八二 モニス解放
「遅いっ。あまりにも遅いではないかっ」
ゲオルグ・フライヘア・レッケンバルム卿は顔面を朱に染め、杖で机を叩きながら、怒鳴り散らした。元々細身であった体つきは更に痩せ細り、頬はこけ、すっかりやつれている。一月以上に及ぶ籠城戦の間に、モニスの中にいた人々の多くは貴賤を問わず、心身共に疲弊していた。
それでも、杖を振り回し、怒鳴り散らす体力は残っているらしい。
「四四日間もの長きに渡って、我々を放置していたのは如何なることかっ。貴様は、私をっ、いや、我々を見捨てて逃げるつもりだったのかっ」
レッケンバルム卿の怒りに満ちた怒声に、レオポルドは動揺しつつも丁重に弁解した。
「モニスと、そこに残された人々。勿論、卿のことを忘れたことは一時たりともありませんでした。出来得ることならば、我が身一つでも直ちに救援に向かいたかったのです」
レオポルドの言葉を聞いて傍らの席に座っていたバレッドール准将が思わず口の端をひくつかせ、それを誤魔化すように咳払いをした。
「しかしながら、我が軍の前にはレイナル率いるクラトゥン族の軍勢の主力があり、直ちに軍勢をモニスに転進させることは非常に困難だったのです。我が軍の奮闘により、敵軍を破った後も、敵は多くの残存兵力を保持しており、これを放置しておくわけにはいかなかったのです」
レオポルドは窘めるような目で准将を睨んだ後、話を続ける。
「もし、我々が敵の残党を捨て置いたまま、モニスに向かっていたならば、敵は体勢を整えて、行動を再開し、我が軍は挟撃され、全滅の憂き目に遭っていたかもしれません」
彼が語っているのは、想定される最悪のパターンである。確かに、レイナル率いる主力は「地獄の入り口」の戦いで敗れた後、レオポルド軍が追撃を行わなければ、軍を再編していた可能性は否定できない。再編されたレイナル軍とモニス包囲軍との間で挟撃されれば、いくら最新式の武装に身を固めていても、圧倒的に不利な戦況に追い込まれることは想像に難くない。
とはいえ、敗軍の再編には時間がかかる。しかも、レイナル軍を構成するムールド諸部族はそれほど組織化されていない為、軍が敗れれば兵士個人個人はそれぞれが思うままに、あちこちへ逃げ散ってしまう。その兵をあちこちから呼び集めて軍を再編成するにはかなりの時間を要するに違いない。
実際に挟撃されるというリスクはそれほど大きくはなかった。故に、モニス救援に向かうことが困難だったというのは言い過ぎである。
だが、簡単には陥落しそうもない要害モニスを救援に行くよりも、レイナル主力を追いつめ、その戦力を完膚なきまでに破壊し、他のムールド諸部族を降す方が重要度が高く、このタイミングを逃すのは勿体ないとレオポルドは考えた。
要するに、レオポルドは優先順位の高い目標から達成していったのである。軍事作戦を行うに当たっては的確に優先順位を付け、優先順位の高い目標を確実に達成することは非常に重要である。
レオポルドにとってはよりリスクが小さく、よりリターンが大きい目標を優先し、考え得る最善の策を取ったつもりなのだが、モニスに残った人々からすれば、長期間放置されたと感じてもおかしくはない。敵の一部を引き付ける囮として利用されたと感じる者もいるだろう。彼らはいつ終わるとも知れぬ籠城戦を続けながら、レオポルドに見捨てられたのではないかという、いくら待っても援軍は来ないのではないかという疑心暗鬼に襲われ続け、これも彼らの精神を酷く疲労させたのだ。
ただ、モニスの存在はレオポルドの軍事行動を大いに助けた。敵はモニスを無視することができず、軍を二分する形となったのだ。もしも、レイナルがモニスかムールド北東部のどちらかに総勢二万にも及ぶ大軍の全力を投入していれば戦局は大きく変わっていたかもしれない。
「それに、私はモニスにおられる諸卿ならば、敵が幾千万であろうとも、その攻勢に耐え抜き、降伏することなどないと信じておりましたので。モニスが失陥することなど有り得ぬと確信していたからこそ、正面の敵と対峙することができたのです」
「当たり前だっ。ムールド人が如き蛮族どもに降伏などできるかっ。聞くも悍ましき、惨たらしい拷問にあって殺されるだけであろうっ。テイバリ人の方がまだ人間らしい殺し方をするというものだっ」
レッケンバルム卿の怒鳴り声に、場に居合わせたムールド人の長老たちが顔を不愉快そうに顰めた。彼らもモニスに籠城した面々である。モニスを取り囲んだのは確かにムールド人の軍勢であるが、モニスに籠城し、戦った者の大半もムールド人なのである。
卿はムールド人には帝国語が通じないとでも思っているか、はたまた、彼らには耳がないとでも思っているのか。口汚くムールド人の野蛮性について罵った。
「まぁまぁ、そんなに大きな声を出されると体によくありませんぞ」
隣席の法務長官シュレーダー卿が声を掛けると、レッケンバルム卿はまだ言い足りぬ様子であったが、口を閉じた。
シュレーダー卿は山羊のように白く長い髭を生やした帝国人貴族の長老であり、レッケンバルム卿よりも年長なのだ。誰もが卿には一目置いており、その発言力は一定の影響力を有した。
「レオポルド殿の働きにより、我々はムールド全土をほぼ支配下に置くことに成功し、モニスは結局陥落しなかったのは動かしようのない事実。結果としては大きな戦果を挙げたことに変わりはない」
レッケンバルム卿が大人しくなったのを見計らって、ジルドレッド将軍はレオポルドの行動に一定の理解を示す発言をした。見上げるような背丈に燃えるような赤髪赤髭がトレードマークである将軍もさすがに長期の籠城戦は堪えたようで、一回り小さくなったように見えた。髪や髭もどこか弱々しく見える。
現下の状況は戦時である。戦時となれば、軍人の発言力が高まるのは必然である。それが辺境伯軍の指揮権を一手に握っていた将軍の発言ともなれば、かなりの重みとなる。
レッケンバルム卿は尚も不満そうであったし、他の貴族たちもレオポルドに対し不信の目を向けていたが、ジルドレッド将軍がそう言うのならば。といった様子で口を噤んだ。
しかし、レッケンバルム卿は直ぐに口を開いた。
「しかし、エジシュナ族の裏切りは許し難いものがある。やはり、奴らのような蛮族など信用に値しないという動かしようのない証左であろう」
レッケンバルム卿には同席者のムールド人長老たちが見えていないのか。
レオポルドは頭を抱えたくなるのを堪えて、咳払いを一つしてから、発言する。
「確かにエジシュナ族の裏切り行為は許し難いものです。断固たる処置を取る必要があるでしょう。しかしながら、同じエジシュナ族の中でも我々に忠誠を尽くした者たちがいることも事実。彼らに免じて、今回の裏切り行為に関して主導的な立場ではなかった者については罪に問わぬことと致したいと思います」
「それは甘いのではないか」
レッケンバルム卿が咎めるように言う。
「勿論、裏切りを主導した部族の主だった者たちにはそれ相応の責を負ってもらうこととなるでしょう。しかし、我々は蛮族ではありません。罪人に対しても温情を持って接するが正教徒の義務というものです」
「ふむ。族長、長老以下有力者のみを処刑するか」
レオポルドの意向を卿が具体的に述べた。
居並ぶムールド人の長老たちは一様に顔を顰めたが、反対する者はいなかった。エジシュナ族は彼らをも裏切ったのだ。そして、裏切りはムールド人が大いに軽蔑する行為である。
「では、残ったエジシュナ族は如何する」
「別の適当な者を族長に立てなければ、部族は成り立たないでしょう。今回の企みに参画しなかった者の中で適当な者を族長に据えます」
レオポルドの発言を受けて、ムールド人の長老たちが顔を見合わせた。
古来より、ムールド人の部族では族長は部族の中で決められてきた。基本的には前族長の末の男子が相続する慣例である。末子があまりにも幼い場合は、それよりも年長の男子の中で適当な者を、男子がいない場合は婿の中で適当な者を、子がない場合は、族長の一族の家系の者の中から適当な者を族長に当てる。これを決めるのは部族の長老たちである。彼らが話し合い、適任者を選び出して、族長に据えるのだ。
つまり、族長選びに外部者は関わらず、部族の中で決められてきたことなのだ。
しかし、レオポルドは先程、自身が適当な者を任命する意向を示した。族長が部族外の者によって選ばれることは前代未聞である。ムールドの古からの慣例に反する行為である。
確かに、族長以下長老たちが処罰されては、部族の運営に支障を来す。早急に新しい指導部を選び出す必要がある。それを選任する者もいない。だから、レオポルドが適任者を任命するのだ。という道理は理解できなくもないが、一度そのような前例をつくっては、後々、厄介なことになりかねない。彼らはレオポルドに従う気はあるのだが、部族内のことに介入されるのはまっぴら御免なのである。
意を決したように口を開いたのはサイマル族の年老いた族長だった。
「古より族長は部族の中で取り決める慣わし。今まで余所者によって選ばれ族長になった者などおりません」
彼の言葉に他の長老たちも頷く。
レオポルドは眉間に皺を寄せて、傍らを見る。そこはいつもキスカが控えている定位置なのだが、今回、そこにキスカはいなかった。
レオポルド軍はレッケンバルム大佐やアルトゥールの指揮の下、レイナル軍残党の追討を一挙に推し進めていた。逃げる敵を追い詰め、捕え、殺していく追撃戦である。モニスに残って残務処理を行うレオポルドの名代としてキスカは軍勢に身を置いているのだ。
彼は密かに己の調整不足を嘆いた。
ムールド諸部族の力を削ぐことは以前から考えてきたことだ。今回のエジシュナ族の族長の選任を自身が行うことはその一環であった。
レオポルド軍の主力を為すムールド人たちはレオポルドに直属しているわけではなく、それぞれ部族に属しており、部族がレオポルドの傘下に入る形となっている。ネルサイ族とカルマン族のみはレオポルド或いはキスカ、アイラが族長に代わる位置にあるから、問題はないのだが、他の部族は別である。彼らはレオポルド個人に忠実なのではなく、レオポルドに従うという部族の方針に忠実なのである。エジシュナ族のように今後、情勢によってはレオポルドを裏切る他の部族が出ないとも限らない。それは非常に都合が悪い。
しかし、部族の指導部をレオポルドが選任できるようにすれば問題は大幅に改善される。レオポルドに忠実な者を族長に選任すればよいのだから。反抗的な者を解任する権限もあれば尚よい。
その目的を達するに、今回のエジシュナ族の指導部粛清後の新族長の選任は格好の好機であるとレオポルドは考えた。
しかし、これはムールド諸部族の独立を脅かす問題である。他の部族の歴々が黙っているはずがないのを予見して然るべきだったし、事前にムールド諸部族のうち、いくらか話が通じる者たちと交渉して同意を得るべきであった。
レオポルドは自身の迂闊さを呪い、一層顔を顰めた。
一方、この表情を見て、ムールドの長老たちは動揺した。レオポルドが機嫌を損ねたように見えたのだ。
ムールド諸部族は、既にムールド全域を支配するに及んだレオポルドに刃向うつもりは毛頭なかった。あの強大なレイナルの軍勢を壊滅させてしまった大量のマスケット銃を持ち、実際に軍権を握っているレオポルドに刃向うことは自身の、部族の破滅に繋がると恐れていたのだ。
勿論、レオポルド軍の主力はムールド人であり、彼らが一斉に離反すれば、レオポルドは破滅となる。
しかし、実際にはムールド諸部族が一致した行動を取ることは難しかったし、軍に参加している兵士たちに、事が露見しないように長老たちが指示を出すのは容易ではなかった。兵士たちは士官や下士官の下に置かれており、不穏な動きがあれば、すぐに拘束され、尋問を受けることになるだろう。
しかも、軍に参加しているムールド兵の中には部族よりもレオポルドに忠誠を誓う者も少なくない状況であった。先進的で組織化された軍隊の中に身を置き、旧態依然としたレイナルの軍勢を破るのを目の当たりにして、その勝利を齎したレオポルドを信望する者もいるのだ。
何にせよ、ムールド人の長老たちは今の時点ではレオポルドと対決することは避けたかった。
「ただ、今回はこのような状況ですから、部族の中から選び出すのは難しいのは事実。慣習は重要ですが、過去になかった事態が起きたときは新たな試みをする必要があるかもしれませんな」
キオ族の族長がレオポルドの提案に賛意を示すようなことを言った。
「ただ、族長を部族の外の方が決めるということは、今までなかったものですから、エジシュナの者たちが動揺する可能性があります」
「また、レオポルド様も多忙で、適任の者を探し出すのは手間でありましょう」
長老たちが次々と発言を重ね、修正案を提示する。
「そこでなのですが、我々や部族の残った者で協議し、適任の者を選び出して、推挙致しますので、その中からレオポルド様の御意向に適う者を族長として任命するというのは如何でしょうか」
これならば、部族の構成員や他の諸部族の意見も反映されるし、最終的な任命権者がレオポルドということでレオポルドの影響力強化にも繋がる。そして、両者の顔が立つ。
「それでよいでしょう」
レオポルドもその修正案に同意した。
あまり我を通してムールド諸部族と対立することは彼自身も望まぬことであった。
この族長候補を部族側から推挙し、これをレオポルドが任命するという形式は、今回に限らず、後に全ての部族に適用されることとなる。
「やれやれ。今日の会議は中々厄介だったな」
会議の場となっている大広間を後にしたレオポルドは周囲に護衛のソフィーネ以外誰もいないことを確認すると疲れた様子で言った。
不在のキスカに代わって彼の護衛を担当しているソフィーネはチラリとレオポルドを一瞥しただけで黙っていた。
「レッケンバルム卿には怒鳴られるし、相変わらずムールドの長老たちが同席していても関係なしでとんでもないことを喚くし。困った御仁だ。ムールドの長老たちと意見がぶつかりそうになったのも危なかった。先にちゃんと調整しておくべきだったな。好機だからと先走るとろくでもないことになる。急ぐときこそ、好機のときこそ、慎重にだな」
「私に愚痴ってもしょうがないでしょう」
ぶつぶつとぼやくレオポルドを鬱陶しく感じたのかソフィーネが冷え切った声で言った。
「それよりも、もっと厄介な問題がこれから待ち受けているんじゃないですか」
そう言って彼女はニヤリと意地の悪い笑みを浮かべた。
廊下の先にフィオリアとアイラの姿が見える。二人ともこちらに向かって歩いてくる。
モニスを解放したレオポルドはすぐに残務処理に取りかからなければならず、その後はレッケンバルム卿をはじめとする諸卿、長老たちと会議をやって、今後の方針を確認せねばならず、フィオリアとアイラに会うことは適っていなかったのだ。
二人は逸る気持ちを抑えるように速足でレオポルドに歩み寄ると、アイラは躊躇なくレオポルドに抱き付き、その胸に顔を埋めた。一瞬遅れたフィオリアはそのすぐ傍に踏み止まってレオポルドを睨みつけた。
「遅いっ。あんまりにも遅いじゃないっ」
フィオリアは怒った顔で怒鳴りつける。
「レッケンバルム卿にも全く同じことを言われたよ」
レオポルドがそう返すと、フィオリアはちょっと微妙な顔をした。レッケンバルム卿が偏屈で短気で怒りっぽいのは誰もが知っていることだ。
「あたしたちを放ったらかしにして、何やってたのよ」
「まぁ、色々とやることがあったんだよ」
フィオリアの追及を躱しながら、レオポルドは抱き止めたアイラをどうしたものかと困惑していた。
アイラは暫くの間、レオポルドの胸に顔を押し付けた後、ぱっと顔を上げて、花のような笑みを浮かべて、彼を見つめた。
「私は旦那様がきっと私たちを助けて下さると信じておりました。何があっても、きっと、いつか、旦那様が来て下さると信じていました」
アイラはそう言ってから、再び顔をレオポルドの胸に押し当て、再び顔を上げて、太陽のように煌めく笑顔で言った。
「おかえりなさいませ。旦那様」