九三
「あの……、申し訳ありません……」
無事に皇帝への謁見を終えて、広間を退出し、乗ってきた馬車に乗るところで、キスカが申し訳なさそうに言った。
「いや……、なんというか、君の、私への忠誠心はよく理解した」
レオポルドは気恥ずかしそうに頬を掻きながらそう言った。その顔面には未だに微かに赤さが残る。
「貴女の彼への気持ちは私にもよく理解できましたよ。おそらくは陛下や他の者たちにも広く伝わったでしょう」
レイクフューラー辺境伯が意地の悪そうな笑みを浮かべながら言うと、キスカは顔を赤らめ、逃げるように馬車へと乗り込んだ。
「いやぁ、可愛い娘をからかうのは楽しいですね」
この時ばかりは本心からの言葉を発したキレニアに、レオポルドは呆れたような視線を向ける。
その彼の手をアイラがそっと握った。目が合うと彼女はそっと微笑んで、きゅっと強く手を握ってから、何事も言わずに馬車に乗っていった。
レオポルドは渋い顔で頭をがしがしと掻いてから、自身の馬に乗って、馬腹を蹴った。
キレニアも馬に乗ると、レオポルドと馬首を並べた。
「貴方と彼女たちの関係はわかりました」
彼女はレオポルドだけに聞こえるような声量でそう言った。
「というよりも、今、確認しました。貴方と彼女たちの関係については報告を受けていますから」
今やレオポルドの事務方の側近であるレンターケットも元々はキレニア配下の者であり、彼から逐一報告は上げられていることは間違いない。その報告の中にレオポルドとキスカ、アイラの関係についても含まれていたのだろう。
それはレオポルドも十分に理解している。その上で、彼はキレニアに対して隠すことや誤魔化すことはないと判断していた。
それよりは全ての情報を開示することに抵抗を示さず、自分がレイクフューラー辺境伯を信用、信頼しているという姿勢を出した方が得策である。少なくとも、今の二人の力関係を考えれば、彼女のお気に召さない動きや態度は見せるべきではないのだ。情報を重視するレイクフューラー辺境伯は情報が得られないことを最も嫌がると彼は知っていた。
「今まで、多くの領主たちが手懐けるのに手こずってきたムールド人を貴方がどのようにして支配下に置いたのか興味があったのですが、中々に巧妙ですね。ムールド人を支配する難点は彼らが余所者の介入を強く拒むからです。帝国に服従している、友好的な部族であっても、ムールドの地に帝国人が足を踏み入れることにすら拒否反応を示してきたと聞きます」
レイクフューラー辺境伯はかなり正確にムールド人の性質を理解しているらしい。
確かにムールド人は今まで余所者の介入を極端に嫌ってきた。ムールドの地では常に争いや諍いが絶えなかったが、外部からの侵略に遭ったときばかりは一致団結して迎え撃つということが多々あり、古来より多くの侵略者がムールドの砂漠に誘い込まれ、恐ろしいほどの飢餓と渇きに苦しめられ、ムールド騎兵の奇襲攻撃に遭って、大損害を被り、退却を余儀なくされてきた。
ムールドの砂漠はムールド人にとっては我が庭のようなものであったが、他の民族にとっては地獄そのものであった。食糧や水の手に入る場所も分からず、星を見る術がなければ方角すら分からず、気紛れな砂嵐に巻き込まれれば、ただでは済まない。生きて帰られるだけ運がよいという地であった。
要するにムールドを手に入れたければムールド人の協力が不可欠だったのだ。
「そこで、貴方はムールド人を外から支配するのではなく、その中に入り込むことを選んだわけですね」
余所者に協力しようとしないムールド人の助力を得るには、ムールド人の社会の中に入り込み、彼らの同胞になればよい。
部族の族長の娘であるキスカとアイラの婚約者というムールド人社会の中の一員となれば、ムールド人たちも受け入れ易い。
何故ならば、彼らはネルサイ族とカルマン族の実質的な族長に従っているという意識なのだ。族長の一人娘を娶った者が族長になることは慣習である。誰を婿に迎え入れるかはその一族が決めることであり、今回は、たまたま、婿となった者が帝国人の貴族だったに過ぎない。
こうして、一部の部族を支配下に置けば、道案内や糧秣、水の心配を極度に恐れる必要はない。後は純粋に武力の問題である。大きな武力を持つ有力な部族にそれに負けた部族が従うことはムールドの理に反していない。その部族の族長がどこの誰かなど、その時点では問題にならない。敗れた者は勝者の慈悲に縋るより他に道はないのだから。
今までの帝国人たちがそれをできなかったのは、異民族であり異教徒であるムールド人を見下し、彼らを十分に理解しよういう努力が不足していたこともさることながら、レオポルドのようにムールド人の同胞になることに大きな抵抗感を感じていたからだろう。
帝国人の中には異民族や異教徒を自らよりも劣ると考える者は少なくない。異民族を正式な妻に迎える者は余程の奇特であるし、周囲から白眼視される。一族や仲間からも強く反対されるだろう。それを押し切って結婚したとしても、自らの立ち位置を帝国人社会の中に見つけるのは非常に難しい。
それが改宗していない異教徒ともなればそれ以上の問題である。異教徒との結婚は重大な背教行為であり、破門されかねない事態である。破門は社会的な死刑を意味し、帝国人社会からの追放と同義である。
レオポルドがそういった問題を恐れなかったのは、時代の移り変わりもあって、昔に比べれば教会の威信が落ち、神の教えに盲目的に従う人間が少なくなりつつあったからだ。彼は信じる宗教くらいで人の価値が変わるとは思っていなかったから、異教徒、異民族との結婚に対する抵抗感があまりなかった。
また、彼はこれまで南部に住んだことがなかったから、自身が属する社会(一族や仲間、町、村など)というものがなく、社会からの追放という問題を気にする必要がなかった。
しかも、この時、帝国人たちはサーザンエンド継承戦争の最中にあり、帝国人とムールド人の結婚にアレコレ言っている余裕などなかった。異教徒であるムールド人の助けがなければ神の身許へと旅立ちかねない情勢であったからだ。
そして、彼は彼女たちとの結婚を帝国式ではなく、ムールド式に執り行うことによって、ムールドの法では結婚しているが、帝国の法では結婚していないという都合のよい状況を作り出したのだ。
キスカとアイラとの結婚は、非常に巧妙で合理的なムールド人支配の手段なのである。
その全てをレオポルドが最初から考え、仕組んで実行したわけではないが、自らの置かれた時代、境遇、立場を最大限に利用し、活用した結果がムールド全域の支配に繋がったといえるだろう。
「しかし、貴方は酷い男ですね。自分を愛する女を支配の仕組みとして利用するとは。酷いことを為さる」
レイクフューラー辺境伯は非難するでもなく、蔑むでもなく、ただ、楽しげに、意地悪な笑みを浮かべながら言った。
レオポルドはただ黙って馬に揺られていた。
「まぁ、それくらいのことができないような人間では相手にする価値などありませんがね」
彼女はそう言って口端を吊り上げた。レオポルドは石のように硬い無表情のまま黙っている。
「それはともかく、そう遠くない時期に貴方の帝都への帰還を祝う宴を催そうと思うのですが、如何ですか」
辺境伯はようやく本題に入った。
貴族社会では事あるごとに社交の場として宴が催されるものである。宴の場では世間話や噂話の合間に様々な交渉や取引が行われ、政治的な駆け引きが為されることもあり、商談や縁組が決められることもある。ただ美味い飯を食って、酒飲んで踊るだけではないのだ。
レオポルドの帝都帰還を祝うというのも、ただの名目に過ぎない。実際は帝都にいる貴族たちにレオポルドを紹介する機会を設けることが目的である。
「是非、お招きにあずかりたいと思います」
勿論、レオポルドは招待に応じる。
有力な貴族たちと知り合う機会には何としても参加せねばならない。味方や援助者が増えることは彼にとって望ましいことである。帝国宮廷に味方となる貴族が多ければ多いほど、ムールド伯の座は近くなり、サーザンエンド辺境伯の地位へと上り詰める階段を上がることに繋がる。
「あのムールド娘たちも連れて来るとよいでしょう。彼女たちに興味を持つ貴族は多いでしょうからね。良い客寄せになります。きっと、主役は彼女たちになりますよ。請け負います」
キレニアの言葉にレオポルドは同意した。
帝都に住む貴族たちは滅多に見ることができない南部の異民族の娘に対して、強い興味を示すだろう。何にせよ、貴族たちは珍しいもの、滅多に目にできないものに弱いのだ。彼らはその為ならば金や手間、時間を惜しまない。
「そうそう、宴にはレウォント方伯も呼ぶ予定です」
レウォント地方は帝国南部の北東部。アーウェン地方の東、サーザンエンド辺境伯領の北東、東岸地域の北に位置する。東岸地域を通ればムールドとも陸路で繋がっており、レイクフューラー辺境伯からの援助物資はこの地からムールドへと送られた。
南部では比較的帝国化が進んだ地域であり、住民の半数近くを帝国人が占める。
その地を治めるのがレウォント方伯である。
地方や辺境を治める貴族も、情勢が落ち着いている地域であれば領地を代官に任せ、自身は帝都に住むということは多々あることである。地方に領地を持ちながら、帝国政府の官職を務め、自領に戻ることはほとんどない者も少なくない。それどころか、一生に一度も立ち寄ったことがないという貴族も珍しくはないのだ。
「方伯は一昨年代替わりしたばかりです。今の当主ハインツ・アルフォンス・フライベルはまだ若く、年の頃は貴方と同じくらいでしょう。弟一人と妹が二人いて、兄弟全員が帝都に滞在しています」
先々代のレウォント方伯はかつてはフューラー公の同盟者で、皇帝によるフューラー公征伐に真っ向から反対し、強制的に隠居させられた人物である。その子息である先代方伯は皇帝に反旗を翻すような真似はしなかったものの、フューラー戦争後、まだ幼かったキレニアを様々な機会に助けたという。当然、その子の現方伯もレイクフューラー辺境伯に非常に近しい。
地勢的にムールドに近く、レイクフューラー辺境伯とも立場が近いレウォント方伯と結びつきを強めることはレオポルドにとって非常に重要だといえるだろう。
レウォントからはサーザンエンドやアーウェンを牽制することができるし、援軍を派遣することもできる近さなのだ。今まで孤立無援の戦いを強いられてきたが、方伯軍が援軍として動いてくれれば、せめて牽制だけでもしてくれればレオポルド軍は格段に動きやすくなるに違いない。
「ムールド娘と戯れるのも宜しいですが、そろそろ、貴方も正式な妻を迎えるべきでしょう。レウォント方伯フライベル家ならば文句ない家柄ですし、これからの戦略的にも都合がよい」
レイクフューラー辺境伯の言葉にレオポルドは身を硬くした。気まずそうな顔で俯く。
貴族間の同盟といえば、縁組を結ぶことは最も一般的で合理的である。他人同士の約束では信じられないが、親戚になればまだ信用ができる。しかも、相手の最も近い場所に間諜を置くことができるのだ。
確かに辺境伯の言う通り、レオポルドにとってフライベル家との縁組は非常に大きな利点がいくつもある。
法的にもムールド式の結婚は西方教会で認められた婚姻ではない為、ここで更に他の女性と結婚しても重婚には当たらない。
キスカやアイラとの非公式な婚姻は許容したレッケンバルム卿ら帝国人貴族たちも、彼女たちとの正式な結婚となると反発する可能性がある。主君の愛人相手に頭を下げる義務はないが、正式な妻相手となると臣下の礼を取らなければならなくなる。異教徒、異民族に頭を下げるなどまっぴら御免という正教徒は少なくないだろう。
新たな婚姻には数限りない利点があり、唯一問題となるのは、キスカとアイラに対する不義理という道徳的な問題である。
レオポルドは新たな問題に頭を抱えたい気分に陥った。
「ハインツの二人の妹はどちらも中々の器量良しですからね。どちらを選ぶかよく考えたら宜しいと思いますよ」
レオポルドの内心を知ってか知らずか、キレニアは楽しげな表情で言った。