六一 モニス
「見えました。あれがモニスです」
先頭を進んでいたキスカが指差した先には小高い丘が見える。その頂上辺りには石造りの建物がいくつか見える。遠方からは無人の廃墟のように見えた。
「確か古代の都市遺跡といっていたな。いつの時代のものなのだ」
ジルドレッド将軍が尋ねるとキスカは眉根を寄せる。
「詳しくはわかりません。我が一族に伝わる伝承によれば北から来た西方人が建設したものとされています」
彼女は詳しく知らないようであった。ムールド人の中でも好奇心旺盛で勉強熱心である彼女が知らないということは、多くのムールド人が知っていないということだろう。ムールド人の中には古代遺跡を調査したり、過去の伝承を詳しく調べたりする物好きは少なかったらしい。
「北から来た帝国ということは。西方帝国だろうか」
西方帝国は現在西方大陸東半を治める神聖帝国の以前に存在した国家である。五〇〇年余に渡って栄えたが、皇帝位を巡る権力闘争が反乱や内乱に発展し、それに加え東部の異民族の反乱が相次ぎ、二〇〇年ほど前に瓦解した。最盛期には今の神聖帝国領土よりも広大な版図を誇った。勿論、ムールドの地を含むサーザンエンド周辺も西方帝国の勢力圏であった。
「いや、あの古さからいうともっと前ということも考えられます」
将軍が呟くとエティー大尉が意見を述べた。この口うるさい女性士官は古代史に造詣が深かった。大学で歴史学を学んでいたという経歴の持ち主だが、その経歴はあまり軍では活かし切れていないようだ。
「では、新ミロデニア帝国の時代か。一〇〇〇年以上前ということになるぞ」
「いえ、新ミロディーの版図はグレハンダムを越えませんでしたから、大ミロディーの可能性が高いと思います。よくよく見れば、あの柱の形状には大ミロディー時代の神殿と似通っているように見えます。もう少しきちんと調べなければなんともいえませんが、個人的には大ミロディー時代のものと考えてもおかしくはないと思いますね」
いずれの帝国もかつて西方大陸のかなりの地域を征服した大帝国である。大ミロデニアは西方大陸のほぼ全土を支配し、後世に大きな影響を与えた。ミロデニアは帝国語における「帝国」の語源でもある。
一方、新ミロデニア帝国の方は大ミロデニア帝国が後継者争いから分裂、崩壊後に大ミロデニア帝国の皇族の子孫が建設した帝国である。こちらは前者ほど栄えず、一〇〇年余りで衰退した。それから百数十年後に西方帝国が成立する。
「おい、そのミロディーってのは何だ。君のボーイフレンドのニックネームか何かか」
「ミロデニア帝国のことです。古代史の研究者はよくそう呼ぶのです」
アルトゥールの冗談めかした言葉にエティー大尉は不機嫌そうに顔をしかめて言った。
「ま、あの遺跡を造ったのがミロディーでもアンディーでも何でもいいが、役に立つんだろうな」
アルトゥールが言うと、エティー大尉は一層不機嫌そうに顔をしかめた。
「見ての通り、荒野を一望できる小高い丘の上にあり、また、北側の窪地には水が溜まっています。丘の東西は断崖絶壁であり、南側はなだらかな傾斜になっています」
キスカは手短に説明した。これだけ言えば考える能力を持つ士官ならば理解できるだろう。
荒野にぽつんと孤立したようにある小高い丘からは荒野を地平線まで一望でき、いち早く敵を発見し、その動きを監視することできる。勿論、その分、敵に注目され、包囲される危険性もあるが、味方に十分な長期戦の備えがあり、対して敵の勢力がそれほど巨大ではなく、長期戦の備えができていなければ十分な優位を保つことができる。
モニス北側の窪地に溜まる雨水や山脈から流れた雪解け水は貴重な補給源であり、同時に敵の進撃を阻む巨大な水濠の役割を果たす。加えて、丘の東西が断崖絶壁であることから進撃路は比較的進み易いなだらかな斜面である南側に限られる。よって、守備側は南側の防衛に注力できるというわけだ。
「確かに、以前、軍議で聞いた通り要害の地のようだな」
視界に入ってきた水を湛えた窪地を見て、アルトゥールは納得するように呟いた。
「ところで、レオポルド殿の御加減はどうなんだ」
アルトゥールが尋ねると、それまでずっと沈黙を守っていたレオポルドが渋い顔をした。
「あまりよくはないです」
そう応える彼の顔色は蒼く、げっそりとやつれているようだった。あまりよくないどころか、かなり体調が悪そうだ。このまま馬に乗せていていいのか士官たちは不安視していた。落馬でもされては困る。
「ちゃんと食事を摂られていますかな。厳しい状況ですし、あまり質の良い飯ではありませんが、きちんと食べて体力を付けねば持ちませんぞ」
ジルドレッド将軍の言葉にレオポルドは弱々しく応じる。
「胃の調子が悪いもので……」
その答えに士官たちは顔を見合わせる。
レオポルドの体調はファディを出た頃から悪化していたが、ファディを離れ、モニスに近付くにつれ、益々悪化しているように思われた。普通ならば危機から逃れ、安全な地域に近付きつつあるのだから安堵してもよさそうなものだが。勿論、敵に追われているという精神的な負荷はあるかもしれないが。
「今日中にはモニスに入れますので、それまで御辛抱を」
キスカが恭しく述べるとレオポルドは青白い顔で頷いた。
部隊がモニスに入ったのは日も傾き始め、夕刻にも迫ろうかという時刻であった。
やはり、モニスからは周辺が一望できるようで、部隊が南側斜面を進んでいくとモニスの入り口に至ろうかという辺りで出迎えを受けた。レッケンバルム卿、シュレーダー卿、バレッドール准将、ルゲイラ兵站監といった帝国人貴族たちの他、ムールド諸部族の長老たち。それにレオポルド直属であるレオポルド室の面々、それにフィオリアとアイラ、エリーザベトの姿が見える。
モニスの姿を見て、レオポルドのただでさえ青白かった顔面から一層血の気が失せる。痛む胃を掴むように腹を手で抑える。
彼はふらふらと危うげに馬から降りると彼女に歩み寄った。
「御無事で何よりです。御怪我などありませんか」
アイラはレオポルドの手の甲に接吻をしてから微笑んで言った。
レオポルドは苦しげな表情で暫く黙っていたが、やがて、微かに口を開いた。からからに乾いた喉から掠れた声を出す。
「アイラ……。その、オンドル殿は……」
苦しげに言葉を選びながら訥々と話し始めたレオポルドの唇を、アイラがそっと指で封じた。
「旦那様の御身が御無事で大変安堵しています。我が祖父が旦那様の一助となれたことは我が一族の光栄であります」
アイラは儚げに微笑んで言い、そっと唇を彼の耳元に寄せて囁く。
「ですから、気に病まないで下さい」
そう言われたレオポルドは苦虫を噛み潰して、それを更に舌に擦り込んでしまったような顔をして声にならない呻き声を漏らした。じわりと湧き上がるものをどうにか飲み込み、抑え込む。
「さあ、中へ。長旅でお疲れでしょう」
アイラはにっこりと笑ってレオポルドをモニスの町の中へと招いた。
「レオ。そんな情けない顔すんじゃないっ。あんたはちっさい頃から泣き虫なんだから」
傍に寄って来たフィオリアがレオポルドをからかうように言い、彼の顔に血色が戻った。
「何で、小さい頃の話を持ち出すんだ。それにフィオには言われたくないな。フィオの方がいつも先に泣いてたじゃないか」
「何言ってんの。泣いてるあんたを慰めてやってたのは誰だったか覚えてる」
二人は大人げない言い合いをしながらモニスの町に入って行った。その後ろ姿を見送ってからアイラはキスカを見つめた。
「オンドル殿はファディに残り、レオポルド様や我々がファディを脱出する時間稼ぎを為されました。武人らしく御立派な最期を遂げられたものと思われます」
キスカはいつも通りの無表情で淡々と報告した。
「ええ。そうでしょうね。戦場で最期を迎えられて祖父も満足でしょう」
アイラはぽつりとそう言ってから、寂しげな表情を浮かべた。
「そうなることはファディを去る時に覚悟していましたし、旦那様の御顔を見れば一目瞭然というものです」
「レオポルド様はファディを出てから、ずっと体調が芳しくありませんでした。オンドル様を死なせてしまったことを気に病んでいたのでしょう」
「お優しい方。思えば、ファディを出るときの私の言動が良くなかったのかもしれません。夫となる方の重荷になるようなことを言ってしまうなんて、私は……」
彼女は険しい顔をしてそこまで言うと、くしゃりと顔を歪めて身に纏っていた長い衣の袖を顔に押し当てる。
キスカはアイラの背を撫でてやった。肉親を失ったときの心情を彼女はよく理解できる。
「申し訳ありません」
「謝る必要はありません。ただ、レオポルド様の前では涙を見せないように」
キスカが言うと、アイラは微笑を浮かべて言った。
「勿論です」
モニスに入ったレオポルドたちは中心部にある最も大きな建物に通された。かつては神殿であったようだが、今は改修して集会所兼幹部たちの宿舎として使用しているようだ。
レオポルドたちクロス卿派の高官一同は旅装を解き、会議室として使われている部屋に入って現状の報告と今後の対策について会議を行った。
「現下、モニスには将兵と避難民合わせて三〇〇〇余。食糧と水の心配は、一年程度であれば心配ありません。ただ、武器弾薬は非常に不足しています」
「戦える兵の数は五〇〇程度。臨時にムールドの男たちを徴兵すれば一〇〇〇程度に増強できるかもしれませんが、練度や武器の数量の点から見るとあまり望ましい手とは思えません」
「斥候の報告によればブレド男爵軍はファディを占領後、近隣の村々に手を伸ばしているようですが、既に殆どの村が焼き払われている為、食糧や水の調達に苦慮している模様」
「南のクラトゥン族傘下の部族が混乱に乗じて北上する気配を見せています」
報告の多くはクロス卿派にとって芳しいものではなく、高官たちは難しい顔で唸る。
とはいえ、ブレド男爵はレオポルドを見失ったようで、その手は鈍っている。クラトゥン族には既にこちらから誼を結ぼうと働きかけを行っており、暫くは不戦が期待できる。武器弾薬はないが、生きていくのに不可欠な食糧、水の備蓄には余裕があり、モニスという避難場所も確保できた。
状況は悪いが、危機の足音がすぐ真後ろに迫っているというほど切羽詰まった状況ではない。
暫くはここに腰を落ち着け、情勢をつぶさに見極めつつ、今後の対策を練ろうという結論が出て会議は解散となった。
レオポルドはキスカと共に会議室を出ると別の部屋に向かった。その部屋が新たなレオポルド室となっているらしい。
部屋には飲んだくれのシュテッフェン博士、書記のコンラート。事務掛のリゼの他、もう一人、灰色の長い衣を身に纏った背の高い男の姿があった。短めの口髭に鼻眼鏡をかけており、年齢は四十代くらいに見える。
「おお、レオ坊。会議はどうだったかな」
「博士が言ったとおりの結果です。とりあえず、現状維持で今後の対策を考えようと」
毎度のとおり赤ら顔のシュテッフェン博士の問いに答えながら、レオポルドは初対面の男を見やる。
「これはこれは、閣下。お初にお目にかかります。私、ハロルド・レンターケットと申します」
レンターケットと名乗る男は慇懃な微笑を浮かべながら自己紹介した。
「はぁ。その、レンターケット氏が、何故、ここに」
「あぁ、それはだな。ここでやる仕事も量が増えて来てな。コンラートとリゼもやってくれてはいるが、手が足りんし、経験も足りん。そういうわけで、事務ができる奴はおらんかと探してみたのだ」
レオポルドの疑問にシュテッフェン博士が答える。
「事務の経験があるのですか」
キスカが尋ねるとレンターケットが答えた。
「ええ。かつてはアンザル十字騎士団で主計長補佐を務めておりまして、その後はフューラー大司教ヨハン・プリンスベル猊下の元で秘書をやっておりました。今はアーウェンのブララタの教会の事務長を務めており、たまたま用事でハヴィナにいたところ、今回の騒動に巻き込まれ、流れ流れてこの地まで来たというわけです」
アンザル十字騎士団といえば、教会が保有する軍事力である宗教騎士団の一つであり、北方の蛮族討伐で名高い。その他にも務めているのは教会関連ばかりのようだ。しかも、大司教の秘書を務めるとなるとそれなりに有能でなければ務まらないだろう。
近くに置いて損はない人材といえよう。実際、シュテッフェン博士によれば事務の腕も確かで、彼が来てから仕事が滞らなくなり、コンラートやリゼも指導してもらっているという。
「では、この戦乱が収まるまでの間で宜しいので、ここで事務長として働いては頂けませんか。報酬の方は、あまり期待に応えられないと思いますが」
「ここで巡り合ったのも何かの縁。どうせ、暫くはここから離れることなどできませんからな。謹んでその任を受けたいと思います」
レオポルドの要請をレンターケットは快諾した。
こうして、レオポルド室の機能が拡充したところで、シュテッフェン博士が口を開いた。
「そうだそうだ。あんたらがいない間、わしらも遊んでいたわけじゃないんだ。良い方策があってな」
「何ですか。あぁ、若しかすると、以前からお願いしていた住民への布告の案文ですか」
「いや、それはまだやってない」
博士の回答にレオポルドは渋い顔をして黙り込む。もうこの案件を博士にやらせるのは諦めて、大人しく自分で勉強して考えるしかないのかもしれない。
「そんなのより、こっちの方が、ずっとやる価値がある。その上、面白い。もう準備も色々やっておる」
博士がそう言うとコンラートとリゼがくすくすと笑った。レオポルドは嫌な予感がした。
「レオ坊とキスカ嬢ちゃんの婚礼だっ」
その提案にレオポルドとキスカは言葉を失い、顔を見合わせてから、その顔を真っ赤に染め、慌てて顔を背けた。
二人のそんなやりとりをレオポルド室の面々はニヤニヤと笑って見ているのだった。