五
レオポルドが質に入っている自身の屋敷に戻ったとき、日はすっかり沈んでいた。
夕暮れ過ぎの街に人影はなく、人々はすっかり家々に閉じ籠ってしまっているようだった。一般庶民の住む街区であれば、飲食を提供する店は掻き入れ時で、多くの客で賑わい、喧噪が外にまで漏れているものだが、上流階級が住まうこの街区ではそういった喧噪とは無縁で、ひっそりと静まり返っていた。
クロス家の屋敷も街の通りと同じように人気も絶え、閑散としている。
とはいえ、この家の場合、閑散としているのは昼も夜も朝もであり、たぶん、この先、フィゼル家に売却され、他の誰かに売却されて新たな住人が入るまでこのままなのだろう。
レオポルドは己の生家の運命に嘆息しながら玄関の戸を押し開けた。
「ぐぉ、何だっ」
そして、顔に叩きつけられた煙に驚愕した。見れば、玄関入ってすぐの広間には灰色の煙が充満していた。喉や鼻は詰まって息苦しくなり、目は棘が刺さったように痛む。
煙の中、目を凝らすと広間の中心で火が焚かれていた。
「何でだっ」
レオポルドは驚愕のあまり絶叫する。
「あ、おかえりなさいませ」
煙の中から目ざとくレオポルドを見つけ出した南部の異民族ムールド人の娘キスカが丁寧に挨拶の言葉を口にした。
「何を燃やしてるんだっ」
「あ、えと、乾燥させた牛糞です」
レオポルドが叫ぶとキスカはおずおずと答えた。その答えを聞いて彼は再び叫ぶ。
「牛糞だとっ」
「あの、私たちの生活では牛糞を燃料とするのが一般的なもので」
「牛糞を燃料にだとっ」
レオポルドは驚愕した。牛糞を燃料に使うなど、一応、貴族の端くれである彼には思いもつかぬことだった。
「しかし、臭くないのか」
「いえ、よく乾燥させた牛糞は臭いませんし、焼いても嫌な臭いはありません」
言われて、レオポルドは改めて周囲の臭いを嗅いでみた。煙たいが確かに糞のような臭いはしない。それどころか少し甘い臭いがする。
「それにしても、何故、牛糞を燃料にせねばならんのだ」
「私たちの住む地は荒野と砂漠で燃料にできる薪を十分に確保できないのです」
そういえば、聞いた話によれば、ムールド人が居住する地域は荒野と砂漠であり、薪を生み出す木々が存分に生えているという地勢ではないはずだ。
「なるほど。牛糞は貴重な燃料なのだな」
レオポルドは納得した。限られた資源の中でも上手く生き抜く人々の生活の知恵に関心した。
「て、違うっ」
そこで彼は話が横道にずれていることに気付いて叫んだ。向かい合っていたキスカは驚いて体を震わせた。
「俺が問うているのはそんなことではないっ。何を燃やしているかは問題ではないのだっ。 何故、お前がこんなところで焚き火をしているのかを聞きたいのだっ」
「えーと、食事の用意を……」
見れば、確かに焚き火の上には何処かからか拾ってきたと思われる煉瓦や石が置かれ、簡易な竈のような仕組みになっていた。そこでは肉が焼かれ、鍋が温められている。
「料理をするのはいいが、どうして家の中でやっているんだっ」
「いつも、家の真ん中で火を熾して料理を作るものですから……。しかし、私たちの住んでいる家では火を熾しても、こんなに煙たくならないのですが……」
レオポルドの怒声にキスカは困惑した顔で呟く。
「君の住んでいる家ってのはどんなんだ」
「えっと、羊の毛で作ったフェルトの天幕のようなものです。屋根には穴が開いていて……」
そこまで話してキスカは口を閉じた。
レオポルドは思い切りしかめ面で彼女を睨む。キスカは顔を背けた。
「いいか。この家は煉瓦でできている。見ての通り天井には煙を逃がす穴なんぞ開いていない。通気性は全くと言っていいほどない。食事を作るときは別棟にある厨房で作る。そこには換気のできる窓もあるし、煙突を備えたコンロもある」
レオポルドはくどくどと説教臭いことを言い募る。キスカは決まりの悪そうな顔で俯いていた。
「つまり、俺が何を言いたいかというとだな。ここはっ、この広間は飯を作るところじゃないし、ましてや火を熾して焚き火をやるところじゃないってことだっ」
その後もレオポルドはくどくどくどくどと小うるさいことを言い続けていたが、いよいよもって広間に煙が充満し、あわや両名とも窒息か中毒しかねない事態になりかけた。
二人は慌ててドアというドア、窓という窓を開け放って煙を外に逃がした。
煉瓦の家に密閉されていた煙が一斉に外へと放たれ、煙は夜空へと立ち昇っていく。
これを見た周辺の住民が、すわ、火事かと街区の警視に通報したのは全く当然の行為であろう。
警視は帝都総裁の下で帝都の安全や治安を司る公安長官の指揮下にある役人で、帝都を三三に区切った街区ごとに駐在している。彼らはそれぞれ五十人ほどの巡査を率いており、犯罪を取り締まり、風紀を維持し、街区の清潔を保ち(ゴミ処理は警視の管轄であった)、そして、火事や災害の防止に務めている。その為、住民は火事を発見せし時は直ちに警視に通報し、その指揮の下、消火に当たることと定められていた。
警視は直ちにクロス家へ飛んできて家の門を叩き、応対に出たレオポルドに何事かと問い質す。
レオポルドはちょっとした小火だとかなんとか言って、どうにかその場を逃れることに成功した。
警視はとりあえずは彼の言葉を信じたようで、火の取り扱いには十分に注意するようにと言い含めて去っていった。破産したとはいえ相手が貴族では強く言い難かったのかもしれない。
「やれやれ、厳重注意程度で済んだとは運が良かった」
レオポルドは警視が去った後、玄関のドアを閉めながら、ぶつぶつと一人呟く。
消火設備が未だ十分に整備されていない都市にとって火災とは悪夢に他ならない。特に風の強い日や乾燥した日などは都市を一つ丸ごと円焦げにしてしまうことすらあり得る。そうなったときの人的災害には誰もが目を覆いたくなるだろうし、復興に要する費用を考えると都市の財務関係者はぞっとするだろう。故に行政はもとより市民の自治組織も失火に際しては非常に神経を尖らせており、不注意な失火をしたともなれば、その家主は最悪逮捕されることすらあり得る。
そう考えれば、今回のように煙を大量に家から吐き出すなんていう、すわ大火事かと勘違いされるような紛らわしい行為をしたレオポルドにはなんらかの行政処分や制裁があってもおかしくはない。
まったく本当に運が良かった。と、そう思ってから、彼はふと思い出した。確か、レイクフューラー辺境伯は帝都の治安維持を司る公安長官の職に就いていたはずだ。若しかすると警視は辺境伯邸に頻繁に出入りする自分に下手に手を出すと上司である公安長官の機嫌を損ねるのではないかと考えて不問に付したのかもしれない。
「申し訳ありませんでした」
そんなことを考えていると、不意に足元から謝罪の声が聞こえてきた。
見下ろせば、例の失火の原因たるキスカが平伏していた。
「やめろ。そんな自分を貶めるような真似をするな。気分が悪い」
レオポルドは顔をしかめて言い捨てる。彼は貴族という身分であるにも関わらず、誰かにへりくだった言動をされるのが好きではなかった。父親が常々言っていた平等思想とかそういうものの影響かもしれないが、とにかく、下僕に傅かれて踏ん反り返っているのは性分ではないのだ。
キスカは顔を上げて、口を開けたり閉じたりしてから先程まで火が焚かれていた床に視線をやる。当然のことながら焚き火をしていた床は見事に焼け焦げていた。
「ふぅむ。こりゃいかんな。ここら辺の石を剥がして敷き直さんと話にならん」
レオポルドは顎を撫でながら焼け跡を眺める。キスカは余計にしょんぼりした。
「とはいえ、ここはもう人にやってしまう家だ。俺の知ったことじゃない」
彼は人の悪そうな笑みを浮かべて言った。
「この焼け跡を見たあの強欲なフィゼル家の連中がどんな顔をするか見物だな。とはいえ、その頃にゃあ、俺はとっくに帝都を出て南に向かっているだろうがな」
その言葉に、キスカははっとして顔を上げた。
「で、では、あの、来て、頂けるのですか」
キスカは期待に満ちた顔で立ち上がり、レオポルドを見つめながらにじり寄る。レオポルドはその勢いにたじろぎ後退りながらも頷いた。
「その前に聞きたいことがある」
彼の言葉にキスカは顔に出ていた期待を引っ込める。
「お前の目的は何だ」
「貴方に仕え、サーザンエンドへとお連れすることで……」
「それは聞いた」
レオポルドは彼女の言葉を遮り、鋭く彼女を睨む。
「俺が聞きたいのは、そんなことじゃない。何故、お前が俺をサーザンエンド辺境伯にしたいかだ」
キスカは薄い唇を開けたり閉じたりを繰り返し、結局、声を発しなかった。
「俺が想像するに、お前は、というか、お前の属する部族はムールド人の中でも帝国に近しい、今まで帝国側に立ってきた部族なのだろう。お前たちはサーザンエンド辺境伯が空位になり、帝国の力が後退するのを望んでいないんじゃないか」
そもそも、全く面識のないキスカが何の理由もなく、レオポルドを辺境伯位に就ける為に尽力するなんてことがありえるはずがないのだ。そこには必ず何かしらの理由や思惑があるはずだ。
プロア司祭の話を聞いて、レオポルドが推測したのが前述のとおりの理由だった。
つまり、キスカはフェルゲンハイム家の血が流れるレオポルドを利用して、サーザンエンド辺境伯の勢力を保ち、己の部族の優位性を維持したいのだろう。レオポルドはキスカの部族の利益の為に利用され、権力闘争に巻き込まれ、かなりの確率で戦乱に身を投じる羽目になり、若しかすると傷つき、最悪、命を落とすかもしれない。
レオポルドの問いにキスカは何も言わなかった。その沈黙こそが回答であるといえよう。
自身の推測が正しかったことにレオポルドは納得したように一人頷く。
「まぁ、そんなことはどうでもいい。聞いたのは確認してみたかっただけだ」
キスカは目を丸くしてレオポルドを見つめた。
「お前の言葉を全て信用したわけではないが、確かにサーザンエンド辺境伯位は空白の状態が続いていて、俺が付け入る隙もあるようだ。それに、まぁ、俺自身この町に居場所がない。行く当てもない。ともすれば、都合よく目の前にぶら下がった毒入りかもしれない果実にも飛びついてしまうというものだ」
彼は自嘲気味に言って苦笑した。
「俺とお前の利害が一致しているのだから何も問題はあるまい」
キスカは黒い瞳で、レオポルドを真っ直ぐに見つめて言った。
「御安心を。何があろうとも、どんなことがあろうとも、レオポルド様の御身は私が身を挺して、誰からも何からもお守り致します」
『ムールド人』
サーザンエンドの南部ムールド地方に住む異教の民族。
元々は遊牧民であり、未だに多くの部族は遊牧生活を送っているが、一部の部族は定住化しており、小規模なオアシス都市を建設している。
古来から大小二〇~三〇ほどの部族に分裂しており、牧草地や水地、交易ルートなどを巡って互いに争い、内紛が絶えない。
部族の意思決定は長老や有力者たちの合議によって決められることが多く、多くの場合、族長は部族会議の議長、部族の代表といった役割で他の者を支配しているわけではない。
ムールドと他の民族を区別しており、ムールド内部のことに外部の者が口出しすることを好まず、介入を拒む傾向が強い。
馬術に優れた者が多く、優秀な騎兵として傭兵稼業に就く者も多い。