八九
アルヴィナは帝国西部南岸では最も大きな港を備えた港湾都市である。
海に面した都市の南側以外の三方を城壁に囲まれ、城壁内の人口は二〇万を超える。市内には常設の市場が設けられ、多くの人や物が集まり、港湾には常に多くの船が出入りし、荷揚場には多くの荷が揚げられている。
ファディとは天地ほどの開きがある大きな都市であり、カルガーノとは比べ物にならないほど大きな港湾を持つ。南部では中心的な都市であるハヴィナよりも更に大きいのだ。
一〇〇万都市と号される帝都に住んでいたレオポルドやフィオリア、帝都を訪れたことがあるキスカやレンターケットにとっては、久しぶりに見る大都市であったが、その他の同行者にとっては初めて目にする大都市であり、彼らは船が停泊する前から煉瓦造りの堅牢な建物が威容を誇るかのように建ち並び、多くの船が行き交い、人と物が溢れかえる都市を見て一様に目を丸くしていた。
褐色の肌を持つムールド人やテイバリ人が多数を占める南部とは違って、帝国本土であるアルヴィナには白い肌の帝国人が多く、異民族は少数であった。
その為、一行は一目で南部から来た異民族の集団だと見られただろう。
ジルドレッド一族の他、何人かの帝国人士官、下士官もいたが、彼らは帝国人とはいっても何世代も前から南部に住んでいるのだ。強い日差しの為か混血が進んでいるせいか、本土に住む帝国人と比べると明らかに肌の色が違っていて、一目で本土の帝国人と見分けることができた。
兵と人夫の多数を占めるムールド人ともなれば肌の色だけでなく、容貌や体つきからして違ってくる。
とはいえ、さすがは貿易で成り立つ都市だけあって、突如現れた異民族の集団にも、アルヴィナ市民は動揺することもなく、港湾の役人は通常通りの仕事に取り掛かり、商人や船乗りたちは忙しく港を行き交う。これが外からの旅人など滅多に訪れない内陸の田舎などであったら、大変な騒ぎになったことだろう。
兵や人夫たちは街と港の大きさに感心するばかりであったが、レオポルドにはやることが山とあり、帝国本土に帰ってきたという感慨を覚えている暇もなかった。
まず、帝都向けの手紙を郵便配達夫に、ムールド向けの手紙をカルガーノに行く商船に預けるようコンラートに命じた。
次に、税関の職員やら検疫の職員やらが飛んできて、云々言うのでレンターケットに相手をさせる。
そうこうしているとレイクフューラー辺境伯の配下の者が数人やって来た。探す手間が省けたとレオポルドは喜んで彼らを迎えた。帝国本土に入れば今まで以上にレイクフューラー辺境伯の援助が期待でき、彼女と連携して事に当たることが極めて重要であるからだ。
「お待ちしておりました。我々は主より、レオポルド殿が無事に帝都まで行けるようご助力に参りました」
恭しい出迎えの挨拶もそこそこに、彼らはレオポルド一行を迎える支度が全て整っていることを述べた。
既に荷物を預ける倉庫、兵と人夫を休ませる宿、馬や駱駝を入れておく厩に至るまで手配済みだという。その上、荷物を運ぶ馬車などの手配もできているという。
何から何まで根回しのよいことだとレオポルドは感心した。
しかし、航海の途中で海賊に襲われて、というよりは海賊を襲って捕虜にしていたことは、さすがに根回しのいい連中でも予想できなかったようで辺境伯の家来たちは一様に困惑した様子を見せた。
それでも彼らは海賊たちをどのように処遇すればいいか。すぐに見当を付け、アルヴィナにある海事裁判所の役人に話を付けてきてくれた。レオポルドはその役人に海賊の首謀者らは引き渡したがガレー船の漕ぎ手として働いた連中は自らの保護下にあるとして役人への引き渡しを拒否し、船に残した。
皇帝直臣である帝国騎士であり、治安機関に顔の広いレイクフューラー辺境伯と付き合いのあるレオポルドと争うのを嫌ったのか、それほど仕事熱心でもなかったのか、海事裁判所の役人たちは物わかりよく引き渡された海賊だけを引き連れて帰って行った。
「いい加減な連中だな。まぁ、お蔭で助かったが」
皇帝直臣にしてレイクフューラー辺境伯に近い立場を利用しておいてレオポルドは呆れたように言った。
実際のところ、帝国政府は海にそれほど感心がない為、海事関係の業務はてきとうにされているのかもしれない。
「帝都に向かう前に準備が必要です」
帝国政府の海事行政に勝手な不安を覚えていたレオポルドに辺境伯の家来が言った。
「レオポルド殿や士官の方々はまだしも、兵達があのような恰好で帝都に入っては物笑いの種になりかねません」
そう言われてレオポルドはちょうどガレー船から下船し、士官の指示に従って整列している配下の兵たちを見やる。
レオポルド軍は制服を定めていなかったし、衣服を支給しているわけでもなかったので兵達は思い思いの格好をしていた。例外は旧辺境伯軍の近衛連隊に属していた極少数の帝国人将兵のみで、彼らは紅い軍服に身を固めていた。
兵の大半を占めるムールド人の兵たちは当然のことながらムールド伝来の伝統的な衣服を着ていた。基本的にはシャツに半ズボン。その上に長衣を纏い、その衣のフードのような部分を頭にかぶっていた。腰には半月刀を提げ、サンダルのようなものを履いている。衣の色は茶や白、灰色などが多く、刺繍や柄が入っていることもあった。
衣の質はそれほどよいものではなく、長年、厳しい環境で着古され、更には幾多もの戦いを潜り抜けた為か、かなり草臥れているように見えた。
「確かにいくらかみすぼらしく見えるかもしれないな」
「これは改善する必要がありそうですな。貴族の方々の中には本質よりも外面を重視する方もいらっしゃいますので」
レオポルドが同意するように呟くといつの間にか傍らに立っていたレンターケットが賛同した。
彼の言う通り、貴族の中には中身よりも外面を重視する者が少なくないのも事実だ。見かけだけ見て、中身を何も理解していないくせに物事を分かったような気になるような連中すらいる。
「そこで、我々の方で軍服を用意しておきました。兵達にはこちらに着替えて帝都に入城して頂くべきかと思います」
そう言って差し出されたのは灰色の上着とズボンだった。何の装飾も模様もなく、非常に地味だったが、レオポルドは文句も言わずありがたく受け入れることにした。地味だが、揃いの服を着て、武器を持っていれば一丁前の軍隊には見えるだろう。
「費用はこちらで立て替えておきます」
「え、あ、あぁ……」
その後、付け加えられた一言に、レオポルドは間抜けな声で応じた。てっきり、レイクフューラー辺境伯からのプレゼントかと思っていたのだ。辺境伯もそれほどお人好しではないようだ。
同じ素材、色、仕立ての服を一〇〇着も用意するのだから、古着というわけにはいかない。新品でそれだけの数を揃えるとなると、それなりの金がかかる。これでまた借金が膨れ上がることとなってしまい、レオポルドは苦々しい顔で嘆息した。
「馬や馬車、道中の糧食、宿の手配も済んでおります。こちらの費用も辺境伯閣下が立て替えられるとのことです。早速ではありますが出発は明日の昼と致したいと思いますが、宜しいでしょうか」
そんな調子でアルヴィナから帝都までの行程は何から何までレイクフューラー辺境伯の配下の者が手配済であり、レオポルドたちが一泊する宿まで決められている始末であった。レオポルドはそれら全てに同意した。
レイクフューラー辺境伯の手配は的確であり、事前にそういった手配を済まされていたおかげで、レオポルドの帝都入りはかなり早めることができそうであった。
「何から何までレイクフューラー辺境伯の世話になるのは如何なものでしょうか」
しかし、それがキスカには不満のようであった。
辺境伯の配下と別れ、手配された宿に入ると人目がないことを確認してから、彼女は不機嫌そうに言った。
「確かに辺境伯からは今までも少なくない援助を得ており、それが私たちを大いに助けたことは否定できません。しかしながら、このまま援助を受け続けることは危険ではありませんか。特に費用を立て替えるのは我々を経済的に縛り、意のままに動かそうという思惑があってのことではないでしょうか」
「まぁ、そうだろうな」
宿の狭い階段を上りながらレオポルドは彼女の指摘に頷く。
「とはいえ、便利なものは使うべきだ」
その返答にキスカは呆れた顔をした。
レオポルドはレイクフューラー辺境伯のことを便利な財布代わりとでも思っているのか。
「借金にも良い借り方悪い借り方というものがある。いや、上手い借り方と言うべきかな」
「何ですか。それは」
「君は、いや、キスカに限らず多くの人に言えることだが、金を貸す側と借りる側という関係は貸す側が一方的に強いと思いがちだ」
「違うというのですか」
「これが違うんだな。俺は親父から山ほど借金を引き継いだ男だぞ。そして、それを何とかしようとして、借金を二倍に膨れ上がらせた男だ。その状態で一年以上なんとかかんとかやったしな。借金のことなら任せとけ」
レオポルドは胸を張って言った。借金に関してはかなりの自信があるらしい。
最後は破算して自暴自棄になりかけてたじゃないか。とは言わず、キスカは黙って彼を見つめていた。
レオポルドたちが泊まる宿はアルヴィナ中心部にある大きな宿の別棟だった。一階の部屋には護衛の兵一〇名が入り、交代で休みながら警護を担当する。二階がレオポルドらの部屋で三階は倉庫として使われていた。
「一晩中警護させてすまないが宜しく頼む」
「ありがとうございますっ」
レオポルドが葡萄酒を渡すと兵たちは喜んで礼を言った。昼の間に市場で買った上等なもので、一般兵身分では中々手を出せない代物である。
「飲み過ぎて警護が疎かになれば厳罰は免れないものと心得よ」
キスカは厳しい視線と口調で兵たちに釘を刺してから、狭い階段を上るレオポルドを追った。
「あのようなものを渡して兵たちの気が緩んでは如何するのですか」
「キスカが釘を刺したのだから大丈夫だろう。君の存在は兵たちにとっては悪魔と同義だからな」
常より極めて厳しい姿勢で兵に接しているキスカは兵たちの間では非常に恐れられる存在と化していた。ただ、彼女は厳しくても公正であり、人種、階級、立場に関係なく誰に対しても厳しい姿勢で臨んでいる為、恐れられてはいても、それほど不人気というわけではなかった。
また、彼女がレオポルドの為に、あえて鞭の立場を買って出ていることも多くの人が理解していたから、将兵の多くは彼女を恐れ敬っていた。
「それに葡萄酒一瓶くらいで酔っ払って寝込むような連中じゃないだろ。普段飲めない高い酒だから、少しずつ飲むだろうさ」
「そんな高い酒を買う金があるんですか」
キスカが咎めるように言うとレオポルドは何でもないことのように言い放った。
「辺境伯のツケだ」
「そんな勝手なことをしていいんですか」
「帝都滞在中に必要な経費は全て立て替えてくれるとのことだ」
「葡萄酒は必要経費になるのでしょうか」
「なるとも。兵の士気向上の為だ」
レオポルドの言葉に呆れつつもキスカは殊勝にも口を閉じた。色々と問いたいことはあったが、経済に関してはレオポルドの方が詳しいし、きっと、借金についてもよく知っているだろう。
賢明なるキスカが口を閉じた頃、ちょうど二人は階段を上り終えた。二階には二つの部屋があり、レオポルドはどちらの部屋に入るべきか少し悩んだ後、右側の扉を開いた。
「あら、お疲れ様です。旦那様」
部屋に入ると、ベッドに腰掛けたアイラが花咲くような笑顔で出迎えてくれた。
アイラの隣にはフィオリアが座っており、窓際にはソフィーネが壁に背を預けるような恰好で立っていた。
「こっちは君たちの部屋か」
部屋にはちょうどベッドが三つある。ゆったりと余裕のある大きさのベッドに柔らかそうな毛布が幾枚も敷かれている。装飾の類はなく質素だが、清潔で中々上等な部屋である。
「いいえ。そういうわけではありませんわ」
アイラはすっくと立ち上がると、レオポルドに歩み寄るとその腕を掴んで言った。
「私、旦那様と同じ御部屋で休みたいです」
彼女は体を寄せながら上目遣いで言った。
何故かフィオリアはレオポルドを睨みつけ、ソフィーネは醒めた顔で溜息を吐き、キスカは渋い顔でアイラを見つめた。
「私たち夫婦だというのに、もう長いこと同じ臥所に入っていませんわ」
確かに彼女の言う通り、ファディを出て以来、彼女と同じ寝床に入ってはいなかった。陸路を行く間は殆ど野営であり、その後の船旅では別々の船に乗っていた為、顔を合わせることすら稀であった。
「妻を寂しがらせないのは夫の責務ですよ」
「あ、あぁ、ごめん」
微かに寂しげな笑顔で言われ、レオポルドは思わず謝っていた。
「では、私たちは隣の部屋で休みましょう」
アイラに引かれて部屋を出ようとしたところ、その前にキスカが立ち塞がった。
「お二人では危険だと思います」
キスカはいつも通りの無表情で真面目ぶって言った。
「レオポルド様の動きをブレド男爵ら、敵対する勢力も勘付いていることでしょう。放たれた刺客がこの町に潜み、レオポルド様の御命を狙っているかもしれないのです。一階に護衛の兵が詰めているとはいえ、何処から敵が侵入するか知れません。故に身近にレオポルド様を護衛できる者が控えているべきです」
「旦那様も剣を持っていらっしゃるじゃないですか」
「レオポルド様の剣では心許ありません」
アイラが指摘すると、キスカはぴしゃりと言い放った。
どうやら、キスカはあまりレオポルドの剣の腕を評価していないらしい。レオポルドは遠い目をして、部屋の片隅を見つめた。
「それに、その、レオポルド様と夜を共にしていないのは、私も同じです」
キスカはそう言って、明後日の方向を睨みつけた。
旅の間、彼女は常にレオポルドの傍にいたものの、野営地の天幕は布一枚隔てた向こうに警護の兵が立っているという状況であり、船の中では板一枚向こうには士官や下士官の部屋がある状況であった。とてもじゃないが、夫婦の夜を過ごす状況ではなく、二人はずっと主君とその忠実な副官兼護衛という関係を保っていた。
「キスカさんはレオポルド様とずっと一緒にいたじゃないですか」
「職務として傍らに控えていただけで、夫の責務を果たされていないのは私も同じです」
アイラとキスカは口調は穏やかながら、やや剣呑な雰囲気で言い合う。
どうしたものかとレオポルドが困惑していると、ソフィーネが欠伸をしながら歩き出した。
「もうあんたら、三人で好きにやればいいじゃあありませんか。私は隣の部屋で休みます」
ソフィーネはひらひらと手を振りながら部屋を出て行った。
フィオリアも無言で立ち上がると、ソフィーネに続いて部屋を出て行った。何故かレオポルドを軽蔑したような目で睨みながら。
部屋に残された三人は暫く無言で顔を見合わせた。
困惑し、思考停止状態に陥ったレオポルドの傍で、二人のムールド女は何も言わないままに意思疎通を交わし、夫の顔を見つめた。夫の責務を果たせと無言で迫る。
そして、三人は同じ夜を過ごしたのであった。