五一 アイラの手料理
夕刻、自室に戻ったレオポルドが渋い顔で考え込んでいると傍らのキスカが口を開いた。
「ファディを放棄すべきです」
真正面から戦っても勝てる見込みはあまりない。また、城壁のないファディの防備は甚だ心許無い為、籠城も難しい。そもそも、援軍の見込みがない籠城など確実に訪れる悲劇を先延ばしにする効果しかない。それならば、いっそのことファディを捨てるべきではないか。と、キスカは進言した。
「元々、遊牧民である私たちならば広い荒野を敵に捕捉されることなく逃げ回ることができます。逆にブレド男爵の軍勢は終わりの見えない長期戦をせねばならず、軍資金、水、糧秣の不足に悩まされることでしょう。私たちはただ広い荒野を逃げ回れば勝てるのです」
キスカの意見は大変尤もであったが、レオポルドは慎重であった。
「せっかく手に入れた拠点を捨てるというのは……」
「拠点といっても維持できなければ無用の長物というものです。今の私たちにはこの町を守り、維持していけるだけの戦力にも事欠いているのです」
手に入れた拠点の保持は当然重要であるが、これに固執し過ぎることは戦略的に正しいこととは言い難い。
それくらいはレオポルドも理解している。彼女の言う方策が有効であることも理解できなくないが、現実問題、中々難しいと言わざるを得ない。
「そうは言ってもだな。流血を伴ってまで手に入れた拠点をそう易々と捨てるわけにはいくまい。それに、これが第一の問題だが、カルマン族が了解してくれるとは思えん」
ファディはカルマン族の町である。元々遊牧民であった彼らが定住を始めたのはそれほど昔の話ではないが、それでも今の住人はこの町で生まれ育った者ばかりである。そんな彼らに戦略上維持が難しいから家を焼き捨てろと言うのは抵抗がある。また、言ったとして快く承諾してくれる保証はない。
レオポルドにはカルマン族を説得できる自信がなかったのだ。
「では、カルマン族が承諾すれば良いのですね」
「いや、カルマン族だけでなく、他の諸部族や諸卿の意見も伺わないといかん」
ファディを放棄するという焦土戦術を行うということは、他の敵の手に落ちそうな町村についても焼き捨てていくということを意味する。つまり、他の町村を焼き捨てることをカルマン族以外の諸部族の賛同も得なければならないのだ。
レオポルドの言葉にキスカは黙って顔をしかめ、不満げな様子で呟いた。
「結局、諸卿を説得する自信がないだけでは……」
「おい、今何て言った」
主従が互いに黙って相手を見つめる険悪な雰囲気を打ち破るように、唐突に部屋の扉が開いた。
「旦那様、キスカお姉様。申し訳ありませんが、そこを空けて頂けますか」
険悪な雰囲気に物怖じもせず部屋に入ってきたのはレオポルドの事実上の第二夫人アイラであった。大きな皿を両手に抱えている。
二人が何はともあれ部屋の真ん中を空けるとアイラは部屋の中央に敷いてある絨毯の上に大皿を置いた。ムールドの風習では食事は床に座って行い、料理を載せた皿も床に置かれるのだ。
子供一人くらい載せられるほどの大きさの皿にはいい加減食べ飽きてきた羊肉の焼肉に香草入りの肉団子、付け合せの茹でたキャベツがこれでもかと盛られている。
勿論、これだけで終わりではない。続いてフィオリアが持ってきた盆には香辛料を効かせた焼き飯、蒸し餃子、牛挽肉と茄子、トマトの炒め物の皿が載っている。
レオポルドが絨毯の上に並ぶ料理の数々を見下ろしながら黙って突っ立っていると、アイラとフィオリアはさっさと部屋を出て行ってしまった。
彼はキスカと顔を見合わせると、とりあえず、絨毯の上に腰を下ろす。
暫くするとアイラとフィオリアはそれぞれに盆を抱えて戻ってきた。今度は蒸し鳥のサラダ、野菜のスープに何枚かの平べったいパン、山羊のチーズ、デザートに葡萄とイチジク、ザクロ、ナツメヤシの実、瓜が揃えられている。それにレオポルドが苦手な山羊乳の酒もあった。
「さぁ、頂きましょう」
これだけの料理を作り上げたアイラはにこにこと微笑みながらレオポルドを見つめる。
彼女が同室で起居するようになって以来、家事のほとんどは彼女の仕事となっていた。特に料理は彼女の得手で、毎日山のような料理を作ってレオポルドに食べさせようとするものだから、暑さに参っていて食欲があまり出ないレオポルドには地味に災難であった。
レオポルドは今夜も目の前に並んだ山のような御馳走を前にして、己の食欲を確かめた。この頃は暑さも一段落しているせいか、結構入りそうな気がする。
「いただきます」
帝国であれば神に食物を賜った御礼の言葉と祈りを口にするところであるが、西方教会信徒ではない人間がいることもあり、彼自身あまり熱心な信徒でもないので、簡単に食事の挨拶を口にしてから、食事に手をつけた。帝国はじめ西方各国の上流社会においてはスプーンやナイフ、フォークといった食器が用いられていたが、庶民の食卓においては手づかみの食事が基本である。貴族育ちのレオポルドも長い旅の間にこれにはすっかり慣れており、蒸し鳥のサラダを摘まんで口に運んだ。
「如何ですか」
ぴったりと寄り添うように隣に座ったアイラが料理の感想を求める。
「あ、えーと、うまい」
レオポルドがもごもごと口を動かしながら料理を褒めると、アイラは太陽のように輝く笑顔を見せて喜んだ。
「ありがとうございます。さぁ、どんどん召し上がって下さいませ。はい、あーん」
彼女はそう言うと蒸し餃子を一つ摘んでレオポルドの口元に寄せた。
「いや、さすがに、それは……」
レオポルドが謹んで遠慮しようとすると、アイラは眉を顰め、悲しげな表情を浮かべて、じっと彼を見つめた。
この表情と仕草と視線にレオポルドは弱かった。黙って口を開く。
途端にアイラの表情はぱっと晴れ渡り、嬉々として手作りの蒸し餃子を愛し君の口に入れる。餃子の中身は羊挽肉と細かく刻んだ野菜である。噛むとじゅわりと熱々の肉汁が染み出し、レオポルドは口の中を火傷しそうになりながら咀嚼して飲み込む。
「美味しいですか」
アイラの問いかけに頷くと、彼女は嬉しそうに微笑むと、更に食事を勧めてくる。
「こちらも如何ですか。とても良い味付けができたと思うのですが。あ、私としたことが、お酒を忘れておりました。すぐにお注ぎします」
「いや、その乳酒はいい」
「いえいえ、遠慮なさらず」
「そうだ。葡萄酒はなかったかな。あっちの方が……」
「葡萄酒はシュテッフェン博士があらかた飲み尽くしてしまいました。帝国人貴族の方々が私物で持っている分ならばあるかもしれませんが……」
あれほど酒を控えろと言ったのに博士にはまるで効果がなかったらしい。
レオポルドが嘆息する間に杯には山羊乳の酒が注がれていた。生臭く酸っぱい臭いがする白濁したどろどろの酒だ。味はまず強い酸味があり、微かに甘い。あまり強くはないが、彼はとても苦手としていた。
「さぁさぁ、どうぞ」
「いやいや、遠慮したいのだが」
「遠慮せず酔って下さっていいんですよ。酔っても私が介抱して差し上げますから」
アイラはまるでそうなることを期待しているかのように杯を手に持って勧めた。山羊乳酒を遠慮しようとするレオポルドと軽くもみ合いになり、杯から少し酒が零れ、二人して慌てたり、なんだかおかしくなって笑いあったりしているのをフィオリアは物凄い顔で睨んでいた。
「なっ。フィオ、どうした……」
彼女の壮絶な顔を見たレオポルドはぎょっとして尋ねた。
「何がっ」
「何がって……その顔は何だ」
「あたしの顔は前からこんなだけどっ。何か文句でもあるのっ」
「何もないです」
レオポルドは釈然としない様子で言い、食事を続ける。
「そうだ。この肉団子も食べて下さい。良い味付けに仕上がったと思うのですけれど」
アイラは何事もなかったかのように肉団子を摘まんでレオポルドの口元に寄せ、
「あーん」
と、どこか艶っぽい声で口を開けるように促す。
抵抗しても無駄だと既に理解しているレオポルドはおずおずと口を開いて肉団子を迎え入れる。
「ちょっとっ。さっきから、何やってるの」
レオポルドが香草の香り広がるあまじょっぱい肉団子の味を噛み締めていると、再びフィオリアが刺々しい声を出す。その矛先は今度はアイラに向けられている。
「子供じゃないんだから、食事くらい一人でできるでしょ」
「夫の君の世話をするのは妻として当然の務めです」
「まだ結婚してないでしょっ」
「まだ、していないだけで私の心身は既に旦那様のものですわ」
そう言ってアイラはレオポルドを上目づかいで見つめる。
「肉団子の味は如何でしたか」
「うむ。うまかったよ」
「じゃあ、私にも食べさせて下さい」
「うぇっ」
アイラのお願いにレオポルドは思わず変な声を上げる。
「ちょっとっ。何でそうなるのっ」
フィオリアも顔を真っ赤に染めて声高に叫ぶ。
「神は仰いました。夫婦は物を分け合い、与え合い給え。と」
彼女の言う神が西方教会における神かムールド人土着の宗教における神かは分からなかったが、確かに言いそうなことだ。聖典のどこかに載っていてもおかしくはない。
「ですから、私にお恵みを頂けませんか」
頼んだわけではないが先程まで食べさせてもらっておきながら、こちらの番が来たら拒否するというのは理不尽な気がして、レオポルドは言われるがままに肉団子を摘まんで彼女の口に入れてやった。アイラは肉団子を早々と咀嚼して飲み込むとレオポルドの手を掴み、その指を一本ずつ口に含み、指先についたタレを舐め取っていった。五本の指を舐めしゃぶってすっかりタレを舐め取ると、にっこりと微笑む。
「旦那様が与えて下さったせいか大変美味でございました」
「そ、それはよかった……」
レオポルドは真っ赤な顔でどうにかそれだけを言った。
「ちょっ、ちょっとっ。あんたら、何やってんのっ」
目前で起きたあまりの出来事に声も出なかったフィオリアがようやく声を取り戻し、顔を朱に染めて怒鳴り出す。
それまで黙々と食事を続けていた。キスカもさすがに見逃すことができなくなったのか、アイラをじっと見つめる。
「キスカお姉さま。何か。私の顔に何か付いています」
「いえ、貴女にちょっとお願いが」
そうして、彼女が言い出したのは今までの流れと全く関係ないことでレオポルドとフィオリアはキスカのマイペースにがっくりした。
キスカのお願いというのはクロス卿派が現在直面しているブレド男爵に対して取るべき戦略についてであった。彼女はファディはじめとする町村を捨て去る焦土作戦を取るべきと主張していた。そこで問題になるのが町村に住んでいるムールド諸族から承諾を得られるかというものである。彼女はこの承諾をアイラを通じて得んと考えた。
しかし、レオポルドの婚約者で族長の孫娘とはいえ、彼女の発言力はそれほど強くはないし、軍事作戦について口出しできる立場にもない。ムールド人の文化は女は家を守るものであり、政や軍に口出しするなど以ての外という風潮が強かった。今のキスカは極めて例外的な存在である。
そこでキスカは一計を案じ、アイラに協力を求めることにした。
「なるほど。それは私たちの旦那様の御為になるのですね」
話を聞き終えたアイラが言うとキスカは黙って頷き、続いて視線を向けられたレオポルドも首肯した。
「それならば、微力ながら尽力させて頂きます。きっと旦那様の望みに叶うよう働いてみせます」