七五 エジシュナ族の裏切り
最早、エジシュナ族の裏切りは明白であった。
キスカが派遣した斥候たちの報告によれば、確かにモニスは一万近くものクラトゥン族等の軍勢に包囲されており、まだ陥落した様子は見られなかったが、籠城しているであろう味方と接触することはできなかったという。
モニスにはファディから脱出した反ブレド男爵派の帝国人貴族たちの他、本拠であるファディを失ったカルマン族、平素は遊牧生活を営むネルサイ族の大半が入っていたが、現在は他の七長老会議派諸部族の多くも同じく避難しているようで、町や村はどこも放棄されていた。
しかし、唯一、エジシュナ族の多くが住む町ハリバのみは健在であり、クラトゥン族と頻繁に使者のやりとりを交わしているのを目撃したと彼らは報告した。
この報告を受けてレオポルドはキスカに対し、同盟軍に参加しているエジシュナ族出身の将兵を捕えるよう命じた。
彼女は職務を忠実に遂行し、百名余ものエジシュナ族将兵が訳も分からないままに逮捕され、荒縄で縛られて引っ立てられた。
彼らは全将兵が集合する中、軍幹部たちの前に並べられた。彼らの周囲は武装した近衛兵が固めている。
「諸君の部族、エジシュナはレオポルド様への臣従の誓約を反故とし、臆病にもクラトゥン族の暴力に恐れをなして、卑怯にもムールドの王を僭称するレイナルに通じ、我々を欺き、裏切らんとした」
キスカが淡々と読み上げた布告を聞いて、彼らは始めて自分たちの部族が、自分たちの主君、上官であるレオポルドを裏切っていたことを知ったようだった。
「ま、待って下さいっ。エジシュナがレオポルド様を裏切ったなどという証拠があるのですかっ」
エジシュナ族の唯一の士官である大尉が叫ぶと、キスカがエジシュナ族から寄せられた書状、それを持ってきた使者の証言、斥候の報告を言い並べて、裏切りが事実であることを示した。
大尉は茫然として、言葉を失う。
「裏切り者に与えられる刑罰は唯一である」
キスカは冷え切った表情と声で冷酷に告げた。
途端にエジシュナ族将兵の顔が蒼褪める。キスカの峻烈な性格、軍規への厳しさ、裏切り者への容赦の無さは誰もが知るところだ。何せ、彼女は自分の家族をも手ずから粛清してみせた女なのだ。
「何も知らないっ。裏切りなど考えたこともないっ。我々は今までレオポルド様に忠誠を尽くしてきたではありませんかっ。先の戦いでも、我々の仲間は勇敢に戦ったっ。八人が殺され、一四人が怪我を負ったっ。一人は片腕を切断するほどの重傷を負っているっ。それほどの忠誠を示してきた私たちを処刑しようというのかっ」
大尉の悲痛な叫びに兵たちも口々に同調する。
「黙れっ」
キスカが怒鳴ると、彼らは反射的に口を噤む。
「諸君の忠誠を私はよく理解している」
一瞬、静まった機を逃さず、レオポルドが淡々とした口調で述べた。それを横にいるキスカが通訳した。
「異民族で余所者である私に対し、過分の忠誠と働きを見せてくれたことは称賛に値する」
エジシュナ族将兵は安堵したような様子で息を吐く。
「しかしながら、エジシュナ族が裏切ったことは事実だ」
途端に兵たちの顔色が曇る。
「だが、その裏切りを知らぬ諸君がその咎を受けるというのは理不尽である」
キスカが通訳した言葉に兵たちは必死に頷く。
「ただし、何の責も負わぬわけにはいくまい」
自分たちが助かるのか助からないのか、件の兵たちは落ち着かない様子でレオポルドを見つめる。
「諸君には改めて忠誠を誓って頂きたい。今回の裏切り行為とは無縁であり、我々を裏切る気持ちなどなく、今後も未来永劫、我々と共にあると誓約して頂きたい。そして、その忠誠を、実際の働きでもって証明して欲しい」
レオポルドの要求に、兵たちは躊躇する様子を見せた。部族社会にして年功序列型であるムールド人にとっては部族の長老の下した決定は絶対的である。故郷の長老や部族がレオポルドと敵対したとなれば、自分たちもそれに従うべきだとも思う。
しかし、実際にそうしようものならば、即座に同盟軍に参加しているエジシュナ族将兵は一人残らず処刑されるだろう。
故郷の長老たちもそれは理解していたはずだ。ということは、自分たちは部族の利益の為の犠牲として捨てられたのだとも思える。
彼らの心中は部族への忠誠心と帰属意識、自己の身の安全、裏切り者とされたくない矜持などが混ざり合い、如何とも判断できない状況に陥りつつあった。
「諸君の忠誠が明らかなものであるならば、故郷にいる諸君の一族も、裏切りに主導的な役割を果たした者以外は免罪としよう」
一族の免罪が約され、大尉が声を上げた。
「ムールドの戦士は裏切らぬもの。私は一度、レオポルド様に忠誠を誓ったからには閣下の御命令に従うのは当然のこと。改めて忠誠を誓うまでもなく、私は閣下の忠実なる僕でありますっ」
ムールド人の中で士官に任命されている者は、部族の中でも有力な一族の者で、指揮能力や統率力に長け、人望厚い人間である。その為、同じ部族の兵に与える影響はただの上官と部下という関係以上に大きい。
大尉の宣言に幾人かのエジシュナ族の兵が続き、最終的に全員がレオポルドへの忠誠を改めて誓った。
「やれやれ、なんとかなった」
エジシュナ族将兵に改めて忠誠を誓わせる一連の流れが終わった後、レオポルドは本拠としているサルザン族族長の屋敷の一室で安堵したように言った。
「レオポルド様の慈悲を受けたエジシュナの者たちは忠誠を誓い、その働きをもって忠誠心の証としてくれるでしょう。また、先程の模様を見たムールド人将兵たちはレオポルド様の寛大さに敬意を抱くに違いありません」
傍らに控えるキスカが無表情に述べた。
「そうかぁ。あまり信用はできん気がするな。部族に忠誠心を抱く者がいてもおかしくない」
レオポルドは半信半疑といった様子で呟く。彼は自身がそれほど将兵から慕われているとは考えていなかった。自分の今の地位は各勢力、各部族の利害関係の調整の結果に過ぎないことをよく自覚しているのだ。
「兵たちによく目を配って頂きたい」
「承知いたしました」
レオポルドがそう指示をすると、部屋の入り口辺りに立っていたエジシュナ族の大尉が慇懃に応じた。
彼は比較的前から自らの部族の裏切り行為を知らされており、その上で同盟軍に参加するエジシュナ族の兵たちを繋ぎ止める為に、一芝居打つこととなったのだ。先程までの大尉の言動の全てはほとんど演技であり、事前にレオポルドやキスカと打ち合わせされたものであった。実際、エジシュナ族の兵の多くは彼の言動に牽引されるような形で、レオポルドの傘下に留まることとなったのだ。
「何はともあれ、まずは成功といえる。あとの問題はー。そうだな。また、会議をやろうか」
レオポルドは再度、同盟軍幹部を参集させた会議を招集した。
会議の参加者たちは、この会議でモニスに戻るか否かが話し合われるものと思っていたのだが、レオポルドにそんなつもりは全くなかった。
「斥候からの報告は既にお聞きの通り。おそらく、モニスは半年は持つでしょう。それはさておき、急ぎ準備を整え、南部へと進軍したいと思います。つきましては将兵及び武器弾薬糧秣の輸送の手配など……」
「レオポルド様っ。お待ち下さいっ」
開口一番にそんなことを言い出したものだから、堪らず、キスカが彼の言葉を遮った。
「モニスを救援には行かないのですか」
「行く必要があるのか」
レオポルドの反問にキスカは咄嗟に二の句が継げず黙り込む。
「確かにモニスは要害の地であり、糧秣や水は豊富に貯蔵しておる。多くの部族が避難していることから、兵の数も少なくはないはず。加えて、ムールド人は攻城戦には不得手。そう易々と落ちるとは思えんな」
バレッドール准将はレオポルドの結論に理解を示す。
「しかし、万が一にもモニスを失陥することは我々にとって多大な痛手ではありませんか」
ケッペン中佐が懸念を表明する。彼の言う通り、モニスが陥落する可能性が全く無いわけではないのだ。他の出席者たちもその懸念を強く抱いていた。
「それでも、我々はモニスに向かうべきではない」
モニス救援に心惹かれる幹部たちに対して、レオポルドはきっぱりと言い切った。
「その理由は数多あり、一々数え上げるのも面倒だが……。まず、北東六部族の兵が従軍を拒否する可能性がある。連中は自身の領域の防衛には熱心だが、我々の勢力圏を守る為の兵は出さないだろう」
繰り返すが、北東六部族がレオポルド傘下に入っているのは、あくまでもクラトゥン族の侵略に抗する為である。戦いの中で従属化がやや進んでいるとはいえ、未だレオポルドの意のままに動くというわけではない。
モニス救援の為に兵を動かした場合、素直に従軍してくれるかわからないのだ。
「それに、モニスに向かったとして、敵に勝てるかわからない」
モニスを包囲している敵は一万もの大軍である。先の「地獄の入り口」の戦いのときと同規模であるが、先の戦いのときのような野戦陣地戦術が次の戦いでも上手くできるとは限らない。勝利には敵に側背を取られない場所と敵が向かってくることが欠かせないが、その両方が欠如する可能性もある。適した地形が見当たらず、敵がモニス包囲を優先して、こちらに向かってこない場合、同盟軍は圧倒的に不利な状況で戦いを仕掛けにいかねばならないことになる。こちらから攻撃せねばならない状況になるかもしれないのだ。
「それに、この書状だ」
レオポルドはエジシュナ族から届いた書状を摘まみ上げて言った。
「これにはモニスが包囲されていると書かれている。この内容がクラトゥン族の意図によって書かれたものは疑いない。連中は我々をモニスに向かわせたいのだ。というよりも、実際の意図は北東部から引き剥がし、北東部攻略の邪魔をされたくなかったのだろうが。まぁ、どちらにせよ、ここから西へ移動させたいという意図は明確だ。その誘いにわざわざ乗ってやる必要はない」
「しかし、レイナルの率いる主力を破った今では状況が変わっているのでは。レイナルは北東部に向ける兵力を失いましたから、この辺りはとりあえず暫くの間は安泰といえるのではないでしょうか」
ケッペン中佐が異を唱えると、幾人かが同意するような顔をした。
「勿論、その通り。しかし、それでも、モニスを攻囲している敵が我々を待ち受け、罠を仕掛けている可能性は低くない」
レオポルドの指摘に士官たちは納得したように頷く。
「それに、レイナルが主力を喪失した今は敵を追撃する絶好機である。むざむざ、敵を逃がすのは勿体ない。早々に軍を南へと向け、クラトゥン族に従っている諸部族を調略し、敵の本拠を襲撃すべきだ。クラトゥン族の本拠に我々が進めば、モニスを包囲している軍もそのままではいられまい」
そう言ってから、彼は居並ぶ士官たちの顔を見回して、静かに宣言した。
「レイナルの息の根を止める」