プロローグ2
「マスター、一杯」
「かしこまりました」
薄暗い酒場。
その隅で俺は考えに耽っていた。
トクトクと注がれる酒のユラユラ揺れる水面を見つめながら、ここに待ち合わせた人を待つ。
いつもならグビリといきたいところだが、今日はそうもいかない。
「アイツ」相手に酔ったまま話せば、いつもいつの間にか良いように言いくるめられていたりするのだ。
今日は話すことがことであるために、絶対に酔うわけにはいかない。
俺はチビリチビリと酒を口に含みながら、大きなため息をついた。
「あーあ。大変なことになったもんだ」
「どうしたんだい? 何かあったみたいだが」
この酒場の雰囲気は随分と陰気なくせに、マスターは人がいい。
穏やかな笑みを浮かべて聞いてくる。
だが、俺はその質問にははっきりとは答えず、曖昧に首を振った。
「あったにはあったが、あまり口外出来ないな。物騒な話は平和な表社会には持ち出したくはないからな」
「ほう。では、裏ではなにか?」
「そういうことだ」
聞く人ぞ分かるこの会話。
マスターは言葉の裏に隠された事情を察して、意味ありげに頷いた。
それに俺はコクリと頷き返すと、ふと気配を感じて、ドアを振り返った。
「おや。客かな」
カランカランとドアの飾りが揺れて、入ってきたのは、フードを目深に下げた怪しげな人物。
その怪しげな奴こそが俺の待ちわびていた人物だった。
「おう、こっちだ」
「すまんな。遅れた」
「いいってことよ。お前も大変なんだろ?」
そいつと挨拶を交わすと、マスターも奴の正体に気がついたのか、表情を緩めた。
奴もここの常連であるから、その姿についても何も言わない。
マスターは何事も無いように、笑顔で注文を聞いた。
「じゃあ、こいつと同じものを」
「かしこまりました」
奴は俺の隣のスツールに腰掛けると、酒を待った。
その間に俺たちは他愛も無い話をする。
騎士団のこと、街で起きたこと、それは極々普通の会話だった。
奴もそういう話は嫌いでは無いようで、時々笑い声を漏らしながら聞いてくれる。
少し待って酒が出てくると、奴は嬉しそうにグビリと酒を喉の奥に流し込んだ。
「ふぅ。ここの酒は美味いな。最近は忙しくて、酒もろくに飲めなかったからな。格別だ」
「だろ? 俺も気に入ってるんだ」
「そいつは嬉しい」
しばらくはそんな和やかな会話が続いたが、それもしばらくのことだった。
ひと段落ついたあたりで、俺は表情を引き締める。
いつまでもこうしていたかったが、そろそろ本題に入らなければいけない。
「で、例の件についてだが」
そう切り出すと、奴もグラスから手を離した。
そして、わずかに見える口元をギュッと結ぶ。
「ああ。受け入れることにした。最も、『アイツ』が受け入れるに値する、実力を持っていたならばの話だが」
「正気か?」
「そんな冗談を言えるほど、俺は酔っちゃいない」
奴は冗談めかしてそういうが、油断はできない。
何しろ、全く底の見えない奴なのだ。
俺は念入りにその理由を聞き出す。
「『アイツ』のこと、調べたのか?」
「ああ、調べたさ。で、調べた結果がこれだ」
「その情報源は?」
「裏の貴公子、と言えば分かるか?」
「分かった。十分さ」
貴公子なら問題ない。
あいつが嘘をつくはずはないのだ。
ただ、あいつは隣に座る奴以上に底は見えないが。
でも、俺はどうも納得がいかなかった。
奴との付き合いはそれなりに長い。
だから、奴がこんな危険な手段を取るのは意外に思えたのだ。
「だがな……」
「まだあるのか?」
「いや……でも、明らか怪しいからな」
「まだいうか。何度も言わせるな」
「その……な」
「聞こえなかったか? 何度も言わせるな」
「うっ……」
首には小刀が突きつけられていた。
脅されては何も言えず、反論を諦めて、両手をあげる。
降参の印を示すと、奴はふうっと息をついて、小刀を下ろした。
途端、さっきまでの殺気が消える。
これだから、奴は本当に底が見えない。
本当は奴に俺を殺す気などはさらさらなさそうなのだが、あれだけ殺気を出せるあたりは本当に怖かった。
「それより。『アイツ』が抜けることによってのデメリットは?」
「無い。まだ『アイツ』は入って間もないからな。一応、仮ってことになっている」
「そうか」
デメリットを考えてくれているあたり、一応こちらにも気を使ってくれているらしい。
奴はクルリとスツールの上で回転しながら、天井を仰ぎ見ていた。
その様子は疲れているように思える。
奴の多忙さは尋常じゃないらしいから、そのせいだろうか。
それとも、何か憂いでもあるのだろうか。
「そういえば」
「ん?」
しばらくクルクルと回り続けていた奴は、ふと動きを止めた。
そして、思い返したようにたずねてくる。
「『アイツ』の裏名、何と言ったかな」
「裏名は確か、『月夜の悪魔』だった気がするな」
「悪魔…ねぇ」
と、突然。
奴はプッと吹き出した。
そして、ゲラゲラとバカにするように笑う。
俺は奴の突然の反応に戸惑いながら、尋ねた。
「ど……どうした? 酒にワライダケの粉末でも入ってたか?」
「まさか。いや、お前のトコと名が似ているなと思って」
「はぁ」
笑いどころがイマイチ分からないが、変に突っ込めばまた小刀を突きつけられるかもしれない。
とりあえず、頷いておく。
奴はヒーヒー言いながら、尚も笑い続けていた。
やっぱり、今日の奴は少しおかしい。
いつもなら、こんなことはくだらないと一蹴するような奴だ。
なのに、今日はこんなくだらないことに笑っている。
そこには奴の無理が垣間見えた。
でも、これだけは言っておかねばならないだろう。
タイミングを見計らって、俺はそれを口に出す。
「でも、気をつけろよ。相手は危険人物なんだ。人などゴミクズ同然に考えてるような奴だ。何をしでかしてもおかしくない」
「わかってるよ。警戒はしておく」
完全に笑いをおさめた奴は、腰にぶら下がる愛剣にそっと手を伸ばした。
今までに幾度なく見てきた、奴の癖だ。
いつもは底が見えないくせに、何かある時は決まってそうする。
妙に人間らしさを出すのだ。
そのいつもとのギャップに戸惑うことも多々あるが、この時ばかりは何故か落ち着いていられた。
「怖いのか? らしくないな」
「怖い? そんなはずないだろ。」
奴はサッと手を引っ込めた。
自分の何時もの癖に気がついたのだろう。
代わりに酒の入ったグラスを握る。
「バカ言え」
「というと?」
「殺人狂如きに、俺が怯えるはずなど無いだろう? そんなものに怯えていれば、どうして王家などと相手できよう?」
奴は自慢気にそう言うが、口元は強張っていた。
やはり、今までの奴とは違う。
俺はそう確信した。
奴の反応から判断して、核心をつく質問を投げかけた。
残酷なようだが、奴の為だ。
俺は意を決して、口を開いた。
「……そうか。なら、殺せるな」
「……っ!」
取るべき答えなど、始めから決まっているのに、奴は息を詰まらせた。
躊躇い。
それは何においても、最も邪魔になる感情だ。
奴はそれに押し切られそうになっていた。
これまで周囲から、無慈悲と言わしめていた奴が。
「その時に……俺が判断する」
「甘いな。そんなのじゃ、お前が殺られる。」
「分かってる! そんなこと!」
奴は盛大に音を鳴らして立ち上がった。
その拍子にグラスが傾き、中の酒はテーブルの上にぶちまけられる。
奴は、震えていた。
肩を震わせながら、奴は感情を吐き出すように叫んだ。
「分かってる、そんなこと……。けど、自信がない。それだけなんだ」
「それが甘いと言ってるんだ。俺たちはもう、引き返せない。生きるために、今やらなければいけない事をするんだ」
「お前に何が分かるって言うんだ! お前は……お前は愛されていたくせに! そして、今も幸せでいられるくせに。いつも奪われていく俺の気持ちなんて、お前に分かるはずが無いだろう?」
俺はひたすら、ジッと奴を見つめた。
ここで奴のことを許してはいけない。
もし、そうなれば奴は何れ死んでしまう。
やがて、奴はそんな俺の視線を避けるように顔を逸らした。
「もういい……」
バタン、と酒場のドアは寂しげに閉ざされた。
ため息を吐く俺をただ一人残して。
「はぁ。困ったもんだ。」
ポツリと呟く声もどこか虚しかった。