六五 二つの良い話
「閣下。良い話が二つありますが、どちらからお聞きになりたいですか」
婚礼の日から数日後のある日の朝。
朝食を終えたレオポルドがキスカと共にレオポルド室に入ると、レンターケットが開口一番に言った。
「一つは近所であった良い話。もう一つは遠くの良い話です」
「近所の方を先に聞きたいかな」
レオポルドは席に着いてから言った。傍らにキスカが立ち、視線で話を促す。
二人は婚礼を挙げ、正真正銘夫婦となり、婚礼の日の初夜から二人で寝起きしているはずなのだが、新婚っぽさがまるでない。相変わらずサーザンエンド辺境伯の座を目指す若き青年貴族とその忠実な家来という様子であった。もっとも、それは周囲の者たちが見た印象であり、二人きりのときはもう少し違うのかもしれないと人々は考えていた。
「では、近所の方を。数日前より、アルトゥール様とレッケンバルム様がそれぞれ数十騎の騎兵を率いて斥候に出ておりましたが、そのうちのアルトゥール様の隊が昨日戻り、その報告を受けました」
婚礼の日の翌日早々にクロス卿派は二つの偵察部隊を発出していた。その目的はファディを落としたブレド男爵の動向を探ることである。
レオポルドたちはファディを放棄し、モニスに引き籠った後、ブレド男爵軍の接近に備えていた。広大なムールドの荒野の中、高台にあるモニスからは一帯を見渡すことができ、敵の接近をすぐに察知できる。
だが、しかし、そのブレド男爵軍の影も形もなく、斥候を放てど馬を駆けて一日の距離の範囲には姿を見せていなかった。だからこそ、婚礼を挙げるという余裕もあった。
とはいえ、姿が見えないから一安心というわけにもいかない。ブレド男爵軍の動向を探ることはクロス卿派の今後の為にも重要なことである。
その為の偵察部隊であった。
「どうやら、ブレド男爵軍は退却した模様です。ファディに二〇〇名ほどの守備兵が駐屯していたそうですが、アルトゥール様が奇襲をかけると、我先にと逃げ出したとか。小競り合いで数名が負傷したそうですが、戦死者はないとのこと」
「攻撃したのか。無茶をする人だな」
レオポルドは呆れ顔でぼやく。偵察部隊の役割はあくまで偵察である。敵と遭遇した際は、敵を避けることが鉄則であるはず。
とはいえ、無事に目的を達成し、損害もなく帰還できたのであれば問題なしと考えてよいのかもしれない。と、レオポルドが緩いことを考えていると、隣から刺々しい声が聞こえてきた。
「軍法会議にかけるべきではありませんか」
呆れ顔をしている旦那の横に立つ新妻は険しい顔をして厳しいことを言い出す。
「このような軍法に反する行為をすることは全軍の統率に関わります。また、今回はたまたまよかったかもしれませんが、次に似たような状況になったとき、彼が同じ行為を繰り返して、取り返しのつかない結果に繋がらないとも言い切れません」
確かに彼女の言うことは尤もである。結果的に問題がなかったからといって、軍法違反を見逃していては、軍法は形骸化してしまう。
「とはいえ、我が軍にはまだ正式な軍法はないからなぁ」
レオポルドは渋い顔をして呟く。クロス卿派軍は寄せ集めの暫定軍組織みたいなものであり、その組織や規則、命令系統などはまだ明確に定まっていない。有力者たちの話し合いによって運営され、暫定的に辺境伯軍の軍法を用いているに過ぎない。
もっとも、これはクロス卿派全体にいえることだ。
どうにかしたいとはレオポルドも思っているが、どうにかしている暇や余裕がないのだ。
「まぁ、それはとにかくとして、ブレド男爵はどうして軍を退いたんだろうな」
話を有耶無耶にされたキスカは不機嫌そうに顔を顰めつつ、口を開く。
「おそらくは我々の取った焦土作戦が効いたのではないでしょうか」
この時代の軍隊の兵站、要するに糧秣や武器弾薬等の補給は非常に稚拙である。自前の兵站組織を持ち、絶え間なく後方から十分な物資を補給できる軍隊などというものはこの世界のどこを見ても存在しないだろう。
食糧の補給に関しては軍隊が荷駄隊を編成して運ぶ量というのは非常に限られており、せいぜいが数週間分。一ヶ月分も運んでいれば大したもので、数日分しかないということも珍しくない。
軍隊に酒保商人が付き従っていて、必要な物資を彼らから買うという手もあるが、帝国南部では一般的ではないようだ。
やはり、最も有り触れた補給方法は目的地周辺、或いは行軍途中にある町や村から食糧を買い上げ、若しくは徴集、或いは強奪することである。ほとんどの軍隊はこの方法により食糧を手に入れ、兵士に食べさせ、行軍することができる。
それはブレド男爵の軍勢も例外ではない。
しかし、クロス卿派は予め町や村を焼き払い、放棄し、井戸には毒を放り込んでしまった。どこに行っても糧秣も家畜も見当たらず、あっても少量のみで軍隊を賄うには到底足りない。その上、水まで手に入れるのに窮するとなれば、とても行軍を続けることなどできまい。
「聞いた話ですと、ガナトス男爵とドルベルン男爵に和解の動きがあるとか」
そこへ更にレンターケットが興味深い情報を提供した。
アーウェン人系のガナトス男爵と帝国系のドルベルン男爵は、共にサーザンエンド北部に領土を持つ有力な領主であり、両者は以前から睨み合いの状況を続けてきた。配下の小領主同士が小競り合いを起こすことすらしばしばあったという。
この状況はサーザンエンド中部をほぼ制したブレド男爵にとっては都合のよいものであった。北部を意識せず、兵を南に送ることができるからだ。中部、南部を完全に手中に収めた後、北部の両男爵と対決すればよいのだ。
そのとき、困るのは北部の両男爵である。そこで、彼らは一度矛を収め、手を携えるまではしなくとも、現状で優位に立っているブレド男爵を牽制しようと考えたのだろう。いわば、突出した一位を二位以下が団結して抑え込もうとしているような構図だ。
「北の両男爵が手を携えてブレド男爵と対決してくれればありがたいんだが」
レオポルドは期待するように言った。願望を言えば、神様が聞き届けてくれるかもしれない。
北の両男爵とブレド男爵・ウォーゼンフィールド男爵同盟が対決するようなことになればサーザンエンドは本格的に戦乱の渦に巻き込まれるだろう。ただし、それは中部以北に止まるだろう。最も弱小な勢力であるクロス卿派は放置され、自由に動くことができるに違いない。
「そう上手くは進まないでしょうなぁ。北のアーウェン諸侯から支援を受けるガナトス男爵とその圧迫に反発する小領主たちが頂くドルベルン男爵では対決すべき要素が多すぎます。同盟するにしては乗り越えるべきハードルが高く、多すぎるのではないかと」
レンターケットは悲観的な見解を述べ、キスカも同意するように頷いた。
クロス卿派が北の男爵のどちらかと同盟するという手もなくもないが、彼らとの繋がりがなく、友好を結ぶのは難しいだろう。また、彼らが弱小なクロス卿派をまともに相手してくれるとも思えない。
とにかく、今はクロス卿派自体の戦力を蓄える時期なのだ。他派との連携を考えるのはその後だろう。
レオポルドは考えを切り替える。
「ブレド男爵が撤退してくれたことは僥倖であった。それで、もう一つの良い話というのは」
彼が話を促すとレンターケットは地図を取り出して、机の上に広げた。
「我らがおります帝国南部は大きく分けて六つに分割できます。我々のいるムールドを含めたサーザンエンド地方、アーウェン地方、プログテン山脈の西側イスカンリア地方、北東部のレウォント地方、半島南端部、そして、半島東岸部であります」
地図には帝国南部全域が描かれ、六つの地域が色分けされていた。また、主な都市が記されている。
「この間、閣下が調査を指示なされました東岸部は六の自由都市、五つの伯領、四つの聖界諸侯領、数十もの帝国子爵、帝国男爵、帝国騎士らの領地、その他諸々から成り立つ中小領主が乱立する地域であります」
「五人の伯、四人の上級聖職者ら領主たちの半分は帝国人ですが、小領主の中にはテイバリ人、アーウェン人、ムールド人らも含まれ、自由都市の有力者にも異民族は多いようです。また、東方大陸からの移民も多く居住しているとのこと」
レンターケットの言葉を引き継いでキスカが説明する。
「ある程度有力な者はいますが、地域全体を支配できるほどの力はないようで、また、地域全体が団結しているような状況ではありません。領地や権益などを巡る領主間、都市間の争いは少なくないようです」
「一つの領土の中、都市の中でも民族や家、商会の争いも多く起きているようです。その争いに余所の町や領主が介入して複雑化することも多々あるとか」
「ほう」
二人から寄せられる報告にレオポルドは顎を摩りながら思案顔になる。
「ところで、スラク伯領の都スラクは一万もの人口を誇り、東岸部でも有数の港町でして、東方大陸から多くの船が訪れ、大量の荷物が下ろされる非常に豊かな町であります」
「ほーう」
レンターケットがそう言って地図の上の点を一つ指差す。東岸部の真ん中よりもやや南にある。スラクからまっすぐに西へ行くとムールドの北部、ちょうど、レオポルドたちがいる位置に至る。交易路としてはファディの辺りで北に進路を変え、ナジカから再び西に向かってプログレン山脈の隙間を通って、西の港町へ至るというものである。
大変豊かで位置的にもムールドに近い。この地を勢力圏に組み込むことができれば、非常に大きな利権を手にすることが期待できるだろう。
「さて、私が内々に手に入れた情報に寄れば、そのスラクを支配するスラク伯ヤーコブ・キンケル閣下は昨年病に倒れ、今や明日をも知らぬ命とか。となると、問題となるのは後継問題というものです」
「ほーう」
レンターケットの情報にレオポルドは目を細める。
「伯に男子は無く、年若い未婚の娘が一人いるようです。その他、弟がいまして、一族や家臣の間ではこの弟を当主にすべしとの声が多数のようです。しかし、この弟が中々困った御方のようで」
「ほほーう」
「キンケル家の当主は長男のヤーコブが後継と早くから決まっていた為、弟は後継問題を避ける為、早くからベリネイ修道会に入っていたそうなのです。それがヤーコブが病に伏してから呼び戻されたようです」
「あー。成る程」
この説明で場にいる面々は大体の事情を理解した。
ベリネイ修道会は帝国でも有名な修道会の一つであり、多くの修道院を有し、教会の中でも強い勢力を誇る。その最大の特徴は異教徒に対して断固たる態度を取っていることである。
修道会の創始者は異教徒を一万人斬り殺したという伝説を持つ宗教騎士団の騎士である。彼は異教徒と幾度ともなく戦い、その戦いの中で片腕と片脚、片目と片耳を失ったという。これらの負傷により、彼は生まれ故郷のベリネイ市に隠棲し、その地で数名の宗教騎士団員と共に修道会を創設した。その目的は異教徒を一人でも多く改宗させ、改宗しない異教徒を一人残らず抹殺することであり、その為に聖戦に参加するよう王侯を説得し、宗教騎士団を支援し、前線にまで宣教師を派遣した。この功績により、創始者は聖人として認定されている。
創立から百数十年を経た今でも修道会はその意志を引き継ぎ、異教徒との戦いを続けている。これこそが神の望まれる道であると彼らは信じて疑わないのだ。
さて、そんな狂信的な武闘派修道会に放り込まれ、そこで十年以上を過ごした人間がどうなることか。狂信者の一丁上がりである。
「そんな御方を領主に頂きたくないという人も多くおるようで、特に住民の多数派を占める異民族の市民たちは弟のスラク伯就任に反対し、一人娘であるユリア嬢を擁立しているとか」
「介入するには絶好の条件が揃っているが、こちらが介入する理由を何とするかな」
そう言って、レオポルドは思案顔になる。
婚礼の場でキスカが身に纏っていた絹織物を見た彼は東岸部の適当な港町を勢力下に置くことを考えた。東方大陸から齎される絹織物、茶、香辛料などは帝国本土はじめ西方大陸では非常に高値で取引され、莫大な利益が期待できる。金があれば武器弾薬を揃えることもできるし、傭兵を雇い入れることもできる。領主たちを買収して味方に引き入れることも、帝都の大貴族たちに贈り物を渡して辺境伯就任を後押しさせることもできる。金で全て事が済むとはいえないが、何はともあれ金で何とかなることも多いのだ。
「理由など。適当なものがあるではありませんか」
キスカがいつも通りの無表情でさらりと言った。レオポルドは嫌な予感がした。
「そのユリア嬢とレオポルド様が御結婚なされば万事解決です」
また縁組か。