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サーザンエンド辺境伯戦記  作者: 雑草生産者
第五章 塩、玉、絹
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七八 翡翠の谷

 今から数十年前、レオポルドやキスカの祖父の時代の話である。

 その当時、ムールド南部において最も盛んな勢力であったのはナグララ族という部族であった。その勢力はクラトゥン族やムラト族にも比肩し、それを凌ぐほどであったらしい。

 ナグララ族の隆盛の源はその勢力圏から産出される翡翠であった。

 主に緑色であるこの鉱物はナグララ族の勢力圏にある鉱山から掘り出され、東岸諸都市に高値で売られていた。東岸諸都市はこれを東方大陸に輸出し、そこから更に遥か東の大国へと運ばれていく。東の大国では翡翠は玉と呼ばれ、最も重宝される宝石なのだという。なんでも魔力だか何だかが込められているとして祭祀や儀式の道具、装飾品、お守りなどに用いられているそうである。

 東方からは絹や陶器が輸入され、これらは帝国や更に西方の諸国に輸出されている。

 この貿易ルートは現在でも生きており、当時と同じようにムールドから主に玉が輸出され、絹や陶器が輸入されている。

 ただ、当時と違うのはナグララ族が忽然と姿を消していることだ。彼らはムールド二八部族にも数えられていない。

 数十年前のある年、ナグララ族は滅ぼされてしまったのだ。

 翡翠の生産と交易を独占し、莫大な富を手に入れていたナグララ族を周辺のムールド諸部族は大きな脅威と感じていた。

 そこでムールド南部及び東部のクラトゥン族、ムラト族、北東八部族などを含む一六部族は連合し、ナグララ族に対して、一斉に攻撃を仕掛けた。

 ナグララ族は潤沢な資金によって傭兵を雇い、最新の武器を買い集めていたが、衆寡敵せず戦に敗れ、族長一族の他、主だった家の者たちは尽く虐殺され、戦士も一人残らず処刑されたという。その他にも多くの部族民が殺され、犠牲者は数千人にも及んだ。

 数少ない生き残りは翡翠を産する鉱山がある谷間に閉じ込められ、翡翠を掘り出す労働に従事させられた。というのも、翡翠鉱山の構造と採掘の方法を熟知するのは彼らだけだったからだ。その子孫は今なお翡翠を掘り続けている。

 彼らには多くの制約が課されている。谷の外に出ることの禁止、武装の禁止、家畜の飼育の禁止、翡翠の売り先はムールド南部及び東部の一六部族に限定し、その値は買い手側の一六部族が取り決める。里には一六部族の兵が駐留するというものである。

 それは事実上、生殺与奪の権利を一六部族に握られているに等しく、殆ど奴隷労働、強制労働のようなものである。

 ムールド諸部族はこれによって安価に翡翠を買い上げ、その十倍以上の値で東岸諸都市に翡翠を売り渡して、大きな利益を上げていた。それも数十年に渡ってである。

 勿論、このようなことは褒められた行為ではない。その一方で大変旨みのある利権であり、何としても手放したくない。

 一六部族にとって旧ナグララ族と翡翠の谷は他の者に知られたくない恥部にして重大な利権と化した。彼らはこれを隠匿したのである。

 その後、ムールドでは戦乱が起こり、クラトゥン族を含む一六部族は各々の立場に立って戦った。ある部族はレイナルの軍門に降り、ある部族は攻め滅ぼされた。ある部族は徹底抗戦を貫いた。

 そして、今回、一六部族のうちクラトゥン族とムラト族、滅亡した部族の他はレオポルドの従属下に入った。

 彼らはそれまで数十年に渡って握ってきた利権を手放すことを恐れ、レオポルドから翡翠の谷の存在を隠匿しようと謀った。クラトゥン族軍やその味方の部族の居留地を探す際に、自分たちが道案内として用いられることを利用し、なんとか翡翠の里があるムールド南東部隅を捜索されないように努めた。

 結果的に、その努力は徒労に終わった。

 レオポルドは東岸に派遣しているレンターケットの手紙からムールドにおける貿易の構図を理解していた。当然、彼はムールドの何処かに翡翠を産する場所があると考えていた。今回、南東の隅が捜索されていない違和感に気付いたのは偶然であったが、遅かれ早かれ、彼は翡翠鉱山を探し求め、ムールド中を捜索することになっただろう。その手間が省かれただけだ。如何にムールドが広大であろうとも、莫大な金の流れを現地にいるレオポルドから隠し通せるわけがないのだ。


 観念したムールド諸部族から翡翠の谷の話を聞いたレオポルドは当地を視察することに決めた。重要な交易品である翡翠の生産・流通を握ることはムールド統治において非常に重要なものであると同時に、莫大な富を齎す金の卵でもある。

 とはいえ、同盟軍全軍を率いて行っては時間がかかり過ぎる。

 また、同盟軍は早々にモニスに赴き、彼の地にて籠城を続ける味方を解放しなければならない。

 仕方なく、レオポルドは歩兵や砲兵、輜重兵を含む主力をバレッドール准将とルゲイラ兵站監に預けて、モニスに向かわせ、自らは機動力のある騎兵を率いて翡翠の谷へと赴くこととした。

 レオポルドが率いるのは帝国人騎兵一〇〇騎にネルサイ族とカルマン族の軽騎兵一〇〇騎。道案内役の当地に詳しいムールド部族の騎兵五〇騎。それに半月分の糧秣と水を背に乗せた一〇〇頭もの駱駝であった。

 利権を手放すことを恐れた当地のムールド部族の兵が反乱を起こしたり、逃げ出したりしても、対抗できるよう意識的にレオポルドに忠実な帝国人騎兵とネルサイ族、カルマン族の兵を多く配置していた。

 翡翠の谷には本隊から離れて四日目の昼に到着した。

 地獄の入り口と似た巨大な裂け目が大地を南北に走り、その底に旧ナグララ族の町があった。底が見えない地獄の入り口とは違って、こちらには底があって、そこに点々と家や建物が並んでいる。

 谷というよりは地割れなのだが、キスカはじめムールド人たちは「谷」と言っていた。平坦な地勢のムールドで育ったせいか、実際の谷の意味を誤って理解しているのかもしれない。

 とはいえ、谷と呼んで支障があるわけでもないので、レオポルドは訂正するのも面倒なので、黙っていた。

 谷底にはやや急な坂を下っていくことができた。騎乗のままでは危険なほどの傾斜で、安全の為、下馬して徒歩で谷底へと向かった。

「この谷底の各所に穴を掘り、坑道を地下へと向かわせ、翡翠を採掘しているようです」

 坂を下りながらキスカが説明した。

「なるほど。で、あの大きな建物が翡翠の原石を選り分ける施設か」

「そのようです」

「研磨や加工はしていないのか」

 レオポルドの問いにキスカは手近にいたムールド人士官にムールドの言葉で尋ね、その答えを訳する。

「していないようです。原石のまま、東岸に運び売るそうです」

「では、東岸で加工をしているのか」

 レオポルドは渋い顔で唸る。

 できれば、加工までこちらでやって付加価値を高めてから売りたいものである。葡萄を作ってただ売るよりも、葡萄を酒にして売った方が利益は大きい。それと同じことである。

 ただ、原石を掘り出して売るよりも、研磨して加工して、売った方が利益は大きくなるだろう。

 そんなことを考えながら坂を下っていたレオポルドは盛大に転び、キスカに助け起こされるついでに「足場の悪い場所を歩きながら考え事をするな」と叱られてしまった。

 その後は考え事を自粛し、無事に谷底に下りることができた。

 谷底の里にはクラトゥン族の兵が駐留しており、その数はおよそ一〇〇人程度であった。馬はなく、歩兵のみである。聞く話によると、この谷底にある食料や水はかなり限りがあるものなので、家畜類を養うことが難しいらしい。

 クラトゥン族の守備隊は坂を下ってきたレオポルドたちに向かって矢を放ってきたが、こちらがマスケット銃を並べて一斉射撃を浴びせると、途端に戦意を喪失して降伏した。騎馬民族であるムールド人は馬に乗っていないと戦意が愕然と落ちるようだ。

 ろくに戦わず勝利できたことは僥倖であったが、捕虜の扱いが問題であった。翡翠の谷には十分な糧秣や水が備蓄されていない為、ここに長く捕虜を留めておくことは難しい。かといって、レオポルドたちが捕虜を連行していくのは部隊の速度が落ちる為、避けたいところである。

 止む無く、レオポルドは彼らの武器を押収した上で、馬といくらかの食糧、水を与えて、解放した。地元の民であるから、谷を出ればどうにかこうにか生きていけるだろう。

 クラトゥン族の守備隊に代わって、谷にはレオポルド配下の兵一〇〇名を守備兵として置くことにした。

 また、旧ナグララ族の代表者とも面会した。ムールドの民は年長者を尊ぶ気質を持つ為、ここの代表者はやはり老齢の長老たちであった。

 レオポルドは長老たちに対し、ナグララ族の再興と今まで一六部族が課していた制約の撤廃を約束した。

 これは一六部族には無断の行動であった。一六部族の中には今ではレオポルドの傘下に入っている部族も数多くいる。当然、反発が予想されたが、レオポルドはその反発を抑え込めると確信していた。

 レオポルドとムールド諸部族は各々の部族によっていくらか関係性が違うが、概ねレオポルド上位の同盟関係にある。多くの部族はレオポルドと戦って降伏したか或いは助けを求めて庇護下に入っている。

 また、諸部族の軍勢の指揮権はレオポルドが握っており、同盟軍の貴重な戦力となっているマスケット銃とその弾薬の調達ルートも彼の手の中にある。

 ムールド諸部族に対するレオポルドの発言力は大いに高まっており、諸部族がこれに反対することは非常に困難となっている。勿論、彼らが団結して一枚岩となってレオポルドに対抗するようなことになれば力関係は逆転しかねない。

 しかしながら、ムールド諸部族の中核を為す七長老会議派は今回の旧ナグララ族と翡翠交易の件に関与しておらず、立場としてはレオポルドの側に付くだろう。ムールド諸部族は今回の件について一致団結してレオポルドに反対することはなく、ナグララ族の立場についての最終決定権はレオポルドが持つことになるだろう。

 そもそも、このような奴隷扱いの強制労働が如き一方的な搾取は明らかに非人道的な扱いであると共に生産性の面でも有効とは思えない。強制労働では労働者たちの勤労意欲は著しく減退し、生産性や効率性を向上させようという創意工夫など生み出されるはずもない。

 また、労働者を酷使した結果、技術者や熟練した労働者が心身の健康を損ない、失われていくのは大きな損失であろう。技術の継承の点においても問題がある。

 彼らを自由の身とし、働けば働くほど儲けが出て生活が楽になる。という環境整備を行うことにより、生産性の向上が見込めるとレオポルドは考えていた。

 レオポルドはナグララ族に対し、これらの好条件を提示した上で、生産した翡翠の全量をこれからはレオポルドに対して売却すること。つまり、専買権を求めた。翡翠は非常に重要な交易品であり、これを生産地から生産される全量を買い占めることができれば、莫大な収益になると考えたのだ。

 ナグララ族の長老たちはレオポルドの申し入れを快く受け入れた。現状の奴隷労働が如き立場から解放されるならば、専買権により、販売価格が低く抑えられてしまうことなど大した問題ではないと考えたのだ。

 レオポルドのこの措置は、後にムールド諸部族の大きな反発を招くことになる。彼らの主要な貿易品は翡翠であり、これを手に入れる手段を失うことは収入の激減を意味するのだ。彼らにとっては死活問題なのである。

 翡翠の購入権、交易ルートを巡って喧々諤々の論争が繰り広げらることになるのだが、これは後の話である。

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