四六 レオポルドの同居人
「おはようございます」
そう言って、唐突にドアが開けられて、寝起きでぼぉっとしていたレオポルドの目は一気に覚め、今まさに義理の弟を起こそうとしていたフィオリアは驚き、既に起きて朝の鍛練を済ませてきていたソフィーネはぎょっとして、甲斐甲斐しく軽い朝食を用意していたキスカは無表情で視線だけを入り口に向けた。
いきなり、ドアを開けたのは寝起きの目も覚めるような美人だった。
赤銅のような褐色の肌に栗色の長い髪。くっきりと大きな灰色の瞳に高い鼻。高く張った乳房に蠱惑的なラインを描く体つきの美しい娘で、レオポルドたちもよく知っている少女である。
カルマン族の族長オンドルの孫娘アイラは四者四様の視線を受けても平然と堂々と部屋に入って来た。レオポルドの傍に跪き、その手を取って、ぷっくりと柔らかな桃色の唇をそっと押し当てた。微かな薔薇水の香りがふわりと鼻腔をくすぐる。
「私の心の恋人、我が身よりも愛しき人、我が瞳の涼しさよ。今日は御主人様にお願いがあって参りました」
「え、あ、あぁ、何かな」
ほとんど婚約者と決まりかかっている美少女の申し出に寝起きのレオポルドはしどろもどろになりながら応じる。
「私を旦那様のお傍に置いて頂きたいのです」
アイラはレオポルドの手を取り、上目使いで見つめながら言った。
まだ婚約は確定したものではないので旦那様と呼ばれるのはおかしいのだが、レオポルドはその点については気にしないことにした。
「婚礼を挙げられないのは今の情勢から止むを得ないことと理解しております。南にクラトゥン族、北にブレド男爵という敵対的な勢力に挟撃された状態にある中、祝事をする余裕などありませんもの」
アイラは流暢な帝国語で言い連ねる。帝国人との交易が盛んであるカルマン族にあっては帝国語を解する者は少なくない。
「それに、キスカお姉様よりも先に、というわけにはいきませんし」
ムールドの風習によれば一人の男の複数の妻たちは姉妹のようなものであるらしい。とはいえ、実際に姉妹のように仲の良い妻たちもいるらしいが、そうではない家庭も多いようだ。
視線を向けられたキスカは気まずそうに視線を避けながら、乾パンと干し肉、山羊乳のお茶という簡単な朝食を揃えて、レオポルドの傍に置いた。
「ならば、せめて、婚儀の前ではございますが、旦那様の傍に置いて頂き、身の回りのお世話をさせて頂ければと思った次第です」
「あ、あー、それはー」
アイラの申し出にレオポルドは困惑しきった顔をキスカに向けるがキスカは無表情で沈黙を守っていた。言外に「お好きになさって下さい」という意思が伝わってくる。
「まだまだ拙いものではありますが、料理、裁縫、掃除などの家事一通りはできます。決して御迷惑はおかけしませんので、どうか、何卒お傍に置いて下さい」
そう言ってアイラは大きな灰色の瞳でレオポルドを真っ直ぐに見つめ、彼の手をぎゅっと両の掌で握り絞める。
うるんだ瞳で見つめられ、彼女の掌の温かさと柔らかさを感じて、レオポルドは何も思考できず思わず頷いてしまいそうになる。
「ちょ、ちょっとっ、待ちなさいっ」
そこへ、待ったをかけたのはレオポルドの義理の姉みたいな存在であるフィオリアだった。
「まだ婚礼を挙げたどころか婚約したわけでもないのに、傍に置くなんてできるわけがないじゃないっ」
フィオリアが真っ赤な顔で叫ぶ。
確かに彼女の言う通り二人の婚約はまだ成ったわけではない。相手方は大変乗り気で事あるごとに婚約を迫り、また、婚約を既成事実化しようとしているがレオポルドはまだそれに対する正式な返答を行っていない。
今回の傍に置いてくれという、つまりは同棲宣言も婚約の既成事実化の手段の一つであることは容易に考えられる。
しかし、そんなことを言われて大人しく引き下がるアイラではなかった。
「あら、そうは言っても、キスカさんは常に傍にいらっしゃるではありませんか」
確かにキスカはもう随分と前から常にレオポルドの傍らにあって、公私に渡って仕えている。立場としては婚約者にして、副官兼警護役といっていいだろう。
同じ婚約者であるキスカが良くて、アイラが駄目というのは筋が通らない。
「キスカは、その、もう婚約が決まっているから」
フィオリアも引き下がらない。正論に対してあくまで正論で立ち向かう。
キスカとアイラの違いは婚約が正式に成っているか否かであると指摘する。
「では、貴方とそちらの方もお傍にいらっしゃるのはどういう理由でしょうか」
そう言われると途端に言い返せなくなる。フィオリアは義理の姉みたいなものではあるが、あくまでも「みたいなもの」であり、クロス家に養子入りしているわけではないのだ。
そして、ソフィーネに至っては、ただ流れで一緒の部屋で生活しているだけなのだ。アイラ以上に赤の他人である。
「旦那様とあなた方が同じ部屋で寝起きしていることの方がおかしくはありませんか」
彼女の言うことは尤もである。
「わ、私は、その、レオの世話役みたいなものだから……」
「そのお世話を私にもさせて頂きたいのです。それに、この町は私たちカルマン族の住む地ですから、私が共にいる方が、何かと便利ではないでしょうか。町の案内もできますし、町の人々とも顔馴染です」
確かにカルマン族の町であるファディにいる間、族長の孫であるアイラに傍にいてもらえれば色々と便利で融通が利くだろう。更には他の部族の首脳とも繋がりがあるので、ムールド人の人脈が薄いレオポルドにとっては重宝しそうである。傍に置いて損をするどころか、非常に価値のある人材といえるだろう。
「貴方方には別の部屋をご用意致しますから、旦那様の身の回りのお世話は私に任せて、ゆっくりなさっていて下さい」
反論の言葉が出ないフィオリアは苦々しい顔をして黙り込み、レオポルドを睨みつける。最後はお前が決めろと言わんばかりである。
レオポルドが困り果てていると、
「いいじゃないですか」
ソフィーネが静かに言った。
「そもそも、私がこの男と同室っていう今までの方がおかしいのです」
彼女はレオポルドには何の関係もないのだ。
ただ、旅の道連れで同行してきただけであり、旅費の関係などで同室で寝食を共にしていただけである。別室が用意されるのであれば彼女にとっては願ってもないことであった。
こうして、ソフィーネが抜けると、その分、部屋に余裕ができる。
そこに傍にいて何かと重宝なアイラが入ることを拒む理由は何もないような気がしてきた。
結局、レオポルドはアイラの同室を認めることにした。ここで無理に拒んでカルマン族との関係を悪くするのは避けたいし、アイラの持つ人脈は得難いものであった。キスカもムールドの有力人物だが、あまり社交的ではない彼女の人脈はあまり幅広いものではなかった。
また、フィオリアはあくまで部屋に留まると言って聞かなかった為、彼女がいることによって間違いは起きないと思われた。
とはいえ、外から見れば、これはまごうことなき同棲に他ならずレオポルドとアイラの婚約は更に既成事実化されたのであった。