五〇 ブレド男爵の目的
レオポルドらクロス卿派がファディの戦いに勝利し、親帝国的な七長老派と呼ばれるムールド人の七部族を従属させてから、およそ一月が経とうとしていた。
レオポルドが帝都を発ってからは半年近く、ハヴィナを脱してから二月もの時間が経過している。
この間に、酷い時には最高気温四〇度にも迫ろうかという帝国南部の厳しい夏も終わりが見え始めていた。
南部の暑さは酷いものだったが、元より南部に住んでいるキスカやムールド人たち、ソフィーネはじめ他の南部在住の帝国人にとっては比較的慣れたもので、暑さに辟易とはしていたが、平気そうであった。
しかし、基本的に冷涼な気候である帝都で育ったレオポルドとフィオリアは連日の酷暑にすっかり参ってしまっていた。元々、彼女は部屋の中にいるよりも外出を好む性質だったのだが、この暑さでは外に出るのも嫌なようで、部屋の中に引き籠って大人しくしていることが多くなっていた。
彼女に比べるとレオポルドはその身に流れるフェルゲンハイム家の血のおかげかまだ平気ではあったものの、それでも日中は屋外には出ず、もっぱらファディの集会所の自室かレオポルド室に引き籠っていた。
レオポルド室ではレッケンバルム卿から回されてきたり、ムールドの諸部族が知らせてきたりする情報をまとめて整理し、分析をしたり、対クラトゥン族対策として整備が進んでいる砦群の建設・整備の計画を立て、逐次着工の指示を出し、人員や資材の割り振りを行ったり、来るべきブレド男爵との対決に備えて、武器・弾薬・糧秣等の備蓄を監督したりしていた。つまり、やることは山ほどあった。
昼から葡萄酒を飲んでへべれけになっているシュテッフェン博士を横目に見ながら山のような書類に目を通し、疑問に思ったところや気に入らないところは直すように書記のコンラートに指示を飛ばし、砦の工事現場から上がってくる人手と資材の陳情に頭を悩まし、レッケンバルム卿の御小言に頭を痛め、エリーザベトの我儘を聞き流し、アルトゥールが起こしたトラブルの処理をキスカに丸投げしたりしていた。
アルトゥールは軍人としては優れた人物なのかもしれないが、今のところ、レオポルドにとっては厄介事製造機みたいなものであった。
彼はレッケンバルム卿のようにムールド人を蔑むようなことはなかった。卿のように異民族を遠ざけ関わり合いを避けようとはせず、むしろ、好奇心からか積極的に関わり合いを持とうとしていた。が、その関わり合い方が問題である。
ムールドの女性は家族以外の男との接触は医療行為等以外は固く禁じられている。ということをキスカに平手で打たれて学んだはずなのに、相変わらず美しい女性とみるや声をかけ、散歩やらお茶やらに誘い、その女性の親族から抗議されるという事件を既に五回も起こしていた。
更には、そこら中を騎馬で駆けまわったり、訓練なのか小銃を撃ち放ったりするものだから、驚いた家畜の羊が四散したり、赤ん坊が泣いたり、老人が仰天して腰を抜かしたりして、住民からレオポルドの元に幾度も抗議が寄せられた。
これらの事件が起こる度にレオポルドはムールドの住民たちの説得はキスカに任せ、自身はアルトゥールに大人しくしていてくれと懇願する羽目になった。
それでも、アルトゥールという人物は大人しくしているのが性に合わないようで、暫く静かだと思っていても、またぞろ事件を起こしたという知らせを耳にするのだった。
「あの人は何とかならないのですか」
普段無口で無表情なキスカにしては珍しくむっつりと不機嫌そうに、その不機嫌さを隠そうともせず、彼女は不満を口にした。
「あの人、とは」
レオポルドの問いに彼女の表情は更に不機嫌さを増す。言わずともわかるでしょうとでも言いたげである。
「また今日も女性に声をかけたそうで。しかも、ニーヤにです。先週声をかけて、ニーヤの御父上と斬り合いになりかけたばかりですよっ」
「それは、なんというか、斬られそうになっても、また声をかけたくなるほど美しい娘さんなんだろうな」
キスカの憤然とした声にレオポルドはとぼけた答えを返す。この答えでキスカは尚一層機嫌を損ねたらしい。
「ええ、ファディでも評判の器量良しですよ。お望みならレオポルド様の面前にお連れしましょうか」
刺々しくそう言うと、足音高く響かせながらレオポルド室を出て行ってしまった。
残されたレオポルドは困惑とも安堵ともつかぬ表情を浮かべて頬を掻いていた。
「レオポルド様。今のはよくないと思います」
事務掛のリゼがしかめ顔で言い、書記のコンラートも無言で頷いた。
そんなこと言われんでもわかっている。と、レオポルドが言い返そうとする前に、今しがた、部屋を出たばかりのキスカが舞い戻って来た。
何事かと視線を向けるレオポルドたちに、キスカは先程までの不機嫌さはすっかり影を潜めている。鋭い瞳でレオポルドを見据え、真剣そのものの表情で言った。
「ブレド男爵軍がハヴィナを発つそうです」
サーザンエンドの首都ハヴィナを抑えるブレド男爵が軍勢を率いて向かうとなれば、その目的地は限られる。最有力は当然ここである。
「それは確かなのか」
思わず席を立って尋ねると、キスカはこっくりと頷いて続ける。
「今さっき、レッケンバルム卿の使者から報告を受けました。卿は直ちに対策の為の会議を開催したいと仰っておられます」
異論などあるはずがない。
何度目かになる合同会議は、この日の夕方に行われた。
「ブレドは騎兵一〇〇〇と歩兵一〇〇〇。それに五門の砲から成る軍勢を編成し、南部へ向けて進軍を開始するつもりであるという。既に兵は召集され、武器弾薬、糧秣などを荷駄に積み込む作業は開始されておる。無論、これはハヴィナに潜伏しておる我が配下の報告である。ハヴィナの部下が記した報告が私の元に届くまで数日から一週間はかかる故、若しかすると、ブレドの軍勢は今頃、ハヴィナを発している可能性も否定できぬ。忌々しき異教の輩めっ。地獄に落ちろっ」
会議冒頭、レオポルドが口を開く前にレッケンバルム卿が心底不機嫌そうな口調で一気に言い放った。
西方教会信徒ではない、つまり、異教徒であるムールド人の長老たちは渋い顔をしたが、何事も言わず黙っていた。
「ブレド軍は二〇〇〇か。別働隊がある可能性は否定できんが、思ったほど多くはないな」
レッケンバルム卿からの情報を聞いたジルドレッド将軍が意外そうに言った。
「ウォーゼンフィールド男爵の軍やその他の中部の小領主の軍勢を糾合すれば五〇〇〇は固いと思っていたのだが」
「ブレド男爵もまだ中部を掌握しきれていないのでしょう。ウォーゼンフィールド男爵もハヴィナの教会もブレド男爵の従属下というわけではありませんからな」
将軍の言葉を受け、バレッドール准将が予測を口にする。
「それに北部のガナトス男爵やドルベルン男爵にも警戒せねばなりますまい。全軍をこちらに振り向ける余裕はないでしょう」
更にルゲイラ兵站監が続け、一同は納得したように頷く。
「たとえ、敵が二〇〇〇であったとしても我が軍の劣勢には変わりないがね」
そこへ帝国側の席の下座に腰を下ろしたアルトゥールが何故だか楽しげに言い、咸宜の参加者の顔を顰めさせた。
クロス卿派の戦力は騎兵一二〇余騎。マスケット銃を装備した帝国人歩兵二〇〇。その他、ムールド人軽騎兵五〇〇とムールド人歩兵五〇〇といったところである。二〇〇〇には遠く及ばない。
揃って憮然とした顔をする合同会議の面々を見て、アルトゥールはニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべていた。
場の空気が落ち込む中、最上座にあるレオポルドはどのようにしてブレド男爵軍を迎え撃つべきか黙考していた。
以前、クロス卿派が首都ハヴィナを逃れ、南部へ落ち延びる際にはレオポルドが帝国本土の教会やサーザンエンド北部の諸侯と繋がりがあるような偽の手紙を相手に読ませ、追撃に慎重になるよう仕向けたものであったが、もうこの手は使えないだろう。
今回、ブレド男爵は十分な戦力を残して南下してくる為、北部諸侯からの介入があっても、中部で反抗的な動きがあっても対応は可能である。
ハヴィナの教会を利用する手も通用しない。前回はハヴィナの目と鼻の先で正教徒であるレオポルドたちが異教徒の軍に殺戮されるのを無視した場合、教会本部から糾弾されるということを想起させ、教会に追撃を阻ませんとした。
しかし、今回はハヴィナから遠く離れた地のことで、ハヴィナの教会が関知するものではなかったとの言い訳が利く。実際には知っていたとしても十分に言い逃れは可能だ。
また、レオポルドたちは異教徒であるムールド人と誼を通じている。これでは正教徒対異教徒という図式が成らず、異教徒同士の戦いとして見做される。勿論、実際のところ、クロス卿派を主導するのは西方教会信徒の帝国人なのだが、そんなものは知らぬ存ぜぬを決め込めばいいだけの話であり、口封じに殺してしまえばいいだけの話だ。
そういったわけで、今回のところは手紙作戦を展開しても効果は薄そうだ。
次に考えるところはブレド男爵の目的である。聖オットーの戦いから二ヶ月に渡ってレオポルドたちを放置してきたブレド男爵は何故今になって軍を起こしたのか。
今までクロス卿派が放置されてきたのはブレド男爵にとって脅威となるほど強力な勢力ではなく、いつでも掃討できる程度の勢力でしかなかったからである。サーザンエンド中部を十分に掌握しきれているとは言い難い男爵にとって前辺境伯軍の残党掃討などは後回しにしてもいい事案だったのだ。第一に優先されることはハヴィナとサーザンエンド中部の掌握。次に辺境伯の椅子を手に入れる方策である。この両方が確定してから反抗的な勢力をゆっくりと料理してやってもよかったのだ。
しかし、ここで突発的な事件が起きた。辺境伯の椅子を手に入れる為の重要な駒を取りこぼしてしまったのだ。彼女との婚約によって男爵は辺境伯継承の正当性を手に入れることができるはずだった。つまり、ウォーゼンフィールド男爵の娘エリーザベト家出事件のことである。
つまり、今回のブレド男爵の目的はエリーザベトということになる。彼女の身柄を手に入れるべく男爵は軍を起こした可能性が非常に高い。小娘一人の為に軍を起こすのは如何なものかとも思えるが、彼女にはそれだけの価値がある。
それに王侯というものは、しばしば、些細なことで戦を起こすものだ。西方の大国リトラントの中世の王たちは后を迎える度に新妻に良い顔をしたいのか、せんでもいい戦をするのが慣例であった。そして、夫が戦陣にいる間に新妻の寝所には早くも間男が入り込んでいるというところまで含めて慣例であった。
さて、男爵の目的がエリーザベトだとなると、彼女を捕捉させないことがレオポルドにとって最優先すべきことである。彼女の身柄を手に入れれば男爵は兵を退くだろう。
しかし、その後、彼は首尾よく辺境伯の座に就くことが可能となる。レオポルドにとっては最も避けなければならない事態である。
合同会議では結局、今後の方針についての結論は出ず、明日午前に改めて会議を開催することとされた。
会議の模様をキスカは黙って眺めていた。