……老婆心って知ってる?」

「あ、はい。白瀬さんに教わりました」

「なら心配無いね。……青山君さぁ、女を番号で呼んでるっぽいよねー」

「えっ、」

「訊いたら『識別番号だ』とか『全員に平等に接してる』とか言うんだけどぉ、だったら名前で呼んだら良いのにねー。まあ、遥ちゃんが青山君を好きだって言うなら止めはしないし、団員が泣かされたって話も聞かないけど……ねぇ。」

「……、」

「まあ老婆心程度の話だから確証は無いし、遥ちゃん自身の目で見極めたら良いよー。困ったことがあったらいつでも相談してね」

脇田が帰って、風呂の用意をする。鞄を見ると、録音機が入っていた。まだ録音中のままだ。

「……ってことは、」

巻き戻してみると、不鮮明ながら先ほどのやり取りも入っている。思い出すだけで恐怖が込み上げてくる。どこも触られていないのに、身体中を撫で回されているような……。

「そういえば、触られては……ないかも」


参考文献

(※1)世界の名著49より「道徳および立法の諸原理序説」ベンサム著、山下重一訳、中央公論社、1979年初版 筆者が読んだのは1997年の第7版です


(※2)世界の名著49より「功利主義論」J.S.ミル著、伊原吉之助訳、中央公論社、1979年初版 筆者が読んだのは1997年の第7版です


(※3)(※1)と同じ文献の、特に第十章 動機について 第二節 どんな動機も、いつでも善であったり、いつでも悪であったりすることはない からです


(※4)(※1)と同じ文献の、特に第一章 功利性の原理について 四 からです


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