六
南部と呼ばれるグレハンダム山脈以南の半島へ足を踏み入れるには帝都からならば二つのルートがある。
一つは帝都を南へ下り、帝国西部南岸の港湾都市アルヴィナから船に乗って半島西部イスカンリア地方の港町カルガーノに上陸し、イスカンリアの東側を南北に走るプログテン山脈を越えて、東へと向かいサーザンエンドに至る海のルート。
もう一つは帝都から東の街道を進み、大きな街道が十字に交差する交通の要衝エレスサンクロスの町から南へ下りグレハンダム山脈でも数少ない人馬が通行できる大蛇の峠を越えて、北アーウェン地方へ。そこから更に南下して、南アーウェン地方を通り、サーザンエンドに辿り着く山越えルートである。
どちらのルートも長い時間と労力を要する難行には変わりないが、海のルートは海賊に襲われる危険はあるものの、格段に早く到着することができる。
もう一方の山越えルートは険しい峠越えを伴う上に単純距離からして長い道程である為、大変危険で長い旅となる。
旅をするならば当然海ルートの方が良いだろう。ただ、アルヴィナからカルガーノへは定期船が出ているわけではなく、商船に便乗させてもらわなければならない為、タイミングや運、それにコネや金が必要になる。
レオポルドにはアルヴィナに知り合いなどいない為、好意に甘えてのタダ乗りは難しいだろう。かといって船賃を払えるほどの金もない。
そもそも、迷信深く保守的な海の男たちが異民族の女を乗船させてくれるとは思えなかった。
レオポルドの実質的な後ろ盾と見込めるレイクフューラー辺境伯にしても地盤は大陸の東岸フューラー地方で南に縁は少ないはずだ。
「となると、やはり、山越えルートしかないか」
レオポルドの言葉にキスカは無言で頷く。
二人は食堂に場所を移し、キスカが床を焦がして作った食事を食べながら今後の方針について話し合っていた。灯りは食卓の上にある縮こまった蝋燭だけなので、非常に暗いが飯を食えないほどではない。
「君はサーザンエンドから帝都までどうやって来たんだ」
「……歩いて」
庶民の旅行手段は基本的に徒歩である。
とはいえ、南部の果てから帝都までの行程を全て歩いてくるとなると大変な時間と労力がかかることは言うまでもない。
「何日かかった」
レオポルドの問いかけにキスカは指折りして、何かを数えるように考え込む。その間、レオポルドはキスカの作った羊肉の串焼きを頬張っていた。味付けは塩と何かの香草だけのようで野性的な味付けではあるが、大変美味だった。
「二月ほどでしょうか」
「二ヶ月か。そりゃあ、大変な長旅になりそうだな」
「私は休まずに急いで参りましたので、レオポルド様ですと、もう半月はかかるかと」
キスカの言葉にレオポルドは顔をしかめる。
とはいえ、彼は貴族の坊ちゃんである。長い旅などしたことはない。
「なるほど。確かにな」
そこは素直に認めておくことにする。
「馬があればその半分近くに短縮できるのだろうがな」
そうは言っても馬を調達する金などあるはずもない。ともすれば、ひたすら歩くより他に方法はなかった。毎日毎日歩いて歩いて歩き続けるしかないのだ。
「まぁ、無いものねだりをしてもしょうがあるまい。ここは大人しく徒歩で行くこととして。早速、明日、出発することとしよう」
目的地も道程も向かう方法も定まったところで、レオポルドは言い、キスカも黙って頷く。
「そういうわけで、明日から宜しく頼む」
レオポルドはそう言って右手を差し出した。当然のことながら、彼は握手のつもりで差し出した手なのだが、キスカの方は何を勘違いしたのか、その場に立膝突き、恭しく彼の手を取って、その甲に口付けした。
「誠心誠意、お仕えさせて頂きます。どうぞ何なりと御命令下さい」
そうして、上目遣いでそのようなことを言った。
彼女の行動にレオポルドは呆気にとられた後、赤面する。
家が破産してほとんど自棄になって酒に溺れた生活を幾日か過ごしていたせいか、どこか荒んだ雰囲気を纏ってはいるが、実際、彼は中々真面目で堅物な人物である。若い年頃の女子に手の甲に接吻されるという行為を唐突にされてしまうと、咄嗟に反応できず、ただただ気恥ずかしく照れてしまうのだった。
「う、うむ……」
なんとか気恥ずかしさを隠して、貴族らしく鷹揚に頷いてみたりする。
主従は互いを見つめ合い、これから二人を待ち受けるであろう困難に一致協力して当たらんと暗黙のうちに確かめ合った。二人の利害はほぼ共通のものであり、その運命は一蓮托生なのだから。
雰囲気としては悪くなく、良い場面なのかもしれなかった。
「ちょぉーっと待ぁったぁーっ」
しかし、その雰囲気を甲高い怒号がぶち壊す。
レオポルドとキスカはぎょっとして声のした方を見る。
そこに立っていたのは小柄な少女であった。
明るい赤茶色の短い髪、吊り気味の大きな緑色の瞳。大変な小柄だが、しかし、華奢ではなく、健康的に程よく筋肉のついたしなやかな体つきをしている。年の頃は十代半ばほどに見える。
レオポルドは驚きのあまり、暫し言葉を失っていたが、我に返ると問い詰めるような口調で言った。
「な、何で、ここにいるんだ。フィオ」
突然現れた少女こと、フィオ。正確にはフィオリアは幾年か前に、今は亡き父が拾ってきたフェリス人の孤児でレオポルドより一つ年上の少女だった。幼馴染というより姉のような存在であり、クロス家が破産するまで、この家で共に暮らしていた。家の破産後はレイクフューラー辺境伯家の女中として雇われている。よくよく見れば、確かに服装は女中の恰好だ。手には大きなカバンを持っていた。
「出てきた」
「出てきたって」
彼女の素っ気ない返事にレオポルドは愕然とする。
辺境伯ともなれば自分の屋敷にいる召使の一人二人くらい欠けようが気にかける程度のことでもないだろう。そんな些末なことは全て家来に任せて「良きに計らえ」状態なのは想像に難くない。
とはいえ、なんとかお願いして就職を斡旋したレオポルドの面目は丸潰れだ。
「一体、どういうつもりなんだ」
「どういうつもりかって聞きたいのはこっちよっ」
レオポルドの問いかけに、フィオリアが言い返す。
「帝都を出るどころか、南部の辺境に行こうだなんて一体全体どういうつもりなのっ。しかも、物凄く物騒なところに行くらしいじゃない」
フィオリアは剣呑な表情でレオポルドを睨みつける。
「あ、いや、えーと、まぁ……」
睨まれた方は、一体、どこで聞きつけたんだと狼狽しつつも頷く。
フィオリアは更に不機嫌そうな顔になる。
「そんな危ない所に一人で行くつもりなのかしら」
「いや、彼女と一緒に」
彼の言葉にフィオリアは更に更に不機嫌そうなしかめ面になり、レオポルドを睨んだ後、キスカに鋭い視線を向けた。
キスカの方は突然現れた少女に、どういうわけだか睨まれている状況に困惑、狼狽しているようだった。
「あー。彼女はキスカといって、サーザンエンドから俺を迎えに来た人だ」
とりあえず、レオポルドはフィオリアにキスカを紹介する。フィオリアは無言で彼を一睨みした後、再びキスカに鋭い視線を向ける。
「で、フィオリアは俺と一緒に育った、まぁ、姉みたいなもんだ」
続いてレオポルドはキスカにフィオリアを紹介する。かなりてきとうな紹介ではあったが、キスカは理解したようだ。
彼女はフィオリアに向き合って口を開く。
「キスカと申します。レオポルド様に誠心誠意仕え、身命を賭してお守りする所存です」
そう言って深く頭を垂れた。
キスカの銀色頭を睨みつけたフィオリアは極めて苦々しい表情で暫くの間無言だった。
何とも言い難い雰囲気の悪さというか重さにレオポルドが泣きたい気分になってきた頃、フィオリアがそっとその小さな口を開いた。
「……私も行く」
彼女の言葉にレオポルドとキスカは顔を見合わせる。
まず、最初に反応したのはレオポルドだった。
「は、いや、え、ちょ、ちょっと、待て。今、何て言った」
「だっかっらっ。私も行くっていうのよっ」
フィオリアに怒鳴られ、レオポルドは顔を蒼くする。
「いやいやいやいや、ちょっと待て。落ち着け」
「私は十分落ち着いているけど」
「いや、落ち着いてない。だから、そんな突拍子もないことを言い出すんだ」
「突拍子なくないっ」
フィオリアはそう怒鳴るとレオポルドに人差し指を突き付ける。
「弟が危ない所に行くっていうんだから、それに付いて行ってあげるのは姉の務めじゃない」
「そんな義務は聞いたことないっ。そもそも、ガキの買い物じゃああるまいし」
「それにねっ」
彼女は突き付けていた人差し指を引っ込めて、拳で弟みたいな奴の胸を打った。
「家族はねっ。一緒にいないといけないのっ。もう、あんなふうに、バラバラになるのは嫌なのっ。お父様がいなくなってしまって、ベネディクトもマルゲリータもロバーツも行ってしまって。今度は、あんたまで行っちゃうっていうのっ。そんな、そんなことされたらさっ。私、一人になっちゃうじゃないっ」
物心ついた頃、彼女は既に一人だった。
気が付くと教会の孤児院にいて、そこは孤児院というよりは収容所とか刑務所といった方がしっくりくるような、貧民窟に溢れる孤児をただ放り込んだだけのような場所だった。
教会や孤児院の幹部である帝国人の聖職者たちは異民族の孤児たちを悪魔の子供でも見るような目で見ていて、現地人の下級聖職者は金や物を自分の懐に入れることと子供を虐待することを生き甲斐にするような連中で、子供たちは互いにいがみ合い争っていた。誰もが自分のことだけを考えて生きていて、誰もが他人同士だった。
そんな環境で生まれ育った彼女が初めて手に入れた家族がクロス家の人々だった。血は繋がっていなかったが、そんなことは関係ないくらい、気にならないくらい、彼らと共に過ごした日々は騒がしくも楽しく、明るく、暖かな日々だった。彼女にとってはかけがいのない日々だったのだ。
しかし、彼女にとって幸福といえるその日々は、ある時、唐突に終わりを迎えた。当主アルベルトの死とクロス家の破産である。生涯で唯一親と慕った養父の死を悼む間もなく、家の人々はバラバラになっていった。
この悲劇が彼女に大変な恐怖と悲痛を与えたことは想像に難くない。これを彼女が耐えることができたのは離れ離れになってしまうとはいえ、まだ、同じ帝都の中に弟と想うレオポルドがいるからだった。彼女を使用人として引き取ったレイクフューラー辺境伯とクロス家の関係は良好で、レオポルドは度々辺境伯邸を訪問していた。その気になれば歩いて会いに行ける距離なら、まだ彼女は耐えることができた。
しかし、彼が南部へ行ってしまうとなると話は全く違う。幾度も述べているとおり、南部は帝都から遥か南の地で、移動手段が船と馬と馬車、あとは徒歩しかない時代にあっては気が遠くなるほど遠い地だ。そうそう簡単に会える距離ではなくなるのは勿論のこと、その生死すら定かではなくなる。
誰かがその所在や近況を教えてくれればいいし、便りがあれば尚よいが、郵便網が整っている帝国中央部に比べ、辺境である南部では手紙は行商人や巡礼者、旅人に預けるしかなく、その伝達の不確かさは言うまでもない。例え、レオポルドが南部の地で倒れようとも帝都にいるフィオリアにその情報が伝わるとは限らないのである。
しかも、レオポルドが向かうというサーザンエンドは動乱の兆しが濃厚で、何かの危険に見舞われる可能性はかなり高いといえるのだ。
今回、二人が別れたとすれば、その別れが永劫の別れになろう可能性は否定できない。
家族との二度の別れを経験した彼女にとって、それは耐え難いことであった。
生まれたときから一人だった彼女は家族を得て一人ではなくなった。それ故、家族の暖かさを知ってしまったが為に、かつて経験した孤独をもう二度と味わうことなど耐えられなかった。
「あんたっ、私を、また、一人にする気なのっ。私を置いて、一人にっ」
悲痛に満ちた声を上げるフィオリアをレオポルドは胸に抱き締めた。いつの間にか自分よりも小さくなっていた涙脆い姉を。
「ごめん」
レオポルドの謝罪の言葉にフィオリアは暫くの沈黙の後、応える。
「この馬鹿っ。もっと早くに気付きなさいよっ」
彼女はレオポルドに胸に顔を押し当ててから顔を上げて彼を睨んだ。
「そういうことだから、あたしを置いて、一人でどっか遠くの危ない所に行くなんて、姉であるあたしが許さないんだからねっ。あたしも同行して、危なっかしいあんたを見ててやらないといけないんだからっ」
フィオリアのその言葉にレオポルドは苦笑して頷いた。
暫くして、ふと、彼はこの場にいるもう一人の存在を思い出して彼女の方を見やった。
「あー。そういうわけで、旅の仲間が一人増えた」
キスカはすぐに頷いたが少々困った顔をして言った。
「しかし、路銀の方が、あまり……」
サーザンエンドは貧しい地である。そこから来たキスカの財布に余裕があろうはずもない。そして、破産したレオポルドにも金はない。
二人が困った顔で見つめ合っているとフィオリアが声を上げた。
「ぞれぐらい大丈夫よ」
彼女は鼻水を啜りあげながらパンパンに膨らんだ鞄を開けた。中から皮袋を取り出して、レオポルドに渡す。
「何だこれは」
「財布よ」
レオポルドは訝しがりながら皮袋を開く。中には眩い光を放つレミュー金貨が数枚にセリン銀貨が十数枚、それに小銭が多数。
「どうしたんだ。これ。まさか、お前、辺境伯閣下の金をくすねてきたとか言うわけじゃないだろうなっ。レイクフューラー辺境伯に目を付けられたら最期だぞっ」
レイクフューラー辺境伯は思い切った金遣いをする人物であり、吝嗇ではないが、自分が使う以外の理由で金が減るのは我慢ならない人物である。辺境伯から金を盗んだり、騙し取ったりしようものならば、地獄の果てまで追いかけられ、地獄の責めにも引けを取らぬ過酷な拷問と処刑が待っていると巷でよく噂されていた。
「お世話になった人にそんなことするわけないでしょっ」
フィオリアは心外だとばかりに機嫌悪そうに顔をしかめる。
「これは、私が今まで貯めてきたお小遣いと給金よ」
「それにしたって、レミュー金貨まであるのは……」
レオポルドは驚きを通り越して困惑していた。レミュー金貨は帝国が発行する最高額の貨幣であり、これ一枚で大の男が一月は食っていけるほどである。
「これは、遺産よ」
遺産と言われて誰の遺産か見当がつかないほど、レオポルドは間抜けではない。彼女の家族はクロス家だけだったのだから。そして、そのクロス家で金貨一枚を遺せるほどの人物といえば、亡き父しかいまい。
「お父様も病床で家の破産は避けられないと思っていたのね。何かのときの為にと私に遺してくれたの」
レオポルドに預けなかったのはレオポルドはクロス家の次期当主であり、家が破産すれば、その全財産は債務処理の為、没収されてしまうからだろう。債務処理の段階で財産を隠すような真似をすれば、それは処罰される罪である。
「そして、きっと、今がその何かの時なのよ。これだけあれば何とかなるでしょう」
フィオリアは得意げに胸を張る。
レオポルドはこれだけあれば船に乗れるのではないかとも考えたが、思い直して、大人しく山のルートを行くことにした。金があっても必ずしも船に乗れる、または乗せてもらえるとは限らないのだ。
何はともあれ、路銀の心配がなくなっただけ、彼の気持ちは幾分か軽くなった気がした。
『帝国の貨幣』
帝国の貨幣制度は実質的に金銀複本位制であり、金銀の法定比価は概ね一対一五程度と定められている。このバランスを維持する為に帝国政府は度々貨幣の改鋳を行っている。
貨幣の単位としてはレミュー(金貨)、セリン(銀貨)、ロデル(銅貨)があり、一レミュー=五〇セリン=七五〇〇ロデルの交換比率が定められている。
レミューは大変高額な為、一般的にはあまり流通しておらず、日常的に用いられるのはセリンとロデルとなっている。
しかしながら、貨幣は使用していると盗難や摩耗の危険がある為、金貨や銀貨を銀行に預け、その証書(銀行券)を取引に用いることも多い。とはいえ、地方・辺境では金貨・銀貨と交換できる銀行が少ない為、未だに貨幣の流通が一般的である。
なお、貨幣は基本的に帝国造幣局で鋳造されているが、その他にも貨幣鋳造権を認められた諸侯も多く存在する。
帝国では以下の種類の貨幣が発行されている。
一レミュー=五〇セリン
半レミュー=二五セリン
倍セリン=三〇〇ロデル
一セリン=一五〇ロデル
半セリン=七五ロデル
六分の一セリン=二五ロデル
一〇ロデル
一ロデル
半ロデル
半々ロデル