八〇 モニス解囲戦~前
レオポルドの傍らには赤地に後ろ足で立ち上がった姿の白獅子が描かれた戦旗が高々と掲げられていた。これは元々はサーザンエンド辺境伯近衛連隊の軍旗であり、レオポルドらがハヴィナを脱出してから、常に彼が率いる軍勢の先頭に掲げられてきたものである。立ち上がった白い獅子はフェルゲンハイム家の紋章であり、赤は辺境伯の為に流される血を表すという。辺境伯に逆らった敵の血という意味か主君の為ならば己の流血を厭わずという意味かは諸説あるようでよくわからないらしい。
「レオポルド様の御家にも紋章があるのですか」
「勿論だ。帝国貴族となれば、どれだけ末端であっても、紋章を持ち、紋章院に登録されている」
キスカの素朴な疑問にレオポルドが答える。
「クロス家の紋章は鍵に巻きつく蛇だ。旗なり何なり見せてやりたいんだが、生憎と家が破算したときに全部処分してしまってな」
「その鍵に巻きつく蛇っていうのは、どういった意味合いを持っているのですか」
「親父に聞いた話だと、かつてうちの先祖は皇帝陛下の金庫番を務める家柄だったらしくてな。陛下の金庫の鍵を預かるという名誉から鍵を紋章にしたんだとか。蛇は、執念深く鍵を守り抜くってな意味合いだったはずだな」
「成る程」
キスカは興味深そうに頷いた。帝国はじめとする西方文化についてよく勉強する彼女にとっては貴重な話なのだろう。
「さてさて、敵はどう出てくるだろうか」
レオポルドはそう言って、望遠鏡を覗き込む。
モニスを取り囲むクラトゥン族とムラト族を中心とした軍勢は、「地獄の入り口」の戦いに敗れて、移動したレイナル率いる主力の残存部隊を含めて、およそ一万二〇〇〇余。そのうちの半分を騎兵が占めている。騎馬民族であるムールド人の軍勢にしては騎兵が少ないのは、騎兵は攻城戦に向いていないからであろう。騎乗では塀をよじ登ることはできないし、敵の恰好の的になってしまう。また、馬や駱駝は人間以上に多くの餌や水を必要とする。長期戦において多くの騎兵を従軍させることは多量の糧秣を必要とするのだ。
「あの陣中にはレイナルもいるだろうか」
「おそらくは」
レオポルドの独り言にキスカが応じた。
レイナルの所在について確証はなかったが、大部隊であるモニス攻略部隊に合流していると考える方が妥当ではないだろうか。
敵勢は既にレオポルド軍の来援には気づいており、迎撃の体勢を整えている。二〇〇〇余をモニスの抑えに置き、残る一万を南へと進めていた。左右に三〇〇〇騎ずつの騎兵部隊を配置し、中央に四〇〇〇の歩兵を置いている。
対するレオポルド軍は「地獄の入り口」の戦いに勝利し、降伏・内応した部族の兵を吸収して、軍勢を再編成していた。
元々の歩兵連隊をサーザンエンド・フュージリア連隊と命名して、引き続きレッケンバルム大佐に預け、騎兵連隊の方にはサーザンエンド騎兵連隊の名を与えてアルトゥールに指揮をさせることとした。
そして、新たに二個歩兵連隊と一個騎兵連隊を編成した。つまり、第一、第二ムールド人歩兵連隊とムールド人軽騎兵連隊である。
第一ムールド人歩兵連隊の連隊長にはケッペン中佐を起用し、第二ムールド人歩兵連隊の連隊長にはルゲイラ兵站監に兼任させることした。軽騎兵連隊の指揮官には塩の町を支配するサルザン族の族長ラハリを当てた。軍高官クラスにもムールド人を配して、不満を持たれないようにするための配慮であることは言うまでもない。
歩兵連隊の定数は一二〇〇名。騎兵連隊の定数は八〇〇騎であるが、定数は満足されていない。
この他にレオポルドを守護する近衛中隊と砲兵隊、輜重隊、南方人奴隷兵部隊がある。
総勢は六〇〇〇余といったところだ。
陣形はレイナルの軍勢と似たような形である。左右に騎兵連隊を置き、中央にバレッドール准将が指揮する三個歩兵連隊が並び、その後方にその他の部隊が本陣を建設して布陣した。レオポルドは本陣から全軍の指揮を執る。
中央に置かれた両軍の歩兵はおよそ四〇〇〇対三〇〇〇。それほど大きくない兵力差の戦いとなる。レオポルド軍は最新式のマスケット銃を装備している為、比較的有利に戦いを進めることができるだろう。
問題は両翼である。騎兵連隊八〇〇騎では三〇〇〇騎もの敵と戦い続けるのは難しいといえる。
両翼の騎兵が敗れれば、中央の歩兵は前方のみならず左右から、挟撃される。更に後方にも敵は回り込むだろう。四方を囲まれた場合、方陣を組んで対抗することになるだろうが、敵の度重なる突撃によって、方陣が一角でも崩れれば歩兵は騎兵によって蹂躙されるだろう。
「逆に言うと、敵の両翼の騎兵を引き剥がしてやれば、我が軍は優勢に戦いを進めることができる」
望遠鏡を下ろしたレオポルドがそう言うと、キスカが伝令を呼び寄せた。
「では、騎兵連隊に伝達を」
「うむ。両騎兵連隊は敵側面に回り込んで、攻撃を仕掛けよ。敵が反撃に出てきた際には兵を退きつつ、敵を引き付けよ」
直ちに伝令が両翼へと走った。
「上手くいけばいいがな」
「敵軍は所詮部族の兵の寄せ集めです。組織立った命令系統や情報伝達機能は皆無に等しいものです。連携した対応は難しいでしょう。レオポルド様の思惑通り事は進むかと」
レオポルドがやや不安げな思いを漏らすと、キスカが彼を支持するように言った。
「それに、いざとなれば、私が敵中に斬り込み、レイナルの首を挙げて差し上げます」
彼女が真顔で言ったその言葉を冗談と受け取るべきか本気と受け取るべきかレオポルドは悩んだ。
最初に動き出したのはレオポルド軍だった。
早めの昼食の後、まず、両翼の騎兵連隊が動き始める。
頃合は良しと判断した連隊長が片手を挙げ、前に振り下ろす。直後にラッパが小気味よく鳴り響き、軍旗が掲げられる。先頭の騎兵が馬腹を蹴り、馬を進める。後続の騎兵もそれに続く。騎兵連隊は土煙を上げながら、敵の側面に回り込むように軍を進めた。
レイナルの軍勢も直ちに動き出す。両翼の騎兵部隊が地響きを上げながら、側面に回り込まれるのを防ぐように、レオポルド軍の騎兵連隊目がけて突き進み始めた。と、同時にレイナル軍中央の歩兵部隊も前進を開始した。
「砲撃を始めよ」
本陣に組まれた櫓から戦場の様子を眺めていたレオポルドが指示を下すと、直ちに伝令が前線に走る。
歩兵連隊の間に配置された二門のカルバリン砲が火を噴く。撃ち出された鉄の塊は敵軍の頭上を飛び越え、モニスがある岩に突き刺さって、土煙を舞い上げた。
モニスから戦況を見下ろしていた人々が自分たちの立っている場所の真下に砲弾を撃ち込まれ、肝を冷やしたのは言うまでもない。
「おい。砲兵は何を狙ってるんだ。連中の目は節穴か」
「罰として眼球を刳り貫きますか」
レオポルドが呆れてぼやくと傍らにいるキスカが恐ろしいことをさらりと言った。レオポルドは聞かなかったことにした。
クラトゥン族軍の歩兵隊は砲声に一瞬怯んだものの、歩みを止めることはなく、槍を構え、半月刀を振りかざし、棍棒や斧を手に、前進を続ける。
レオポルド軍の三個歩兵連隊はマスケット銃に弾薬を装填し、肩に担いで迫りくる敵を待ち受けていた。歩兵三個連隊の指揮はバレッドール准将が執っていた。
准将は中央に配置されたサーザンエンド・フュージリア連隊の戦列の後ろに、レッケンバルム大佐ら連隊幹部たちと馬首を並べていた。
「いつも通り敵を引き付けて一斉射撃だっ。練習で繰り返した通りにするだけだぞっ。それだけで敵勢は打ち崩せるっ」
准将は指揮下の兵たちを叱咤しながら、敵との距離を測っていた。
レッケンバルム大佐が副官のエティー大尉に目配せすると、彼女は女性らしからぬ大音声で命じる。
「れんたーいっ。着剣っ」
号令に従い、兵達は腰に提げた銃剣を手に取ると、マスケット銃に装着した。
エティー大尉が視線を向けると、レッケンバルム大佐は黙って頷く。
「第一大隊っ。前へっ」
号令一下、前列に並んだ兵が一歩前に出た。立膝を突いた姿勢となる。
「構えぇっ」
兵達の肩に担がれ天に突き出されていたマスケット銃が一斉に前へと倒される。その銃口が向けられた先では、手に手に武器を携えた数千ものクラトゥン族とムラト族の戦士たちが歩みを止めず、こちらに迫りつつあった。
数秒遅れてから、サーザンエンド・フュージリア連隊の左右に控える第一、第二ムールド人歩兵連隊もマスケット銃を構えた。
彼我の距離は一〇〇ヤードを切ろうとしていた。
一部のムールド兵が放った矢が兵に襲い掛かる。何人かが矢に当たり悲鳴を上げて、地面に転がった。その拍子に何人かの兵が思わず発砲し、散発的な銃声が響く。敵兵の何人かが撃たれて倒れ込む。
「まだ撃つなっ。負傷者を下げろっ」
士官が怒声を飛ばし、素早く負傷兵が後ろに引き摺られていく。隙間は素早く後列の兵が入って埋められる。
その様子を無表情に眺めていたバレッドール准将は腰のピストルを手にした。
しかし、まだ射撃の命令を下そうとはせず、黙って敵を睨んでいる。焦れたように幾人かの士官が准将の顔を見るが、命令はまだ出ない。
敵の兵一人一人の顔が見えるほどの距離になり、兵達の間には動揺が見られ始めた。引きつった表情で命令はまだかと士官や下士官の顔色を窺う。
その間にも散発的に矢が飛んできて、何人かの兵が後ろに下げられ、一人の士官が肩を射られて馬上から転げ落ちた。
敵兵は距離が五〇ヤードまで来たところで、それまでの歩みを止め、走り始めた。武器を掲げ、喊声を上げながら最後の距離を縮めんと突撃を敢行する。その距離は武装に固めた身であっても一〇秒もあれば刃が届くくらいの近さである。
敵が走り出したのを見て、バレッドール准将は鋭く怒声を発した。
「撃てっ」
「撃てぇっ」
「連隊っ。一斉射撃っ」
三個連隊の士官と下士官が次々と号令を出す。
構えられた銃の引き金が一斉に引かれる。三個連隊の前面にぱっと白煙が巻き上がり、三〇〇〇もの銃弾が横一列の目に見えない鉛の雨となってクラトゥン族とムラト族の戦士たちに襲いかかる。
銃弾に撃ち抜かれた数百もの兵が一斉に倒れ込んだ。ある者は断末魔の悲鳴を上げる間もなく、物言わぬ屍となり、ある者は噴き出る血を抑えながら悲鳴を上げてもがき苦しむ。
最前列を進んでいた数百もの兵が一斉に倒れ込み、後続の兵は明らかに動揺を見せた。足の動きは急に鈍り、表情に動揺と恐れが走る。
ちょうどよく、砲兵が次弾を装填し終え、二門のカルバリン砲が再び火を噴く。放たれたのは細かい鉄片を無数に詰め込んだ散弾である。弾け飛ぶように撃ち出された鉄片は大砲の前面にいた不幸な者どもに襲い掛かり、その皮膚を容易に突き破り、肉を引き裂き、骨を砕く。肉片と鮮血が宙を舞い、顔をずたずたに引き裂かれた兵がこの世のものとはあ思えぬ恐ろしい悲鳴を上げながらのた打ち回る。
バレッドール准将は銃口から煙を吐き出すピストルを腰に収めると、サーベルを抜き放ち、敵を突き刺すように前に向けて叫んだ。
「突撃ぃっ」
士官と下士官が唱和し、兵達は銃口から煙を吹き出すマスケット銃を槍のように構え、喊声を上げながら走り出した。