五六 ファディ攻防戦~後
レオポルドが目を覚ましたとき、周囲は暗闇に包まれていた。視界に映るものは闇でしかなく、微かに窓の向こうを吹く弱々しい風の音と同室で寝ているキスカとソフィーネの寝息が聞こえるのみである。
ソフィーネはモニスに避難する人々に参加せずファディに残留していた。彼女曰く、
「従軍司祭が一人くらいはいるでしょう」
とのことであった。
とはいえ、兵の多数は西方教会信徒ではないムールド人であるから、西方教会の修道女であったソフィーネでは意味がないのではないかとも思われた。
ただ、剣の修道院で磨かれた彼女の剣術は並の兵を遥かに凌ぐものであり、従軍司祭としてよりも近接戦専用の剣士として有用であると思われた為、彼女が残留することに異を唱える必要はなかった。
そこで彼女にはレオポルドの身辺警護の役割が与えられ、再び同室で寝食を共にする羽目になっていた。集会所にも兵を収容した為、部屋が不足しているのだ。
レオポルドが目を覚まし、身体を起こすとキスカを挟んだ部屋の反対側でもソフィーネがむくりと上体を起こした。
どういうわけだかレオポルドが起きると必ず彼女も目を覚ますのだ。
二人が顔を合わせて声を発する前にキスカも目を覚ます。
「どうしました」
「いや、別に、何かあるわけではないんだが……」
キスカの問いにレオポルドは何故自分が目を覚ましたのかわからないまま答えた。
その理由はすぐに明らかとなる。
三人は微かに異臭がすることに気付き、傍らの剣を引っ掴むと慌てて部屋を出た。
廊下に出ると臭いは更に濃くなった。暗くてよく見えないが、天井の辺りを煙が漂っているようにも見える。
「糞っ。焦げ臭いぞっ」
レオポルドが顔をしかめて怒鳴る。こんな夜更けに焦げ臭い煙があってご機嫌でいられるわけがない。
そこへ慌てた様子で士官たちが駆けつけてきた。
「近くにある家畜小屋が焼けているようですっ。すぐに消火の為、兵を向かわせております」
「火を付けた輩は何処へ行ったっ」
レオポルドの問いに士官は気まずそうな顔をする。その反応が答えというものだ。
「夜襲を仕掛けた翌日に意趣返しを食らうとは冗談にも程があるっ」
比較的控え目であるレオポルドにしては珍しく憤慨しているようで、キスカと士官たちは一様に申し訳なさそうに顔を伏せている。
確かにクロス卿派軍は油断していたのかもしれない。前述の如く、夜襲という戦法は滅多に行われるものではない。その上、一度こちらがやったことを、早くもその翌日にやり返してくるなんてことを誰が予想するだろうか。
勿論、戦時であるから警備体制は敷かれている。その結果、集会所や兵舎、弾薬庫、食糧庫など重要な施設は攻撃できなかったのだろう。焼かれたのが差して重要ではない家畜小屋だったことは不幸中の幸いというべきか。
とはいえ、籠城している町の中に敵兵に忍び込まれるなど論外である。レオポルドの怒りは尤もといえる。
尤もではあるが、ソフィーネは素っ気なく言い放った。
「そんな愚痴を言う前にやることがあるんじゃないですかね」
その的確な指摘にレオポルドは渋い顔をして口を閉じる。
とりあえず、現場を視察しようと一行が集会所を出たとき、ちょうど地平線に太陽が姿を現した。
薄暗かった世界に日が当たり始め、まだ早朝ともいえぬ薄暗さではあるが、互いの顔を見分ける程度の明るさではあった。
その夜明けが合図だったのだろう。
突如、鬨の声が響き渡り、レオポルドたちは唖然とした。
「してやられたっ」
レオポルドはそう叫んで駆け出すと物見櫓に上がった。
物見櫓から見ると、ブレド男爵の騎兵を含む軍勢がファディに向けて突撃を敢行していた。
一方、防衛線に配置されているクロス卿派軍は夜明けからの敵襲に対応が遅れていた。兵士たちの半分は兵舎で休みを取っており、彼らは起きたばかりで、まだ武器も手にしていなかった。もう半分の兵はどうにか武器を手に配置には付いているものの、すっかり浮き足立っている。
「キスカっ。ジルドレッド将軍を前線に送れっ。兵をまとめさせるのだっ」
レオポルドは遅れて来たキスカに指示を飛ばす。
「しかし、既に前線の維持は困難では……。ここは兵を退き、ファディの中心部の防衛に専念すべきです」
「防衛線を縮小したところで苦境を脱せるわけではないだろっ。中心部の防衛設備は前線以下なのだぞっ」
「ここは兵力の損失を抑え、アルトゥール殿の別働隊と共同での反撃に備えるべきですっ」
レオポルドとキスカが物見櫓の上で喧々諤々の論争を繰り広げるのを士官たちは困惑した表情で見つめ、ソフィーネは呆れた様子で眺めていた。
「さっきも似たようなことを言いましたけど、今、そんなことを言っている暇あるんですか」
ソフィーネに言われ、レオポルドとキスカは口を閉じる。
とにかく、ジルドレッド将軍を前線に送り、兵をまとめさせようという意見は一致した。
その直後にはジルドレッド将軍が駆けつけ、すぐさま騎乗の人となって前線に向かう。
将軍が前線に赴く前に、ブレド男爵軍は前線まで五〇フィートの距離まで迫っていた。
前線の指揮を執るジルドレッド大佐は一斉射撃を命令する。
「撃てぇっ」
マスケット銃が一斉に火を噴き、ブレド男爵軍の兵がバタバタと倒れていく。それでも、彼らは足を止めず前進を続ける。空濠の直前で再び一斉射撃が行われ、更に多くの兵が倒れる。
ブレド男爵軍は周到な準備の上で攻撃を仕掛けてきたようで、兵たちは空濠に梯子を架けて橋のようにして濠を越え、木柵に取りつくと斧や棍棒で木柵を叩き壊す。
クロス卿派軍はパイクで木柵に取りつく敵兵を突こうとするが、土塁から身を乗り出すとブレド男爵軍のマスケット銃兵に狙撃される。ブレド男爵軍は木柵を破壊する兵とそれを支援するマスケット銃兵がしっかりと役割を分担して攻撃に当たっている。
ブレド男爵軍の的確な攻撃にクロス卿派軍の諸兵の士気はみるみる落ちていく。
そこへジルドレッド将軍が騎乗で駆け付ける。
「皆の者っ。臆するなっ。しっかりと自らの役割を果たすのだっ」
将軍に叱咤され、兵たちは自らを奮い起こす。更に夜の間、兵舎に引き下がっていた兵の多くも配置に付く。マスケット銃兵が再度の一斉射撃を加え、パイク兵が敵兵を迎撃する。
クロス卿派の必死の迎撃にブレド男爵軍の損失は見る間に増えていき、空濠に並んだ前日の犠牲者の上に更に死傷者が積み重なっていく。男爵軍の攻勢はいくらか緩んでいるようにも感じられた。
「押し返せっ。押し返すのだっ」
あともうひと押しとの思いを抱きながらジルドレッド将軍が叫ぶ。
「閣下っ」
そこへ、深刻な表情を浮かべた副官が駆け寄ってきた。
「銃兵の残弾がありませんっ」
「兄上っ。銃兵の一斉射撃がなくては堪えきれませんぞっ」
弟のジルドレッド大佐が悲鳴じみた声を上げ、将軍は苦虫を噛み潰したような顔で今にも木柵を越えんとする敵兵の群れを見やる。
「致し方あるまい。これ以上の抗戦は不可能だ。全軍、速やかに撤収せよっ」
将軍は決断を下し、クロス卿派軍は直ちに撤収に移った。
この間、同時にレッケンバルム大佐が指揮を執る南側でも戦闘が行われていたが、こちらも残弾が尽き、北側が撤収した為、ファディ中心部に撤収した。
ファディはわずか二日の攻勢で中心部を残すのみとなってしまった。