七〇 地獄の入り口
「付近の地勢を調査致しましたところ、レオポルド様の御所望に沿える土地が見つかりました」
例の如く、レオポルドとバレッドール准将が話し合っていると、キスカが現れ報告した。
「彼の地なれば、両側面のみならず背面からの敵の攻撃をほぼ完全に阻むことができ、敵が向かってくるのは正面のみとなるでしょう」
しかし、彼女は冴えない顔で続けた。
「ただ、あまり布陣したくはない場所です」
彼女の言葉にレオポルドとバレッドール准将は顔を見合わせた。
ムールドには「地獄の入り口」と呼ばれる場所がいくつかある。ムールド人の多くはその近くを避け、子供や家畜がその入り口に近付いて、悪霊に連れ去られないように警戒しているのだという。
「なるほど。君達が近寄りたくない気持ちもよくわかる」
レオポルドは「地獄の入り口」を覗き込みながら言った。
それは荒野を切り裂く巨大な割れ目だった。塩の町南方にある「地獄の入り口」はムールドでは最大のもので、幅は広いところでは数十ヤード、長さは東西に三十マイル以上も伸びているという。ちょうど塩の町の真南あたりが割れ目の西の端に当たる。
上から見下ろした割れ目の内部は暗闇に包まれていて底が見えない。ムールド人たちは底無しだとか、地獄に通じているとか言っているらしいが、そうでなくても少なくとも数百ヤード以上の深さがありそうだ。
レオポルドとキスカ、バレッドール准将の三人は道案内のサルザン族の男数名と護衛の兵十数名のみを引き連れて、ムールド中部にあるこの「地獄の入り口」の視察に訪れていた。
ムールドの伝承によれば、数百年前に大地が揺れたことがあり、その時に地面が割れて「地獄の入り口」ができあがったと云われている。底に下りてみた勇気ある者もいたらしいが、誰一人返ってくる者はなく、それ以来、不吉な場所として忌避されてきた。
この巨大な割れ目は真っ直ぐ東西に走っているわけではなく、各所で曲がったり、斜めになったり、蛇行したり、湾曲したりしている。
キスカはこれに注目した。大きく湾曲した部分に布陣すれば、三方は底知れぬ深さの割れ目であり、馬で飛び越えるには遠すぎる為、敵の攻勢に遭う恐れがない。開けている部分から来る敵を集中して迎え撃つことができるというわけだ。
「しかし、こんな場所に布陣するのはあまり気乗りせんな」
レオポルドと並んで割れ目の底を見下ろしたバレッドール准将が渋い顔で言った。
「これでは敵に包囲されているようなものだ。逃げ道が全くない。敵に押されて退いたが最後。地獄の底に真っ逆さまだぞ」
准将の感想にキスカも硬い表情で頷いた。道案内役のサルザン族の男たちも揃って青い顔をしている。
しかし、レオポルドははっきりと言い切った。
「ここに布陣する」
彼の宣言にキスカとバレッドール准将は嫌そうに顔をしかめ、道案内の男たち、護衛の兵たちは見るからに暗い表情を浮かべたが、反対意見を述べる者はいなかった。
レオポルドは直ちに部隊をこの場所に移動させることを決めた。
翌朝早く。同盟軍は十分な量の武器弾薬、糧秣、水を携えて塩の町を出発し、南へと進軍した。
軍の進路が南に向き、徐々に「地獄の入り口」の方へと近付いて行くにつれ、ムールド兵は一様に不安そうな表情を浮かべ出すが、歩を緩めることはない。そんなことをすれば下士官にどやされてしまう。下手をすれば、兵たちには悪魔と恐れられるキスカにどのような惨たらしい処罰を食らわされるか分かったものではない。「地獄の入り口」の底に悪魔はいるかもしれないが、いないかもしれない。しかし、悪魔のような上官はすぐ傍にいるのだ。どちらを恐れるかは言うまでもない。
同盟軍はほぼ丸一日を費やして、「地獄の入り口」の西の端に達した。本日はここで宿営すると士官たちが告げるとムールド人たちは不安そうな顔を隠さず、口々に不満を言い募り、迷信深い連中は「地獄の入り口」にまつわる恐ろしい言い伝えや噂を口にして、周囲の兵たちを更に不安にさせた。
「黙れっ」
浮き足立つ兵たちに向かってキスカが一喝すると辺りは水を打ったように静かになった。
「早く宿営地を用意しなさい」
彼女がいつもの無表情に戻って静かに指示を出すと、兵たちは黙って働いた。宿営地は速やかに完成し、兵たちは夕食を摂って寝た。
翌朝も早くに同盟軍は行軍を開始した。
軍は「地獄の入り口」の割れ目の端を横目に見ながら通り過ぎると進路を東へと変え、今度は割れ目に沿うように進軍する。
大きく北に湾曲し、南側が開けている目的の湾曲部に到達すると、レオポルドは馬を止め、ここに布陣するよう士官たちに命じた。
士官からここに布陣する旨を告げられると、ムールド兵からは一斉に呻き声や小さな悲鳴が上がったが、キスカが鋭い視線で兵たちを人睨みすると不平不満は一瞬のうちに消え去った。
レオポルドは素知らぬ顔で陣地の構築を行うように命じた。
バレッドール准将陣頭指揮の下、野戦陣地の設営が進められる。本陣は湾曲部の奥まった箇所に設置され、武器弾薬や糧秣もこの近くに集積された。歩兵は湾曲部の入り口に横列となって布陣する予定である。この歩兵戦列の前に馬防柵、空濠を構築していく。これは殆ど准将の好みのようだった。彼は砦のように野戦陣地を構築するのが好きらしい。
虎の子である二門の大砲は歩兵戦列の両端に一門ずつ据え置かれ、南方人奴隷兵が護衛を担当する。
この間に軽騎兵は周辺、主に南方面へと斥候に出かけ、目前まで迫っているはずのクラトゥン族の軍勢を探し求めた。
お目当ての敵はすぐに見つかった。
急遽、士官を集めた軍議が開かれ、斥候を支配するキスカが行った報告によれば敵勢はこの地より更に南にある「猫の目」と呼ばれているオアシスに駐屯しているという。同盟軍の陣地からは目と鼻の先であり、今日明日にも目の前に敵が現れてもおかしくない状況である。このような危険な状況に陥るまで敵の所在を掴めなかったことは大きな失点といえるだろう。陣を整える前に敵に攻撃されなかったことは幸いといえるが、これほど近距離ならば敵もこちらの位置を把握しているだろう。
敵が布陣した場所を聞き、レオポルドは疑問を口にする。
「ムールドの民は水場を好まないんじゃなかったか」
「確かにその通りです。彼らは水や湿気が体に悪いと考えているようです。水を飲むことは避け、水分は家畜の乳や血、果実、それらを原料とした酒を飲みます」
その疑問のルゲイラ兵站監が答え、肯定するようにキスカも頷いた。
「我々は水気を避けますが、家畜には水をやらねばなりません。その為、定期的に水場に寄るのです。ムールドの軍勢は多くの家畜を帯同していますから、彼らは水場により、馬や家畜に水をやる必要があるのでしょう」
キスカの説明にレオポルドは得心したとばかりに頷く。
そして、視線を末席の男へと向けた。
「アルトゥール殿。敵をこの地に誘引して頂きたい」
今、同盟軍が布陣している地ならば、多数である敵に側面や背面に回り込まれる恐れがない。レオポルドとしてはこの地を戦いの場としたいのだが肝心要の敵が来てくれなければ意味がない。
「敵にちょっかいをかけて、こっちまで引っ張ってこいということか」
アルトゥールの言葉にレオポルドは黙って頷く。
敵勢に少数の騎兵で攻撃を加え、反撃を受ける前にさっと退き、追撃する敵を歩兵が布陣する地まで引っ張ってくる作戦である。有り触れているが、それだけ有効でよく成功する策ということだ。
アルトゥールはニヤリと口端を吊り上げる。
「良かろう。一個中隊借りるぞ」
そう言って、本陣の天幕を出て行った。
「大丈夫でしょうか」
キスカは些か訝しげな顔つきで呟く。アルトゥールの能力を疑っているらしい。
「普段の言動には少々問題があるが、彼は優秀な軍人だぞ。問題などあるまい」
レオポルドが窘めるように言うと、キスカは不満げに顔をしかめる。
「私にご命じ頂ければ立派に使命を全う致しましたのに」
「君は私の副官だろう。傍を離れられては困る」
そう言われて彼女は少し顔を赤らめ、視線を逸らす。
「……私ではなくとも、ムールド人の中にも優秀な騎兵はおります。ムールドの民は立って歩くより先に馬を乗りこなすと云われる民です」
「そうかもしれないが、君たちはいくらか正道すぎる」
「正道すぎる……」
レオポルドの指摘にキスカは首を傾げる。
「今回の任務に関してはアルトゥール殿の方が適任だと思う。まぁ、上手くやってくれるだろうから、我々は首を長くして敵の到来を待っていようではないか」
アルトゥールの行動は素早かった。ムールド人主体の軽騎兵中隊を引き連れ、直ちに陣地を出立し、土木作業に明け暮れる歩兵を尻目に南へと向かった。
クラトゥン族が布陣しているオアシス「猫の目」までは軍隊の通常の行軍速度でいえば一日程度の距離である。
アルトゥール率いる騎兵中隊はその距離を半日足らずで走破してみせた。騎兵のみの小規模な部隊であり、騎兵たちが携行できるだけの必要最小限の物資しか持たずに駆けた為、このような迅速な行軍ができたのである。
部隊は日が沈んでも暫く行軍を続けた。夜間の軍事行動は方向を見失う。兵が隊からはぐれてしまう。闇に対する恐怖心、不安感などから兵の士気が落ちる。同士討ちが起きやすくなる等の危険性があるものの、一〇〇騎程度の小部隊ならば危険性はそれほど大きくはない。
アルトゥールは「猫の目」の間近まで寄ったところで止まり、兵たちを休ませた。
そして、翌日の日もまだ昇らぬうちに行軍を再開し、空が白ばみ、薄明るくなってきた頃合で、十数騎ごとに指示を与えて散開させた。指示を与えられた騎兵たちはそれぞれの任務を遂行する為、オアシス「猫の目」に入っていく。
クラトゥン族の軍勢が駐屯するオアシス「猫の目」はその名の通り、猫の目のような楕円形の泉がある。周囲には木々が生い茂り、果実を付ける木もあった。
クラトゥン族軍一万は泉の南側に布陣し、幾百もの天幕を張り、万を超える馬、羊、山羊、駱駝などを連れていた。軍勢はクラトゥン族とそれに臣従する諸部族の寄せ集めの連合軍であり、あまりにも短期間に多くの兵と家畜を集めている為、十分に組織化されていない。その為、部外者が忍び込むことは非常に容易であった。
アルトゥールに指示された兵たちは、素早く己の役割を果たした。
ある者は天幕に火を付けて回り、ある者は「敵の襲撃だっ」「泉に毒が投げ込まれたっ」と叫んで周り、ある者は馬、羊、山羊問わず獣を捕まえて、その喉笛を掻っ切っていく。
瞬く間にクラトゥン族の陣中は蜂の巣を突いたような騒ぎになり、大混乱に陥った。この混乱が収まらないうちに、アルトゥールの部下たちは素早くクラトゥン族の宿営地を脱出し、集合して一路北へと逃げ去った。
これにクラトゥン族の戦士たちは激怒した。奇襲や不意打ちといった卑怯な振る舞いはムールド人の戦士が最も嫌悪する事柄である。
彼らを率いるムールドの王を称すレイナルはそういった戦いを大いに取り入れ、クラトゥン族の中にはレイナルに心酔し、意を同じくする連中もいたが、多くの将兵は違う考えを持っていた。彼らは心の底ではレイナルのやり方を軽蔑し、反感を抱いていた。ただ、逆らっては身が危ない為、渋々とその命令に従っているに過ぎない。卑劣、卑怯、嘘、裏切りを嫌悪し、軽蔑する砂漠の戦士の性質に変わりはないのだ。この伝統は数年、数十年というものではない。先祖伝来、数百年に渡って継承されてきたムールドの、砂漠の戦士たちの流儀なのである。
卑劣にも奇襲を仕掛け、嘘を撒き散らし、ムールドの民にとって最も大事な財産である家畜を殺したことは彼らを大いに怒らせる行為であった。
彼らは直ちに奇襲を仕掛けてきた敵を追撃すべしと主張した。これは自軍を誘導する為の罠であると看破し、慎重論を唱える者も少なくはなかったが、レイナルは全軍に進撃を命じた。
アルトゥールによる奇襲が挑発行為であり、罠である可能性を自覚しながらも、レイナルが進撃を命じたのは、主戦論に押されたのは勿論のこと、自軍よりも遥かに劣勢である敵軍の罠を恐れて進撃を躊躇ったと見做されれば、彼の武威に傷がつくからだ。ムールド人は武勇を尊ぶ民族である。多くのムールド人が卑怯でも卑劣でもレイナルに従っているのは粛清や弾圧が横行する恐怖支配もさることながら、彼の力がムールド一と名高く、事実、それだけの実績を収めているからでもある。
また、レオポルド率いる同盟軍が野に出ていることはレイナルにとっても都合のよいことだ。攻城戦が得手ではないことは彼も十分に自覚している。城壁に囲まれた塩の町や要害モニスに籠城されるよりは、野戦で決着をつけ、その軍勢を壊滅させたいところである。この二〇〇〇余程度の軍勢がムールドにおいて彼の前に立ち塞がる最後の抵抗勢力の主力なのである。これを打ち破れば、ムールドは名実共に彼の手中に入るも同義である。
彼にとってもこの戦いは大変意義のあるムールド統一に向けた総仕上げの戦いなのだ。
クラトゥン族軍一万は「猫の目」を発ち、北に向かって進軍した。