八七
海岸近くに白いものがぼんやりと浮かび上がって見える。その白いものは一定の割合で大きくなったり小さくなったりを繰り返している。
妙な知識ばかり持っているレオポルドや航海士らによると、この時期は北東から吹く向かい風だから、ただ帆を張っているだけでは風上方向に進むことはできない。その為、帆を斜めに張り、風向きに対して四五度の方角に向かう。左右四五度ずつ方向を変えながらジグザグに進むことによって風向きの方にも行くことができるのだそうだ。
海岸近くで大きくなったり小さくなったりして見える白いものは、前述のようにジグザグに向きを変えながら北東へと進む大型のダウである。
レオポルドが借りたこのダウには多くの荷物と馬、駱駝が積み込まれている。それに、フィオリア、アイラ、ソフィーネとフェルディナント・パウロス・ジルドレッドが指揮する二〇名の兵士が乗り込んでいる。
そのダウを見つめていたキスカはしかめ面で望遠鏡を下ろした。
「だいぶ離されているように見えるのですが……」
彼女は珍しく不安げな口調で言い、傍らに立つレオポルドを見つめた。
行く先を見つめていた彼女とは違ってダウの後方、海岸の方に望遠鏡を向けているレオポルドはなんでもないことのように答えた。
「離されているわけではない。離しているんだ」
「……本当ですか」
キスカは疑わしげな様子でそう言うと、背後を振り返った。
二人が立っている舳先から振り返ると、漕座から伸びる数十本もの櫂を見ることができる。その動きは遅く、本来は一本残らず同じ動きをしなければならないのが、幾本もタイミングがずれている櫂があり、櫂同士がぶつかって動きを止めたりなんてことすら度々起きていた。
彼らが乗るガレー船は何十本もの櫂を漕いで進む船である。帆も備えてはいるが、それはあくまでも補助的なものであり、主力は櫂による推進力なのである。
その櫂がこの体たらくでは速度も出せず、ダウに遅れを取るのも致し方ないというものだろう。
というのも、漕座に腰を据えて櫂を漕いでいるのはほとんどがレオポルドが引き連れてきた兵や人夫たちなのである。その大半は内陸部に住むムールド人である。砂漠の遊牧の民である彼らは海を見たことすらなく、船に乗ったのも今回が初めてである。当然、櫂の漕ぎ方も不慣れであり、レオポルドが急遽雇い入れた水夫たちから指導されて、どうにかこうにか櫂を漕いでいるといった状態であった。しかも、その人数も十分ではなく、ガレー船はその能力の半分も出せていない状況であった。
「いやはや、困りますねぇ。この速度ではアルヴィナへの到着がかなり遅れてしまいますなぁ」
レンターケットが困り果てたといった様子で言った。
「それに、このままダウと離れ離れになってしまっては非常に困ったことになります。このガレー船にはほとんど糧食や水を積んでおりませんから、ダウから補給しなければなりません。そのダウを見失ってしまったならば、時折、港に入って補給を受けなければ航行することができず、余計に時間とお金を使ってしまいます」
「そんなこと言われんでも分かってる」
レオポルドは相変わらず望遠鏡を覗き込みながら、いくらか苛立った調子で言った。
「そうならない為の方策は考えてある」
「ほう」
レンターケットとキスカ、近くに控えていたカール・ジギスムント・ジルドレッドも意外そうな顔をする。
「要するに人手が足らんのが問題なのだから、人手を確保すればいい。金をかけずにな」
「そんな都合のよい話がありますか」
「ないことはない」
そう言いながらレオポルドは望遠鏡を海岸の方に向け続けていた。
レンターケットは呆れ顔で肩をすくめる。
「閣下の悪い癖はコミュニケーションが足りないことですな」
その言葉にキスカは眉を跳ね上げる。
「確かに情報の共有は重要ですが秘匿性にも配慮されるべきです。秘匿すべき情報は拡散を防止する為、情報を伝達する相手を限定することは必要でしょう」
むっとした様子でキスカはレオポルドを弁護したが、実際はそれほど秘匿性が重視される問題ではなかった。レオポルドとしては、ただ単に言い忘れていただけであり、言う必要が特になく、言うのが面倒だっただけである。
レオポルドは望遠鏡を下ろして、三人に向き直った。
「この辺りには海賊が出るらしい」
帝国南部西岸部は小さな湾や岬が多数ある入り組んだ地形をしており、有力な諸侯がいないこともあって、小規模な海賊が多数出没する地域として知られていた。多くの商船が襲われており、近年特に多くの船が被害に遭っていた。商船が護衛も付けずに単独で航行すれば、十中八九海賊に襲われると云われていた。
貿易商や貨物船主らは帝国政府や近隣の諸侯に対し、海賊の討伐を嘆願していたが、今のところ帝国政府や諸侯たちに動きは見られなかった。
中小領主に過ぎない近隣の諸侯にはそのような力はなく、帝国政府にはそこまでする意欲がなかった。元来、帝国は大陸国家であり、建国の地から東域へと勢力を広げる過程において抵抗する国家や勢力、異民族との間で起きた戦いの殆ど全て陸戦であった。その後、帝国内部での反乱、抗争なども陸戦ばかりである。要するに帝国は海戦というものを殆ど経験しておらず、常備海軍というものを有していなかった。必要な際には民間の船を徴用していたのだ。
故に帝国政府としては海賊征討といえど、易々と行えるものではなかったのだ。
その上、この辺りの内海貿易に従事しているのは中小の貿易商や個人船主ばかりで、帝国政府に対しそれほど影響力を発揮できなかった
結果として海賊は長年放置状態に置かれてきた。
「では、あのようにダウを放置するのは危険ではありませんか」
カール・ジギスムントが当然の懸念を口にする。
ガレー船は軍船であるから襲い掛かる海賊などいるはずもないが、ダウはよくある商船である。しかも、商品価値のある荷を満載しており、護衛の兵は二〇名足らずと多くはない。屈指の剣豪と言ってもいいソフィーネも乗船しているが、相手の数によっては衆寡敵せずという状況にもなりかねない。
「それが目的だ」
その懸念に対して、レオポルドはそう応えた。
ちょうどその時、鉦が鳴らされた。
「船が見えるぞーっ。南東の方角っ。聖パウロス岬の近くの小島辺りっ。マストが二本っ。三角帆っ」
叫んだのはガレー船のマストによじ登って周囲を警戒していた水夫だった。
レオポルドやキスカは慌てて望遠鏡を南東の方向に向ける。
いくらか前に通り過ぎた聖パウロスという聖人の名を与えられた細い岬の近くに浮かぶ小島の陰から船が現れたところだった。
「あれは小型のジーベックですな。快速で使い勝手のよい船です。この辺りの海賊が好んで用います」
レオポルドたちがいる舳先に来た船長が言った。
「櫂を出しているな」
望遠鏡で見たジーベックという二本のマストに大きな三角帆を張った船は数十本の櫂を出し、一糸乱れぬ動きで海を切り進んでいた。
「凪のときや速度を出したいときには櫂で漕いで進むこともできるのです」
「なるほど。便利な船ですなぁ」
船長の説明にレンターケットが感心したように言った。
ジーベックの目標は明らかにダウのようだった。海岸近くを進むダウに向かって、一直線に向かっている。彼らから見ると、水平線辺りを行くこちらのガレー船は見えていないのだろう。或いはあまりにも動きが鈍いので相手にする必要がないと思われているのかもしれない。
ダウは背後から迫りつつあるジーベックに気付いたようだ。しきりと帆を動かし、より海岸近くに船を寄せる。
「このままではダウが海賊に襲われますぞっ」
カール・ジギスムントが気色ばむのをレオポルドは手で制した。
「まだ早い」
レオポルドの言葉に彼は唖然とした。
「今、我々が出て行くとジーベックが逃げてしまう。我々は今しばらく操船不自由な間抜けなガレー船を演じていなければならない」
その説明をキスカとレンターケットは納得した様子で聞いていた。
「もう少しするとダウは近くの湾に入るだろう。ジーベックはそれを追う。そこで、我々は初めて動きを見せる。湾の入り口を封鎖し、ダウと共同してジーベックを挟み撃ちにする」
「そう上手くいきますかな」
「上手くやってもらわないと困る」
レンターケットの懸念にレオポルドはきっぱりと言い、再び望遠鏡でジーベックの様子を窺った。
レオポルドの思惑通り、ジーベックは急速にダウに迫り、ダウは肉食獣に追われた獲物のように近くの湾に逃げ込む。ジーベックはそれを追って湾に入った。
「船長。我々も湾に入ってくれ」
レオポルドが指示すると船長は操舵長に面舵を指示し、帆の張り方が変えられ、櫂の漕ぎ方が変わった。木材が軋む音がしてガレー船の向きが変わる。
「全速前進っ」
櫂を漕ぐタイミングを合わせる為の太鼓がかなり早い調子で乱打され、櫂の動きは今までにない速さになる。それでも漕いでいるのは素人ばかりなので大した速度ではない。
レオポルドの予定ではジーベックがダウに接舷する直前辺りでガレー船が登場し、挟み撃ちする形をつくりたかったのだが、思ったよりもガレー船の速度が出ず、レオポルドたちが乗るガレー船が湾に入ったとき、ダウは既にジーベックに取りつかれ、甲板上では激しい白兵戦が展開していた。
ジーベックからダウへと乗り移った海賊の数は既に二〇名以上、ジーベックの広い甲板上にはその倍以上の海賊が半月刀やピストル、マスケット銃を手に、次々とダウへと飛び移っていく。
しかし、ダウの甲板上の戦況は海賊側有利とは言い難かった。
特に遠目からもソフィーネの活躍は一目瞭然であった。
長大な十字の形を模した教会軍特有の長剣、十字剣の長刃が陽光に煌めき、一閃するや否や大柄な男の身体は腹の辺りで、まるで紙でも切ったかのように両断された。下半身を甲板上に残したまま、上半身は真っ逆さまに海に落ちていった。
彼女の辺りには腕やら脚やらを失った海賊が悲鳴を上げながらのたうちまわり、縦やら横やらに両断された物言わぬ死体がゴロゴロと転がっていた。
ソフィーネの働きに刺激され、奮起したフェルディナント・パウロス・ジルドレッド他二〇名の兵、それに水夫たちも武器を手に、海賊を寄せ付けない戦いを繰り広げていた。
「悪魔ってのはああいう奴のことを言うのかな」
「彼女は修道女ですよ」
ソフィーネの奮迅を望遠鏡越しに見ていたレオポルドがポツリと呟くと、隣で同じように望遠鏡を覗くキスカが言った。
真っ白な修道服を鮮血に染め、微笑を浮かべながら哀れな海賊の頭上に十字剣を振り下ろし、頭蓋を叩き潰した彼女を見た後、レオポルドは望遠鏡を下ろした。
「あんなのが修道女だなんて。だから、教会は堕落したとか言われるんだ」
「彼女は特殊なケースでは……」
「それに、あんまり派手に殺して欲しくないんだがな」
レオポルドはぶつぶつ言いながら、船長に視線を向ける。
「このまま突撃して、ジーベックの横腹に衝角を食らわせろ」
衝角とはガレー船の船首水線下に体当たり攻撃用の武器である。敵船の櫂を破壊したり、船腹の水線下に穴を開け、航行不能に陥らせたり、沈没させたりするのが目的である。ガレー船に多く装備され、主力装備といっても過言ではないほど多用された。
船長は了解して水夫たちに指示を与える。
「兵は衝角攻撃が成功次第、武器を手に、ジーベックに乗り移り、敵を制圧せよ」
「了解しました」
指揮官のカール・ジギスムントが頷く。
ガレー船は湾に突入した後も速度を緩めず、ジーベックに一直線に向かっていく。ダウに接舷中のジーベックは動くこともできず、ガレー船の衝角攻撃を受け入れるしかなかった。
「ぶつかるぞーっ」
舳先に立った水夫が叫び、甲板上の乗員はロープを掴んだりして身を固定する。船同士が衝突するときには当然大きな衝撃があり、甲板から海に転落することも有り得るからだ。レオポルドやキスカもロープを掴んで、衝撃に備えた。
みるみるジーベックが間近に迫り、大きな衝撃が起きる。木材が割れ、折れ、砕ける音が響き渡る。
「突撃ぃーっ」
舳先近くにいたカール・ジギスムントはサーベルを掲げて、真っ先に敵船へと乗り移る。その後から下士官が続き、漕座にいて櫂を漕いでいた兵たちも武器を掴んで指揮官たちに遅れじとジーベックに乗り移っていく。
単独行動する間抜けな商船と思って追いかけると、更に間抜けなことに自ら逃げ場のない死地とも言うべき湾内に逃げ込んだダウに接舷してみれば、並の人間では持つことすら難しい十字剣を軽々と振り回す悪魔のような修道女に仲間が膾切りにされ、大いに戦意を喪失していたところへ、ガレー船から衝角攻撃を受け、更に一〇〇名近い兵の攻撃を受ければ海賊側としては戦意などあっという間に四散してしまう。
カール・ジギスムントが一人目の海賊を切り伏せる前に海賊たちは武器を捨てて降伏した。
「海賊は一人残らず吊るし首と決められている重罪である」
降伏した海賊たちを前にしてレオポルドは超然と言い放った。
ジーベックの甲板上に並べられた海賊たちの人数は負傷者を含めて六〇名以上。三〇名ほどがソフィーネ他に斬り捨てられて殺されたか海に落ちて行方不明になった。或いは負った傷が重く、助からなかった。
レオポルドの言葉に生き残りの六〇名以上の海賊たちは身を震わせた。
「とはいえ、諸君の中には無理矢理海賊の仲間に引き入られた者もいよう」
海賊とはいっても、彼らも生まれたときから海賊というわけではない。そういう生粋の海賊なんて連中は殆どいない。多くは食うに困って海賊に身を窶した漁師や水夫、海賊に襲われて仲間に入ることを強要された者などである。実際、後者の方が多いとも云われていた。
「これから、諸君を一人一人尋問し、それぞれが海賊に身を落とした状況を調査する。その中で海賊行為を主導した者は次の港で役人に引き渡す。それ以外の者、海賊になることを強要され、海賊行為に積極的に加担しなかった者は、港に着くまでの間の働きようによっては皇帝陛下から恩赦を得られるよう私から口添えしよう」
レオポルドのその説明に海賊のうち、何人かの顔色が目に見えてよくなった。自分の身の潔白に自信がある者、つまり、乗っていた船が海賊に襲われて仲間に加わらなければ殺すと脅され、止む無く海賊になったものの、あまり海賊行為を手伝わず、消極的な行動に徹していた者は己が助かる希望を見たのである。
レオポルドは士官たちに手分けして、海賊たちの尋問を行わせ、夕方までに海賊行為を主導した者、残虐な犯行に手を染めた者を選別させた。そういった連中はガレー船の狭い船底に閉じ込められた。それ以外の者はガレー船の漕座に付ける。つまり、働きを見る為である。
こうして、レオポルドは金をかけず、一挙に五〇名近い熟練した漕ぎ手を確保することに成功した。
船腹に穴の空いたジーベックは放棄し、翌朝にはガレー船とダウの二隻は湾を出て、今までとは比べ物にならない快速でアルヴィナを目指した。