四五 アルトゥール
クライセンバート城を抜け出したエリーザベト姫とその家来衆は敵対するウォーゼンフィールド家中の独立派家臣やブレド男爵の手の者に捕捉されぬよう街道を避け、裏道ともいうべき荒れ果てた小道を全速で進んでいた。
四頭立てで二人の御者が乗る幌馬車の荷台に姫と必要最低限の装備や食糧などを積み、前後をそれぞれ二騎の騎兵で護衛している。
馬車は整備が不十分な荒れ道を、かなり急いで進んでいる為、車輪は窪みに嵌り石や木の根に乗り上げガタガタと激しく揺れて乗り心地は最悪であった。
馬車が大きく揺れる度にエリーザベトは宙に浮き、尻や脚を無骨な木の荷台に強かに打ち付け、その度に痛みに悶絶していた。
「ちょ、ちょっとっ、もっと優しく揺れないようにできないのっ」
エリーザベトは堪らず悲鳴を上げる。
「申し訳ありませんが、それは無理というものです。このように整備されていない荒道をこの速度で走るとなると、どうあっても多少は揺れてしまいます。かといって、整備された街道を進めば敵の手に捕まる可能性があります」
馬車の揺れでずり落ちそうになる帽子を片手で抑えながら御者が答える。
「そのとおりだけれども、こんなに揺れていては堪らないわ。それに、なんだか馬車もギシギシいっているし……。ねぇ、走っている途中にバラバラになったりしないわよね」
姫の問いに二人の御者は無言で顔を見合わせてから、何も答えずに前に向き直った。
「ちょ、ちょっとっ。なんとか言いなさいっ」
姫の悲鳴じみた怒声を聞き流していた後方を護衛する騎兵の一人が警戒の為、背後を見て顔を顰めた。後方遥か向こうに黒い芥子粒のような影を認めたのだ。かなりの速度を出している黒い影は徐々に徐々に大きくなってきている。
「追手だっ。追われているぞっ。急げっ」
騎兵は怒声を発して、仲間たちに警告する。
兵たちの間に緊張が走り、顔が強張る。思ったよりも早くに姫の逃亡が露見してしまったようだ。
御者は今まで以上に激しく馬を鞭打ち、馬車は更に激しく揺れて、エリーザベトは荷台の上で悲鳴を上げながら七転八倒した。
何の遮蔽物もない荒野の一本道では、どこかに隠れることも脇道に曲がったりして敵を撒くこともできない。ただひたすら真っ直ぐ逃げるのみだ。
当然のことながら、馬車ではそれほど速度が出ない。とはいえ、騎乗が不慣れな姫を馬に乗せても行軍速度はさほど変わるまいし、落馬する危険がある。追手に追いつかれるのは時間の問題とも思われた。
その上、先を行く騎兵は遥か前方にも影を視認した。慌てて手綱を引き、片手を挙げた。その合図に同僚の騎兵たちと馬車が足を止める。
「どうしたのっ。追手が来ているのに、何故、止まるのっ」
突然の停止にエリーザベトが不安そうな顔を二人の御者の間から突き出す。
「姫様。お隠れ下さいっ」
「いいから、私にも聞かせなさいっ。貴方たちだけで、何でも決めようとしないでっ。私だって子供じゃないのよっ」
子供は皆そう言うものだ。という言葉を飲み込みながら、停止の合図を出した騎兵が答える。
「前方にも何者かおります」
「なっ。前にも敵なの」
「わかりません。何分、遠いですから。とはいえ、敵である可能性は否定できません」
エリーザベトの率直な問いに騎兵ははっきりと答え、渋い顔で前の芥子粒に再度視線を向ける。
「こちらから見えるということは向こうからも見えるということです。向こうも我々の存在に気付いていることでしょう」
「じゃ、じゃあ、どうするのっ。後ろにも前にも敵って、もう挟み撃ちじゃないっ」
悲鳴を上げるエリーザベトを片目に見ながら騎兵たちは話し合う。
「どうせ進むならば、前しかあるまい」
「うむ。どうにか敵中を突破して血路を開くより他に手はないな」
素早く結論を出し、四騎の騎兵が馬車の前に並ぶ。
「これより、突撃し、敵中を突破して、血路を開きます。どうか姫様はお隠れになっていて下さい」
「そ、それで、大丈夫なの」
御者の言葉にエリーザベトは不安そうに尋ねるが、御者は何も答えず走り出した騎兵たちの後に続くべく、馬に鞭を食らわせる。
ガタンと大きく揺れてエリーザベトは悲鳴を上げながら後ろ向きにひっくり返った。後頭部を床に打ち付けて悶絶する声が聞こえてきた。
背後のその様子を片目に見ながら、御者は無言で腰の拳銃とサーベルを確認した。同僚と視線を合わせて黙って頷く。
もしも、敵に捕捉されそうになったときは姫の身柄が敵の手に渡る前に、こちらの手で彼女を消してしまうことになっている。彼女がいなければウォーゼンフィールド男爵とブレド男爵の間の縁組は当然のことながら成らないのだから。敵に利用されるくらいならば、こちらで片付けてしまった方がいいというわけだ。
とはいえ、主君の娘を殺めるのはさすがに気が咎める。しかも、相手は齢一五の愛らしい少女なのだ。できればやりたくない仕事である。故に、姫の殺害は最後の最後の手段であった。
前方の相手も、こちらに向かってきているようで、彼我の距離はみるみる縮まっていく。
やがて、両者は相手の姿を確認した。
前から向かってくるのは十数騎の騎兵で揃って真紅の軍服に身を固めている。
姫の護衛の騎兵は、もはや、ここを死に場所と定め、腰の拳銃を手にした。必中の距離まで近付いてから一斉に撃ち放ち、その後はサーベルで敵と相討ち覚悟で切り結ぶつもりだ。その間に馬車が乱戦の中を潜り抜けてくれれば奇跡ともいうものだ。
御者は前の敵の数を見て、これは覚悟を決めるべきと考えた。腰の拳銃を抜き、手綱を同僚に任せる。
と、その時、前の騎兵の一人が灰色の幅広帽子を手に取り、大きく振った。何かを合図しているようだ。投降を呼びかけているのかもしれない。
「あれ、あれって、アルトゥール兄様じゃないっ」
ちょうどそのとき、前の様子が気になったのか、エリーザベトが顔を出してきて合図を送る騎兵を見て言った。
「アルトゥール・フェルゲンハイム様ですか」
アルトゥール・フェルゲンハイムは、第一四代辺境伯ヴィルヘルム三世の非嫡出子でフェルゲンハイム家唯一の生き残りだが、妾の子である為、辺境伯位を相続できず辺境伯代理とされているロバート老の孫である。
ロバート老の一人息子の嫁はウォーゼンフィールド男爵の妹である為、エリーザベトとは従兄弟ということになる。
辺境伯の軍に所属し、一つの中隊を率いる大尉とのことだった。大変勇猛果敢で優れた剣術の腕を持つ軍人である。
「そうよ。間違いないわ。ほら、あの、黒い羽飾り。あんなの付けているのなんて、兄様以外にはいないわ」
確かに灰色の幅広帽子には西方教会では悪魔の色として忌避される黒色の羽飾りがあった。黒は帝国他、西方教会を信仰する国や地域では悪魔の色として嫌悪され、信心深い西方教会信徒などは黒色のものを見ることすら嫌がり、黒いものを身に着ける人を異教徒だの異端だのとして告発することもあるくらいだ。
しかし、アルトゥールはあまり信心深い人物ではなく、黒色のものでも平然と身に着けるという話であった。
そして、そのアルトゥールはブレド男爵に付くという祖父の決定に公然と反対したとの話がウォーゼンフィールド男爵家にも噂として伝わっていた。ここ最近、その動向は不明で噂によれば祖父と決定的に仲違いして首都を出たともいわれていた。
近付くにつれ、確かに相手はアルトゥールとその部下たちであった。こちらと戦う意思はないようで、拳銃もサーベルも腰に提げたまま。
エリーザベトの言葉を聞いた騎兵たちは困惑した顔を見合わせながら、馬の速度を落とした。相手があれだけの数で、しかも、一騎当千と名高いアルトゥールもいるのでは、このまま戦っても勝ち目はない。ならば、噂通り彼が反ブレド派であることを信じようということにした。
もしも、その判断が間違っていたときは即座に姫を撃ち殺せるよう、拳銃だけはいつでも撃てる状態で手に持ったままにしておく。
拳銃の射程距離まで近づくとアルトゥールは帽子を被り直して、向かってくる馬車を見つめてニヤリと笑った。短めの赤い髪に、短めの顎鬚。彫りが深く精悍な顔立ちの背の高い若者である。
「よぉっ。諸君は、アレだなっ。エリーザベトを連れて逃げてきた者たちだなっ」
アルトゥールはにやりと笑って彼らに呼びかけた。
「何故、それを」
騎兵の一人が警戒して尋ねる。
「諸君の計画はハヴィナにまで漏れ伝わっていたぞ」
姫の護衛の騎兵たちは強張らせてた顔を見合わせる。何者かが情報を横流ししたか、どこかで計画を聞かれたのか、或いはこちらが密かに進めていた準備から勘付かれたのか。どれにせよ最悪の事態だ。今回の計画は隠密に事を進めることが肝要なのだから。
「中々大胆で面白い計画だ。よくぞ、姫様を守り抜いたな。騎士たちよ」
アルトゥールは愉快そうに口端を上げ、護衛たちを称賛した。
「しかも、いつ、どうやって、どこに逃がすかといった情報は不確かでブレドも祖父上も満足な対策ができなかった。わかっていたのは、どうにかして、エリーザベトを逃がすということだけだ。そこでブレドはそこら中の道に見張りを立てることにした。北にも西にも東にも。当然、南にも」
姫の護衛たちはアルトゥールの話の終着点が見えず困惑する。
「俺は南だと思った。西に行ってもハヴィナとブレドの領土がある。そこをすり抜けるのは無理だ。東は味方となる勢力まで距離が遠すぎる。北のドルベルン男爵は動きが不透明だ。今後、ブレドと結ぶ可能性も否定できない。となると、南だ。レオポルドとかいうのはブレドの軍と一度やりあっていて敵対関係にある。ブレドも血統の近いレオポルドを生かしてはおけない」
「それで、アルトゥール様は如何なさるおつもりで」
護衛の騎兵が口を挟む。背後には追手が迫っているのだ。ゆっくりと話している余裕はない。
「ブレドなんぞに辺境伯の座を明け渡すのはまっぴら御免だ。祖父さんみたいな臆病者と一緒にされるのは耐えられねぇ。そこでだ」
そう言って彼は背後に控える部下の騎兵たちに合図する。騎兵たちは馬腹を蹴って、馬車の背後に回り、こちらに向かってくる追手を迎撃すべく進んでいく。
「俺はレオポルドとやらに付いてみることにした。とりあえずは南の道に配置されたブレドの手の者を片付けて、あんたらを待っていたってわけだ。さぁ、ぐずぐずしてないで、先へ進めっ。追手は俺たちが片付ける。さっさとやったら、すぐに追いつく」
そう言って、アルトゥールも馬腹に蹴りを入れた。
エリーザベトの護衛たちは安堵の息を吐く。どうやら、これでどうにか無事に南へ落ち延びることができそうだ。
そして、とりあえず、今のところは自らの手で姫様の命を奪わずに済んだ。