五八 ファディ脱出計画
ブレド男爵軍より軍使が来たのは正午過ぎのことだった。
既にファディは陥落寸前であり、クロス卿派の命運が風前の灯火であることをブレド男爵は当然理解していた。
そこで彼はクロス卿派に対し、降伏を勧告することとした。無用の流血を望まないというよりはこれ以上の自軍の損失を嫌ったのである。
彼にはまだ敵対する勢力が複数存在している。この戦いで帝国に対して従属的であったムールド人の七長老派を従えたとしても、その他多くのムールド人は未だ帝国にもブレド男爵にも反抗的であり、その鎮撫は容易ではない。
また、サーザンエンド北部の中心的存在であるドルベルン男爵、サーザンエンドの北アーウェンの諸侯から支援を受けているガナトス男爵はいずれもブレド男爵に従属していないし、彼の辺境伯就任を易々と認めるとは思えない。
更には今のところ協力関係にある教会勢力やウォーゼンフィールド男爵にしても、状況や立場の違いから今後対立関係に陥る可能性も否定できない。
それらの今後敵対するかもしれない勢力と比べればクロス卿派など最も弱い勢力といってもよい。
つまり、彼は強力な軍事力を保持し続ける必要があったのだ。これ以上無駄な戦で自軍の兵を減らしたくはない。勿論、それ以上に時間をかけたくもない。
ここでクロス卿派が速やかに大人しく降伏してくれることが彼にとって最も望ましい展開なのである。だからといって、戦を避けたいわけではなく、降伏を拒否するのならば、直ちに討滅するまでである。
和平交渉に数時間、長くても半日程度をかけることは可能だが、それ以上待つよりは多少自軍の損失が増えても攻撃を強行するというのがブレド男爵のこの時の基本的な姿勢であった。
降伏を勧告する軍使が発せられたのはそのような事情からである。
軍使はエドニー卿というテイバリ人の騎士であった。八フィートはあろうかという大きな体にごわごわとした顎鬚を蓄えた四角い顔を載せた大男である。
エドニー卿はファディ中心部周縁に築かれた土塁傍まで単騎で寄せると大音声を張り上げ、ブレド男爵の使者であり、和平交渉を行いたい旨を告げてきた。
軍使の到来は直ちにレオポルドに報告された。彼は相変わらず意気消沈として、椅子から腰を上げようともせず、伝令の顔をちらりと見ただけであった。
「降伏など以ての外です。降伏の条件としてブレド男爵はレオポルド様の身柄を要求するでしょう」
キスカの言葉にレオポルドは黙って頷く。
ブレド男爵は兵を助命したとしてもレオポルドを生かしておくとは思えなかった。レオポルドは血統的にはサーザンエンド辺境伯の地位に最も近い人物であり、生かしておいても後々自らの地位を脅かすからである。今だけは戦の収束を狙って助命されたとしても男爵の手の届く場所に幽閉され、適当な時期に消されることは目に見えている。
殺されるのが嫌であれば、降伏という選択肢はあり得ない。兵の助命の為に自らの命を差し出すという美談を後世に残したければ選択してもよいかもしれないが。
「では、降伏を拒否すると回答致します」
キスカはそう言って歩き出す。
歩み去る彼女の後姿をぼんやりと見送りかけて、レオポルドははっとして呼び止める。
「ん、いや、待て。私はまだ降伏しないと決めたわけでは……」
「降伏はあり得ません」
キスカはレオポルドを見下ろして決然と言い放ち、部屋を出て行った。
レオポルドは彼女を茫然と見送るだけであった。
キスカの指示によりエドニー卿は集会所の一室に通された。
部屋に入るとそこにはキスカとカルマン族の族長オンドルの二人が絨毯に座って待ち構えていた。どういうわけだか部屋には所狭しと木箱が積まれている。エドニー卿は素早く木箱に視線を走らせてから二人を見つめる。
キスカは無言で自分たちの前に座るように手で指し示す。
「茶の一杯も出ないのかね」
エドニー卿は二人の前に座ると冗談めかして言った。
「敵に茶を出すことは私たちの流儀ではない」
キスカがしかめ面で答えると卿は渋い顔をして口をへの字に曲げた。
両者は暫し睨み合った後、エドニー卿が口を開く。
「早速だが、私がここに来た目的は諸君らに降伏を勧めることだ。我々の条件を呑めば、兵全員の生命の安全を保証しようではないか」
「断る」
卿が条件を提示する前にキスカはきっぱりと言い切った。
「何、断るだと。君は自分たちが置かれている状況を理解しているのかね。はっきり言って、今の状況から君たちが逆転することは不可能であろう。これ以上、戦いを続けても君たちが勝てる見込みは全くないと言って過言ではあるまい」
「そうであったとしても敵がどれほど強大であろうとも砂漠の戦士は降伏せぬ。敵と戦って潔く死ぬまで」
オンドルは胸を張り、決然と言い切った。
「御老の心意気はよくわかる。しかし、老い先短い命をここで散らすことはあるまい」
「私はここを死地と定めておる。貴君らに最後の一太刀を浴びせ、華々しく散る覚悟だ」
この断固たる言葉にエドニー卿は閉口する。
その後も彼は粘り強く説得を試みたが、オンドルとキスカの両名が僅かなりとも首を縦に振ることはなかった。
だからといって卿が譲歩するわけもない。ブレド男爵軍は圧倒的に優勢であり、絶対に戦いを回避したいわけでもないのだ。わざわざ、条件を緩めてまでレオポルドたちを助命してやる理由もない。
結局、両者が歩み寄ることはなく、議論は虚しく平行線を辿った後、エドニー卿は去って行った。
「これで連中が我々の思い通りに動いてくれるというのか」
再び騎乗の人となって遠ざかって行くエドニー卿の背中を見送りながらジルドレッド将軍が呟いた。
「そのように都合よく敵の攻撃が明朝に延び、なおかつ、夜間に包囲を緩めるということが起きるのか甚だ疑問ですね」
レッケンバルム大佐の傍らに立ったエティー大尉が疑わしげな表情で言う。
その場に居並ぶ士官たちはいずれも不安げ或いは疑わしげな顔をしていた。ただ一人、キスカだけはある程度自信を持っていた。
ブレド男爵軍は彼女の思惑通り今日の総攻撃を取り止め、夜間は包囲をいくらか緩め、明朝攻撃を行うと半ば確信していた。
というのも、彼女はその為に動いてきたのだ。
ブレド男爵軍側から降伏を勧告する軍使が派遣されることを予想することは難しくない。古今と洋の東西を問わず戦では戦の合間にそのような交渉が為されることが少なくない。両者の交渉が成立し、和議が成ることも多い。というよりも戦の決着の多くは相手を攻め滅ぼすよりもある程度の段階で妥協し合い、和平を結んで終わることの方が圧倒的に多いのだ。
さて、軍使としてやって来たエドニー卿に対し、対応したキスカとオンドルは玉砕覚悟の徹底抗戦を主張した。オンドルは言葉にした通り、この町を死地と定め、死ぬ覚悟はできている。その覚悟は表情にも声にも態度にもありありと出ていただろう。
その上、会見が行われた部屋に積み上げられた木箱の中身は火薬である。運び込む際に床にいくらか黒い粉が零れ落ちていたし、臭いもしたのだから、軍人であるエドニー卿がそのことに気付かぬわけはあるまい。
さて、これらの要素から彼はクロス卿派の上層部はここを死に場所と定めているという印象を受け、この旨をブレド男爵に報告するだろう。
「その裏をかいて逃げ出すというわけですか。しかし、それでどうして敵が攻撃を明日に延期し、夜の間、包囲を緩めるのです」
若い士官の問いにキスカが答える前にジルドレッド将軍が口を開く。
「死に物狂いの兵と戦いたくないのだ。玉砕覚悟の兵というのは少数であっても中々手強い相手だ。そういう連中としなくても済むような戦いをやるのは骨が折れる。いくらか自軍の準備を整え、砲撃を加えて敵を弱めておきたいというわけだ」
激しい籠城戦の末に玉砕を決めた城兵が大軍相手に最後の奮闘を見せ、攻め手が思わぬ犠牲を払うことは少なくない。
「ブレド男爵は意外と慎重な性格のようですから、勢いに任せて攻めかかるよりは兵を休ませ、準備を万端に整え、砲撃を加えた上での攻撃を選択するでしょう」
その上、ブレド男爵には自軍の犠牲を最小限に抑えたいという思惑がある。兵糧と金の問題も一日程度ならばさしたる影響ではない。
キスカはブレド男爵の思惑をこのように推察した。
「また、エドニー卿は集会所に入るまでの間に、我が軍の兵を観察しています。ここを死地と定め、死ぬ覚悟の戦士もいますが実際、見るからに士気の落ちた兵も多い」
「そういう連中の逃げ道をつくって我々の軍から兵を逃散させようというわけか」
彼女の説明を聞いて、ジルドレッド大佐が納得する。
これも攻城戦などでは多々用いられる策である。あえて完全に包囲せず、士気の低い城兵の逃げ道をつくり、逃亡を誘うのだ。
「その逃亡兵用の逃げ道をつかって夜陰に乗じて逃げるというわけですか。なんとも、情けないというかなんというか……」
エティー大尉が渋い顔をして呟くが、キスカは聞き流した。
「しかし、いくら小勢とはいえ、五〇〇余もの兵が一斉に逃げ出しては敵もおかしいと気付くのではありませんか」
士官としてクロス卿派軍に参加しているジルドレッド将軍の子息カール・ジギスムントが疑問の声を上げる。
「五〇〇余の兵全員を生きて逃がす必要はありません」
その疑問に対し、キスカは無表情ではっきりと言い切った。
「我々は敵のつくってくれた逃げ道を一丸となって一点突破するのです。勿論すぐ敵に見つかり、激しい攻撃を受けるでしょう。それでも、いくら犠牲を払おうとも一気に突破を図るのです。多くの犠牲が出るかもしれませんが、我々としては最低一人が無事に逃げ出せればそれで万事問題ないのです。また、敵を足止めする為、ファディにいくらかの兵を残していきます」
つまり、キスカの考案した脱出作戦とは数百名もの兵を盾とし、捨て駒とする非道なものであった。最低一人とは勿論レオポルドのことを指す。
「では、残された兵はどうなるのですっ」
カール・ジギスムントが気色ばんで尋ねる。
「おそらく全滅するでしょう」
キスカは素っ気なく言い放った。
「しかし、その計画は兵を盾に、見殺しにするようなものではありませんか」
「そうかもしれませんが止むを得ません」
エティー大尉が非難めいたことを言ったが、キスカは平然と言ってのけた。
「今、最も重要なことはレオポルド様を無事にファディから脱出させることです。どのような手段を使ってでも達成しなければなりません」
彼女の言うことは尤もであり、これは誰も否定できないことであった。ただ、そのやり方に問題があるのだ。とはいえ、他に妙手があるのかと言われると何も出てこない。
そういったわけでクロス卿派の幹部たちはキスカの策に不満がないではなかったが、渋々と同意したのであった。
この作戦はオンドルらカルマン族の長老たちにも伝えられ、合意が得られた。彼らは足止め役としてファディに残る兵の指揮を執り、華々しく散る決意であった。
長老たちと共にファディに残るのは志願兵五〇名ほどで彼らには虎の子であるマスケット銃と残り僅かな弾薬が支給された。
残る多数の兵はレオポルドら幹部を中心やや前方に据え、一丸となって一斉に町の外に出て、南へと向かうとされた。南には目印となる星があり、夜間であっても曇っていなければ概ね同じ方向へと向かっていけると思われた。逃走部隊は敵に攻撃されても基本的には一切反撃せず、ただ逃げるだけである。
多くの犠牲を払いながらも、最低レオポルド一人が逃げ延びることができれば、再起は可能であるというキスカの至極シンプルな計画であった。
残る問題は果たしてブレド男爵が本当にキスカの思い通り、攻撃を明日に控え、夜間に包囲を緩めてくれるかということである。
夜になる前に攻撃を仕掛けられては逃げる暇もなく全滅しかねない。緩められていなければ包囲を突破できない可能性がある。
そして、問題がもう一つ。レオポルドがこの計画を了承するかという点である。