六二 婚礼の準備
「現在、我々は非常に逼迫した厳しい状況に置かれています。幾度かの戦いに敗れ、周囲を敵に囲まれ、味方は少なく、武器弾薬にも事欠く有様。将兵の士気は大いに落ち込んでおります。そのような状況下で、第一に為さなければならないことは、まず、我々が一致団結し、士気を回復させることです。この沈滞した状況、消沈とした雰囲気を打破しなければならないのです」
レンターケットは、現在の状況と今後の対策について、このように述べた。彼の言っていることは確かに尤もであるように聞こえるし、レオポルドも同意できる。
しかし、その後が理解しがたい論理である。
「ですから、ここは一つ。レオポルド様とキスカ様の御婚礼を盛大に執り行いたいと思うのです」
沈滞した状況を打破する為に、婚礼を執り行うという。レオポルドには全く理解できない理屈である。
「いや、意味がわからない。そもそも、そんなことをやっている場合じゃないし、余裕も意味もないだろう」
「いやいや、やる意味は大いにあるぞ」
シュテッフェン博士が胸を張って言った。
「レンターケット殿が言ったとおり、落ち込んだ我が軍の沈滞した空気を打破し、将兵の士気を回復させ、団結を深めることは大いに有意義だ。我々はまだ終わりではなく、婚礼と祝宴を行うほど余裕があると、まず、味方に示す必要がある」
「余裕についてですが、確かに資金や物資の備蓄は予断を許さない状況ではあります。しかし、食糧や飲料類、衣服については、悲観視するほど少なくはありません。家畜も多く、祝宴の一つもできないほどではありません」
シュテッフェン博士に続いて、レンターケットが説明を行った。
しかし、その説明を受けても、レオポルドは明らかに乗り気ではなかった。
実際、彼は婚礼などやりたくないのだ。キスカと結婚したくないというわけでは断じてないが、お世話になった恩人を見捨て、配下の兵を数百人と捨て駒のように扱って失い、尻尾を巻いて逃げるようにして辿り着いた地の果てのような荒野の真ん中の遺跡で、のうのうと祝宴などやっていられるか。そんなことをすれば、死んでいった連中が許してくれない気がするし、神も許さないだろうし、後世の歴史家にはボロクソに書かれるだろう。第一、そんなことをする自分を自分が許せない気がする。
「自分を許せないのは君だけじゃないぞ」
渋い顔をして黙り込むレオポルドにシュテッフェン博士が告げた。
「誰もが、君と同じ思いを抱いているのだ。大事な人や仲間を見捨て、おめおめと逃げてきたという罪悪感と守ることができなかった無力感に苛まれておる。この心境はいかん。最悪に近い。これを打破せねばならん。罪悪感と無力感を忘却の彼方に追いやり、心機一転新たな心持で事に当たらねばならぬ。婚礼はそのきっかけとなるものだ」
「私とキスカの婚礼を道具として使うというのですか」
レオポルドは不満げな顔で博士を睨む。
「王侯貴族っちゅうもんは、人生の出来事一つ一つが政治的な道具と化すものだよ」
博士は事もなげに言った。
レオポルドは貴族ではあるが、だいぶ下級の、上流の市民とさして変わらぬ程度の家柄であるから、それほど生活が政治と密接した人生ではなかった為、そういう意識に欠けているようであった。辺境伯となれば、そうもいかないのは言うまでもない。
そもそも、既に彼自身が政治的な道具と化しているのだ。その身の結婚が重要な政治的な道具と化すことは覚悟しなければならないものである。
「それにですな。ムールドの方々の中には我々がムールド諸部族を見捨てて、帝国本土に逃げ出すのではないかという危惧を抱いている方も少なくないとか」
そこにレンターケットが口を挟む。レオポルドは尚一層不機嫌そうな顔になって、呻くように言う。
「私は辺境伯の椅子を手に入れるまで南部を離れる気はないぞ」
「閣下がそのおつもりであっても、人の心など他人にはわからぬもの。疑心暗鬼に陥っている方も少なくないのです」
そこまで言って理解できないレオポルドではない。
「その疑心暗鬼を取り払う為にキスカとの正式な婚礼か」
呟くように言うとシュテッフェン博士とレンターケットの二人は黙って頷いた。
レオポルドとキスカ、アイラの婚約は帝国人貴族と親帝国派ムールド諸部族の同盟の証である。正式な婚礼が成ったわけではなかったが、親帝国の急先鋒であるオンドルらがレオポルドを信頼して、ムールド諸部族全体を帝国寄りに牽引していた。
オンドル亡き今、これまでのように信頼関係だけで同盟を継続することは難しい。ムールド諸部族は帝国人貴族たちが自分たちを見捨てないという証を欲しがるだろう。帝国人貴族の筆頭であるレオポルドがムールドの姫であるキスカを正式に妻として迎えれば、まさか嫁の一族、部族、仲間たちを見捨てることはあるまい。と、ある程度の信頼感を与えることができる。
勿論、それだけで彼らがレオポルドを全面的に無条件で信用するとは思えないが、重要な一つの証となることは確かである。
婚礼を行う利点は大きい。行うことによる物資の損失は許容できる範囲内である。後の問題は当人の気分である。
レオポルドは判断しかねて傍らのキスカを見やった。
彼女の顔色と様子を見て、彼は諦めたような嘆息を漏らした後、シュテッフェン博士とレンターケットの二人に向き直って、渋面のまま答えた。
「わかった。婚礼を行おう」
いつの世でも、どこの世界でも、恋する女性にとって、恋する人との結婚は歓迎されるべき事柄なのだ。
そもそも、婚礼などというものは花嫁の為にあるようなものである。そこに花婿の意思などいらないのだ。
その日のうちに婚礼の準備は始められた。
計画はレオポルド室において企画され、帝国人諸卿とムールド人長老たちの合同会議の議題とされた。
レッケンバルム卿などは、こんなときにやるべき事柄ではあるまい。と否定的な主張を行ったものの、他の諸卿は比較的好意的であった。
ムールド人長老たちからは肯定的な意見が出され、彼らは協力を約束した。
大勢が肯定的であった為、レッケンバルム卿は、些細な事柄で孤立することを恐れたのか。強硬な反対をすることはなく、婚礼は取り急ぎ行われることと相成った。
その準備には全ての兵員、更に多くの住民が動員された。
他人の婚礼の準備に扱き使われて、人々はさぞ不満なのではないかとレオポルドは不安に思っていたが、意外と人々は協力的であった。道路建設や防衛施設の工事では、渋々と作業している連中も婚礼絡みの準備ではよく働くなんてこともあった。
レンターケットが解説するには、
「皆、長いこと、忍耐を強いられる生活と逃避行を送ってきましたからな。こういったイベントに飢えていたのでしょう。そうなると、準備も、また、楽しいものです。ほら、祭りの準備などでも、そうでしょう」
そうでしょう。と言われても、レオポルドには祭りの準備などに携わった経験がないので、よくわからなかった。都会育ちの彼には農村などでよく行われる収穫祭、漁村での豊漁祭には無縁だったし、宮廷や帝都や教会の行事に携わることもなかった。亡き父ならば何かに参加していたのかもしれないが。
レンターケットはこの準備に積極的な住民の意識を利用し、婚礼の準備にかこつけて他の作業も合わせて行わせることとした。
集会所の改築は婚礼の会場となる為である。周辺の建物を改築するのも、参加者の宿舎などに利用する為。ここの道路は花婿花嫁が通るから整備する。といった具合に、やらなければならない工事を婚礼と結びつけて推し進めていった。
この姑息ともいえる方策は功を奏し、モニス周辺部はかなり整備された。
工事と同時に婚礼の祝宴に供される料理の下準備が進められ、近くを行く行商から新鮮な果実、野菜、酒、香辛料、香水などが調達された。また、婚礼に使う衣装、装飾などが女性たちの手によってつくられる。
その中でも最も重要である花嫁衣裳については花嫁自身が幼少の頃から親や親類などの手をかりながら自ら仕立てていくのがムールドの風習であった。
キスカはかなり嫁入りが遅れている方なので、花嫁衣裳はとうの昔にほぼ完成しており、これを一族の者が大事にモニスまで持ち込んできていた。
彼女は婚礼の準備期間に入ると集会所の一室に、他の女性陣と一緒に立て籠もって、花嫁衣裳を直したり、改造したりといった作業に余念がなかった。
ムールドの風習では花嫁衣裳は披露の日まで花婿には絶対に見せてはいけないという。
その為、レオポルドはかなり久々にキスカから離れることとなり、その間の彼の護衛はソフィーネが担当することとなった。
「何で私が貴方の護衛をしないといけないんですか」
剣の修道院出身の黒髪の修道女はなんだか不満そうであったが、彼女はなんだかんだいってレオポルドとは既にかなり長い付き合いであり、それなりに信頼感がある。その上、剣の腕たるやキスカに劣ることはなく、彼女の方が勝っているといっても過言ではないだろう。
「まぁまぁ、閣下は大事な御身ですから。きちんと腕の立つ方に護って頂けませんと」
工事の進捗状況を視察するレオポルドに随行しているレンターケットが護衛として傍に控えたソフィーネの呟きに対して慇懃に述べた。
ソフィーネはじろりと鋭い視線をレンターケットに向ける。
「ところで、貴方。アンザル十字騎士団にいたそうですね」
アンザル十字騎士団は北方の蛮族征伐に活躍している宗教騎士団であり、その勇名は遠く離れた南部でも教会関係者や上流階級の者ならば耳にしたことくらいはある。
「その後、フューラー大司教ヨハンス・プリンスベル猊下に仕えたとか」
「ええ、その通りです」
その問いにレンターケットが頷くと、ソフィーネは口端を吊り上げて彼を見つめながら、腰に提げた長大な十字剣に手をかけた。
「貴方は嘘を言っています」
彼女ははっきりと断言した。