闇色の現実
「ねぇねぇ、見てよ。あの子」
「ああっ、知ってる。あの子が噂の『要らない子』なのよね」
再び浮上してきた意識の中、僕はそんなヒソヒソ声を聞いた。
僕は一体なんなのだろうと思いながら、ゆっくりと目を開けてみる。
すると、目に映った景色は見知らぬ屋敷の中だった。
柔らかいカーペットの上、沢山の芸術品が並ぶ廊下で、僕は一人窓際に立っていた。
少し離れたところではメイドたちがこちらを見ながら、噂話をしている。
おそらく、さっきの声は彼女たちのものなのだろう。
僕は急にまた、目に映る景色が変わっていることに混乱した。
あれ、さっきまで僕は姉様と呼ぶ少女と決闘していたはずでは。
しかし、辺りに少女の姿はない。
いるのは眉を潜めるメイドたちだけで、僕は彼女たちの声を遠くから聞いていた。
「そうよ。なんでも、あの子……ご主人様の妾の子、らしいじゃない。下劣な者の血が混じっているなんて! ああ、なんて穢らわしいのかしら」
「本当よね。なんでこんなところにいるのかしら。ご主人様も優しすぎるのよねぇ」
そう言って、メイドたちはキャッキャと小さな声で騒ぐ。
僕は段々時間が経つにつれて、ようやく今の状況を理解することが出来た。
どうやら、僕はまだ少年の体を乗っ取っている状態らしい。
しかも、少女と決闘した日から大分日にちが過ぎているのか、少し空気が冷たかった。
窓の外に見える木の葉はあの時と比べて、赤や黄といった鮮やかな色に染まっている。
秋が来ているのだと考えると、あの時は春だったので数ヶ月が過ぎているに違いなかった。
僕は外の景色を眺めながら、そう理解した。
試しにまずは手を軽く振ってみる。
すると、今はまだ少女が近くにいないせいか、体が自由に動いた。
歩いてみても、問題はない。
しかし、誰かと接触することで、また自由を奪われてしまう可能性があるため、僕はそれだけを確認すると動きを止めた。
そして、しばし黙考する。
状況はなんとなくわかったとはいえ、冷静になって考えなくてはいけないことが山ほどあった。
まず、一体、僕の身に何が起きているのだろうということ。
この姿といい、急に飛んだ記憶といい、まるで誰かの記憶を追体験しているようだ。
そう、かつてルーンの追体験をした、エフィの「幻の中」のように。
記憶が飛んだのはあの時は経験していないから、あることなのかは知らないが、エフィは記憶を映し出すというようなことを言っていたから、ありえないことではない。
幻の中、という可能性は高いように思えた。
でも、だとしたら、ファボルで会った「誰か」にその魔法をかけられたということになる。
心当たりはないが、最後にあった気がするという、「誰か」なのだろう。
現時点ではそれを確かめるための術はないが、考えられるのはそういうことだった。
と、なれば、これを全て見終えた時にはまた現実への帰還は可能である、という希望が芽生えてきた。
エフィの時もそうだったから、多分また現実に戻れるにちがいない。
僕の中にはそんな確信にも似たものがあった。
訳がわからない状況であるのに、今の僕には不思議と不安や焦りといったものが全くない。
あるのはどこか懐かしいような感覚と、達観した落ち着きのみだった。
というのは、僕はここに来てからというものの、不思議なものを感じていた。
これを何度か見ている気がする、という既視感だ。
さらにいうと、ずっと感じている懐かしさはそれから派生したものである。
また、この先を知りたいという意欲もあった。
その気持ちがハッキリしたのは前回見た、少女との記憶の最後の言葉を聞いた直後のことだ。
『あなたにはまけない! まけられない。ずっと……ずっとね』
この言葉。
僕はこれを以前に聞いているのだ。
馬術の試験で、意識を失う寸前、僕は同じような言葉を聞いた。
てっきりあの時はなんでそれを思い出したのか分からなかったが、今ならばわかる。
僕は何度かこの映像を見ているのだ。
そして、それをずっと忘れたままでいる。
でも、やっぱりどこかでそれを覚えていて、「負け」という状況が引き金となって、あの少女の言葉を思い出した、といったところなのだろう。
僕は今の短い間でそれを推察した。
とはいえ、あくまでここまでのことはただの予想でしかない。
本当にそうであるかもしれないし、そうでないかもしれない。
まぁ、何はともあれ答えはこの先に待っているはずだ。
忘れているこの記憶を見れば、何か思い出すかもしれない。
僕はそんな淡い期待を込めて、とりあえず周囲を再度見回した。
落ち着いて見てみると、僕に向けられる視線はかなり冷たい。
理由は言わずもがな、メイドたちの噂の通りだろう。
どうやら、この少年の母親はこの屋敷の主の妾だったらしい。
今でこそ、今代の王の意向で身分による差別は表向き薄れているが、やっぱり貴族と庶民、さらにその下の階級とでは大きな隔たりがある。
家を例に挙げるとすると、うちのような低級貴族は庶民にも混じりあえず、だからと言って貴族らしい貴族には相手にもされない。
暮らしぶりでいえば、父上がなんとか頑張って役人のそれなりの地位まで上り詰めてくれているので、普通よりも家は大きく、召使も雇えている状況だが、もはや貴族階級は名誉的なものでしかない。
むしろしがらみの方が多く、邪魔とすら父上はぼやいていたくらいだ。
まぁ、そんな感じで一応僕の家は次第に庶民的になりつつある。
まだ庶民と接する時にはわだかまりがあるとはいえ、向こうも両親の人柄が良いため、打ち解けてきてくれている。
将来的には、そんなに差異は無くなっていくだろう。
でも、あくまでもこれは家の場合だ。
そういうしがらみが多い上級貴族になると、まだ差別は色濃く残っていると聞く。
エーレル家は基本、そういう差別に対しては厳しいので、表向き内容だが、少し奥まったところまでいくとそういうものはやはりあるらしい。
ルーンはそのことに関して、度々頭を抱えていた。
だから、多分この家もそういうのが残っているのだ。
となると、少女の方はどうなのだろう。
そんなことを考えながら、ぼんやりとメイドたちを横目に見ていると、その彼女たちが目に見えて慌てだしたのに気がついた。
僕の視線に気がついて、というわけではなさそうだ。
あの声量からして、僕に聞こえるように言ったと思うし、気付かれても喜びこそすれ慌てることはない。
じゃあ、と僕が首を傾げていると、不意に大声が上がった。
同時に青い髪が視界に入り、僕の体が動かなくなる。
彼女だ。
僕は咄嗟にそれを悟った。
「あなたたち! 今の言葉、もう一度言ってごらんなさい!」
「おっ、お嬢様!?」
ヒイッ、とメイドたちは驚いたように飛び上がる。
噂話をしていたメイドたちの間で、あの少女が明らかに怒った様子で仁王立ちしていた。
少女はまるで猫のように肩と目の端を釣り上げて、周りを威嚇している。
僕はその様子をポカンとしたまま眺めていた。
「私はあなたたちの言っていたこと、しっかりと聞いていたのよ。あの子が、要らない子、ですって?」
「お嬢様っ! そんなっ………私たちはお嬢様を怒らせるつもりでは……」
「なかった、なんていう言い訳は聞かないわよ。だって、私の前であの子のことを侮辱するというのはそういうことなのだから。あなたたちはそれをよぉく、わかっているはずでしょ。そこのところ、どうなのかしら」
「あのっ、その」
「んん? 言いたいことがあるのなら、言ってみなさい。私は寛大だから、受け止めてあげる。でもね、もし私の弟を邪魔だとか言おうものなら……」
少女はギンっと鋭くメイドたちを睨みつけた。
メイドたちはその視線にさらに身を小さくする。
その様子を見るに、少女の方は当主の奥さんの血を引いているのだろう。
僕を前にした時とはメイドたちの態度がまるで違った。
怯えるメイドたちにさらに追い討ちをかけるように、少女はビシッと指の先を彼女たちに突きつけた。
「その時はこの家の次期当主として、あなたたちを厳正に処罰します」
「そっ、そんな! もっ、申し訳ございませんでした!」
首が飛んではたまらない。
彼女たちはそう思ったのか、顔を真っ青にして、深々と頭を下げた。
そして、蜘蛛の子を散らすようにして、その場を離れていく。
少女はそんなメイドたちの背を見送りながら、フンッと不機嫌そうに鼻を鳴らした。
振り返り、視線が合うと少女はこちらに近づいてくる。
その時にはもう、少女の顔は弟を案じる優しい表情になっていた。
「聞いていた?」
「ええ、まぁ……はい」
僕はそこで、おやっと思った。
前は随分と生意気な口をきいていたわりに、今日は随分と歯切れの悪い返答だ。
でもまぁ、彼も十歳ほどでしかない少年なのだ。
さっきのことを気にしていても、おかしくはない。
少女も同じことを思ったのか、慰めるように優しく微笑んだ。
「気にしなくていいのよ。あなたは決して要らない子なんかじゃないいんだから。もっと自信を持ってちょうだい。あんなことを言われた後で、辛いとは思うけれど」
「いえ、違うんです。その……僕が思ったのはそういうことじゃありません。あれくらいは慣れていますし、もう大して悩むことではないので。ただ」
「ただ?」
「姉様は、俺がいてご迷惑ではありませんか?」
「……っ!」
ハッと少女が息を飲むのがわかった。
優しそうな表情から一転、眉をひそめ、険しい顔をする。
少女は震える声で呟いた。
「なに……それ」
「だって、そうじゃないですか。俺は間違いなく要らない子だ。なのに、姉様や姉様の母様の優しさに甘えて、ここにいる。俺がいると、この家の名に傷がついてしまうのに。お父様だって、それがわかっているから俺を……」
今、僕はどんな顔をしているのだろう。
ふとそんなことを思った。
声は淡々としているが、語っていることは十歳の少年にしてはあまりにも残酷な現実だ。
この子は聡い。
それゆえに自分を客観的に見ることが出来ていた。
自分を取り巻く環境を正確に見抜いていた。
そしてそれと同時に、少年は無邪気でいることが出来なくなっていた。
それを知ってしまった、目の前の純粋な少女は少年が言葉を重ねるたび、泣き出しそうになる。
ああ、ダメだ。
このまま目の前の少女を泣かせてはいけない。
そう僕は思うのに、少年は言葉を止めない。
抑えていた感情が溢れ出したかのように、ただただ自分に否定的な言葉を吐く。
少年もきっとどこかでわかっているはずなのだ。
こんなことを言っても、どうしようもないことを。
こんな姿を見せても、少女を苦しめてしまうだけなのを。
それでも、少年は自分の中で眠っていた冷ややかな怒りを吐き出さずにはいられなかった。
そろそろ、十歳の少年が受け止めるのには限界が来ていた。
「俺は、所詮姉様のおもちゃなんです。お父様の実験台です。でなきゃ、俺にあの危険な魔法を教えるわけがない。俺は正真正銘、いらない子なんです」
「いや……ちがっ……」
「姉様は俺を守るとか言って、結局現実からは目を逸らすんですね。結局大切なのは自分だけだ。ええ、わかっています。そんなことは当然だって、けれど」
「もう止めて! 違うの。私の話を聞いて。お願いよ」
「俺だってどうしようもなく、苦しいんです。ですから、期待させるようなこと、もう言わないでください。それが姉様の為でも、俺の為でもあるから」
「ごめんなさい……でもお願い、もう」
「姉様は黙っていてください。あなたは何も分かっちゃいない。だから、もう良いんです。あなたは高貴な血を引くお方だ。俺なんてほっておいて、自由気ままに暮らせば良い。多くの人に愛され、傅かれて生きていく道が保証されている。それで良いじゃないですか。俺はいらない。要らないんだ。煮るなり焼くなり、あなたの好きにすれば良い。ただ、偽りの優しさはもう向けないでください。もし、俺を思う心があるのなら、尚更」
「待って、待ってよ……」
少年は一方的に語り尽くすと、背を向けた。
明らかな拒絶の反応。
冷徹かつ残酷に。
少年はこちらに手を伸ばしてくる少女の手を叩き落とした。
少女は泣きながらも諦めることなく、少年についてきた。
「お願い、聞いて。私はそんな中途半端な気持ちであなたを守ろうなんて言ったわけじゃない」
「…………」
「それで、不快に感じたなら私は謝る。もう、何も言わない。けど、こんなのは嫌。こんなのは違う」
「…………」
「あなたはきっと誤解しているの。私は知っている。ずっとずっと黙ってきたけど、もう逃げない。だから、お願い。足を止めて。こっちを向いて」
「……なんなんですか」
最終的には、少女の思いが届いたのか、少年は振り返った。
睨みつけるような目、呆れ果てたかの表情で。
でも、この体に取り付いている僕ならばわかる。
その顔は少年が無理に作った表情であることに。
少女は少年の冷たい態度に一瞬怯えた様子を見せたものの、すぐに意思のこもった瞳で見返してきた。
一見、赤く腫れた目元は痛々しいが、それを上回る必死さが伺える。
少年は少女の凛とした立ち姿に目が離せなくなっていた。
「私ね、いくらあなたに迷惑がられようと、この地位を捨てようと、どこへだってついて行く。そして、あなたを守る。決して諦めないし、決してあなたには嘘はつかない」
「姉様、何を言って」
「それを信じるか信じないかはあなた次第よ。でも、覚えていて。私は本気よ」
「……こんなところにいたのか」
「お父様!?」
そこへ現れたのは、高価な衣服に身を包んだ長身の男だった。
口元に髭を蓄え、目には暗い光を宿している。
少女にはあまり似ていなかったが、青い髪はなるほど少年と少女と同じ色だった。
少女の言葉と僕の持つ少年の記憶から、彼が彼らの父親であることは明確だ。
しかし、記憶の中にある彼の姿とは目の色といおうか、纏う雰囲気といおうかそれが違っていた。
一瞬、誰だかわからなくなったほどである。
少年は少女の言葉を聞いて、ポカンとしていた顔を引き締めると、大きなため息をついた。
見つめ合う父と息子の間には少女が入ってくる。
「お父様、帰っていらしたのですね」
「ああ、お前もいたのか」
彼は暗い瞳で少女を一瞥した後、再び少年の方を向いた。
前までは少女がいたのなら、笑顔で抱きしめていたのにも関わらず、だ。
僕は何時もと違う様子の彼に戸惑った。
少女もわけがわからない、と言った様子で首を傾げている。
しかし、少年だけはそんな彼を見ても冷静だった。
「お呼びですか、お父様」
「ああ。とうとう、時が来た。覚悟は決まっているのだろうな」
「覚悟も何も、俺には拒否権がありません。とっくに諦めてます」
「喜べよ、要らない子であるお前がこの家の役に立てるのだから」
「ちょっと、どういうこと? お父様、この子が要らない子って、前はそんなこと」
「事情が変わった。お前もこの子と会うのは今日が最後だ。精々、弟との別れを惜しむといい」
「えっ……?」
少女の呆然とした顔、父親の不気味な笑顔。
それが脳裏に焼きつき、意識は再び暗闇に堕ちていった。




