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サーザンエンド辺境伯戦記  作者: 雑草生産者
第五章 塩、玉、絹
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八四 アイラとの婚礼

 神聖帝国歴一三九年も暮れようという頃、クロス卿派の手に戻ったファディの町において、レオポルド・フェルゲンハイム・クロスとアイラ・オスライ・オンドルとの婚礼が華やかに行われた。

 レオポルドは既にキスカと婚礼を挙げており、その上、アイラとも婚姻することは神聖帝国において国教とされる西方教会において禁忌とされる重婚に当たるのではないかという危惧があったが、これは杞憂というものであった。

 帝国においては、婚姻に関する法は西方教会の信徒に対しては教会法が適用され、他の異教徒に関してはそれぞれの宗教、民族の慣習法を適用するものとされている。

 その教会法においては正教徒と異教徒の婚姻を認めていない。よって、帝国においては正教徒が異教徒と結婚したいと思った場合、西方教会の信仰を捨てるか婚姻の相手を改宗させるより他に手はない。

 つまり、教会が認める婚姻とは、あくまで正教徒同士のものであり、それ以外の婚姻はあり得ないのである。

 ということは、レオポルドが教会法に則らず、異教の定めによって婚礼を挙げたとしても、それは教会法の関知するところではなく、教会法上では正教徒レオポルドは独身のままなのである。

 そして、ムールドの慣習法によれば、男は妻を四人まで持つことができる。とされている為、こちらも重婚は問題ではない(ただし、婚儀や結納に多額の費用を要する為、多くのムールド人は妻を二人以上持つことは難しい。また、妻は平等に扱わねばならない等の決まり事もある)。

 そういったわけで、レオポルドとアイラの婚礼は教会法上は何の問題もなく(勿論、法律上、問題がないだけで、倫理的に問題がないとは言えないが)、ムールドの法でも何ら支障のないことである。

 問題があるとすれば、結納の問題である。花婿側から花嫁側に贈られる結納は、一般的には家畜や宝石等、多額の財産の譲渡が必要である。結納で贈られた財産は花嫁の所有となる。

 キスカとの婚儀では、この結納の品をムールドの支配権をキスカに譲渡するという形で決着させた。故に法律上、現在のムールドの支配者はキスカであるともいえる。

 ただ、教会法上は夫婦の財産は夫婦の共有物であるともされている為、帝国の法上、どのような解釈がなされるか難しいところではある。

 とはいえ、両人の関係が拗れなければ、また、相続問題で揉めるようなことがなければ、この法律上の問題は表面化しないだろうと思われていた。

 アイラとの婚礼でも同様の手段が用いられた。アイラに贈られたのはファディの町及びその周辺の支配権である。厳密にいえば、キスカに譲渡されたムールドに含まれるファディの支配権の譲渡をレオポルドが行うのは矛盾する話なのだが、都合よくキスカに与えられたムールドにファディは含まれないという処理を後で行い、ファディを切り取ってレオポルドの所有に残すという強引が手法が取られた。キスカが自身の全てはレオポルドの所有であるという認識であるからできた荒業である。

 また、アイラはファディの町を支配するカルマン族の族長の直系である為、そもそも、最初からファディの支配権を持っているも同じである。改めて譲渡されても何の利益にもならないのだが、これもアイラが自身の全てはレオポルドの所有であるという認識で、結納などという形式に囚われていないからできる強引な手段であると言えよう。

 さて、こうして、婚礼の障害となる諸問題を解決したレオポルドとアイラは、婚約を決めてから、およそ四ヶ月もの期間を経て、ようやく婚礼が執り行われることとなった。

 幾多の戦いによってファディの町は荒れ果てていたが、町を占領したサーザンエンド騎兵連隊、サーザンエンド・フュージリア連隊、第一ムールド人歩兵連隊の兵士たちと避難先のモニスから帰還したカルマン族の人々の手によって速やかに整備され、どうにかこうにか形ばかりは町の体裁を整えた状況まで復旧していた。

 また、町に残って殺された前族長にしてアイラの祖父であるオンドルをはじめとする長老たちは町の郊外に埋められていたが、これはムールドの慣習に従って埋葬し直され、改めて弔われることとなった。

 ムールドには墓をつくる習慣はなく、死者は全て町から離れた荒れ地に穴を掘り、簡素な白い布に包まれて埋められ、生贄として仔羊が一頭屠られる。命は全て大地より産まれ、最期は大地に帰る。というのが、ムールドの教えなのだという。

 ファディの復旧も一通り終わり、死者の弔いを済ませるまでに、半月くらいの時間を要した。それから、ようやく婚礼の準備が始まった。

 ムールドの婚礼は派手に盛大に行うしきたりである。時と場合と金さえ許せば三日三晩に渡って行われるという。

 東西貿易の中継点であるファディを支配するカルマン族の族長の家ともなれば、少なくない資産を有する。ムールド人は財産の多くを家畜や織物、絹、宝石などの動産で所持する為、避難先に移動させることも可能であった。故に、婚儀に費やされる資金は潤沢にあり、贅を極めた婚儀となった。

 会場である族長の屋敷の大広間には鮮やかな色地に精微な刺繍を凝らした絨毯が敷き詰められ、一〇〇人を超える客たちが詰め込まれていた。この部屋に座っている客の多くはレオポルドの縁者、新婦の実家であるオンドル家の人々の他、帝国人貴族、各部族の族長や長老格、それらの婦人方である。会場に入りきらない多くの人々、つまり、ファディの住人のほぼ全て、ファディに駐屯中の三個連隊の将兵。合わせて数千もの人々は町の広場に席を設けていた。

 その客人全員の腹を満足させる料理を用意することは並大抵のことではない。カルマン族の女が総動員され、連隊の料理を担当する兵たちまで働かせ、数日かけて大量の料理が用意された。

 この為に一〇〇頭以上の羊、数十頭の牛、二〇〇羽もの鶏が屠られ、ナジカの商人から葡萄酒一〇〇樽、麦酒一〇〇樽、大量の小麦、野菜、果実、蜂蜜、砂糖、香辛料が買い上げられた。

 ムールドでは定番である羊肉の焼肉は、香辛料で味付けしたもの数種、ヨーグルトに漬けたもの、果汁に漬けたもの、葡萄酒、麦酒に漬けたものなどが並ぶ。気候の温暖な南部とはいえ、冬には貴重な野菜が茹でられ、蒸され、サラダにされて、付け合せとされていた。それらが大の男が二人がかりでなければ持ち運べないような大皿に大盛りにされ、それが一〇〇皿も各所に配されていた。

 羊料理としては、その他に香辛料で辛めに煮た羊肉、羊腸に香辛料や野菜、挽肉を詰め込んで蒸し上げた料理、香辛料がたっぷり入った肉団子、挽肉を詰めたムールド風の餃子、羊肉とサフラン、米を一緒に炊いた目にも鮮やかな黄色に染まった肉飯、羊肉の入った塩味の効いたスープの麺料理、羊肉とひよこ豆のスープなどが並んだ。

 羊料理の他には鶏料理が多い。シンプルな鶏の丸焼き、鶏の内臓を引き抜いて香辛料や野菜などの詰め物をした煮込み料理、鶏肉と唐辛子、トマトを煮込んだ料理、鶏肉と玉葱のニンニク、ショウガが効いたスープ、鶏の肉団子は山のように積まれ、甘辛いタレがかけられている。

 牛乳、山羊乳、羊乳、馬乳、駱駝乳などのチーズやヨーグルト。

 ザクロ、アンズ、スモモ、イチジク、ブドウ、リンゴ、メロン、サクランボなどの果実は砂糖漬けや蜂蜜漬けにされている。これらはおそろしく甘く、美味である。新鮮な生の果実は銀色の器に盛り付けられていた。

 酒としてはムールド伝統の山羊乳の酒、葡萄酒、麦酒、蜂蜜酒、何種類かの果実酒が用意されていた。ムールドの男どもは山羊乳の酒を飲んで、帝国人にしきりと勧めて遠慮されていた。独特の臭いは慣れない者には辛いのだ。女性陣は蜂蜜酒や果実酒を口にして、顔を赤らめていた。

 新婦の登場はまだだが客人たちは既に料理や酒を口にして、盛り上がっている様子であった。これだけの人数ともなれば統制は不可能である。しかも、目の前には食欲をそそる香りを放つ料理の山がこれでもかというほど並んでいるのだ。無理に抑えれば暴動が起きてもおかしくはない。特に兵士たちは婚礼が始まるだいぶ前から酒盛りを始め、士官や下士官は彼らが暴走しないよう、銃やサーベルを手にして監視しなければならなかった。

 さすがにメインの会場となっている屋敷の広間に集う客人は高貴な身分の者が多い為、外の騒ぎとは無縁で、品よく席に着き、慎み深く料理や酒を口にしていた。

 レッケンバルム卿やシュレーダー卿ら帝国人貴族はレースやリボンで飾り立てられた赤や青、黄色の衣装を着込み、レースで縁取られた長いマントを羽織っている。

 帝国人の将軍や士官は金色の刺繍やラインが入った緋色の軍服を着込んでいる。辺境伯軍近衛連隊の軍服である。彼らにとってはこの服が最も華美で儀式に適したものなのだ。胸には勲章を飾り、装飾が施された儀礼用サーベルを腰に提げている。

 常には地味な色合いの衣を身に纏うムールド人たちも、今夜ばかりは赤や青、緑、白、橙色といった派手な色合いの衣を着て、腰には半月刀を提げている。族長や長老はその身分を示す金色の縁取りがされた長衣をうちかけていた。

 帝国の貴婦人方は色鮮やに染められた絹をフリルやレース飾りがあしらったドレスを身に纏っている。スカートはふんわりとボリュームがあり、腹回りをこれでもかというほど引き締め、胸元は大きく開けるのが当世風の流行りである。髪はリボンや宝石、綺麗な羽で飾られ、金銀や宝石の指輪、腕輪、首飾りを身に着け、派手な羽飾りの付いた扇子を持っている。

 一方、ムールドの若い娘の衣装は身体の線を強調するようにぴったりとしたもので、体つきを細く、しかし、胸や臀部は艶めかしく際立たせている。色合いは青や緑、黄色や桃色、白といったものが多く、中には花柄や刺繍を施したものも多い。皆、薄い面紗をかけている。

 着飾った客人たちに囲まれた花婿は上座に着いて落ち着かなさそうにしていた。

 リネンの白いシャツに銀色の刺繍が施され、襟や袖を白いレースで飾った真紅の上着を着込み、金色の刺繍で飾られた白いマントを羽織っている。濃灰色のぴっちりとしたズボンに短めの革製乗馬ブーツを履いて、精微な細工が施された儀礼用サーベルを提げていた。

「まだか……」

 しきりと貧乏揺すりをしながらレオポルドが呟く。

「ちょっと、貧乏揺すりすんじゃないのっ」

 フィオリアが目をいからせて叱りつけた。この日、既に七度目の注意なのだが、レオポルドが落ち着くことはない。

 フィオリアは淡い緑色の長袖、長いスカートのワンピースというキスカとの婚礼のときに着ていたものと同じものを着ていた。これが彼女の最も上等な衣服であり、他に婚礼などに着られる衣服を持っていないのだ。首に掛けた銀細工の首飾りも同じである。唯一、髪を飾るリボンは黄色にしていた。

「相変わらずこういう場には弱いんですね」

 キスカの婚礼のときと同じ白い修道服を着たソフィーネが呆れた様子で言う。長大な十字剣を持っていないこと以外はいつもと殆ど変らない様子である。

「辺境伯になるとなれば、これから先、これ以上の緊張する場面、厳粛な儀式なぞは山ほどあるというのに、これしきのことで緊張しているようでは先が思いやられますね」

 キツい物言いも相変わらずである。

 彼女の指摘にレオポルドはぐぅの音も出ず、勝手に揺れる脚を無理矢理抑えて黙り込む。

 その傍らで、ぴったりとした薄紫色の絹衣の上に白い薄衣を羽織り、淡い桃色の面紗をかけたキスカは無表情のまま黙り込んでいた。話しかけられれば応じはするが、その受け答えも感情を感じさせない短いもので、殆ど喋っていないも同然であった。彼女のいつも以上に無感情な様子もレオポルドを緊張させる一因だった。

 緊張に耐え切れずレオポルドの胃がキリキリと痛み始めた頃、ようやっと花嫁が登場したようであった。屋外からは歓声が起こり、鉦や太鼓が打ち鳴らされ、ラッパや笛が吹かれる。まるでお祭り騒ぎのような喧騒である。

 以前の経験から、花嫁は広間に入れない客の為に、町のあちこちを練り歩く為、登場してから、花婿の前に登場するまでに四半刻はかかることをレオポルドは知っていた。

「ちょっと、便所に行ってきていいか」

「今更何言ってんのよっ。漏れそうなのっ」

 レオポルドの言葉にフィオリアが怒る。

「いや……」

「なら、我慢しなさい」

 冷たく言い切られ、レオポルドは大人しく席に着いたまま花嫁を待った。今にも裸足で逃げ出したい気分だったが。


 キスカのときの二倍待たされて、ようやく花嫁が広間に姿を現した。

 その美しさたるや夜空に浮かぶ月の如く照り輝き、目にした人々は一様に一瞬言葉を失い、見惚れるほどであった。

 美しい刺繍が施された透き通るほど薄い白絹は月光を受けて、ぼんやりと輝き、彼女の美しさを極限まで引き立て、神秘的に魅せていた。その上に羽織った薄黄色の打掛には銀糸でムールド風に図案化された百合の花が刺繍されていた。その柄は精微にして華やかであり、派手すぎず、地味すぎない。

 ムールドの婚儀では花嫁は幾度か衣装替えをするが、最初に着る花嫁衣裳は花嫁自身が仕立てるものだという。特に刺繍は自分で施すものだと聞いている。となると、この百合はアイラが刺繍したものであるようだ。どうやら、彼女の刺繍の腕は大層なものであるようだ。

 ムールドの若い娘が着る衣装は体の線を強調するものだが、スタイルの良いアイラが着ると、その効果を如何なく発揮して、美しく魅力的に引き立てていた。ふっくらと高く張った胸部と女性的な臀部の豊さ、それに、胴の細さが際立ち、女性的な魅力に溢れた体躯であることが誰の目にも明らかであった。

 首には真珠の首飾りを掛け、耳朶には金のピアスを飾っている。栗色の長い髪は背中に真っ直ぐ垂らし、星や花を模った銀の髪飾りで付けられ、麝香じゃこう白檀びゃくだん竜涎香りゅうぜんこうなどの香りがたきこめられている。

 目元はタールで縁取られ、ふっくらとした唇は紅で赤く染められている。くっきりとした大きな灰色の瞳でレオポルドを真っ直ぐに見つめ、頬を桃色に染めて、彼女は恥ずかしげに微笑んだ。

 全体的に白や銀でまとめられた衣装は花嫁らしく、エキゾチックな褐色の肌に映えていた。蝋燭の明かりに照らされ、輝く様は古代の神話に登場する美の女神を連想させるほどの神々しさとも言うべき美しさであった。

 客人の多くは、その美に見惚れる余り、言葉を失い、沈黙でもって花嫁を迎えるほどであったが、意識を取り戻すや、花嫁の美しさを声高らかに褒め称え、称賛し、賛美した。

 歓声と囃し立てる声に包まれながら、花嫁は静々と通路を歩み、花婿の前に立った。

 レオポルドは立ち上がって、一瞬たりとも彼から目線を逸らさない彼女を迎えると、その手を取って、隣に座らせた。

 ナジカから帰って来ていたレオポルド室事務長のレンターケットが再び司会役を務め、婚礼がはじまった。

「お集まりの紳士淑女の皆々様。今宵は我らが主、サーザンエンドの正統なる統治者、ムールド諸部族の擁護者レオポルド・フェルゲンハイム・クロス閣下とカルマン族族長代理アイラ・オスライ・オンドルとの婚礼であり、フェルゲンハイム家とムールド諸部族の結びつきをより一層深め、同盟をより強固なものとする証でもあります。この場にいらっしゃる皆様方がこの婚礼の証人であり、同盟の証明者であります」

 レンターケットは以前と同じような文句を述べた。

 その後、アイラには結納の品としてファディ周辺の地の支配権が譲渡される旨を述べられた。勿論、この時点では根回し、調整は済んでおり、異論など出るはずもない。

 レンターケットの挨拶の後、帝国人貴族の長老格であるシュレーダー卿がよろよろと立ち上がり、祝の言葉を述べるとともに乾杯の発声をして、数千人による大宴会の本番が幕を開けた。

 新婚夫妻の元には客人が長い列を作って、口々に二人の結婚を祝い、花嫁の美しさを褒めちぎり、末永い幸福を願った。その列はかなり長いこと途切れることはなく、挨拶が一段落して、衣装替えをするまでに一刻以上もの時間を要した。

 次の衣装は東方風の緻密な蔦模様が刺繍された鮮やかな朱色の絹をムールド風に仕立て直した着物で、腰には巻いた黄色い帯も東方風である。結い上げた髪に飾った黄金の髪飾りも東方から手に入れた品のようだ。その上、面紗はなく、代わりに白い更紗のスカーフを首に巻いている。この東方風の装いは参列した多くの人々に斬新な驚きを与え、称賛の声を引き出した。

「旦那様。このような衣装は如何でしょうか」

 ようやく少し落ち着くことのできたアイラが微笑を浮かべて尋ねる。

「あまり見慣れないが、斬新で面白いな。あ、いや、悪い意味じゃなくて、良い意味だぞ。勿論。とても、綺麗だと思う」

 レオポルドはそう言うと葡萄酒を呷るように飲み干し、アイラは照れたように頬を桃色の染めて、果汁が満たされた杯に口を付けた。

 やがて、二度目の衣装替えがあり、今度は鳥や獣が刺繍された紫色の打掛を羽織り、銀色の縁取りがされた薄い緑色の絹衣に薄い灰色の面紗をかけ、繊細な彫刻が施された銀細工の首飾りと腕輪を身に付けた衣装であった。

 真夜中を過ぎると、再び衣装替えがあり、天高く澄み切った青空のような青色の薄衣の上に真っ赤な無地の打掛を身に纏っている。宝石をあしらった黄金の首飾りや髪飾りを着用していた。少々派手ではあるが、夜更け過ぎの夜闇にはよく映え、目に鮮やかであり、睡魔に襲われかけていた人々の目を覚ますには効果的であった。

 その後、最後の衣装替えがあった。最後の衣装はぴったりとした薄桃色の絹織物に光沢のある萌黄色の綺羅を身に纏い、薄い白の面紗をかけ、翡翠の首飾り、真珠の髪飾り、銀のピアスで身を飾っていた。

 その頃になると、大量にあった料理は粗方食べ尽くされ、酒の多くも飲み干され、飲んだくれた将兵は眠りこけ、子供たちは夢の国に旅立ち、老人たちはうつらうつらしている状態であった。

 新郎新婦の周りには親しい者たちが集まって、デザートや酒の残りを掻き集めて、宴の最後の賑わいを見せていた。

 ところで、新郎は新婦の艶姿を言葉にして褒めたのか。という話題となり、レオポルドは赤面しながら、甘い台詞を吐く羽目となった。

 それを聞いた周囲の人間は甘ったるくて反吐でも吐きたくなるわ。といった反応を見せたが、褒められた当人であるアイラは喜び、満面の笑みを浮かべて、レオポルドの腕に抱き付いた。

 新婚夫婦の飴のように甘ったるい様に周囲の人間は囃し立てたり、呆れたり。

「ところで、第一夫人殿は先程から一言も発していないようだが、どうしたのかね」

 既に十数杯は麦酒を飲み干しているバレッドール准将が赤ら顔で言った。

 確かに第一夫人たるキスカは、婚礼の前から、婚礼本番、今に至るまで殆ど言葉を発せず、無表情で黙り込んで、黙々と酒を飲んでいた。

 皆から視線を向けられたキスカはいつも通りの無表情ではあるが、目は据わり、どこか剣呑とした雰囲気を発している。

 彼女はじろりと鋭い視線をレオポルドに向けると、その腕にしな垂れかかるアイラを見て、不機嫌そうに鼻を鳴らして、杯に入った蜂蜜酒を呷った。ご機嫌斜めであるらしい。

「そ、そういえば、アイラ。最初の黄色い打掛の刺繍は見事だった」

「お褒めに預かり嬉しゅうございますわ。旦那様」

 露骨に話題を変えたレオポルドにアイラは花のような笑みを浮かべて応える。

「あれは百合のように見えたが」

「その通りです。百合の花は昔から我が一族に伝わる図柄です。祖母から教えて貰ったのです」

「やはり、そうか」

 アイラの答えにレオポルドは難しい顔をして顎を擦る。

「しかし、ムールドの暑く乾燥した地で百合は生えるものか?」

 百合はそれほど暑さや乾燥に強い植物ではなく、ムールドの苛酷な気候に自生しているとは思えなかった。

「この辺りでは生えていませんが、西の山の方に行きますと、かなりあるようです。私は実際に目にしたことはありませんけれども」

「成る程」

 アイラの説明を聞いたレオポルドは興味深そうに頷くと、何やら思案顔になった。

「それよりも、旦那様。私、少し疲れましたわ」

 新婦は新郎の胸にしな垂れかかると艶っぽい声音で囁く。

「そろそろ、閨に参りませんか」

 婚礼の後は初夜と相場が決まっている。特に婚前の性交渉が御法度とされるムールドでは尚のことであった。

 アイラの誘いを受けたレオポルドは硬い表情で狼狽え、耳聡く二人の会話を聞きつけたキスカに睨まれて、滝のような冷や汗を流すのであった。

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