六〇 残された者と逃げた者
クロス卿派脱出部隊が音もなくファディ中心部を抜け出し、ブレド男爵軍南側陣地に乗り込んだ頃、北側陣地もようやく異変に気が付いた。
「敵軍がファディを脱出しようと南側陣地を強襲している模様っ」
当直の士官はかなり正確に状況を把握し、ブレド男爵に報告した。
「クロス卿の行方は」
そう言ったのは陣幕の上座に腰を据えた背の高い齢四十過ぎの茶色い髪と髭の男だった。ほっそりとした細面によく整えられた口髭と顎鬚を生やしている。絹のシャツの上に赤いビロードの上着を羽織り、首には襞襟を巻いている。腰には一振りのサーベルが提げられていた。
彼こそが今最もサーザンエンド辺境伯の椅子に近い男、シュテファン・ブレド男爵である。
周囲には彼に味方する辺境伯の家来や彼自身の陪臣のうち有力な者が控えている。多くはテイバリ人だが味方する領主の中には帝国人も幾人か含まれていた。
「不明です。しかし、おそらくは脱出しようとしている敵軍部隊の中に加わっているものかと思われます。ただ今、北側陣地に伝令を派遣し、状況を調査させています」
当直士官の回答に男爵は満足そうに頷く。
「早急に騎兵連隊を向かわせ、逃げる敵を追撃させましょう」
部下の一人が進言し、その場にいた騎兵連隊を率いる大佐が早くも腰を浮かしかけた。
「いや、待て。敵の罠かもしれぬぞ。どこかに伏兵がおるやもしれぬ」
「こちらが騎兵隊を追撃に向かわせる隙を突いてこの本陣に奇襲をかけてくる別働隊がいる可能性も否定できん」
「現に数日前から敵の斥候らしき軽騎兵の姿が幾度か目撃されている」
場からは相次いで慎重な意見が出された。慎重な意見を口にするのはいずれも辺境伯傘下の小領主たちである。持っている土地や権力、財力はブレド男爵に比べるべくもないが、一応は彼と同格の存在であり、男爵の家来というわけではない。いわば、彼らは援軍としてブレド男爵軍に加わっているのだ。彼らの率いる兵はブレド男爵軍全軍の半数近くを占め、ブレド男爵としても無視し難い存在である。
「しかし、機を逸し、クロス卿を取り逃がしては後々厄介なことになります。是が非でも追撃をっ」
騎兵隊の中佐が席を立たんばかりの勢いで訴えた。彼の言い分も尤もである。
とはいえ、伏兵・別働隊の存在も否定できない。
男爵は暫く沈思黙考した後、口を開いた。
「騎兵隊三個中隊を追撃に向かわせる。残る三個中隊は予備として置く。主力はファディに進撃し、これを占領せよ」
命令を受け、ブレド男爵軍北側陣地は慌ただしく動き出した。
騎兵連隊のうち半数の三個中隊は大佐に率いられ、ファディを迂回して北側陣地へと直行した。残る三個中隊は本陣近くに待機して周囲を警戒した。
歩兵部隊は戦列を組むと、指揮官の号令一下、前進を始めた。
「敵は潰走を始めたぞっ。今こそ、ファディを占領する千載一遇の機会であるっ」
先頭を進む騎乗の士官が手にしたサーベルを振り回しながら怒号を飛ばす。
「いざっ、進めぇっ」
士官がそう叫んだ直後、甲高い銃声が鳴り響き、彼は目を見開き、大きく口を開けたまま、動きを止め、そのまま馬から転げ落ちた。目の前で起きたことを歩兵たちが理解する前に、幾十もの銃声が鳴り響き、横に並んで歩いていた兵たちが悲鳴を上げながらバタバタと倒れていく。
「撃たれているぞっ」
「敵の銃撃だぁっ」
予期せぬ銃撃に兵たちはたちまち浮き足立ち、歩みを止め、身体を伏せる。じりじりと後退する者までいる。
「狼狽えるなっ。下がるんじゃないっ。敵は寡兵だっ。押し潰せぇっ」
指揮官が怒号を飛ばして、兵たちを叱咤する。下士官たちが手槍で臆病者を突いて戦列に戻す。兵たちにとっては見えない敵よりも近くの上官の方が恐いものだ。何せ、上官の方が自分に近い場所に、いつでも自分を殺せる場所にいるのだから。
「あそこだっ。土塁の向こうに敵の銃兵が隠れているぞっ」
士官のうちの一人が目敏く、土塁の影に潜んで銃撃を繰り返すクロス卿派の残党を見つけて、サーベルで指す。
「第一大隊っ。撃ち方用意っ。第二大隊は一斉射撃の後、突撃せよっ」
ブレド男爵から前線指揮を任されているヘイケ卿は矢継ぎ早に命令を下した。
先頭を進んでいた第一大隊が歩みを止め、肩に担いでいたマスケット銃を構える。そこに更に銃撃が加えられ、更に数人の兵が犠牲となったが、兵たちは狼狽えることなく、先程まで隣に立っていた仲間の血飛沫を頭から浴びた兵すらも背を伸ばした立ったまま銃を構えたまま命令を待つ。
「撃てぇっ」
士官の命令一下、一斉に引き金を引く。連続した発砲音が夜闇に響き渡り、硝煙が舞い上がる。微かに漂う仲間の血の臭いを焦げ臭い火薬臭が打ち消す。
「突撃ぃっ。俺に続けぇっ」
第一大隊の後ろに控えていた第二大隊が駆け出した。大隊の指揮官を先頭にファディ中心部を囲う土塁に向かって駆けて行く。彼らに向けて再び銃撃が加えられるが、数が足りず前進を阻むことはできない。土塁を乗り越えたブレド男爵軍の将兵は土塁の向こう側に潜んでいたクロス卿派の兵数十名に向かって銃剣を突き出し、半月刀で斬りつけた。クロス卿派の兵も剣を手にして彼らを迎え撃つ。一帯はたちまち敵味方入り乱れての白兵戦に突入する。
辺りは殆ど灯りのない暗闇に包まれており、敵味方の判別はかなり難しく、各所で同士討ちが頻発した。それでもブレド男爵軍は兵を退くことはなかった。一度兵を退けば機を逸すと考えてのことである。
戦場が暗闇に包まれているせいで、戦いは混乱に包まれ、殆ど統率のとれないものとなった。
だが、戦いは第一に数である。兵の士気や練度、武器の質、兵站なども重要な要素ではあるが、第一に重要なことは兵の数だ。いくら混乱していようともブレド男爵軍は圧倒的な多数を占めている。つまり、男爵軍の方が圧倒的に有利であった。クロス卿派軍はみるみる数を減らしていく。ある者は半月刀で斬り殺され、ある者は頭を棍棒、或いは銃床で叩き割られ、ある者は撃ち殺され、ある者は槍や銃剣に貫かれていった。
土塁付近に配置されていた兵は三〇分もしないうちに全滅し、ブレド男爵軍は土塁を乗り越え、ファディ中心部に侵入した。
中心部にある家屋内にはクロス卿派が見捨てていった一〇〇名近くの傷病兵が残されていたが、彼らの多くは無抵抗であった為、為す術なく虜囚の憂き目にあった。ファディの大半が制圧され、残されたのはカルマン族長老オンドルの屋敷と集会所だけであった。
ヘイケ卿は自ら先頭に立ち、十数名の兵を引き連れてオンドルの屋敷へと足を踏み入れた。
カルマン族の長老にして族長オンドル・アリ・マルダンは幼少の頃に父から譲られた愛刀を腰に提げ、絨毯の上に一人で座り込んでいた。
ヘイケ卿らが部屋に押し入ると、オンドルは彼らを忌々しげに睨みつけた後、口惜しげに溜息を吐いた。
「カルマン族族長オンドル・アリ・マルダン殿とお見受けする。最早、抵抗しても無意味である。大人しく降伏して頂きたい」
ヘイケ卿は丁寧ながらも断固とした口調で言い放つ。
小さな部族の長老とはいえ、ムールド人の中では有力な地位にある人物である。人質として手許に置いておくくらいの利用価値はある。
「貴殿らにせめて一太刀浴びせ、一兵でも多く道連れにせんと思っていたが、わしはいくらか老いぼれ過ぎたようだ。足腰が言うことを聞かぬ。一太刀浴びせるどころか醜態を晒すだけであろう」
オンドルは口惜しそうに悲嘆した後、腰に提げていた半月刀を鞘から引き抜き、その場に立った。その姿は弱々しく立っているだけでもやっとという状態であった。
とはいえ、敵が武器を手に立ちあがったのだ。兵たちはマスケット銃を構えた。
「ここで最期に相見えたのも何かの縁。これは悪くはないものだ。老いぼれの道連れにするには勿体ない。わしが死んだ後は貴殿が持って行くがよい」
ヘイケ卿はオンドルを見つめる。
「降伏する意思はないというわけだな」
オンドルが黙って頷くと、卿は腰のピストルを引き抜いて構えた。
「撃ち方用意ぃっ。撃てぇっ」
卿の命令一下。数発の銃声が鳴り響く。
オンドルは体中を血塗れにして、噛み締めた歯の間から血を吐き流しながら、黙って仰向けに倒れ込んだ。そのまま起き上がることは二度となかった。
「宜しかったのですか。男爵からは捕えよと命令されていたはずです。半月刀を持っていたとはいえ、相手は老人です。無理矢理にでも捕虜にすべきだったのでは」
副官が意見すると卿は蔑んだような目で彼を睨んで言った。
「貴様、武人の最期を汚す気か」
ほぼ同じ時刻、集会所の一室が爆発した。
爆音が響き渡り、建物の一部であった木片が宙に散らばり、火が噴き出す。
「何事だっ」
ブレド男爵傘下のエドニー卿が駆けつけて叫んだ。
「集会所の一室に立て籠もっていたカルマン族の老人たちが火薬に火を放ち、爆発させたようです。押し入ろうとしていた我が方の兵も十数名が死傷しました」
若い士官の報告にエドニー卿は歯噛みした。
「捕虜は何人捕えた」
「およそ一〇〇名余です。全員が傷病兵です」
「長老は一人も捕えられなかったのか」
エドニー卿が確認すると士官は首肯した。
「糞っ。私の報告を聞いた者はいなかったのかっ」
この日の昼に軍使としてファディのクロス卿派本拠を訪れていた彼はキスカとオンドルの応対を見て、クロス卿派の首脳陣は玉砕或いは自決する覚悟であると考え、その旨を報告していたのだ。実際、半分は彼の言うとおりになった。半分は彼を騙して逃げ出したわけだが。
何はともあれ、こうしてファディは完全にブレド男爵軍の手に落ちた。
ただ、残された数十名の兵と十数名もの老人たちの頑強な抵抗により、ブレド男爵軍南側陣地に陣取っていた歩兵部隊はファディ制圧にてこずった為、数時間もの足止めを食らい、ファディを脱出したクロス卿派脱出部隊を追うことはできなかった。追跡は騎兵三個中隊に任された。
ブレド男爵軍の三個騎兵中隊は南側陣地を進発した後、ファディ残留部隊が最後の抵抗を続けるファディ中心部と南側陣地を大きく迂回して南下し、クロス卿派の脱出部隊が現れるであろう地点へと向かった。その数五〇〇騎近く。多くは派手な真紅の衣装を身に纏い、半月刀を腰に提げたテイバリ人軽騎兵で、一個中隊は赤い房飾りの付いた槍を持ち、背中に白い羽飾りを付けたアーウェン人槍騎兵の中隊であった。
騎兵部隊は慣れない夜間の行軍にいくらかの混乱と困惑を伴いながらも、燃え上がる北側陣地の明かりを頼りに進軍を続け、ちょうど北側陣地を飛び抜けたばかりのクロス卿派脱出部隊の姿を認めた。その数は多くても二〇〇余といったところで、その殆どは歩兵で、武器を持たぬ兵も少なくなかった。
「これは好機ぞっ。皆の者っ。突撃ぃっ」
騎兵隊を率いる大佐がサーベルを引き抜き、馬腹を蹴り飛ばしながら叫んだ。
騎兵たちは各々の武器を掲げ、鬨の声を上げながら逃げる敵の背に向かって突進する。あと数分もすれば逃亡兵たちは精強なブレド男爵軍の騎兵に為す術もなく蹂躙され、一方的に虐殺されるであろう。
クロス卿派の幹部たちは狼狽した。ようやく大きな危機を強引に乗り越え、いくらか光明が見えかけたかと思えば、再び絶体絶命の危機に落とされたのだ。冷静さを保っていられるものか。
休みなく馬を走らせながら士官たちが怒鳴り合うような話し合いを始める。
「マスケット銃はないのかっ。この際、パイクでもいいっ。戦列を組んで敵騎兵を足止めさせろっ」
ジルドレッド大佐が怒鳴るとエティー大尉が苦々しげな表情で言い返す。
「マスケット銃は殆どファディに置いてきたので持っている兵は僅かなはず。パイクは逃亡の邪魔になるので全て捨てています。例え、あったとしても、兵がこの状態では足止めは不可能かと」
既に兵たちは恐慌状態に陥り、我先にと敵の騎兵から逃れようと駆け出している。統率は全く取れていないと言って過言ではなかった。
「我々も騎乗の身なのですから、全力で逃げれば逃げ切れるかもしれません」
一人だけいくらか冷静さを保っているキスカが淡々とした口調で述べた。
「兵を置き去りにするのか」
隣を並走するレオポルドが嫌そうな顔をした。
既に多くの兵を見捨ててきているのだ。そこから更に兵を捨てていくのは彼にとっては耐え難いことであった。
「何度も申しております通り、最も重要なことはレオポルド様の御身ですから」
キスカの言葉にレオポルドは黙り込む。この問題については確かに彼女の方が正しく、レオポルドには彼女を論破する力がないのだ。黙るしかない。
「止むを得ん。今は逃げることだけを考えよう」
ジルドレッド将軍が言い切り、士官たちは黙って頷く。
「閣下っ。右前方からも騎兵がっ」
士官のみで逃げるという結論が出たところで、将軍の副官が叫んだ。彼の言葉に皆が一斉に右前方を向くと、確かに闇の中をこちらに向かって突き進んでくる数百騎ばかり影が認められた。
「こんなに追われるとは、私も人気者になったものだ」
レオポルドが乾いた笑い声を上げて言った。もう笑うしかないといった状況なのだろう。
笑っている場合か。とは誰も言わなかった。声も出なかったのだ。
「いえ、あれは味方です」
ただ一人、キスカは冷静な口調でそう言った。
「何。味方だと。アルトゥール殿の部隊だというのか」
「そんなに都合よく現れてくれるものですかね」
ジルドレッド大佐とエティー大尉は疑わしげな顔で口々に言った。
「アルトゥール卿は経験豊かな軍人ですから、私たちの状況を、斥候を放って常に観察していたでしょう。そして、何かあればすぐに駆けつけられる距離に待機していたはずです」
当初より、その予定であったのだから、アルトゥールは勿論そうしただろう。そして、彼はファディがじわじわと陥落していく様子を見ていたに違いない。
「ファディを守りきれないとなったとき、我々が取り得る選択肢は玉砕か脱出しかありません。玉砕であれば、アルトゥール卿には何も打つ手はありませんが、脱出であれば、これを支援することができます。彼は勿論、その可能性を考え、脱出を支援できる態勢であったことでしょう」
脱出方向が敵地の反対側で敵兵が少ない南側となることは予想しやすいに違いない。
あとは味方が脱出する機に合わせて兵を進め、これを支援することである。具体的には逃げる味方を追う敵を攻撃してその追撃を緩めさせることである。
「そんなことも予測して行動できないようでは将たる器ではないと思われます」
キスカは硬い口調でそう言い、レオポルドは苦笑した。
彼女の言葉どおり、クロス卿派脱出部隊の右前方に姿を現したのはアルトゥール率いる三〇〇騎余の遊撃部隊であった。
彼らは矢先のように鋭い三角形の陣形を保ったまま、クロス卿派脱出部隊の尾に齧りつきかけていたブレド男爵軍騎兵部隊に突っ込んだ。
数の上ではブレド男爵軍の方が上であったが、無抵抗に逃げる敵を追う為にかなりの速度で駆けて突撃を敢行していた彼らの陣形は麻のように乱れきっていた。ここにアルトゥールの騎兵隊が斜め前から錐のように突っ込んでいく。白刃を煌めかせ、突然の敵の出現に混乱する敵騎兵を次々に斬り捨てる。
「おのれっ。やはり、伏兵かっ。臆するなっ。立ち向かえっ」
騎兵隊の大佐が叫び、ブレド男爵軍の騎兵たちが武器を手に立ち向かう。
とはいえ、最初の突撃でかなりの損害を受けており、騎兵は未だに混乱を続けている。夜の暗さが混乱に拍車をかけ、誰が敵で味方か、どちらが北で南かもわからなくなってくる。
これでは混乱を鎮め戦闘が継続できないどころか、同士討ちを引き起こして余計な損失を増やしかねないと判断した大佐は一度騎兵隊を下げることとした。未だに燃え続けている北側陣地を目印として、そちらに移動するよう命じたのだ。そこで陣形を整え、改めて敵を追撃するつもりであった。
しかし、このとき、北側陣地にはブレド男爵軍の一〇〇〇近い歩兵部隊がいた。彼らはクロス卿派脱出部隊の夜襲を受け、大いに混乱したが、どうにか混乱を鎮め、陣形を整えて敵を追撃する為、南へ進軍を始めたところであった。
そこへ前から騎兵が向かってくるのだ。折しも、敵の伏兵が現れたという情報も入っていた。夜間の為、視界が限られていたことが大いに災いしたのだ。
歩兵隊の指揮官はまさしくこの騎兵が敵の伏兵に違いないと考え、一斉射撃を命じた。
この一斉射撃により、騎兵隊の大佐を含む数十騎が死傷してしまった。突然、自軍陣地から一斉射撃を食らった上に、不幸にも指揮官を失った騎兵部隊は大混乱に陥る。
他の方向に逃げる騎兵もいれば、どうすればいいか分からずうろうろする騎兵も、北側陣地にいる自軍歩兵を敵と勘違いして突撃する者まで出る始末であった。
ようやく、目の前の騎兵が味方だと気付いた歩兵部隊はこれ以上の混乱を起こさないようにする為、行軍を中止し、騎兵隊の残された士官たちは部隊の混乱を鎮めるのに四苦八苦する羽目になった。
ブレド男爵軍のこの失策により、クロス卿派脱出部隊は遥か南へと逃げ去り、アルトゥール率いる騎兵隊も現れた時と同じように夜の闇の中に姿を消した。