ところで
翌日の午後、約束通り白瀬の部屋を訪ねた。ドアが開くとあの良い香りがしていて、白瀬は少し眠そうな顔をしている。
「あの……大丈夫ですか、白瀬さん」
「ああ、問題ない。上がってくれ」
私が部屋に入っても、白瀬はドアの側に立っている。
「……今更なんだが、神谷は密閉空間に2人きりというのに抵抗は無いのか?」
「えっ?」
「この間も紅野に妙な誤解をされかけたし、何なら別の場所でも構わないが」
「いえ、それは別に……」
「そうか。では、冷房のこともあるからドアは閉めさせてもらう」
白瀬はドアを閉めると、欠伸をしながら部屋に戻ってきた。
「あの、本当に大丈夫ですか?」
「ああ、ただの寝不足だ。それより、リテラシーの話だったな」
「はい。和泉さんに、リテラシーについては白瀬さんが分かりやすく教えてくれるからと言われました。」
「正直、何故俺なのか分からないな。和泉は分かりにくく話す方ではないし、発話者が説明を加えるのが一番だと思うが……」
何度も欠伸を噛み潰しながら話をしているのが、どうしても気になってしまう。
「あの……ご無理なさらないでください。また別の日でも」
「いや、俺の気持ちの問題なんだ。申し訳ない。コーヒーで良いか」
「あっ、はい。あっ、えっと、お構い無く」
「緊張しなくて良い。……他のメンバーにもそのような態度なのか?」
「紅野さんは何となく、緊張しないでいられますね。」
「確かに。俺も時々羨ましくなるな」
白瀬がコーヒーとお菓子を持ってきた。本人は水のようだ。
「白瀬さんも柔らかい雰囲気で、私は落ち着きますよ」
「ありがとう。……では、リテラシーについてだ」
メモを取り出す。白瀬はそれを一瞥しただけで、何も言わなかった。
「リテラシーとは本来読み書き能力のことだが、脇田は情報に対する耐性という意味で使っている」
「耐性……ですか。」
「ああ。例えば、ある所で宗教的な理由の戦争が起こり、2人の記者がそれについての記事を書いたとする。1人は平和主義の記者、もう1人は戦争をしている宗教の信者だ。」
「はい。」
「決めつける訳ではないんだが、前者の記事はこの戦争は悲しい、戦争なんか無意味だ、と言って傷ついた子どもの写真などを載せたものだろうと考えられる。そして後者の記事は、これは正当な戦争だ、我々の社会を守るためだ、と言って兵士の写真を載せているだろうと推測出来る」
白瀬は私がメモを取ったのを確認しながら話をしてくれているようだ。
「この2人のどちらが正しいのかというのは人によって違う。あるいは、どちらも違うという意見もあるだろう。ただ1つ言えるのは、この2人が同じことに関する記事を書いているということだ。同じことを見ても、人が違うとこんなに伝え方が変わってしまう」
「ニュースはそういうものだということですか?」
「ああ。ニュースに限らず、人の手を介した情報には、その人間の意見やものの見方、宗教、育った環境などが影響を与えている。その人間が信じているものは正しいと書かれ、嫌いなものは間違っていると書かれるだろう。無論、公平な報道を心がけている信念を持った人間もいるが、それはあくまで心がけであって、それが公平さを証明する訳ではない」
「それは……正しい情報は存在しないってことですか?」
「ある意味、そうとも言える。先程の2人の記者の記事で『正しい』ところは宗教的な理由の戦争が起きたというところだけになるし、あるいはそれも間違いで、全く違う理由で始まった戦争が宗教のせいにされた、なんて話もあり得るしな。ただし、繰り返しになるがどれが正しいのかは個人が決めることだ。そして、その為に必要なのが和泉の言うリテラシーの能力なんだ」
「情報の中から『正しい情報』を選択するっていうことでしょうか」
「ああ、そうだ。そしてそれには、情報の中にある人間の意見を読み取る能力や、情報の中から正しい情報を取捨選択できるように視野を広く持ち、またしっかりした自分の意見を持っていることが重要だ。和泉が青山の話を聞く前にと言ったのは、青山の話し方が情報と『正しい情報』を綯い交ぜ(ないまぜ)にしているように聞こえるからだろう。とはいえ、人間は少なからずそのような話し方になってしまうものだけどな。俺の話も聞く人が聞けば情報と『正しい情報』を綯い交ぜにしているように感じるだろう」
話の意味は分かるが、何となく分かっていない感じがしてならない。「理解はしても共感はしてないんだねー」という脇田の言葉が頭を掠める。
「和泉が言うには、人間はその物事に興味があればあるほど、最初に聞いた意見に染まりやすいらしい。染まると言っても信者になる場合もアンチになる場合もあるが、とにかく影響を強く受けるということだな」
「キャラクターカウンセラーの件の時、青山さんに対する態度のお話をされていたのはそのことでですか?」
「ああ。うちに入ると、どうしても自警団や正義、善悪の話をするのは青山が最初になる場合が多い。すると青山の信者になるか、アンチになって出ていくかのどちらかが多くなる……と和泉は分析していた。」
「和泉さんは、ですか」
「正直、俺はそんなに人を馬鹿にするものではないとも思っている。確かに信者あるいはアンチになる人間は多いが、神谷のような芯のある団員も何人かいるからな」
「ありがとうございます。」
「ああ。……少し休憩するか。菓子はそれで足りるか」
お菓子のかごを見ると、クッキーやパイに混じって「ダックワーズ」という見慣れないお菓子が幾つか入っている。
「ダックワーズはマカロンと原料があまり変わらないんだ。食感はマカロンよりふわっとしていて、このメーカーのものはアーモンドの風味が強い。」
「へぇ……いただいてみます」袋を開けるとアーモンドの香りが広がる。食感は確かにふわっとしているが周りがサクサクで、噛んでいるうちに溶けるように消えていく。
「美味しいです!」
「良かった。実は俺の好物なんだが、知っての通りかなりの偏食だから、気に入るかどうか不安だったんだ」
「そういえば、普段は何を召し上がってるんですか?」
「朝と昼は気が向いたら購買でもらうが、そうでない時はインスタントで口に合うものやサンドイッチなどで済ませていることが多い。夜は大体、野菜類と加工肉をコンソメかトマトで煮たスープと白米だ。まあ、あまり自慢出来たものではないな」
「いえ、毎日それはすごいですよ。栄養管理、本当にされてるんだなぁって思います」
「毎日……ではないな。恥ずかしい話だが、時々食事を抜いてしまうことがあるんだ。作るのは作るんだが、食べるのが面倒になってしまう」
「普通、逆ですよね……」
「そうだな。よく紅野に『早死にする』とからかわれる。……コーヒー、もう一杯どうだ」
「ありがとうございます。いただきます」
白瀬がコーヒーポットを持って隣に来た。今日は香水をつけていないようだ。
「ところで、」
耳許で言われて、思わず飛び上がってしまった。
「すまない。驚かせたようだ」
「いっ、いえ」
「確か、青山とパトロールをした時にも似たようなことがあったな。話し方が悪いんだろうか」
「いえ、その……声が、」
「ああ、鼻に掛かって変な声だよな。自分でも時々嫌になる」
「いえ、素敵な声だと思います!」
白瀬の頬にうっすらと紅が灯る。
「……すまない、誉められ慣れていないだけだ。一時期喉を潰してみようかと思っていた時期もあったくらいだからな」
「そんな、勿体無いです。とっても華やかで、油断すると聞き入っちゃうくらい……あっ、私何言ってるんだろ。すみません」
「いや、まあ……まさか、こんな声を好意的に聞いてくれる人がいるとは思わなかった。ありがとう、神谷」
白瀬はコーヒーポットを置き、水を一杯飲み干して席に戻った。
「さて、先程は脇田が説明を求めたリテラシーの話をしたが、ここからは俺が考えるリテラシーの補足のような話をしたいと思う。これはおまけみたいなものだから楽に聞いて欲しい。無論、メモを取るのは自由だが」
私が恐る恐るメモを取り出したのを見て、気を遣ってくれたようだ。
「俺は、難解と崇高を履き違えている人間が嫌いなんだ」
「難解と崇高……ですか」
「ああ。難解というのは要するに、専門用語を並べて相手を威圧したり、わざと官僚が使うような文法を使って混乱させたりすることだ。青山が正義について話したと思うが、小学校のスローガンのような内容だっただろう」
「『なるべく多くの人が気持ち良く過ごせるように努力する』でしたっけ。確かに、小学校みたいですね。」
「あれは、元は『最大幸福の実現に向けて全ての人間が公平無私に奮励努力すること』だったんだ」
「……はい?」
白瀬は私のメモ帳に青山のスローガンを両方書いてくれた。ひらひらと蝶が舞うような筆遣いだ。
「ほぼ同じ意味だ。俺と和泉が注意したところ、当て付けのように小学校のスローガンになった」
奮励努力……漢字で見ると意味は何となく分かるが、聞いたことが無い。
「青山はどちらかというと、崇高さは難解な文章で表現されるべきだと考えているようだ」
「分かりにくい方が良い……ということですか」
「まあ、そう言うと語弊があるかも知れないな。神谷、本は読むか」
「いえ、すみません」
「いや、それならそれで、今後の参考にしてくれ。世の中を二種類に大別する言い方はあまり好きではないんだが、あえて言えば文章には崇高な文章と大衆向けの文章がある。前者は注釈や辞書、予備知識無しでは楽しめない、格調高いもの。後者は、誰にでも分かる言葉、最近では顔文字なども使って表現する手に取りやすいものだ」
「ああ、はい。何となく分かります」
「どちらが良いということは無い。格調高いものを楽しむのも良いし、読みやすいものを読みたいのならそれも構わない。ただ、崇高なものは難解であるべき、という考え方は俺には分からない。崇高というのは気高く尊すぎて近寄りがたいものだが、近寄りがたいから崇高という訳ではない。人びとを難解な文章で理解から遠ざけておいて、『これは崇高である』というのはおかしい」
「……あ、つまり『王様だから近寄りがたい』は良いけど『近寄りがたいから王様』ではないっていうことですか?」
「ああ、理解が早くて助かる。青山は時々、『近寄りがたいから王様』と言わんばかりの言動をするんだ。そしてリテラシーが出来ていない相手は、理解出来ないから崇高なんだと思い込んだり、理解出来ないことを言うから敵意を持っていると勘違いしたりすることがある。これは恐らく俺が青山の友人だから言うことだが、青山はこれを無意識のうちにしてしまっていることがある。青山には必ずしもそのような意図がある訳ではないのだが、紅野は青山のそういう言動を……いや、これは言うべきではなかったな。とにかく、難解だから崇高な訳ではないし、崇高なものと難解にされて人びとから遠ざけられているものを見分ける為にも、人の意見を注意深く聞いたり自分の意見を持ったりすることは重要だということだ。」
私がメモを取り終えるのを待って、白瀬は「さらに」と言葉を続けた。
「これは本人にも許可を取っているから言うが、和泉は時折、意図的に難解な言い回しを使うことがあるそうだ。これは難解にすることで崇高さを演出し、本人曰く『威力を高める』為らしい。つまり、大概のことは聞き返せば説明してくれるだろうし、神谷も遠慮せずに質問した方が良いという俺の老婆心だな」
「ありがとうございます。ちょっと楽になった気がします。……あの、老婆心って」
「老いたお婆さんの心で老婆心、年をとった女性が気を遣いすぎることから、お節介かも知れないがと遠慮して言う言葉だ。こういう言葉は、それこそメモを取っておいて後で辞書を引く習慣をつけると良い。本を読もうと思うとき役に立つだろうからな」
「はい。やってみます」
白瀬は大きく息を吐くと、水のグラスを仰いだ。
「しかし、随分形而上学的な話になってしまったな。疲れただろう」
「いえ、大変興味深く聞かせていただきました。……けいじじょうがくってどう書くんですか?」
白瀬はまた、メモ帳に漢字と読み仮名を書いてくれた。
「後で辞書を引いて確認して欲しいが、ごく簡単に言えば神や霊魂など、物質的に現せないものを扱う学問のことだ。転じて抽象的なことに終始してしまったつまらない議論を揶揄して言う。哲学なんてある意味、究極の机上の空論だからな」
「へぇ……けど、神様も神社とかに行けば会える気がしますけどね。」
「それは面白い意見だな。物質世界に霊魂が入り込んで来るとは」
そんなに壮大な話をしたつもりはないんだけど。
「余計な話までしてしまってすまなかったな。今日はこのくらいにしておこう。質問があればいつでも連絡してくれ。」
「ありがとうございます。……あ、これは質問とは少し違いますけど」
「何だ?」
「さっきコーヒーをいれていただいた時、何か言いかけてらっしゃいましたよね。」
「ああ、あれは大したことではない。まだ緊張しているように見えたから、好きな菓子だとか、軽い話題をと思ったんだ」
「そうだったんですか。ありがとうございます。」
「……どういたしまして。部屋まで送ろう」
「いえ、こちらで。」
「そうか。ではまたな、神谷。繰り返しになるが、質問はいつでも遠慮無くしてくれ」
「はい。失礼します」
部屋に戻り、大量のメモを整理する。メモ帳は自警団に入る時にはほぼ新品だったのに、もう半分以上埋まっている。けど、書くだけじゃ意味がない。リテラシーを身に付ける為にも、理解に努めなければ。




