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サーザンエンド辺境伯戦記  作者: 雑草生産者
第四章 縁組
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四九 アルトゥールの悪行

「その装束を着ているということは君は修道女なのかな。それに、その腰の十字剣は……。もしや、君は剣の修道院の者かな。いや、黒髪の修道女など初めて見たものでね。世人は黒髪と見るや否や悪魔の使いだの魔女だのと騒ぎ立てるが、全く下らんことだと思うな。こんなにも美しいというのに」

 そこまで言ったところで、アルトゥールは近くの廊下の角を曲がってきたレオポルドたちに気付いた。

「アルトゥール兄様……。何をなさってるんですか……」

 エリーザベトが怒ったような呆れたような顔で尋ねるとアルトゥールは苦笑いを浮かべながら答える。

「いや、何も。ただ、彼女に少し興味があってね」

「用がないのならば失礼します」

 アルトゥールに話しかけられ迷惑そうな顔をしていたソフィーネは素っ気なく言うと、さっさと立ち去ってしまった。

 未練もなくソフィーネを見送ったアルトゥールは視線をレオポルドに向ける。短い顎鬚を撫でながらレオポルドを値踏みするように見下ろす。アルトゥールはかなり背が高く、それほど小柄ではないレオポルドを見下ろすような恰好になった。

「それで、君がレオポルド君か。随分と若いな」

 軽く微笑を浮かべながら言うと、すぐに視線をその傍らに立つキスカに向けた。

「これはこれは、お美しいお嬢さん。世界の果てとも言える辺境の地で貴女ほど美しい方に出会えるとはなんという僥倖か。お名前を伺っても宜しいですかな」

 アルトゥールはキスカに爽やかな笑みを向けて尋ねる。

 彼女は無表情のまま黙ってレオポルドの顔を見た。何か意味ありげな仕草だが、意味が分からずレオポルドは困惑した顔で顎を掻いた。

 すると、キスカは無表情のまま、アルトゥールを見つめてようやく応えた。

「キスカと申します。レオポルド様の忠実なる下僕です」

 キスカの自己紹介を聞いたレオポルドはぎょっとして彼女を見る。キスカは無表情で黙っている。

 アルトゥールはキスカとレオポルドを交互に見つめて口端を吊り上げて笑った。

「成る程。彼女が噂に聞くクロス卿のサーベルかね」

 どうやら、彼女の存在はどこかしらで噂にされているらしい。しかも、クロス卿のサーベルなるあだ名めいたものまで付けられているようだ。

「クロス卿の為に一族郎党を尽く斬り殺したというのは真かね」

 アルトゥールの不躾な問いにレオポルドは思わず顔を顰めた。初対面にして、そのようなことを聞くとはなんと無神経なことか。かようなことを話題に出しても、彼女が平気だとでも思っているのか。

 キスカは表情薄く感情を表にあまり出さない娘だが、勿論、全く無感情な人間ではない。一族を自らの手で殺めたことを強く悔み、激しく嘆き、深く悲しんでいたことをレオポルドはよく知っている。

「我が身と心はレオポルド様のものなれば、主に仇なす輩を斬るは当然のこと。例え、それが親兄弟であろうとも剣を振るう手に迷いが生じることなどありません」

 レオポルドの心配を余所に、キスカは氷のように冷たい無表情ではっきりと言い放った。

「ふむ。成る程。忠実無比と称されるわけだ。しかし、この美しい手で剣を握り、血濡れるのは感心できませんな」

 そう言ってアルトゥールはキスカの手を取って、その甲に接吻した。

 帝国はじめ西方諸国の貴族社会ではごくごく一般的な淑女に対する挨拶であるが、しかし、それはあくまで帝国人の常識だ。ムールド人は違う。

 今までずっと彫刻のような無表情顔を維持していたキスカは途端に顔を朱に染め、目を怒らせて無言でアルトゥールの手を払い除け、その頬に綺麗な平手打ちを食らわせた。

 パッチーンと見事に綺麗な音が廊下に響き渡る。

 レオポルドとアルトゥール、エリーザベトは唖然としてその場に突っ立っていた。

 憤怒の形相のキスカは、アルトゥールを軽蔑するような目で睨んだ後、無言のまま大股で歩いて行ってしまった。

 レオポルドははっとして、歩き去るキスカと固まったままのアルトゥールを交互に見つめてから、とりあえず、アルトゥールに詫びることにした。

「あ、あー。大変申し訳ありません。なんといいますか、あー、ムールド人の風習では手の甲に接吻する行為はやってはいけない行為でして」

「いやいや、大人しい娘かと思いきや中々どうして面白い娘ではないか」

 アルトゥールはレオポルドの謝罪を聞いているのかいないのか、打たれた頬を撫でながらキスカの背中を見つめ楽しげに笑った。

 とりあえず、それほど機嫌を損ねていないことにレオポルドは安堵した。

「それでは、これで」

 彼はてきとうに言うと、キスカの背中を追った。

「あっ、クロス卿っ。私の部屋の件はっ」

 エリーザベトに叫ばれて、彼は当初の目的を思い出す。が、それよりも、今は優先すべきことがある。

「後ほど検討します」

 レオポルドは役人のような台詞を残してキスカを追いかける。


「キスカ、さっきのは、あー、なんていうかだな」

 キスカに追いついたレオポルドは、いつも無表情である彼女が明らかに不機嫌な顔をしながら、アルトゥールに接吻された右手の甲をしきりと身に纏った衣で拭っているのを見て、言葉に迷った。

「あー、帝国式の挨拶でだな」

 レオポルドが言い訳がましく言うと、キスカは不意に立ち止まると、彼をきっと睨みつけた。

「ムールドでは家族以外の男が女性に触れることは、医療行為など一部の例外を除けば絶対に許されぬ罪です。ましてやましてや」

 キスカは音が鳴るほど奥歯を噛み締めてレオポルドを睨みつける。

「接吻するなど、断じてあるまじき、不埒なる醜行ですっ」

「そ、そう、なのか……」

 キスカの気迫に押され、レオポルドは硬い表情でとりあえず頷く。

「ムールド人の間であれば、決闘するに値する侮辱ですっ。その不埒者の血をもって恥辱を雪ぐより他なしとされる悪行ですっ」

「いや、しかし、帝国では通常一般的に行われる挨拶であってだな。アルトゥール殿は、その、ムールドではそういう意味を持つということを御存知なかったのであろう」

 何故、自分がこんなに怒られながらアルトゥールの行為の釈明をしなければならないのか疑問に思いながらレオポルドが説明すると、キスカは相変わらずの険しい表情ながらも深呼吸をして口調を落ち着ける。

「ええ、そうでしょう。そうなのでしょう。しかし、帝国の方々は民族によって風習や文化が異なることを理解し、その上で行動すべきです。自らの価値観が普遍であるとするのは傲慢というものです」

「勿論、その通りだ。帝国といえど、民族の風習や価値観、文化を尊重すべきだな」

 相変わらず刺々しいキスカの言葉に、レオポルドはしきりと頷いて彼女の言に同意する。

「無知は罪ではありません。知らなければ学べばよいのです。故にアルトゥール様の血を求めることは致しません」

 キスカは渋々といったふうにそう言うのであった。ほとんど本気でアルトゥールの血を求めることを考えていたらしい。レオポルドは冷や汗を流す。

「しかし、あの汚行は断じて許せません。故に、私は一切謝罪するつもりはありません」

 彼女はレオポルドをまっすぐに見つめたままきっぱりと言い切った。

「あぁ、それは、うん。いい。謝る必要はない」

 レオポルドはいつの間にか額に浮かんでいた脂汗を拭いながら言った。アルトゥールはそれほど気にしていなかったようだから、謝罪を巡って紛糾するということはないだろう。

 とりあえず、大きな問題に発展する芽はないようでレオポルドは密かに安堵の息を吐いた。

「……貴方は、いいんですか」

 ハンカチで額の脂汗を拭っていると、キスカがぼそりと呟くように言った。

「俺が、何だって」

 レオポルドが首を傾げると、どういうわけだかキスカは今日最も不機嫌そうな顔になって彼を睨んだ。あまりの眼光に、思わずレオポルドが後退りするほどだった。

「何でもありませんっ」

 キスカは明らかに何でもなくなさそうな顔と口調で言い、再び大股で歩き始めた。

 レオポルドは釈然としない思いで首を傾げながら彼女の後を追う。

「ん。そういえば、俺は問題ないのか。俺は君の家族というわけではないが」

 ふと疑問に思って尋ねると、キスカは無言で歩きながら、徐々に顔を朱に染めていく。顔を前に向けたままぼそりと呟く。

「貴方は、特別、です」

 どうやら医療行為以外でも例外はあるようだ。

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