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サーザンエンド辺境伯戦記  作者: 雑草生産者
第六章 ムールド伯
96/249

九一

 ウェンシュタイン男爵家はそれほど古い家柄ではない。

 現男爵シュバルト・ウェンシュタインの父ヨハンの生まれは定かではない。前半生はほとんど伝わっておらず、生業すら分からないという有様である。とにかく、何かの商売で成功し、その金を元手に帝都で商売を始めた。いくつかの商売を経た後、金融業、不動産経営などで多くの富を得た。ヨハンはその金を皇帝に寄付し、帝国男爵の爵位を授かったのだ。

 多額の献金を行って官位や爵位を得ることは幅広く行われたものである。一種の売官制であるが、多額の献金によって国家財政に多大な功績を挙げたという理由で売官は正当化された。

 ヨハンの子ベルンハルトは皇帝の私財の管理を行う皇帝手許金会計長官の補佐役を務めた。彼の二人の娘は美貌で名高く、花嫁にと請う者は多かった。そのうちの一人が名門貴族と云われるベルゲン伯クレメンス・レッテルゼーヒ・ロッセンダルクであった。

 もう一人の娘はベルンハルトと非常に仲の良い同僚であったループレヒト・フェルゲンハイム・クロス卿の息子アルベルトに嫁いだ。その子がレオポルドである。

 ループレヒトの死後、ベルンハルト・ウェンシュタイン男爵はアルベルトの後見役に就いていたが、数年前に亡くなり、修道院に入っていた弟のシュバルトが男爵位を継ぐことになった。シュバルトは嫌々だったものの、次の後継者が見つかるまでの中継ぎという条件で男爵になったらしい。

 そもそも、シュバルト・ウェンシュタイン男爵という人物は、幼い頃から信仰心が篤く、神学校に進むことを強く望んでいた。次男ということもあって、それが許されると学園都市ミハの聖ワリュンカルト大学で学んだ後、聖十字修道院に入って修道士となった。修道院では修道院長の顧問を務めていたという。

 そのような経歴の持ち主だから、勿論、彼は立派な西方教会信徒であり、神の教えに絶対の信仰を持っていた。アルベルトの代から教会から距離を置きつつあるクロス家とやや関係がぎくしゃくしてしまうのは当然の成り行きであり、縁戚であるにも関わらずクロス家の経済的苦境を救済しようと積極的に動かなかったのはそういう理由からであった。

 神の忠実な僕であるシュバルトは、クロス家の境遇は神の教えを蔑ろにした結果の自業自得と感じていたのだろう。

 とはいえ、縁戚である。

 世では血の繋がりは非常に重要視される。貴族社会ともなれば尚のことである。

 しかも、ウェンシュタイン家は新興の家である。ヨハンが男爵位に封ぜられたのはたかだか五〇年くらい前のことに過ぎない。帝国には家の歴史が百年以上に及ぶというような貴族が数え切れないほどいるし、神聖帝国よりも古い家系を誇る名門貴族も少なくない。帝国に限らず、西方諸国も見れば、ミロデニア文明時代にまで遡ることができる家柄まであるのだ。家の歴史が三代一〇〇年超えてようやく貴族の仲間入りといったところだろう。それまでは新参、成り上がりと呼ばれるのは致し方ないものだ。

 新参者であるウェンシュタイン男爵家としては、今や南部に広大な支配域を有し、サーザンエンド辺境伯の地位も伺うレオポルドとの関係は極めて重要であることは言うまでもない。

 男爵であるシュバルト個人としては教会と距離を置く不信心者のレオポルドが気に入らなくとも、男爵家には幾人もの家来やその家族がいる。彼らは来世の幸福、死後の救済よりも現世を重視していた。

 レオポルドがシュバルト・ウェンシュタイン男爵と確執めいたものを抱えていても、男爵家の屋敷に足を踏み入れることができたのは男爵家家臣団の支持があったからである。


「シュバルト様の容体は良くありません」

 ウェンシュタイン男爵家の家宰であるキルヴィー卿は表情をピクリとも動かさずに言った。卿は背の高い四〇歳過ぎの男で、灰色の髪をきっちりと整え、髭を尖らせていた。ウェンシュタイン家の縁戚であるレオポルドとは顔見知りで幾度か挨拶程度の言葉を交わしたことはあるが、まともに会話するのはこの時が初めてだった。

 ウェンシュタイン男爵家に入ったレオポルドを出迎えたのは家宰のキルヴィー卿で、男爵は病に臥せっているという。

 レオポルドは客間に通され、副官のキスカと共にキルヴィー卿の話を聞いていた。

「この頃では殆ど食事も摂られません。今朝も水と少しの果実を口にされた程度。医者の見立てではあと一年も生きられないのではないかということです」

「そんなにも悪いのか」

 レオポルドはそう言って顔を顰めた。

 元々が高齢であり、身体も強くなかった御仁だ。レオポルドが帝都にいた頃から具合もよくないとは聞いていた。それにしても、そこまで悪いとは思いも寄らなかったのだ。

 そのような状況であるから、執務のほとんどはキルヴィー卿や家臣たちが代行していて、男爵は殆ど自室から出ない日々が続いているという。

 病状がそこまで悪いとなると、気になってくるのは後継問題だ。

 男爵はこれまで聖職者としての人生を送ってきていたから、当然、結婚していない。世には愛人を抱えて子まで為しているような悪徳聖職者も少なくないが、シュバルトはそうではなかった。万が一にも愛人との間に庶子があったとしても、法的には相続権を持たないから、余程のことをしない限り、男爵位を継ぐことはできないだろう。

 となると、男爵位の相続権は近しい親類へと移る。シュバルトの兄弟は亡き兄ベルンハルトだけであり、ベルンハルトには二人の娘がいた。ベルゲン伯夫人と今は亡きレオポルドの母だ。

 順当にいけば、男爵位はベルゲン伯かレオポルドが手にするだろう。貴族の地位は血統による継承が慣例である。

「これは内々の話ですが」

 キルヴィー卿は声を潜め、レオポルドに顔を寄せた。

「ベルゲン伯はレオポルド様に男爵位を譲る御考えのようです」

 レオポルドの伯母の夫であるベルゲン伯は、現在は式部長官として帝都にいるが、半年ほど前まで大使として北方の島国グリフィニア王国に五年間駐箚していた。

 その為、クロス家破産のとき、彼は不在でクロス家救援に動くことができなかったのだ。このことを伯は気に病んでいるようで、レオポルドが送った手紙の返信にもクロス家の破産を防げなかったことへの詫びが書かれていた。

 ベルゲン伯とレオポルドは幼い頃から顔を合わせることも多く、その人柄はよく知っていた。温厚で人が良く、奥方に弱い。

 伯がそのような考えをしてもおかしくはない。その上、レオポルドの伯母は大変妹想いで、亡き妹の子であるレオポルドを昔から可愛がっていた。その伯母の口添えがあったとも考えられる。

 問題はそれをキルヴィー卿が言ったことだ。何故、彼は当人であるレオポルドよりも早くに、ベルゲン伯の意向を知っているのか。

 レオポルドはキルヴィー卿を見つめた。細面で細い目、薄い唇、どうにも酷薄そうに見え、狐を髣髴とさせる面持ちだ。

「私としてはレオポルド様にウェンシュタイン男爵家を相続して頂きたい。他の家来共も同じ考えです」

 要するに、キルヴィー卿ら男爵家の家来衆がレオポルドを当主にと動いているのだ。既にベルゲン伯との間で話も付けているのかもしれない。

 彼らとしては禁欲的で向上心もない修道院出の老人の家来でいるよりも、若く意欲的で、辺境の南部とはいえ、大貴族の仲間入りを目指そうと奔走している青年貴族の下で働く方が魅力的なのだ。

 そもそも、シュバルトの男爵就任は中継ぎと考えられており、レオポルドが男爵位を継承して問題のない状況になった今、その役目は終わろうとしている。

 キルヴィー卿の話を聞いているうちに、レオポルドはある考えに辿り着き、卿を睨みつける。

「まさか、とは思うが、貴様……」

 そこまで口にして、レオポルドは言葉を飲み込んだ。キルヴィー卿は無言でレオポルドを睨み返す。

 レオポルドは大きく息を吸ってから、気持ちを落ち着けるように溜息を吐いた。

「……地獄に落ちても知らんぞ」

「レオポルド様からそのような信心深い言葉を聞くとは意外でした」

 キルヴィー卿はそう言って口の端を吊り上げた。不思議なことに笑うと余計に冷酷に見える。

「これ以上は無用だ。男爵には修道院に戻って頂くのがよいと思う。本人もそれを望んでいるだろう。誰のせいか、体調まで崩しているのだから、最期のときを神に祈る生活の中で迎えたいだろう」

「仰るとおりです。私から、シュバルト様にお勧め致しましょう」

 キルヴィー卿はそう言って退室した。

 それを見送ったレオポルドは憂鬱そうに顔を顰めて、額を抑えた。頭痛がするのだ。

「あの……レオポルド様……」

 キスカが心配げに声をかける。

「まったく、とんでもない奴だ……」

「キルヴィー卿のことですか」

 キスカの問いにレオポルドは頷いて、キスカを黙って見つめた。彼女は博識で政にも通じているが、王侯貴族の世界の暗部ともいうべき、権力闘争の裏側までは知らないだろう。華やかに見える宮廷の陰で、日夜、謀略、陰謀が張り巡らされ、ありとあらゆる手で誰かが貶められ、嵌められ、騙され、殺められているのだ。ムールド人同士の争いと比べ物にもならない。

 レオポルドはその世界の一員であるし、キルヴィー卿はそれよりも長くその世界に身を置いているのだ。しかも、レオポルドよりも手段を選ばない性質のようだ。

「卿は何を……」

 この質問にレオポルドは答えるかどうか迷った。が、結局、言うことにした。この世界では汚いものを踏まないように歩くことは難しい。踏みたくなければ、とっとと政から足を洗うことだ。

 レオポルドは殊更声を抑えて言った。

「毒を盛ったのだ。バレないようにゆっくりと少しずつな」

 キスカは目を見開いた。忠義心に厚い彼女にとっては主君に毒を盛るなど考えもつかない暴挙なのだろう。

「なっ、んと……」

 彼女は寸でのところで声を抑えた。万が一にも誰かの耳に入ってはまずい話なのは言うまでもない。

「ウェンシュタイン男爵を亡き者として、レオポルド様を男爵に据えようという目的ですか」

「結論は合ってるが。途中は違うな。いくら、キルヴィー卿が人非人とはいえ、そこまではしない。露見する危険が増すからな」

 不自然な死に方をしては周囲から勘繰られる。言うまでもなく、主君殺し、親族殺しは問答無用で処刑されるほどの重大な犯罪である。明るみに出れば大変なことになる。身内の暗殺は、余程のことでもなければできるものではない。

「毒を使ったのはそれが目的じゃない。体調を崩すことが目的だ」

 老人であるから、微量の毒、いや、毒でなくても特殊な働きをする薬草程度でもいいだろう。とにかく、そういったもので、男爵の体調を弱らせることが毒殺よりも上策なのである。

「男爵の体調が崩れれば後継を考えざるを得ない。当人が不信心者の俺に男爵位を譲りたくないと思っていても、後継を決めないわけにはいかん。それに体調を崩し、余命が見えてくれば、死ぬ前に神の家に戻りたいと思うだろう」

 毒を盛るのは心身を弱らせ、男爵位を手放し易くしてやるのが目的なのだ。大きな危険を冒して毒殺するよりも、自ら身を退かせる状況を作り出す方が利口というものである。勿論、微量であろうが毒を盛るのは大罪であることに代わりはないが、露見し難くはなる。体の弱い老人がその体を更に弱くしたところで、疑う者は少ない。

 キスカは顔を顰めて黙り込む。

 そのとき、戸が叩かれた。

 レオポルドが応じると男爵家の使用人が夕食の用意ができたと告げ、キスカの眉間の皺が更に深まった。


 帝都に入って一日目の夕食は付き従ってきたキスカやアイラ、レンターケット、士官たち。それにウェンシュタイン家の家臣たちとテーブルを囲んだ。

 出された料理は生ハムとサラダ、挽肉の揚げ物、小鳥の串焼き、川魚の香草蒸し、ひよこ豆のスープ、各種のチーズや果実。それに葡萄酒が供される。出された料理はそれほど豪勢なものではなかったが、久方ぶりに口にする帝都料理にレオポルドは満足だった。キスカは何の心配もしない様子で食事をするレオポルドを気にかけていた。

 上座は空席で、本来座っているはずの男爵は自室に引き籠っている。

「皇帝陛下への謁見はいつ頃になりますか」

「来月の頭にはお目通り叶うだろう」

 キルヴィー卿の問いに、レオポルドは葡萄酒の杯を傾けてから答えた。

 ムールド伯叙任には帝国の最高権力者である皇帝の裁可が必要なのは言うまでもない。貴族に爵位を授けるのは主君たる皇帝の役目である。

 勿論、皇帝だからといって何でも思い通りにできるというわけではない。皇帝といえど、帝国法や慣習には従わねばならない。皇帝は法の第一の僕である。

 また、開戦の布告や条約の批准、帝国法の布告、改廃等の重大な政策を実行するには帝国諸侯で構成される帝国議会の同意も必要である。貴族に爵位を与えるのもこれに当たる。逆に、帝国議会の決定を唯一拒否できる存在は皇帝のみである。帝国諸侯全てを合わせた帝国議会と皇帝は同権なのだ。

 何はともあれ、ムールド伯叙任に皇帝の認可は不可欠である。それで全てが解決するわけではないが、極めて重要な一歩であることは言うまでもない。

 その為には、まず、皇帝にレオポルドの顔を見せる必要がある。レオポルドという若い帝国騎士が皇帝と西方教会に抗う異民族を従わせる働きをしたと知らしめねばならない。

これまで実質的に帝国領でなかったムールドを名実共に帝国の力が及ぶ地としたのは紛れもなくレオポルドの功績なのである。

 しかし、帝国の最高権力者たる皇帝に謁見することは容易いことではない。何せ、皇帝はレオポルドの名前も顔も存在すら知らないのだから、そんな下級貴族の為にわざわざ時間と機会を設けてもらうのは難しい。

 謁見の場を設ける為に、レイクフューラー辺境伯が諸々の工作を行ったのは言うまでもなく、レオポルドも旅の途上から皇帝の側近に手紙を送りつけて、目通りが叶うよう依頼していた。

 とはいえ、手紙を送っただけで会えるものではない。謁見の場を設ける労を取ってもらった礼をするのは賄賂というわけではなく、常識であり、礼儀の類でもある。そういった皇帝の側近に対する贈り物、献金等の額は最終的に五万セリンにも及んだ。

 その甲斐もあって、皇帝への謁見は近々叶いそうな予定であった。その場にはレイクフューラー辺境伯も同席する予定である。

「あぁ、そうだ。キスカとアイラも同席してもらうことになるだろう」

 レオポルドの言葉にキスカとアイラは食べ辛そうに見つめていた川魚の香草蒸しから顔を上げ、彼を見つめた。

「私たちも、ですか……」

 アイラが唖然とした顔で呟く。キスカも渋い顔で黙り込んでいる。

 二人がそのような反応を見せるのも当然というものであろう。いくら、ムールド人の中では部族の長の娘という上流に位置するといっても、皇帝から見れば、幾多ある蛮族のうちの一つ二つに過ぎない。帝国貴族ですら容易に目通りできない皇帝に会ってよいものか彼女たちは疑問に思ったのだ。

 しかも、神聖帝国皇帝とは、その始まりは教会の抱える宗教騎士団の一つである。

 ある有力な宗教騎士団が異教徒の支配する東へと勢力を進めていった結果、広大な領域を支配し、教会の教えを広める功績が大であった為、西方教会の総司教から皇帝の位を授かったのである。

 そのような成り立ちから、皇帝の称号には西方教会の守護者、異教徒への断罪者といったものも含まれている。名の通り、教会を守り、異教徒を討伐することを大きな存在意義としているのだ。

 そういった宗教的な意義を強く持つ皇帝に、異民族で異教徒であるキスカとアイラがその前に現れていいものか。

 キルヴィー卿らウェンシュタイン男爵家の家来たちも同じような疑念を抱いたようで、顔を見合わせ、不安げな表情を浮かべる。

「心配は無用だ。君達は大人しくしていてくれればいい」

 そういった心配や疑念を余所に、レオポルドは悠然と言い、葡萄酒の杯を傾けた。

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