八八
帝国南部第一の港町と言っていいカルガーノから帝国の中心部である帝国西部南岸の港湾都市アルヴィナまでは順風に恵まれれば半月もかからない行程である。
レオポルドが帝都に向かった冬季は北東の風が吹く時期であった為、カルガーノから北西に位置するアルヴィナに向かう航海には逆風で順風満帆とはいえない航海であったが、それでも一ヶ月はかからないだろう。
その間の航海や操船は専門家である船長や航海士が担い、元より海に関して素人同然であるレオポルドの出る幕ではなく、彼はほとんど船に関して口を出さなかった。
漕ぎ座に付けた海賊の捕虜の監視と周囲の警戒はジルドレッド一族の若き士官たちに任された。
漕ぎ手を確保した以上、更に海賊に襲撃されても面倒なだけなので、ガレー船は標的になり易いダウと付かず離れず適当な距離を維持して航海を続けた。軍船であるガレー船がぴったりと護衛に付いている船を襲うほど海賊も間抜けはないだろう。
また、内海は複雑な地形が多く、風は不安定ではあったが基本的に波は穏やかで、船酔いに悩まされることもない快適な航海であった。
見渡す限りに広がる海原は平穏そのもので伝説に云われる内海の主だか海神だかは機嫌よく眠っているようであった。澄み切った青空には薄雲がいくつか浮かぶばかりで嵐どころか雨すら何日も降っていなかった。北東から吹くからっと乾いた冷たい風は不快な湿気を吹き飛ばしてくれるが、肌を凍らせるほど冷たくはない。
南部にいた間、ずっと悩まされてきた猛暑から解放されたレオポルドはこの涼しく乾いた風に包まれた航海を心地よく感じていたから、風を浴びながら海を眺める甲板の散歩を楽しみに思っていたのだが、日がな海ばかり眺めているわけにもいかなかった。
航海の間、レオポルドは心地よい風が吹く甲板ではなく、副官であるキスカ、事務長のレンターケット、二人の書記と共に、日当たりも悪く、じめっとした空気を密閉したような五人も入ると息苦しく感じる狭い船室に籠っていた。
「この船室はどうにかならないのか。窓がこの小さいの一つでは息苦しくてしょうがない。換気できる装置だの何かは付いていないのか」
机に着いて、書類にペンを走らせながらレオポルドは苛立たしげに呻いた。
船室にある唯一の窓は全開されていたが、大人が顔を出すのもやっという大きさなのだ。元より、彼らの乗るガレー船は客船ではなく軍船なのだから、不要な窓など設けられていないのだ。
「それにこの狭さは何だ。家畜だってもっとまともな住処を持っているというものだ」
船室は非常に狭く、机に着いたレオポルドの横にはキスカが殆ど侍るような恰好で座り、机の代わりとして置かれた木箱にはレンターケットと二人の書記が着いていた。立ち上がると頭が天井に付く為、移動するときは腰を曲げ、頭を屈めなければならなかった。
「まぁまぁ、もう暫くの辛抱です。あと二日もすればアルヴィナに着くでしょう」
レオポルドの真向かいに座ったレンターケットが宥めるように言った。背の高い彼を見折ると一際部屋が狭く感じられた。
「その前に手紙を書き上げてしまいましょう」
レンターケットに言われ、レオポルドは机に広げられた手紙にサインをして事務長に差し出した。
「ベルゲン伯宛てだ。見てくれ」
「前オリビア大使で今は式部長官を務めているベルゲン伯ですか。お知り合いで」
「伯父だ。母上の姉の夫に当たる。かなり世話になった。あとはウェンシュタイン男爵にも書かないとな」
「どなたですか」
「大叔父だ。母上の実家がウェンシュタイン家で祖父が亡くなった後、修道院に入っていた大叔父が後を継いでる」
キスカの問いに答えながら、新しい紙を取り出す。書きはじめはさらさらと淀みなくペンを走らせる。冒頭の文面は他の多くのものと概ね同じなのだ。
アルヴィナに着いた旨の報告とこれから帝都に向かうので、その折は挨拶に伺いたいと思います。その際には宜しくお取り計らい頂けましたら幸いであります。といったような内容である。
アルヴィナに到着したという内容だからといって、実際にアルヴィナに着いてから書かなければならないというわけでもない。先に書いておいて、後で到着の日付でも書き入れて出せば時間の節約になるというものだ。
送り先は帝都にいるベルゲン伯、ウェンシュタイン男爵といった縁戚の貴族の他、知己の貴族。そして、勿論、レイクフューラー辺境伯である。
彼らを味方に付け、レオポルドがムールド伯に就任できるよう便宜を図ってもらう必要があるのは言うまでもない。
こちらの貴族宛ての手紙はレンターケットの助言を受けながら、レオポルド自らがペンを握っていた。貴族の中には自身は口述し、文面は秘書や書記に書かせる者も少なくなかったがレオポルドは自ら文章を書くことを好んだ。
では、書記であるコンラートとリズクは何をやっているのかといえば、コンラートは主に会計事務や書類整理などを担い、リズクはキスカの指示を受けて、ムールド人に向けた文書の代筆を行っていた。ムールド人は独自の言葉と文字を持っており、帝国語を解しない者も少なくないのだ。如何に勉強好きなレオポルドとはいえ、ムールドの言葉を自由に操り、読み書きできるほど熟達できてはいない。
ムールド行きの手紙はアルヴィナに到着次第、カルガーノ行きの商船に預ける予定である。郵便網が整備されていない地において、長い距離を移動する商人などに手紙を預けることは一般的に広く行われることだ。カルガーノに着いた手紙は待機しているレオポルドに忠実なカルマン族の伝令役に渡され、ムールドに向かう手筈となっている。
ムールドへ送られる手紙の宛先はレッケンバルム卿、シュレーダー卿、ジルドレッド将軍、バレッドール准将ら帝国貴族、軍人の高官と主要なムールド諸部族の有力者たちである。
「この三通はファディのレッケンバルム卿、シュレーダー卿、ジルドレッド将軍へ。こちらはバレッドール准将へ」
レオポルドは書き終えた文書をキスカに手渡す。彼女は軽く目を通してから無言でレンターケットに渡した。レンターケットも流すように読むと特に何も言わずにコンラートに渡した。コンラートはその手紙に封をして、然るべきときに手紙を発送するのだ。
「ところで、何故、バレッドール准将はファディにおられないのですか」
封筒に宛先を書いてから、ふとコンラートが疑問を口にした。
「准将には仕事を与えているからな。彼はファディではなく、それよりも北にいて、軍勢を指揮しているだろう」
レオポルドはムールドを発つにあたって、准将に一つの仕事を与えていた。
それは防衛線の構築である。最も警戒すべき敵であるブレド男爵の南下に備えるべく、レオポルドはファディの北に防衛線を構築することを計画した。重要な地点に砦を建設し、ファディから砦までの間、砦と砦の間を道路で結ぶのだ。ブレド男爵軍の南下を阻み、迅速な兵の移動を図る為である。
この工事はファディ近郊に駐屯する三個連隊の兵士に行わせることとし、バレッドール准将が指揮を執ることとしていた。
そして、この任務には防衛線を構築する以外に、いくつかの目的が含まれていた。
「兵をただ待機させておくと余計なことを考え始めるかもしれないからな。やれ、給料を上げろだの、やれ、家に帰らせろだの言われては堪ったものではない」
金を掛けずに軍事力を維持し続けなければならない現状において、待遇改善だの除隊だのといった厄介な問題を持ち出されては非常に困るのだ。
土木工事でもやらせていた方が心身の鍛練になり、訓練の一環として望ましいし、身体を動かしていれば余計なことも考えないものだ。
「それに、レイナルの勢力が減退し、ブレド男爵も動きを見せない状況では差し迫った脅威がなくなったと各部族が思い始める可能性がありますからね。兵に仕事を与え続けることは非常に重要かと」
キスカが付け足すように言った。
レオポルド軍の兵の多くはムールド人であり、本来は各部族に属しているはずの若者たちだ。戦時である為、統一的な組織、指揮系統が必要であるから、レオポルドの傘下に置かれているに過ぎない。
差し迫った脅威がなくなれば各部族はそれぞれの部族民の帰還を要求する恐れがある。軍事力はレオポルドが各部族を配下に置き、大きな発言力を持つ上で極めて重要なものであり、これを手放すわけにはいかない。
そこで防衛線構築という名目の下、兵達を指揮下に置き続けようというわけだ。
「しかも、防衛線構築となるとファディから兵を引き離し、築城や土木関係に強いバレッドール准将に兵の指揮権を持たせることができますからなぁ」
レンターケットの言葉にレオポルドは苦笑を浮かべた。
レオポルドが留守の間、軍事上の総責任者はジルドレッド将軍ということになっている。立場や職位からいって彼を差し置くわけにはいかない。
しかし、レオポルドは将軍よりも自身に近く、行動を長く共にしたこともあって信頼の置けるバレッドール准将に軍勢を預けたかった。ジルドレッド将軍が信頼できないとか指揮能力に疑問があるというわけではないが、将軍は政治に関しては殆ど関知しない純粋な武人でレオポルド個人に忠誠を誓っているというわけではない。となると、政治的策謀によって操作され、レオポルドから離反する可能性を否定できなかった。
防衛線構築の責任者にバレッドール准将を任命すれば、軍事責任者としてファディに残るジルドレッド将軍に代わって、准将が実際の指揮権を握ることができるというわけだ。
その上、連隊の指揮を執る連隊長であるレッケンバルム大佐とアルトゥールをファディから引き離す目的もあった。
レオポルドが最も警戒している人物はレッケンバルム卿と言っても過言ではない。卿はサーザンエンド辺境伯宮廷の有力な廷臣であり、帝国人貴族に大きな影響力を持つ。レオポルドが留守の間に下手なことを企まれては堪ったものではない。
例えば、軍事指揮権をレオポルドから取り上げ、ジルドレッド将軍に握らせるとか。
その将軍を卿が操れば、軍権のないレオポルドの立場は非常に弱くなる。
これを防ぐ為、留守中の意思決定機関を合同会議として、レッケンバルム卿とは相いれないムールド諸部族の族長を多数含ませた。
また、レッケンバルム卿を政治責任者に任命することによって、ファディから動けないようにした上で子息であるレッケンバルム大佐とフェルゲンハイム家の血を引く為、利用価値があるアルトゥールをバレッドール准将の目の届くところに置いておこうという目論見である。
ムールド北部防衛線構築はレオポルドの企みをいくつも含んだ策であった。
「しかし、レイナル捜索をジルドレッド大佐とラハリ殿の共同指揮にされては円滑な意思疎通が難しく、見つかるものも見つからないのではありませんか」
レイナル捜索の首尾を問う手紙をリズクに書かせながら、キスカが懸念を示した。
レオポルドがもう一つ残してきた仕事であるレイナル捜索については帝国人のジルドレッド大佐、ムールド人のサルザン族族長ラハリの共同指揮という形にしていたのだ。
大佐はムールド語が話せないし、ラハリも帝国語はあまり達者ではない。その上、両者は長く敵対関係にあったのだ。今は同じレオポルド傘下とはいえ、仲良く仕事できるとは思えない。指揮系統の一本化は難しいだろう。
「いや、レイナル捜索部隊はそのままでいい」
それでも、レオポルドは帝国人とムールド人の共同指揮という形を変えるつもりはないようだった。
帝国人とムールド人が今までの遺恨を越えて、協力し合えるように。などという綺麗事を本気で望んでいるわけではない。
「どちらかを上位にすれば、どちらかは不満を抱きかねんだろう。それにファディから遠く離れた地域で活動するわけだから、自然、監視の目は届き難くなる。異なる民族同士の指揮官ならば共謀して兵を起こしたり、レイナルに寝返ったりすることはないだろうし、互いを牽制し合い、余計な動きをしないよう監視し合ってくれるだろう」
「しかし、作戦の連携に支障を来すのでは」
レオポルドは彼女の懸念を一蹴した。
「クラトゥン族の大部分は既に傘下に降っているからな。レイナルの持つ兵はあまり多くない。はっきり言って、レイナル如きは後回しでもいい。というよりも、今は泳がせておいた方がいい」
レイナルの存在はムールド諸部族にとっては憎悪すべき仇敵であり、そもそも、レイナルを倒す為にレオポルドの指揮下に服した部族も少なくない。その共通の敵を失ったとき、ムールド諸部族が再び反帝国に立ち位置を戻し、レオポルドに弓引くような事態は断固避けたいところである。
レオポルドの返答にキスカは理解はしたが、納得はできないような顔で手許の書類にペンを走らせる。
彼女もまた手紙を多く書かねばならなかった。
レオポルド軍の各連隊にはネルサイ族、カルマン族の者が士官として分散して配置されている。
両部族は族長の娘がレオポルドと婚姻している為、ムールド部族の中でも最もレオポルドの近い立場であった。その為、他の部族よりも厚遇されており、士官や下士官に抜擢される者が多いのだ。これほどまでレオポルドと接近したからには彼らはなんとしてもレオポルドの治世を支えるしかない。運命共同体となっていると言ってもいいだろう。
そういったわけでネルサイ族、カルマン族の士官は密かにキスカと結びついており、連隊長や他の有力者の動きを監視し、逐一、キスカに報告する連絡網ができあがっているのだ。
キスカはそういった配下の者に対する手紙を書かねばならなかった。
アルヴィナに着くまでの航海の間、レオポルドらはこういった手紙を書いて過ごした。