七
振り返ると遥か遠くに高く白い壁が見えた。世界に名高き帝都の白壁である。高さ一〇〇フィート。厚さ二〇フィート。四〇〇の塔。二〇の門を備えている。
帝都は並の教会の尖塔をも凌ぐ高さの白壁でぐるりと円形に囲まれている。この高く分厚く堅固で、なおかつ美しい白亜の城壁に帝都を訪れる者は等しく圧巻され、帝国の強大さを視覚的に実感するというわけである。
帝国中興の祖と名高き第五代神聖皇帝ジギスムント帝による偉業であるが、実際のところ、帝国はこのでかい壁の扱いに苦慮していた。城壁の建造費は帝国財政を長期に渡って圧迫したばかりか、完成してからも維持管理修繕費として毎年少なくない額の出費を強いていた。
また、城壁はかなりの余裕を持って帝都を囲むように建造されていたが、膨張する人口に伴う市域の拡大は設計者の想像を遥かに超えていた。完成から五〇年経った現在では城壁間際まで家々が立ち並ぶ状況となり、城壁は市域の拡大を阻む大きな要因となり、地価の高騰は庶民の生活に大きな打撃を与えていた。
その上、城壁近くは極めて日当たりが悪い為、市民からは大変な不評を買っていた。
「こんなに歩いたのに、まだ見えるのね」
レオポルドに釣られて振り返ったフィオリアが呟く。
一行が屋敷を出たのは教会の鐘が鳴る頃だった。
西方教会では朝一番の鐘は人々が起き出し、働き出す時間と定めており、教会や修道院ではその通りに生活が動き出していた。
しかしながらレオポルドたちがその時間に行動を始めたのは教会の教えに忠実だからではない。朝一番の鐘は帝都の市場が開始する時間であったからだ。
教会は夜間の労働に厳しい制限を設けていた。夜更け後、夜明け前は悪魔の跋扈する闇の時間であり、人間はその間、家の中に閉じ籠り、外に出るべきではない。そんな時間に外出する者は邪な考えを抱く不信心者である。というのが教会の教えであった。勿論、そんなことを気にせず営業を続ける居酒屋や売春宿などは多くあったものの、総じて教会から忌まわしいものと思われ、度々異端やら不信心やらと弾劾されていた。
とにかく、表向き夜の商業活動は禁止されていた為、通常の商店や市場が開かれるのは朝一番の鐘が鳴ってからというのが決まりであった。
レオポルドたちはその商店や市場に用があったのだ。
旅には準備が付き物だ。彼らの旅は数ヶ月にも及ぼうという長期のものであるから尚更である。
都市を一歩出ればそこは野盗や野獣、不届き者が跋扈する危険地帯であり、夜までに宿に辿り着けなければ、野宿もしなければならない。暫くの間、補給できなくても生きていける分の食糧や水、雨露や寒さを防ぐ用具、着物が濡れてしまったり破損してしまったときの替えなども必要だろう。
準備不足は生命の危機に直結する重大事なのだ。
本来、長期の旅ともなればその準備には数日を要するものであるが、少人数で所持品も少なかった為、準備は半日で済んだ。
いくらかの毛布、着替えの衣服、丈夫な革の靴、日持ちする干し肉、固焼きパンなどを買い込み、城壁の門を潜ったのは昼前くらいだった。
一行はそれから数時間に渡って歩き続けてきたが、振り返っても未だに帝都の白壁は視界から消えなかった。どれだけ遠くに逃げようとも帝都からは離れられないのではないかという有り得ない考えすら脳裏を過ぎる。
彼にとって帝都は生まれ育ってきた故郷であり、彼の二十年近くに及ぶ人生の主たる舞台であり続けた。帝都こそが彼にとっての世界であり、彼の世界は帝都が全てであった。
わざわざ思い返すまでもなく、彼は帝都の白壁を思い浮かべることができる。彼の屋敷からは白壁を望むことができたから、早朝には白壁の向こうから上る太陽、夕方にはその向こう側へと沈んでいく太陽に染まる白壁の美しさは彼の瞼の裏に焼き付いている。
帝都の美景は白壁だけではない。帝都の郊外に広がる一面の麦畑も彼のお気に入りだった。夏には青々とした麦が地平線まで広がり、それを眺め、濃厚な生命の青き香りで胸をいっぱいにすると、堪らなく清々しく心地よい気持ちになれた。収穫の時期ともなると、麦穂は黄金色に輝き、一体は金色の海へと変貌し、特に夕焼けに照らされた麦畑の美しさは言葉にならない程であった。
このようにレオポルドは帝都の素晴らしい所を数多挙げることができる。亡き両親やフィオリア、クロス家に仕えた者たちとの掛け替えのない想い出も全て帝都と共にある。
しかし、今となっては辛い想い出の方が印象強く感じられた。
異端の疑いとかけられた父と教会との対立と論争、嫌がらせのように延々と続く異端審問官の取り調べで衰弱し、ついには病に臥せ、息を引き取った父。その遺骸を教会の墓地に埋葬するのにも一悶着あった。レオポルドは恥を耐え忍んで、父を死へと追いやった面々に何度も頭を下げ、死者に鞭打つような心無い言葉にも反論せず、ついには亡父の罪を認め、陳謝し、少なくない額の寄付を行ってどうにか亡父を正教徒として葬ることができた。
その後、異端の疑いをかけられたクロス家との関係を忌避する商人との取引を回復させ、傾きかけた家計を立て直そうと貴族の矜持も名誉もかなぐり捨てて、恥辱と困窮を耐え、寝食を忘れて働いたが、彼を助ける者は少なく、クロス家は破産へと追い込まれた。
その間に向けられた侮蔑や憐憫の表情や視線、冷笑や嘲笑は彼の脳裏に焼き付いていた。
今や彼にとって帝都は逃れたい忌まわしき記憶に溢れ、そこに彼の居場所は既に無かった。
レオポルドは帝都の象徴たる白壁から視線を引き剥がすように前を向く。彼のいくらか前を、初めて出会った時に身に纏っていた襤褸のような茶色いフードをすっぽりと被ったキスカが黙々と歩を進めている。その歩みは遅くも速くもなく、一定のペースを維持している。旅初心者であるレオポルドとフィオリアは彼女の歩く速さに合わせて歩を進めていた。おそらくは旅に不慣れな二人を気遣って疲れ難く歩き易い速さで歩いてくれているのだろう。
フィオリアが持ち込んだ大金によって、当面の路銀の心配はしなくてもよくなった一行ではあったが、旅が終わっても資金が必要になることは容易に想像された。その為、できる限り金を節約することにした。馬や馬車は調達せず、乗合馬車を利用することもなく、徒歩による旅を選んだ。
三人は口数も少なく、たまにレオポルドとフィオリアが会話する以外は殆ど口を閉じたまま延々と街道を東へ進んだ。
帝国第一の都市である帝都と東部主要都市を結ぶ街道だけあって人通りは多く、頻繁に馬や馬車が三人を追い抜いて行き、多くの馬車や人とすれ違う。
よくある旅装のレオポルドとフィオリアはさておき、全身を襤褸のような布で覆い隠した格好のキスカは非常に悪目立ちするようで、すれ違った人々は一様にぎょっとした顔で彼女を見つめていった。
とはいえ、素顔を隠さずに晒していたとしても褐色の肌の異民族など、帝国中央では滅多に見るものではない為、これまた注目されるであろう。
すれ違う人々から一様に注目されるという少々気恥ずかしい思いをしながら、半日ほど歩くと夕暮れにはとある聖人の出生地として名高い村に到着した。
「今日はここに宿泊しようと思います」
こんな田舎の村には場違いなくらい、ひどく高い教会の尖塔を見上げているとキスカが静かに呟いた。
「ふむ。では、教会の宿泊施設を借りるか」
レオポルドは教会の尖塔から目を離して言った。
名高い聖人の生誕地ということで、この村には大きな教会があり、少なくない数の巡礼者を教会の宿泊施設に受け入れていた。そこは正教徒ならば誰でも安価に利用することができる。
彼の発言を受けて、二人の女性はそれぞれに否定的な表情を浮かべた。
キスカはいつもの無表情ながら眉根をちょっと寄せて困ったような顔になり、フィオリアも同じように眉間に皺を寄せ、口をへの字にひん曲げた。
二人の顔を見て、レオポルドは思い至った。
フィオリアは一応西方教会の教えに従う正教徒で、安息日には教会のミサに参列し、聖歌を歌い、聖典の文句を諳んじもする。しかし、教会に対する彼女の感情は最悪といっても過言ではない。生まれ育った教会の孤児院の酷さに加え、クロス家の破産の大きな要因が教会にあるからだ。彼女にとって教会は家族をバラバラに引き裂いた怨敵のようなものである。
そして、キスカに至っては正教徒ではない。ムールド人は帝国への反感が強いのだが、その理由の一つは彼ら独自の宗教を信仰していることもその要因の一つであった。
そもそも、帝国が神聖帝国と呼び名されるのは教会の武装組織である教会騎士団の一つ聖十字騎士団を建国の礎としているからである。聖十字騎士団領が東へ東へと徐々に領土を拡大していった結果、神の意思によって、その異教徒を滅ぼし、西方教会を大陸へと広めた偉大なる功績により騎士団総長が時の西方教会総大司教より皇帝の称号を与えられ、「神の恩寵による諸国民の神聖なる帝国」が誕生したのである。
そういった建国の経緯もあり、帝国は異教徒に西方教会への改宗を強く迫ることが多い。力のある民族はこれを跳ね除け、上手く取り入って異教を信仰し続けることを黙認される民族もある。が、大半の民族はほぼ強制的に改宗が進められる。今まで信仰してきた異教の儀式は否定・禁止され、偶像は破壊される。この過程で多くの民族・宗教紛争が発生するのである。
帝国とムールド人との間の対立も、よくあるこのパターンである。
ムールド人であるキスカの教会への感情が宜しくなくともおかしくはない。
「いや、やはり、教会の施設よりも、もっと安い宿があるやもしれん。そちらを探してからの方がいいな。これからのことを考えると金はいくらあっても足りないからな。小銭であろうとも節約したいところだ」
二人の反応を見て、レオポルドは上手いこと前言を撤回した。
しかし、その理由がよくなかった。
教会は基本的に慈善施設である。その宿泊施設よりも安い宿など滅多にあるものではない。確かになくはない。なくはないのだが、そのなくはない安い宿は本当に大変安い宿ということになる。宿泊料に宿の質が比例することは言うまでもない。
この村で唯一教会の宿泊施設より安い宿は無愛想な老婆が営む、ただの民家を少し改造しただけみたいな安宿であった。部屋にはベッドもテーブルも灯りもなく、木の床に申し訳程度の薄っぺらい布が敷かれ、黴臭い毛布が積んであった。宿の部屋というよりは牢獄の独房という方がしっくりくる。
とはいえ、教会の宿泊施設に宿泊しない名目を宿泊費の節約としてしまったのだから、教会より高い宿に部屋を求めるわけにはいかない。
それに雨露さえ凌げればそれでいいじゃないか。我々は道楽で旅をしているわけではない。この先、野宿する機会もあるに決まっている。それに比べれば断然マシだろう。
レオポルドはしきりとそういった点を強調し、フィオリアも同調して、キスカも頷いたものだから、結局、その安宿への宿泊が決定した。
年頃の男女三人ではあるが、宿泊料を節約する為、三人はその狭苦しく黴臭い部屋に雑魚寝することになった。
夕飯をキスカが持っていた干し肉と固焼きパンでさっさと済ませた後、三人はそれぞれ毛布を手に取った。日が暮れてしまうと部屋には窓から差し込む月明かり以外に灯りはなく、その暗闇の中では寝る以外に何もすることがないのだ。それに早く寝て旅の初日の疲労を回復し、明日は早くに村を出て、一刻も早く東へと歩みを進めようという思惑もあった。
「それでは、休もうか」
レオポルドが乾いた声で言うとキスカは黙って頷いた。真っ暗なので誰も彼女が頷いたことには気づかなかった。
「そ、そうね。明日も早いし、早く寝ましょう」
フィオリアが早口で言って、もぞもぞと毛布に潜り込み、入口から見て部屋の右隅に転がる。
反対側にはキスカが毛布に丸まっていた。
そうなると、この狭い部屋ではレオポルドの居場所はその間しかない。部屋の真ん中に寝そべって毛布を被る。
まだ誰も寝ていないはずだが誰も声を発せず、気まずい沈黙が部屋を支配する。
レオポルドがそのまま黙って目を閉じていると横で身じろぎする気配を感じた。
「レオ。もう寝た」
そっと声がする。
「まだだけど。フィオ」
二人は昔からのあだ名で互いを呼び合う。
「二人で寝るのなんて何年ぶりかな」
フィオリアが感慨深そうに囁いた。
正確にはもう一人、キスカもいるのだが、それはさておき。
「あぁ、そういえば、昔は一緒の部屋で寝てたな」
「レオが一人じゃ眠れないって泣いたからね」
「いや、フィオが一人で寝ると夜泣きが酷かったからだろ」
「はぁっ。ちょっと、何言ってるのっ。何を勘違いしてるのっ。あんたが泣くから、しょうがなく、あたしが一緒に寝てあげたんでしょうがっ」
「いや、違うだろ。フィオの夜泣きが酷いから困ってたんだけど、俺と同じ部屋で寝かせたら夜泣きしなかったから一緒に寝かせるようにしたって親父が言ってたぞ」
「何言ってるのっ。お父様がそんなこと言ってるの聞いたことないわっ」
二人は起き上がるとあーでもないこーでもないと怒鳴り合いの論争を始めた。
残りの一人は頭から毛布をひっかぶって健気に黙って騒音を我慢していたが言い争いが一〇分にも及ぶと、さすがに我慢しかねるというものだ。毛布から顔を出して遠慮がちに言った。
「あの、お二人とも……」
キスカに声をかけられて、二人は気まずそうに黙り込む。暫し互いを見つめ合った後、毛布を被って寝の体勢に戻る。
「そういえば、風が強い日には、レオ、あたしにくっついてきてたよね。風の音が恐いって言ってさ」
「そっ、んなこともあったけど……」
咄嗟に否定しようとしたが心当たりがあったのかレオポルドは渋い顔で認める。
「昔の話だ。もう十年以上前だぞ」
「うん。そうね」
そう言ってフィオリアはレオポルドの方へ顔を向ける。
「でも、あの時みたいに、昔みたいに、また一緒に並んで寝られるって、なんだか、とても……」
彼女は手を伸ばしてレオポルドの肩にそっと触れた。
「皆、バラバラになっちゃったけど、育ってきた家もなくなっちゃったけど、何でだろう。こうやって、一緒に旅して、一緒に並んで寝ていられるのは、なんだか、少し楽しくて、幸せなんだ」
フィオリアはそう言って微笑み、レオポルドはなんだか照れ臭い気分になって瞼を強く閉じた。
安宿の毛布にはダニやノミが大量に潜んでいたらしい。三人は翌日から体のあちこちを掻きながら歩く羽目になった。
『帝都』
神聖帝国の首都であり、西方教会の総本山が置かれている都市。
正式名称は「神に祝福されし教会の御許にして神の恩寵による諸国民の神聖なる帝国の永遠の都」だが、通常「帝都」と呼称されることが多く、正式名を覚えていない者も少なくない。
神聖帝国建国の年に帝国の首都として建設が始められ、ジギスムント帝の治世に大改造が行われ、帝都の象徴たる白壁と皇帝の居城である白亜城はこの頃に建造された。
神聖帝国の領土拡大、繁栄と共に発展し、現在では人口は一〇〇万人を超え、名実共に帝国の政治、経済の中心であり、西方大陸で最も大きな都市となっている。
経済発展と人口増加により、帝都は大きく繁栄しているが、地方から流入する下層民の増加、居住環境の悪化、地価の高騰などの問題も抱えている。