四四 クライセンバート城
サーザンエンド中部。ハヴィナより東に三〇マイルの場所にウォーゼンフィールド男爵の居城クライセンバート城はある。
今から数百年も前に建造されて以来、何度も改築はされているが古い様式の灰色の石造りの城塞であり、ウォーゼンフィールド家は代々この城に居住してきた。
首都ハヴィナからは遠く、城下町の人口は三〇〇〇にも満たず、街道からも離れている為、交通の便は悪く、不便極まりない場所である。
しかし、ハヴィナと街道の東の防壁となり、いざとなれば援軍も送り出せる距離である。ウォーゼンフィールド男爵家には長年サーザンエンド辺境伯を身近な場所から守護してきたという自負がある。また、フェルゲンハイム家に最も近い血統と辺境伯傘下では筆頭の家柄という矜持もあった。
そのウォーゼンフィールドがブレド男爵に付くという今回の決定には家中でも根強い反対があった。しかも、当主アウグスト・ウォーゼンフィールド男爵の娘を差し出すというのだから、とんでもないと考える者は少なくなかった。
それでも、ウォーゼンフィールド男爵はブレド男爵に事実上屈することを選んだ。
その理由のほとんどはウォーゼンフィールド男爵の人格に起因していた。
現当主アウグストは生まれつき病弱で、馬にも満足に乗れないほどであった。軍に参加したことは一度としてなく、日々のほとんどをクライセンバート城の自室に籠って過ごしていた。
体の弱さは気の弱さにも繋がるらしく、男爵は慎重で消極的といえば聞こえはいいかもしれないが、要するに臆病で優柔不断であり、圧力には大変弱かった。
父フェルディナントが没し、二十歳で男爵になった頃は殆ど母親の傀儡であり続け、その十年後に母親が病死すると、今度は家来衆の操り人形と化した。家来たちが優秀でひとまとまりであれば、まだよかったが、ウォーゼンフィールド家の家来衆はあくまでフェルゲンハイム家に忠誠を尽くすべきという保守派と、力が落ちる一方のフェルゲンハイム家から距離を置こうという独立派に分裂していた。両派はお互いを攻撃し合い、ウォーゼンフィールド家は半ば内紛状態にあった。
そこへきて、今回のサーザンエンド辺境伯の後継問題である。フェルゲンハイム家の直系は絶え、辺境伯位は空席となる。
立場からすれば、お鉢が回ってきてもおかしくはない話だが、前述のとおり男爵に野心はない。また、自分の家すら統制できていないアウグストに辺境伯が務まるとは誰も思ってはいなかった。独立派の一部は男爵を辺境伯に擁立しようと動いたが、本人にやる気がなく、保守派が激しく攻撃した為、表立った動きにはならなかった。
そういうわけで、ウォーゼンフィールド男爵は辺境伯後継問題に関してほとんど関与してこなかった。というよりも、できる状態ではなかった。
そこに食指を伸ばしてきたのがブレド男爵である。
サーザンエンド中部を支配領域とする両男爵が結びつけば、強力な勢力になることができるのは言わずもがなである。首都を制すると同時にウォーゼンフィールド男爵を引き込むことはブレド男爵にとって非常に重要なことであった。
ブレド男爵は買収や甘言を用いて、ウォーゼンフィールド男爵家中の独立派と結びつき、これを支援した。
折からのフェルゲンハイム家の勢力の衰退もあって、保守派は勢いを失い、家中の主導権は独立派に移る。主導権を握った独立派はブレド男爵との連携を進め、今回の同盟と婚約と相成った。
当然、これに保守派は強く反発する。とはいえ、力を失いつつあるフェルゲンハイム家にしがみついて、一緒に落ちていくのは誰もが御免被りたいところである。保守派の勢力は急激に衰退しつつあった。
しかし、保守派には最後の切り札があった。というのも帝国系領主ドルベルン男爵の娘であるウォーゼンフィールド男爵の夫人は保守派の中心人物であって、娘とブレド男爵の結婚に大反対であった。
男爵夫人の意向に逆らって姫をブレド男爵に差し出すわけにはいかないもので、独立派の家臣たちは連日連夜男爵夫人を説得し続けるが、彼女は頑として首を縦に振ろうとはしなかった。
その理由としては、まず、第一に主君であるフェルゲンハイム家に攻撃を加えたブレド男爵と結ぶとは何事か。それに相手は男爵とはいえ異民族の異教徒ではないか。西方教会に改宗したとしても異民族であることに変わりない。しかも、ブレド男爵は齢四十過ぎと父親よりも年上で、彼には既に妻子がある。今回の婚約の為、男爵は妻との結婚は無効として離縁したそうだが、政略結婚の為に妻子を捨てるような男に娘をやりたくない。その上、男爵は酒癖も女癖も悪く、愛人の数は両手の指でも足りないくらいで手を出した女の数は百とも二百ともいわれるという。
いくら政治的に利益があろうとも、こんな結婚に賛成できる母親がいるものか。
しかも、上の娘は精神病との噂もあった前辺境伯コンラート二世に嫁いで大変な苦労をした末に心労重なってか若死してしまっているのだ。残るもう一人の娘には幸せな結婚をしてもらいたいというのが親として当然抱く感情であろう。いくら政略結婚は貴族の家に生まれた者の宿命とはいえ、承服しがたいものがある。
その日の夜もクライセンバート城の一室では首を横に振り続ける男爵夫人と、どうにかして姫をブレド男爵に差し出したい独立派の家臣たちの攻防が繰り広げられていた。
その間、男爵はといえば自室に籠って沈黙を続け、誰も気にしていない。
そして、縁組の当人である男爵の二女エリーザベトはといえば、今まさにクライセンバート城の、ある塔の窓から身を乗り出していた。
金細工のように美しいブロンドの長髪に冬の空のように澄んだ蒼い瞳、ミルクのように白くきめ細かな肌。やや小柄で、顔立ちもまだ幼い。齢はまだ十五になったばかりなのだ。
「いやいやいやいや、ダメっ。これは無理よっ」
エリーザベトは悲鳴を上げる。塔の窓から水を湛えた堀までは相当な高さがある。落ちても地面に衝突というわけではないが、この高さからでは水の中に飛び込んだとしても無事でいられるとは思えない。
そんな高さから頼りないロープ一本を頼りに垂直の壁を降りて行って、下で待機している水堀に浮かんだ小舟まで行かねばならないのだ。高所恐怖症ではなくても、あまりにも恐ろしい体験である。できれば誰もそんなことはしたくない。
「こんな高い所から降りるなんて無理よっ。落ちたら大変なことになるわっ」
貴族の娘として、我儘一杯に周囲からちやほやされて育ってきた姫様ならば、そんなことはしたくないと駄々を捏ねてもおかしくはないというものだ。
エリーザベトは嫌々と首を横に振り続け、安全な屋内に戻ろうとする。
しかし、屋内に控える面々がそうはさせじと姫を押し出す。
「エリーザベト様っ。ここは、どうかっ。どうにか、やって頂けませんと」
「そうですっ。このような機会はもう二度とないのかもしれませんぞっ」
彼女を窓から外に押し出そうとしているのは保守派の老臣たちだった。
独立派の家臣たちが男爵夫人の説得にかかりきりになっている隙に、肝心の姫君を城から脱出させてしまおうという大胆不敵な作戦である。勿論、母親である男爵夫人の許可は得ているが男爵からの許可は得ていない。男爵は知りもしないだろう。
肝心の姫君がいなければ縁組の話は進めようにも進まないし、もしかすると両者の関係が拗れるという願ってもない効果も望めるかもしれない。
「そうは言ってもっ。もっと他に良い手段はなかったのっ。塔の窓からこんな細いロープで降りるなんて普通じゃないわっ」
「普通じゃないからこそですっ。誰も、まさか、そんなことをしまいと考えているからこそ、他の者の目から逃れて、こっそりと城を抜け出せるのですっ」
そう言われれば理解はできる。理解はできるが納得できない。なんで、自分がこんな危ない目に遭わないといけないのか。少しでも間違えば水堀で溺れて死にかねない。塔の窓から逃げようとして水堀で溺死した姫なんて珍事として悪い意味で歴史に名を遺しかねない。
「姫様っ。覚悟を決めて下さいっ。もし、今、ここから逃げ出さねば、姫様は、あの悪名高きブレド男爵と結婚せねばならないのですぞっ」
「そ、それは絶対に嫌っ」
ブレド男爵の悪名はエリーザベトの耳にもしっかりと入っていた。男爵夫人が保守派であるからして、彼女の周囲は保守派で固められており、保守派の面々がしっかりとエリーザベトの耳にあることないこと吹き込んであるのだ。もっとも、その予備知識がなかったとしても、自分の父親よりも年上の男と婚約するのは御免というものだろう。
「嫌ならば、逃げるより他、手はありませんぞっ。逃げて、自由を手にするのですっ」
「そうですっ。どうか、お逃げなさいませっ。ここは一先ず城を出るのですっ」
老臣たちの言葉に押され、エリーザベトは止む無く、再び窓から身を乗り出す。
ロープを細い指でぎゅっと掴み、恐る恐る窓を跨いで脚を外に出す。どうにかこうにか、石壁の凹みに足を突っ込み、体を部屋の外に出すことには成功した。
しかし、その段階で既に彼女は限界だった。ロープを握る腕はぷるぷると震え、脚は石のように固まって動かない。上がることも下がることもできない最悪の状況に陥る。元より体力もない少女にロープ一本で壁伝いに下りるなんて計画が無理な話だったのだ。
エリーザベトは涙目で、殆ど泣きながら叫ぶ。
「む、無理っ。落ちるわっ。た、助けてーっ」
「そこをなんとかっ」
「頑張ってっ」
部屋からは老臣たちが無責任な応援の言葉を送ってくる。
ごたごたやっているうちにエリーザベトの体力は限界に至り、彼女の手は無情にもロープを手放してしまう。彼女は宙を数ヤードばかし落下して、水堀に背中から飛び込んだ。盛大に水音が上がり、保守派の老臣たちは肝を冷やす。
「姫様は無事かっ」
「早く引き上げろっ」
遥か頭上から老臣たちに怒鳴りつけられながら、小舟の上にいた二人の若い家来が慌てて水に浮かぶ姫を小舟の上に引き上げる。気を失っているが息はあることを確認して安堵した。
「御無事ですっ」
声の大きさに気を使いながら老臣たちに告げる。老人たちもほっと胸を撫で下ろした。とはいえ、姫が死んだとしても、縁組は御破算になるので、最低限の目的は達成できるとも考えていた。それでも、敬愛する主君の娘にはできることならば無事に生き延びて欲しいものである。
「今の騒ぎで独立派の連中に気付かれたかもしれぬ。急いで行けっ」
老臣の指示で若い家来は小舟を進める。
城門と見張り台の警備の兵には黙っているように指示が出されているとはいえ、独立派の家臣に見つかっては事である。移動は慎重に隠密に行われた。
城の水堀は町の水路に繋がっており、水路は町を縦断するように伸びている。
町の途中で一行は小舟を捨て、予め待機していていた馬車に乗り込んで、数人の家来と共に町を出る。
そうして、彼らは一路、南を目指すのであった。