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水禍の願

作者: 佳奈


  例えば水溜に鼓動を溶かす少女





 とぷん……。

 温かいものに抱かれて目を閉じる。

 とぷん……。

 此処には傷付けるものなんてなにもない。

 とぷん……。

 鼓動拍動、自身とは異なるリズム。

 とぷん……。

 全身を包む安心感はどこから与えられるのか。

 とぷん……。

 ずっとこのままでいれるならば。

 とぷん……。

 この世界が自分だけを包んでくれていれるならば。

 とぷん……。

 それは、なんて幸せ。



****



 ざぱっ。

 水が跳ねた。波打つ水面。もう慣れた塩素の臭い。

 ゴーグルを上げてプールサイドを見遣る。ぴくりとも動かない黒い影。

「泳がないの?」

 プールサイドにそぐわない格好。学校指定の紺のセーラーカラー。声に少女が辺りを見回した。

「……?」

 少女が自身を差す指が微かに揺れる。知らない人にいきなり声をかけられたからか。

 見覚えのない姿の少女。長く黒い髪が、燃え盛る橙の夕焼けとコントラストを描く。

「そう。……部活の練習のときからずっといたよね」

 簡易な日よけテントの下。目前に迫った大会のための練習。ピリピリした雰囲気の部活をじっと少女は眺めていた。

 今は部活も終わり、プールには自主練の私一人。今回の大会の枠に入れる一年は一人。だから私は少しでも速くなれるように、と。

「部員? 見たことないけど」

「ウウン。ワタシはただの生徒だよ」

 そんな筈ないと思いながら問えば予想に違わず否定が返される。鈴の鳴るような声。膝を抱える姿は小さい。

「プール、好き?」

「まぁ……ね。泳ぐの楽しいし」

 膝で組んでいた細い手を解き、髪を風に遊ばせながら少女はプールに近付いてきた。そのまま膝を付き、手を伸ばす。アコーディオンプリーツのスカートは思った通り校則で指定された膝下のまま手を加えられていなかった。

 そっと塩素の水に浸す指は抜けるように白い。

「……冷たい」

「今日みたいな日には気持ち良いでしょ?」

「……そうかな。……うん、そうかも」

 見上げると猩々緋の唇が楽しそうに綻ぶ。何と無く私も嬉しくなって自然と笑顔になった。

「っと、もう6時か」

 聞き慣れた音が響いた。下校時間を知らせるチャイム。

「着替える?」

「うん、急がなきゃ」

 プールから上がり、シャワーの栓を捻る。

「帰り、自転車?」

「いや、電車。乗り過ごしたら一時間待ちなんだ」

「そっか」

 純水の雨のカーテンの向こうで、少女がこちらに手を伸ばす。

「電車、間に合うよ」

「ありがと。間に合えばいいんだけどね」

 時間はぎりぎり。学校から駅まで約十五分。二十五分の電車だから十分以内で着替えと鍵の返却をしなくちゃいけない。毎日していることだけど、今の所間に合うのは五分五分だ。

「んじゃ、またね」

「……ウン。また」

 シャワーを止めて振り向く。あったのはバーミリオンに染まったプールの水。

「…………?」

 あの子、いつ外に出たんだろう。

 そう思ったものの、そんな時間はないことを思い出し私は更衣室に入った。



****



「あ、昨日の……!」

「またね、って言ったから」

 部活に向かうと、更衣室の前に昨日の少女がいた。緩やかに微笑み手を振る少女の姿。重たそうな前髪が瞳を覆っている。

 青空の下が似合わないと唐突に感じた。

「今日も見学?」

「ウン。昨日電車間に合った?」

「ああ、昨日東門の池の近くに担任がいたから鍵預けてきちゃった」

 正面玄関より東門から出た方が駅には近い。だから助かった。なんで担任がいたのかは知らないけど、多分鯉の様子でも見ていたんだろう。しょっちゅう眺めていたし。

「そっか、よかったね」

「本当。じゃあ私、着替えてくるから」

 軽く手を振り、更衣室に入る。少女は別の門から入るだろう。手ぶらで制服のままだから。



「ミヤ、また速くなったね」

「先生も凄いって褒めてたよー!」

「そんなことないよ。だって二人にはまだ追いつけないし」

 部活終了の挨拶後、クラスメートでもあるアイとマコに声をかけられた。二人の言葉に私は苦笑して返す。

 一年は私たち三人の中から今大会に出場する一人が選ばれることになっている。アイとマコは私より速い。今の所彼女らより速く泳ぎ、大会に出ることが私の目標だ。

「でも、いつ追い付かれるかわかんないし。うかうかしてらんないや」

「スクールでも頑張らなきゃだね、アイ」

「マコもだから」

 茶化すように言うマコをアイが軽く叩く。

 アイは幼い頃から有名なスイミングスクールに通っている。そのためか三人の中では一番泳ぎが速い。

 マコは途中で辞めてしまったらしい。家庭の事情だと本人が笑って言っていた。

「あたしも自主練したいけど妹の送迎あるしなぁ」

「幼稚園だっけ」

「そ、お母さんは仕事だしね」

 少しでも手伝わなきゃ。そう言って笑う。

「こーらー一年! 自主練しないなら早く着替える!」

「はーい! すみません! 私らは帰るけどミヤは?」

「あ、私はもう少し泳いでくから」

「そっか、んじゃバイバイ」

「ミヤ、あんまり頑張らないでね」

「あはは、じゃあバイバイ」

 アイの冗談を笑って流し、二人に手を振った。

 二人が更衣室に入るのを見送ってプールに飛び込む。

 水に包まれる。抵抗するそれを掻き分け進む。揺れるライン。白と水色のコントラスト。

 私のスピードは二人のそれにはまだまだ遠い。

 速く泳がないと。もっと、もっと速く。

「っは」

「おかえり、ミヤ」

 ターンして戻ってきたら、少女が飛び込み台の横でしゃがみ込んでいた。

 昨日と同じように茜と黒とが視界を別ける。

「速いね」

「ありがと。でも、まだまだだよ」

「まだまだ?」

 さらり。

 闇色の髪が少女の動きに合わせて揺れる。それなのに瞳は見えない。

「次の大会に出たいんだ」

 その場に座り、少女は足を水につけた。

「濡れるよ」

「平気だよ」

 プールサイド、特に少女の座ったところは水が跳ねるからびしょびしょの筈。けれど少女は言葉の通り気にしていないのか、ころころ笑い声を上げた。

「大会、出れるよ」

 ぱしゃん。

 折れそうに細い脚で水を蹴る。きらきらと陽光に輝く水飛沫は、弧を描いて波打つ水面に吸い込まれた。

「うん。頑張るね」



****



「ん……」

 窓を叩く雨に起こされた。目覚まし時計を見ればいつもよりほんの少し早い時間。

 今日は部活ないかな、そう考えながらもいつもと同じ時間に校門を潜る。

 この時間、校舎にはあまり人はいない。

 ぴちゃり。

 窓から入った雨に床が濡れている。

 雨に濡れた制服。靴下は絞れるくらいにぐしょぐしょに濡れている。

 私の靴音が嫌に響くのは、生徒の騒々しさがないからか。普段より薄暗い階段を上っていると軽く肩を叩かれた。

「うわっ!」

「ひゃあっ!」

 予想外の出来事に驚いて声を上げた。それが廊下に反響する前に、私のものより高い声が軽く叫ぶ。

「お……おはよ、ミヤ」

「ああ、なんだ……びっくりした」

 振り向けばすぐ下の踊り場に黒髪の少女が佇んでいた。

「ゴメン。……まさか驚かれるとは思わなくて」

「ううん、私こそ大きな声上げてごめん」

 ぴちゃん。

 少女のスカートから水が滴る。

「早いね」

「ミヤこそ。いつもこの時間?」

「ううん。今日は自主練できないし、少し遅め。時間ぎりぎりにしたら満員電車できついかなって」

「雨だし?」

「そうそう」

 ぽたぽた。

 少女の髪先から雨が降る。

「まぁそろそろ他の人も来るだろうけど……」

 ぴちゃ、ぴちゃ、ぱちゃ。

 少女が段を上る。跳ねる水の音。擦れ違った瞬間強くなった水の匂い。一つ上から私を見る。といっても身長はまだ私の方が大きい。

「ミヤ、もう少し」

 ぴちゃ、ぱちゃ、ぴちゃ。

 背を向けてまた三段。

「え? 何が?」

 振り返った少女の口元が笑う。

「もう少しで選ばれるね」

「……? 大会のメンバー?」

 こくり。

 首を縦に一度振る。陶器のような手を後ろで組み、少女は後ろ向きで階段を上る。

 ぱちゃ、ぱちゃ、ぴちゃ。

 ぴちゃん。

「そうだね。明日か明後日かな」

 選ばれるといいけど、今のままじゃ難しい。

 負けたくないから頑張るけど。

「大丈夫」

 少女の声に混じって階下から沢山の声が聞こえ始めた。きっと電車通学の生徒が到着したのだろう。

 ぴちゃん。

「だといいけど」

 少女から目を離して下を覗き込んだ。階段のど真ん中で話していると邪魔かも知れない。

 と、そこに見慣れた顔を見付けた。

「おはよ、マコ!」

「……ミヤ! おはよう!」

 私の姿を認め、ひょこひょこ歩くマコに眉を顰めた。右足に大きなガーゼを張っている。

 下りようとして、ふと顔を少女の方向に戻した。けれど階段の先には誰もいない。

 先に行ってしまったのだろうか。そう思い私は早足で階段を下りる。

 一段ごとにぱしゃり、ぴしゃりと水が跳ねた。

「マコ、足どうしたの?」

「いやー今朝すっ転んでさ。広範囲に擦り傷作っちゃって、バンソコじゃ間に合わなかったから」

 へらりと笑うマコの様子から大事じゃないらしい。ほっと息を吐いて私は笑った。

 生徒たちの流れに合わせ、再び階段を上る。

「もー、気をつけなよ。大会近いんだし」

「ああ、それなんだけど、あたしこんな足だし出られないんだ」

「…………え?」

 変わらない笑顔で言うものだから、一瞬理解出来なかった。

「化膿したら困るしね。ってことで、アイとミヤの勝負になるから」

 でも続けられた言葉からそれはマコの冗談でないらしいことが窺えた。

「マコだって頑張ってたのに……」

「しょうがないよ。あたしの不注意なんだし。今大会は仕方なく見送るけど、次は私が取るからね?」

 にやりと笑うマコ。

「……負けないよ、私も」

 マコだって悔しい筈なのに笑っていたから、私も笑った。

「アイにも言わなきゃなぁ……」

「あはは、アイに怒られなきゃいいね」

「ぼんやりしてるからよ! って?」

 マコと教室に入る。教室は電気が点けられ、窓に教室の光景が映っている。

「よかったね、アイまだ来てない」

「怒られるまでの時間が延びただけだから微妙……」

 アイがマコより遅いなんて珍しいと思いながら席に着く。

 そうはいっても直ぐ来るだろうと思っていたが、朝のショートが始まって来なかった。

「アイ来ないねー」

「遅刻かな、珍しい」

「寧ろ休みじゃない? ここまで来たら」

「ええ、まさかぁ」



「リアルに休みだとは思わなかったなぁ」

 放課後、教科書を鞄に入れながらマコが口を開いた。

 外はまだバケツをひっくり返したような雨が降り、時々雷が鳴っている。

「明日きっと来るって。ほら、急がないと先輩たち待たせちゃうよ?」

「うん……」

 動きが普段より鈍いマコを急かす。終わりのショートの時、担任が顧問からの言づてで女子水泳部は職員室前に集まるようにと言ったのだ。

 今日の部活が休みなのは見ればわかるから、選出のタイムをいつ測るかの連絡だと思う。

「にしても酷い雨だね」

 ぱちゃん。

 窓を開け放していたのだろうか。廊下が濡れている。

「電車遅れないといいね」

「うーん、あまり濡れたくないしね」

 他愛ないことを話しながら職員室前の廊下に着いた。ばらばらと人はいるが、生徒たちの中に先輩たちの姿は見えない。

「おう、こっちだ」

 私たちを見付けた顧問が軽く手を挙げた。

「先生、先輩たちは?」

「ああ、呼んだのはお前らだけだ」

 開け放してある窓から、水の匂い。

「どうかしたんですか?」

 首を傾いだマコの問い。顧問は視線をマコに遣って、私に遣った。

「今回の大会。一年で出場はお前だ」

「え? アヤはどうしたんですか?」

 バラバラ。

 雨のカーテンが窓の外を遮る。ただ只管に水の世界。

「まだ生徒たちには言ってないんだが、今朝親御さんから電話があった。昨日、スクールで溺れたそうだ」

 ごう、と風が耳元を掠めた。

「っ、それで、アヤは?」

「大丈夫だ、大事には到ってない。命に問題はないが、親御さんがな、暫くプールに近寄らせたくないと」

「よかった……ね、マコ」

「……うん」

「生徒たちに言うつもりはないから、このことはあまりぺらぺら喋らないようにな」

 そう言った顧問に了承の返事は返したけれど、正直こんな人の多いところで言えば誰かしらは聞いたと思う。




****




「ねぇ、聞いた?」

 潜められない囁き声。

「水泳部一年の話でしょ?」

 波紋のように広がる噂。

「怪我で出場できないって」

 出所なんてわからない。

「選ばれたの、一番遅い子なんだってね」

 けれど、あっという間に生徒たちの興味を掠っていって。

「その子が怪我させたってハナシだよ」

 音もなく悪意を引き出す。



 ぱしゃん。

 限られた時間の中の自主練。私は二人より遅いんだから、もっと速く泳げるようにならないと。その一心でプールに入り浸っていた。

 最近、嫌な噂を耳にする。

 アイとマコが怪我をしたのは私のせいだって。

 誰が流したのか、どこからそうなったのか解らない。だからこそ苛々する。

「……そんなこと、してないのに」

「どうしたの、ミヤ」

 プールサイドに膝をついてこちらを見ている少女。

「何でもないよ」

「……ワタシには言えない?」

 口元から笑みが消えて、俯いてしまった。私は慌てて否定の意味で手を振る。

「違うよ。大会出られるんだから頑張らなきゃなって、私の問題だから」

「そう……」

 大会のこともあったのでそれを言った。

 本当は違うけど、少女に変に心配されたくない。少女は噂が流れても私に変わらずに接してくれているから、知らないのかもしれない。

 あれからアイはまだ学校に来てない。そのせいかはたまた部活に出られないからか、マコは元気がない。

 私は一人で部活に来てるんだけど、心なしか先輩たちの視線が痛い。言わないけれどきっと噂を聞いているのだろう。誰かは私が呪ったなんて言っているらしい。馬鹿馬鹿しい。

 呪いなんてあるわけない。あるにしても私に心当たりはない。

「あーもー……」

 苛々に任せて思わず漏らした声に少女が顔を上げた。

「どうしたの?」

 ぱさり。

 肩にかかった黒髪が零れる。

「いいストレス発散知らない?」

「ストレス発散……」

 私の台詞に少女は細い手を顎に当てて繰り返した。きゅ、と結ばれた唇は考えてくれているからだろうか。白い肌が石竹色に染まっている。

 ぱしゃん。

 水の跳ねる音。

 ぱあっと唐紅が綻んだ。

「包まって、身体の力を抜くの」

 いつになく弾んだ声が言う。

「真っ暗で、けど一人じゃないから寂しくない」

 ぱしゃん。

 水泡が割れる音。

「あったかくて、穏やかで、優しい」

「……いいなぁ、それ」

 何に包まるのだろう。

 嬉々と話す少女は教えてくれなかったけど、聞く気にもならなかった。

 何と無くだけど私は、その『何か』に包まることは出来ない気がしたから。

 ぱしゃん。

 水面に浮かぶ少女の顔が波打つ。

「さて、私はもっかい泳ぐかな。タイムよろしくね」

「ウン。わかった」

 ざばっ。

 一度プールから出て、スタート地点に立つ。

 ゴーグルを着け直して、構えた。

「いい?」

 少女の声に頷くことで応えて。

 ぱんっ。

 乾いた音に地を蹴った。

 ごぼり。

 耳元で水の息づく音。



****



「いーじゃない。あの子調子のってるし」

「だから言ってるでしょ? あたしは好きでミヤと一緒にいるの。ケガだってあたしの不注意!」

「庇わなくっていいって。うんざりでしょ?」

 きゃはは、と高い笑い声に反論する聞き慣れた声。

「マコ?」

「ミヤっ!」

 階段の上に足の包帯がまだとれていないマコが、クラスメートと一緒にいた。派手な、私が苦手なグループ。

「あーちょうどいいじゃん」

「言っちゃえばあ?」

「しつこい……っ」

「あはは! ま、考えといてね?」

 短いスカートを翻し、マコを追い越し上っていく。

 マコは踊場にいる私に近付こうと、階段を下りて。

「――っ!」

「マコ!」

 それは長く感じたけれど、きっと一瞬の出来事。

 恐怖にか、歪んだ表情。

 声にならない叫び。

 伸ばした手は届かない。重たいものを落とした音。

 足を滑らせ、私の横に落ちた。

「マ、コ……?」

 私を引き戻したのは振り返ったクラスメートの叫び声と教師を呼ぶ誰かの声。

 ぽつり。

 囁くような声が聞こえた。

「ほら、水泳部のあの子……」

 冷水を浴びせ掛けられた気分だった。

「いたた……ミヤ?」

 集まり始めた野次馬に向かうと、ぱっくりと道が出来る。

 囁き声が、視線が、痛い。

 私のせいで、誰かが怪我をするというのなら。



 足は自然とプールに進んだ。

 帰巣本能とでも言おうか。学校で教室より馴染み深い場所。

 部長が閉め忘れたのか或は体育があったのか。鍵は掛かっておらず、ドアは抵抗なく開いた。

 水面に映った私の顔が輪郭を失くす。

「どうしたの?」

 鈴の鳴るような声に振り向いた。放課後でもないのに少女は其処にいた。相変わらず口元に弧を描いて。

「……友達が怪我をした」

「ウン」

「私のせいって噂が流れてて、」

「ウン」

「違うのに」

「ウン」

 知らず知らず俯いていた。

 少女と視線が絡むことはないけど、どんな目で見られているか考えるだけで恐かった。

「もうやだっ……」

 目頭が熱くなって、鼻の奥がツンとする。拭っても拭っても、溢れる涙。

 居たくない。恐い。一人は嫌だ。淋しい。教室には戻りたくない。痛い。学校に来たくない。かえりたい。

「……わかった」

 しゃくり上げる私の声に混じって、小さく声が聞こえた。

 顔を上げると意外な程近くに少女がいた。伸ばされた頼りないくらい細い手は私の肩を柔らかく押さえつける。

「ひとりじゃない」

 ざぷん。

 力を受けた身体はぐらりと傾き抗う事なくプールに落ちる。飛沫を上げた水はそれでも私をいつもと同じように包んだ。

 きらきら。

 太陽の光に照らされた少女の黒髪が輝く。少女の顔が波に揺れた。楽しそうに口端を吊り上げ、水中で正座しているような格好だった。

 不思議と苦しくはなかった。このまま眠って仕舞えれば、幸せかもしれない。

 一定感覚で揺れる、波に任せて。

 ……とぷん。

 不意に水の鼓動が狂った。

「…………あ、」

 少女の私を押さえる力が弱まった。途端にごぼりと口から空気が抜ける。

 ……とぷん。

「…………ズ」

 少女の呟きが聞き取れない。

 酷い耳鳴りがして、息も苦しかった。

 けれど少女が私を押さえる手はなくならない。

 ……とぷん。

 伸ばした手は空を掴むことなく水を掻く。

 暴れる足は飛沫を上げることなく水に絡められる。

 ごぼり。

 酸素が足りない。

「時間切れ……」

 ……とぷん。

 身体が思い。水が動きを制限する。

「……残念、また遊んでね」

 暗闇に飲まれながら聞いたのは、鈴の鳴るような声。

「願いなら、ワタシが叶えてあげる」

 ……とぷん。

 …………とぷん。

 ……………………とぷん。

 そして、何も聞こえなくなった。



****



「……、……!」

 何処からか、大きな音が聞こえる。

「…………い……」

 此処から連れ出そうとするのは誰?

「……さ、…………!」

 この優しい場所から出たくない。

「…………な……」

 戻りたくない。あそこは冷たくて、淋しい。

「み……」

 悲しいばかりの世界はいや。

「…………す!」

 辛いばかりの世界はいや。

「……や…………」

 此処でずっと眠っていられたら。

「…………お……」

 それは、なんて幸せ。




(20090906)

 ――本当に?


 階段は13。台詞は最後から。水に愛された、願いを歪にかなえる存在。

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