九四
「はあぁっ。あんた、何言ってんの」
フィオリアが怒りを露わにして言った。ほとんど怒鳴るような言い方だった。
小さな丸机を挟んで怒りに震える彼女の向かいに座ったアイラは穏やかな微笑みを浮かべて、お茶の入ったカップを傾ける。
いつもの如く壁際に突っ立っていたソフィーネが呆れ顔で蔑んだような冷たい視線を投げかけている。
そして、傍らに立つキスカはいつも通りの無表情だが、どこか憮然とした感じがする。
部屋にいる四人の女性から、様々な表情で様々な視線を向けられたレオポルドは思わず一歩二歩後退りしながら、視線を逸らす。
「あんたねぇっ。こんな綺麗なお嫁さん二人も貰っておきながら、この期に及んで、まだ女を囲うつもりっ。あんた、何様さっ」
フィオリアはレオポルドを一喝すると、手にしていたカップを叩きつけるようにして机に置いた。彼女の怒りは相当なようで、怒髪天を突く勢いである。
「あら、フィオリアさん、そんな乱暴にしたら、カップが割れちゃいますよ」
アイラはとぼけたようなことを言いながら、フィオリアの空になったカップにお茶のおかわりを注ぐ。
「何で、アイラは怒らないのよっ。さっきのこいつの話聞いてたでしょっ」
フィオリアは向かいでにこにこと機嫌良さそうに引き続きティータイムを楽しんでいるアイラに向かって叫ぶ。
「ムールドでは男が複数の妻を持つのは珍しくないこと。私の周りにも妻を二人三人持つ方は少なくありませんでした。ですから、そのような覚悟もしていました。私の従姉は五〇歳を過ぎたキオ族の族長の四人目の妻として迎えられていましたし」
アイラは落ち着いた口調で言った。
族長の娘ともなれば、部族の利害の為に、政治的な結婚を強いられることは生まれたときから決まっている運命である。夫婦となる男女が愛し合っているか否かなど、関係がない。夫婦となった男女は愛し合わなければならないのだ。
当然、不幸せな結婚となることも少なくない。価値観が違い過ぎる性格の者同士の夫婦もあれば、埋め難い大きな年の差、夫からの暴力や虐待すら有り得る。男尊女卑の価値観が根強いムールド社会で女は優しい男に娶られればそれだけで幸せな方なのである。
その意味ではキスカもアイラも幸せな方といえるだろう。レオポルドは彼女たちに決して乱暴な言動をしない紳士であり、彼女たちを拘束することもないし、かなりの行動の自由を許している。放任しているとすら言えた。
政治的に利用してはいるが、それとて、彼女たちに大きな不利益を齎しているわけではない。彼女たちに危害がない程度の範囲で利用しているだけなのだ。
「私は旦那様に何も不満はありません。旦那様の為さることにも何ら不満などありません。旦那様が新たな妻を迎えようとも不満などありません」
そう言って彼女はカップのお茶を一口飲んでから、レオポルドを見つめた。
「新しい妻が来ても、私のことを変わらずに愛し続けてくれるならば」
その微笑みは、花が咲くような美しさで、レオポルドは思わず見惚れるが、同時に煌めく白刃を喉元に突き付けられたかのような寒気を感じた。
フィオリアは歯噛みしつつも、アイラの意志を翻意させるのは無理と判断したようだ。代わってキスカに視線を向ける。
「キスカはどう考えてるのさ」
「私は……」
キスカは迷っているようだった。フィオリアとアイラ、ソフィーネの視線を避け、レオポルドの顔をちらとだけ見て俯く。
「わかりません」
フィオリアは不満げに鼻を鳴らし、ソフィーネは呆れたような笑みを浮かべたまま、窓の外に視線を向けた。
「とにかくだ。キスカとアイラには、なんというか、申し訳ないが、この縁組は我々にとって必要なものなのだ。レウォント方伯と同盟を結ぶことができれば、ブレド男爵やサーザンエンド北部の諸侯にも睨みが効く。それどころか、東岸部、アーウェン諸侯をも牽制できる。その利点は計り知れないものがある」
レオポルドはとにかく縁組によって齎されるレウォント方伯との同盟を結ぶことの利を説く。
キスカやフィオリアとて、世事や物事に疎い女ではない。キスカは勉強熱心が過ぎて一族から「女が政に関わるな」と疎まれたほどだし、フィオリアの養父アルベルトは女子教育にも熱心な人物であったから、幼い頃からレオポルドと机を並べて学んできたものだ。
二人ともレウォント方伯を同盟者とすることの利は理解している。そして、同盟というものは口約束や書面で交わしたくらいでは確固したものにできないことも知っている。血の盟約。要するに縁組が最も確実な同盟の担保となるのだ。
とはいえ、頭では理解していても納得できないのが女心というものである。
フィオリアは不機嫌そうなしかめ面でレオポルドを睨みつけ、キスカは相変わらず俯いたままである。
部屋には張りつめたような緊張感が満ち、静寂が場を支配する。誰もが何も言わず、息苦しさすら感じる。
その時、聞こえたノックの音をレオポルドは福音のように感じた。
「失礼します。おや、皆さん、こちらにいらっしゃいましたか」
やって来たのはレンターケットであった。部屋内に満ち満ちた不穏な空気を気にも留めず、彼はいつも通りにこにこと笑いながら言った。
「ベルゲン伯ご夫妻がいらっしゃってます」
「おぉ、レオポルドっ。暫く見ないうちに大きくなったじゃないかっ」
ベルゲン伯はレオポルドの姿を見るなり、その大きな体で彼を抱き締めた。バンバンと力強く背中を叩かれ、レオポルドは咳き込みそうになった。
「伯父上もご健勝で何よりです。お会いに行けず申し訳ありませんでした」
「堅苦しい挨拶は無しだっ。昔みたいにクレメンス伯父さんと呼んでくれ。忙しいのはお互い様だ。私もオリビアから戻ってきて日が浅いし、式部長官の仕事にもまだ不慣れでな。手紙をもらっておきながら、出迎えもできずすまなかった」
そう言ってから、ベルゲン伯クレメンス・レッテルゼーヒ・ロッセンダルクはレオポルドを解放した。
しかし、その肩をしっかりと掴んだまま真面目な顔になる。
「アルベルトの件は残念だった。その後のこともな……。私が帝都にいれば、お前たちを援けてやれたものを……」
レオポルドの父アルベルトが亡くなり、その後、ただでさえ悪かったクロス家の財務状況が更に悪化。結果として破産に陥ったとき、ベルゲン伯は三年前から西方諸国の一国オリビアに大使として赴任しており、夫人や家族もそちらに住んでいたのだ。
「お前たちの境遇を知ったのは、お前が帝都を発った後でな。えらく心配したものだ。初めて真面目に神に祈ったよ。お前たちがなんとか無事で、命ばかりは助かって、もう一度会えますようにとな」
彼はそう言うとポケットからハンカチを取り出して、目元を拭い、思いっきり鼻をかんだ。
レオポルドの伯父は昔から涙脆い人だった。悲しいこと、嬉しいこと、困ったこと、腹立たしいことが起きると、決まって涙が出るのだ。
「南部の辺境の、あー、なんといったっか……サザーンエンドだったか」
「サーザンエンドです」
「そうそう。サーザンエンドだ。そのサーザンエンドに行ったと聞いたときはひっくり返るかと思ったっ。なんだって、そんな地の果てみたいなところに行ったんだってな。南部はどうだった。やはり、灼熱地獄のようなところなのか。少し肌が焼けたんじゃないか」
「確かにこちらよりも暑いですね。夏は地獄のようです。植生もこちらとはだいぶ違います。水も少ない。とはいえ、いくらか家畜を飼い、その地に適した植物を育てることはできます。それに、貿易の中継地となっていますし、鉱物も多いようです」
「そうかそうか。それに女性は美人ばかりかっ」
そう言ってベルゲン伯はにっこりと笑い、レオポルドは苦い笑みを浮かべた。
「あなた。そろそろ、レオを放してやってあげて下さいな。私だって、レオにまた会える日を心待ちにしていたのですよ」
ベルゲン伯の隣でフィオリアを抱き締めていた夫人、レオポルドの母の姉であるヘルガが刺々しい声で夫を押し退けた。
「まぁ、レオ。立派になって、背もこんなに高くなって……。まぁまぁ……」
夫人はそう言いながら、レオポルドを抱き締めて頬にキスをする。
「大変なときに、一緒にいられなくて御免なさいね。知らせの一つもあれば、クレメンスを置いて、私だけでも帝都に戻って来れればよかったのだけれど。郵便船が難破して、私たちのところに手紙が来るまでに半年もかかってしまって。これはもう郵政長官に文句を言わなくちゃって思ったわ。勿論、もう言ったのだけれども、あの人ったら、自然現象による郵便事故は止むを得ないとか何とか言っちゃって。それで、レオの身に何かあったらどう責任を取るつもりだったのかしらっ。もう私、頭にきちゃって、長官の頭を叩いたら、鬘が、こう、ぽーんって流れ星みたいに宙を舞ってね。その後は長官と掴み合いの喧嘩になっちゃったわ」
「伯母さん……。私の為を思って頂けるのはありがたいのですが、程々になさって下さい」
伯夫人の破天荒な話にレオポルドはなんとかそれだけを言った。
レオポルドの伯母は昔から破天荒な人で、その言動はいつもぶっ飛んでいた。街中で商品の万引きを見つけたときは、自ら走って万引き犯を捕まえたり、白亜公夫人に香水がキツ過ぎて鼻が曲がりそうだと真正面から言ってみたり、ある貴族が夫のいる女性に手を付けたときは屋敷に押しかけて、大変な騒動を巻き起こしたりもした。
とにかく、自分の中の正義に反する行いを見たり聞いたりすると、歯止めが効かず、突っ走ってしまう人なのだ。
「そうはいってもねぇ。郵政長官があんまりにも言い逃ればっかりするから、あと、頭の鬘がゆらゆらしてて」
結局、この人は郵政長官の鬘を吹っ飛ばしてみたかっただけなのではないか。と、レオポルドは疑念を抱いた。そういう思考をしてもおかしくない人なのだ。
隣ではベルゲン伯に抱き締められたフィオリアが伯の豊かな腹肉に埋もれかかっていた。
ベルゲン伯夫妻を招いての昼食会が催された。
訪問が急であった為、それほど手間をかけた料理が出されたわけではないが、遥々海から生簀のまま運んできた魚を何尾か捌いて食卓に出された。
「御存知かしら。西方では魚を生で食べる文化がないのよ。大使館の晩餐で出したら、オリビアの外務大臣が怒り出して大変な目に遭ったわ」
ベルゲン伯夫人が生の白身魚を口に運びながら言った。
帝国では魚を生で食す文化がある。ソースやオリーブ油、チーズ、香辛料などをかけたり、合わせたり、からめたりして食べるのだが、これが西方諸国からすると野蛮だと言われることがよくあった。
「いやいや、それは、お前が、いい大人が好き嫌いをするんじゃありません。なんて言うから閣下が怒ったんだよ」
「だって、そうじゃありませんか。いい大人が好き嫌いをするなんて恥ずかしいことですよ。私だって、豆は好きじゃありませんけど、こうして、きちんと食べてます」
そう言って夫人は豆のスープを食べて、ちょっと嫌そうな顔をした。
その話を聞いたキスカとアイラは目の前の皿に盛られた生魚を見つめて、表情を硬くした。
ムールドには魚介類を食べる風習がないのだ。キスカはレオポルドとの旅の途中でフライならば食べたことがあったが、生は初めてである。アイラに至っては魚自体が初体験だった。
食卓を囲んでいるのはベルゲン伯夫妻にレオポルドとフィオリア、彼らが滞在しているウェンシュタイン男爵家の家来の筆頭であるキルヴィー卿、そして、キスカとアイラだった。例の如く、男爵は寝込んでいる。
「先程、男爵に会ったが、具合は悪そうだね」
ベルゲン伯はパンを千切りながら、渋い顔で言った。
「自分はもう老い先長くない。最期は神の家で迎えたい。なんてことを仰っていたよ」
「シュバルト叔父様が弱音を仰るなんて、ただことじゃありませんわ」
夫人からするとシュバルト・ウェンシュタイン男爵は父の弟に当たるのだ。
「我々、家臣団も憂慮しております。どうにか快方に向かうよう手を尽くしておるのですが」
キルヴィー卿の言葉にレオポルドとキスカは渋い顔をした。卿の所業を知っている身としては、よくもまぁ、そんなことが言えたものだと思わずにはいられないのだ。
「医師の話によりますと、帝都の水や空気があまりよくないようです。どこか自然の多い地で療養した方がよいと」
「確かに帝都の誇りっぽい空気と水は病人の身体にはよくない気がするね」
ベルゲン伯は頷きながら思案する。
「私個人の意見と致しましては、シュバルト様はもうお年ですし、お体の具合も宜しくありませんから、男爵位を誰かに譲って、どこか自然の豊かな修道院に御隠棲頂くべきかと思います」
「キルヴィー卿」
レオポルドが硬い声で卿を制止する。
「申し訳ありません。陪臣の身で差し出がましいことを申しました」
「いやいや、君の懸念は尤もだよ。男爵のことを考えても、そうした方がいいのかもしれない」
頭を下げたキルヴィー卿に、ベルゲン伯が言う。
「そうだな。今度、私から男爵に話しておこう。我々があれこれ言っても、最後に決めるのは男爵ご自身だからね」
キルヴィー卿の目的は最初からこの一言だった。レオポルドや家臣から男爵に譲位を促すのは如何にも男爵位をレオポルドにやりたがっているようで難しい。親戚筋のベルゲン伯からやんわりと話してもらった方がシュバルトも男爵位から下りやすいだろう。
この策士め。と思いながら、レオポルドは葡萄酒に口を付ける。
「ところで、さっきから食事が進んでいないようだけれども、お魚はお嫌いかしら」
伯夫人がキスカとアイラを見つめながら言った。
想い人の伯母に見つめられた二人は身を硬くする。レオポルドには母がなく、唯一の近しい親類はベルゲン伯夫妻なのだ。夫妻に嫌われては大事と二人は理解している。
「い、いえ……」
「緊張なさっているんじゃないかな。レオポルドの為に、遥々ムルドから帝都まで来て大変だったね。口に合わないものがあれば残しても構わないよ」
ベルゲン伯が優しげな口調で話しかけるが、夫人は渋い顔をする。やはり、お残しは気に食わないらしい。
「大丈夫、です……。いただきます」
キスカは緊張で喉を鳴らしてから、思い切って生魚を口の中に放り込む。
それを見たアイラも皿に向かい合う。食べる前から涙目だったが、白身魚のオリーブ油かけを食べた。
二人とも脂汗を流しながら黙って口を動かしていたが、どうにか飲み込んだ。
レオポルドはその二人を気の毒そうに見つめながら、この後に出てくる蒸した貝と海老、イカの料理を前にした二人がどんな反応を示すか心配した。




