四三 厄介な知らせ
「何だとっ」
早朝に舞い込んだその知らせを最初に耳にしたのはサーザンエンド辺境伯の宮廷で侍従長の要職を務めていたレッケンバルム卿だった。
老練で強かな彼はハヴィナを去った後もハヴィナに太いパイプを持ち、配下の者を潜ませており、ハヴィナの情報は逐一、まず、真っ先に彼の元に届くようになっていた。レオポルドの耳に入るのはレッケンバルム卿が生意気な辺境伯候補に聞かれても差し支えないと判断したものだけである。
さて、この日の朝早く、太陽の姿が地平線の彼方に見え始め、雄鶏が鳴いてから、数刻も過ぎぬ頃。そろそろ、市場の商人たちが動き出す頃合にレッケンバルム卿は乱暴に戸を叩かれる音で目を覚ました。
不機嫌になりつつも新鮮な情報の希少さを理解している老人は従者にお茶を出すように指示してから、早馬の使者が齎した知らせの綴られた文書を開いた。
従者が差し出したカップを受け取り、一度、口を付けてから、書面に目を走らせ、その表情は瞬く間に凍りついた。
驚愕のあまり唖然として思わず手にしていた杯を取り落とした。
その後、怒りのあまり、机に拳を叩きつけると吐き捨てるように言い放った。
「おのれっ。アウグストの腰抜けめっ」
昨夜したため、今日送るよう指示するはずだった手紙を掴むと、くしゃくしゃに丸めて投げ捨て、レッケンバルム卿は杖を手に取った。
「糞忌々しいことだっ。クロス卿の下へ行くぞっ。急ぎの用だっ」
そう叫んで彼は従者を走らせた。
その頃、レオポルドは剣の朝練に励んでいたソフィーネにある提案をして、
「嫌です」
と、一蹴されていた。
「いやいや、もうちょっとよく考えてくれ」
「嫌です。何故、私が子供の世話をしないといけないのですか」
ソフィーネはしかめ面で言い放つと剣の素振りを再開する。大の男でも持ち上げるのがやっとと言われる非常に重い十字剣を何度も何度も振り上げ、振り下ろし、振り上げ、振り下ろす。
その周囲では十数人のムールド人少年少女たちが大変真剣な顔で木刀の素振りをしている。ふざけたり、だるそうにしたり、私語をしている者は一人もいない。そんなことをすればソフィーネの鉄拳制裁が下ることをよく知っているのだ。鉄拳の後、黒髪の修道女は必ずこう言うのだ。
「やる気がないなら帰れ」
その通り帰った者も少なくない。
ということは、この場に残った十数人はそれでも帰らなかった連中なのだ。もの好きにもソフィーネから剣を学び続けることを選んだ十数人は黙々と真剣な様子で素振りを続ける。
ソフィーネは彼ら学びを請う者には剣術だけでなく、槍や弓、火器の使い方、礼儀作法、歴史や数学、哲学、帝国語といった学問をも教えていた。それに加え、博識と名高いムールドの長老やらバレッドール准将やルゲイラ兵站監のようなムールド人にも比較的好意的な帝国人貴族、聖職者、旅の行商人、歴戦の下士官などを呼んできて、子供たちに色々と話を聞かせているようであった。
本人は子供たちが学びを請うから、止む無く教えていると主張していたし、傍からは嫌々やっているようにも見えたが、ここまで手を尽くしておいて嫌々なわけがあるまい。
もうちょっとした学校のようで、レオポルドはこれをソフィーネ学校と呼んでいた。
そして、彼はあることを考え付いたのだ。
「何も特別、面倒なことを押し付けるつもりはない。ただ、今やっていることを、もっと組織的に、しっかりとやっていこうという話でな。今みたいに自然に良い意味でてきとうにやっていくのも悪いとは言わんが、やるからにはきちんと組織立てて行った方が教える方としても教えられる方としても効率的で効果的だとは思わんか」
「私はそうやってべらべらと言葉を並べる奴を信用しないようにしています」
ソフィーネに言い切られ、レオポルドは静かに口を閉じる。
「それで、一体、どういう目的なんですか」
「何がだ」
レオポルドがとぼけるとソフィーネは無言で鋭い視線を彼に突き刺す。
レオポルドは暫し苦笑いした後、観念して口を開いた。
「あー、いや、えぇとだな。近々、ムールド人の有力者の子女を何人か預かる予定があってな」
「人質の受け入れ施設代わりですか」
彼の話にソフィーネは不機嫌そうに顔をしかめる。
前回の七長老会議では七長老会議派七部族のレオポルドへの臣従が確認されたと共に各部族より数名ずつ有力者の人質を供出することが決定されていた。
というのも、ネルサイ族とカルマン族の娘がレオポルドに輿入れすることがほぼ決定的になっていることを知った他の五部族がうちも娘を差し出すと言い出したことから、全部族から、恭順の証、つまり、人質を貰うということが決定したのであった。その中で、もしかすると、レオポルドの目に留まって、妻や妾とされる者がいるかもしれない。と、レオポルドは本意でもないことを言わざるを得なかった。そう言わねば誰も引き下がろうとする様子がなかったからである。
この差し出された有力者の子供たちをレオポルドはただ人質としてのみ使うつもりはなかった。
彼はこの少年少女に帝国風の教育を施し、帝国人と交流させ、より親帝国的な人材へと育て上げ、成人すれば彼らを元の部族へと返すつもりだった。有力者の子である彼らは部族でも指導的な立場に収まるだろう。つまり、彼ら部族の幹部候補たちを幼いときから、親帝国派に染め上げておこうという計画である。
気の長い話で子供たちが成長する前にレオポルドが敗死する可能性も十分にある。
とはいえ、将来、辺境伯としてムールドの諸部族を支配する立場になったとき、役に立つ布石を今から打っておくことは無駄なことではないだろう。
しかし、そんなことはレオポルドの都合である。巻き込まれるソフィーネにしてみれば、いい迷惑だ。
「君にとっても悪い話じゃないと思うんだがなぁ。いつまでタダ飯食らいというのは、どうかと思うんだが」
レオポルドの言葉にソフィーネは沈黙する。
確かに言われてみると、ソフィーネは特に何か仕事をしているわけではないのだ。剣の修道院から出てきて以来、たまに従軍司祭みたいな感じに戦場に出ることはあるが、普段から軍に籍を置いているわけではない。日がな剣の鍛練に励んだり、ぼんやりしているだけだ。その生活費や食費はというと、レオポルド向けのものから分けてもらっている恰好である。要するに彼女は実質的にレオポルドに養われているようなものだ。とはいえ、レオポルドもついこの間までキスカに養われているようなものだったのだが。
レオポルドはやんわりとその辺りのことを言葉の端々に織り交ぜて、彼女の説得を続けた。
ソフィーネの眉間の皺がこれ以上ないくらいに深くなり、レオポルドが勝利を確信しかけたとき、不意に彼の名が呼ばれた。
「レオポルド様っ。至急の知らせですっ。レッケンバルム卿がお呼びですっ」
駆け寄ってきたレッケンバルム家の従者は息を切らせながら言った。
「レッケンバルム卿が。こんな朝早くから何用だというのだ」
「大至急とのことです。将軍方も参集されているかと」
レオポルドは訝しみながらも、兎にも角にもレッケンバルム卿の元へ向かうこととした。
いくらか歩き出してから、
「そうだ。学校の件、よく考えておいてくれ」
忘れずソフィーネに釘を刺す。
黒髪の元修道女はしかめ面でレオポルドを思いっきり睨みつけた後、顔を背けた。
「非常に厄介なことになったっ。糞忌々しいことだっ」
部屋に入ると、開口一番にレッケンバルム卿が吐き捨てるように言い放った。
会議の場には既にジルドレッド兄弟、バレッドール准将、シュレイダー法務長官、レッケンバルム卿の子息、ルゲイラ兵站監ら、クロス卿派の貴族たちが揃っていた。
「あー。一体、何があったのですか」
レオポルドの問いかけにレッケンバルム卿は苦虫を噛み潰したような顔で答える。
「アウグストが。ウォーゼンフィールド男爵が、あの忌々しいテイバリ人に付きおった」
アウグスト・ウォーゼンフィールド男爵といえば、サーザンエンド辺境伯傘下の領主の中では筆頭の家柄であり、フェルゲンハイム家とも血の繋がりの深い人物である。忌々しいテイバリ人とは、おそらくはテイバリ人の領主であるブレド男爵のことだろう。
サーザンエンドでは多数派であるテイバリ人の首魁にして首都を抑えたブレド男爵とフェルゲンハイム家が断絶状態にある中で最も高い血統を持つウォーゼンフィールド男爵が結びつけば、これは巨大な勢力になることは言うまでもない。
「それは確かなのですか」
「間違いない。ハヴィナに潜ませている配下の者がウォーゼンフィールド男爵の名代としてカンプ卿がハヴィナに入り、ブレドの屋敷を訪れるのを目撃している。両者は同盟を結ぶようだ」
レオポルドが確認すると、レッケンバルム卿は断言した。
以前から教会はウォーゼンフィールド男爵のハヴィナ入りを求めていたが、その両者が同盟を結ぶかどうかまでは今まで不透明であった。ウォーゼンフィールド男爵がブレド男爵と教会の間の仲介者に徹する可能性もあったし、そもそも、ブレド男爵に反対してハヴィナ入りを拒否する可能性もあった。
しかし、クロス卿派にとっては厄介なことに、両者は手を結ぶらしいのだ。
「その上、更に厄介な情報まで舞い込んできおった」
両者の同盟が成れば、首都ハヴィナに加え、サーザンエンド中部全域はブレド男爵のものとなる。これ以上に悪い知らせなどあろうものか。
そう考えたのはレオポルドだけではなかったようだ。
「これ以上に厄介な知らせなど、有り得まい」
「あったとしても聞きたくもないな」
将軍たちが渋い顔でぶつぶつとぼやいている。
レッケンバルム卿が鋭い視線を飛ばすと、一斉に口を閉じて黙り込んだ。
「縁組が計画されておる」
「縁組ですか。えーと、誰と誰の……」
レッケンバルム卿のナイフのように尖った視線が飛んできて、レオポルドは口を閉じた。
「ブレドとアウグストの娘との縁組だ。これにより、彼奴を辺境伯代理とし、二人の間の子を次の辺境伯とするつもりであろう」
サーザンエンド随一の実力を持つブレド男爵が辺境伯になることに唯一足りなかったのが血統の問題である。フェルゲンハイム家の血を全く継承していない彼では後継たり得ないと思われていた。
しかし、件の縁組が成れば、その問題はクリアされてしまう。
確かに非常に厄介で忌々しい知らせであった。