三九 アイラ
アイラ・オスライ・オンドルは大層な美人だった。
エキゾチックな褐色の肌にすらりと背は高く、手足は細く長い。乳房はふっくらと高く張り、体の線は、柔らかく滑らかで女性らしい丸みを帯びている。灰色の瞳はくっきりと大きく、形の良い鼻は高い。ふっくらと柔らかそうな唇は薔薇のように紅に染まっている。栗色の長い髪は、後ろで独特の形に結っていた。
透けるように白い薄絹のベールをかぶり、緻密な刺繍の施され、金糸の飾りや布飾りの付いた白いワンピース状の衣装を身に纏っている。真珠をあしらった金の首飾りを提げ、細い指には銀の指輪が光る。ほんのりの焚き込められた香や薔薇水の香りが漂ってきた。
「アイラは私の末息子の四人目の娘でありまして、齢は一六になります。上の娘達は既に嫁に行っておるのですが、一昨年、彼女の父親が流行り病で亡くなり、その後の諸々の事情で、いくらか縁が遅れておったのです。今思えば、これは、レオポルド様に差し上げよとの神の思し召しだったのかもしれませぬな」
アイラの隣に座ったカルマン族の族長オンドルは長い髭を撫でながら言った。
「彼女の父親である我が息子オスライも、一人残した娘が心残りであったかと思いますし、老い先短い私も、この子を置いては、まだ神の身許には行けぬと思っておりましたが、これでどうにか私も心置きなく旅立つことができるというものです」
そう言ったオンドルの細面の顔立ちは幾重にも深い皺が刻まれ、髭は白く細く、頬はやつれて果てている。彼の年齢は知らないが、既にかなりの老境なのであろう。加えて跡取り息子である末息子に先に逝かれてしまい、悠々自適に隠居生活を送ることもできず、族長の重圧に耐え続け、心身共にかなり疲労としているのだろう。
老い先短い老人は心残りであった孫娘の嫁ぎ先を決め、ほっと安堵の様子であった。
そんな顔を見せられて、レオポルドは非常に困惑した。
そもそも、まだ婚約するとは決まっていないのだ。とりあえず、まず、本人と会ってみるという話になり、善は急げで、翌日には目通りとなったのだが、そこでそんな話をされては断るつもりであっても、断り難いこと極まりない。
レオポルドは石のように固い苦笑いを浮かべたまま、視線をアイラにやると、俯いた姿勢のまま、ベールの影からそっとレオポルドの顔を見つめていた彼女と目が合った。彼女は慌てて視線を落とし、頬を夕日のように赤く染める。
レオポルドは腕を組みそうになるのを我慢して、眉根を寄せ、眉間に深い皺をつくる。
政略的な関係での縁組の利益は理解できる。この縁組が成れば、レオポルドとカルマン族は結ばれ、強固な同盟関係が成り立つ。キスカもその点を理解しており、婚約を容認している。
また、ムールド人の慣例では嫁入りに際しては婿の元に多額の持参金が齎される。はっきり言って、レオポルドは一文無しに近い財政状況にあり、持参金は非常に魅力的である。
その上、相手方も婚約を望んでいる。彼らにとっても、将来辺境伯になるかもしれないレオポルドとのパイプは重要だし、族長個人の思いとしても婚礼は歓迎すべき話だった。
しかも、その相手の娘は大変な美少女である。拒絶する理由がないと言っても過言ではない。
結局、レオポルドとアイラの面会は顔見せ程度に止まり、婚約の件については先送りされた。とはいえ、周囲の空気や雰囲気は、既に決したようなもので、事実上断り難い状況であった。
ただ、婚約が決まったとしても、婚礼にはまだ時間が必要である。
「ネルサイとカルマン以外の五部族は兵を集めている模様です」
ファディの町の中を歩くレオポルドの傍らに影のように寄り添うキスカが報告した。
「武力で我々を打ち破り、身柄をブレド男爵へ引き渡そうというつもりか」
レオポルドは渋い顔で呻くように呟く。
ブレド男爵側に付くことを決めている七長老会議派としては、なんとしてもレオポルドらクロス卿派を男爵に引き渡さなければならない。
というのも、ムールド人の中では少数派である親帝国の七長老派が今まで生き延びてこられたのはサーザンエンド辺境伯の保護があったからであった。その辺境伯亡き今、彼らはブレド男爵を新たな保護者に選んだのだ。その保護の条件がレオポルドの捕縛と引き渡しなのである。
しかも、クロス卿派の傘下に入ったネルサイとカルマンはムールドでも北部を地盤としている。ここにクロス卿派が居座ると、七長老派の残る五部族はブレド男爵と分断されることになる。また、南には反帝国である多くのムールド部族がひしめき、いわば、彼らは敵対勢力に南北から挟まれる格好になっているのだ。
ブレド男爵派五部族は一刻も早く、クロス卿派を打ち破り、ブレド男爵との連携を復活させなければならないのだ。
この動きに対して、レオポルドたちも対応しなければならない。兵を集め、訓練し、武器を揃え、糧秣や弾薬を蓄え、町の防備を固める必要がある。
現状、集められる兵はハヴィナから帯同してきたマスケット銃を装備した一〇〇名の歩兵に騎兵が五〇騎。それにネルサイ・カルマンの軽騎兵が三〇〇騎ほどと、あと三〇〇程度はムールド人歩兵を集められるだろう。全て合わせれば七五〇ほどになろうか。
問題は三〇〇のムールド人歩兵だ。彼らは殆ど農夫であり、戦時ということで、徴集された男たちである。彼らの訓練はジルドレッド一族が担っており、町の郊外で連日厳しい教練が続けられていた。
武器弾薬や糧秣などの物資類はルゲイラ兵站監が徴発、管理を行っている。
ファディの町の防備の拡充についてはバレッドール准将が担当していた。町の周囲には空堀が巡らされ、土塁と柵が設けられている途中だった。
レオポルドとキスカはその工事の進捗状況を視察しているところであった。近くには防衛施設の工事の責任者であるバレッドール准将の姿もある。
二人の前では半裸になった男たちが穴を掘り、杭を打ち、土砂や丸太を運んでいる。
ブレド男爵派の兵が迫る前に防衛施設の工事が終わるかは微妙なところで、間に合わない可能性も考えられる。上手く工事が早く進み、間に合ったとしても、この程度の防備施設では本格的な籠城は不可能だろう。どうあっても、レオポルドたちは野戦で戦いを決しなければならない。
「五部族の動かす兵は合わせて二〇〇〇もいればよい方でしょう。装備は古く、馬上で撃てるようなマスケット銃やピストルは少ないと思われます。軽騎兵は弓矢と半月刀、槍を持ち、歩兵のいくらかは古いマスケット銃を持ち、残りは半月刀と円盾を装備しているでしょう」
キスカは冷静に敵戦力を分析する。
「また、五部族の連合ですから、指揮系統は統一されておらず、士気や戦意、行動もバラバラであろうことが予想されます」
「とはいえ、敵は三倍近くか。いくら装備に劣り、五部族の混成軍相手とはいえ、苦しいですな」
バレッドール准将が顔に残る大きな傷跡を撫でながら唸る。この傷は十数年も前の初陣で、ムールド人軽騎兵と斬り合ったとき、顔面に受けた刀傷だという。
「いくら防衛施設を備えても所詮は急ごしらえ。防衛効果は限定的でしょう」
准将の言葉にレオポルドは黙って頷く。戦いは厳しいものになるだろう。
苦い顔で考え込むレオポルドにバレッドール准将が声をかける。
「これでは、婚礼どころの話ではありませんな。お二人の花婿、花嫁姿を見るのは、まだいくらか先になりそうですな」
そう言われて、レオポルドは唖然として、口を開くが、声が出ない。結局、開きかけた口を閉じて黙っていることにした。キスカは口を真一文字に結んだまま頬を朱に染めていた。
若い二人の初々しい姿を目の当たりにした准将は快活に笑った。
工事の進捗状況を視察し、そのついでにバレッドール准将にからかわれたレオポルドとキスカの主従は元来た道を戻って、集会所に向かっていた。
歩きながら、レオポルドは咳払いをしてから言った。
「とにかく。どうにかして、ブレド男爵派五部族を迎撃する策を考えよう。あまり時間をかけると、ブレド男爵が乗り出してくるかもしれん。南のムールド人の動きも気にかかる」
レオポルドは努めて落ち着いた調子で述べた。
「そう、ですね」
キスカは言葉少なに同意する。
初々しい二人にとって、婚礼という言葉は意識せずにはいられないことであった。
二人は少し気まずい沈黙を漂わせながら並んで歩いていた。
ふと、集会所の近くの広場を通りかかると、子供たちの歓声が聞こえてきて、二人は視線をそちらへやった。
広場では十数人もの子供たちが棒切れを手にして、振り回して遊んでいる。その集まりの中に珍しい人物を見つけた。
「ソフィーネ。何をやっているんだ」
レオポルドが声をかけると、黒髪の修道女は、苦々しい顔をした。
「見ての通りです」
ソフィーネは特徴的な教会軍の十字剣を手にして、実践的な剣術の型をして見せた。それを見た周囲の子供たちがすかさずそれを真似る。彼らの真似を見て、ソフィーネは一人一人に、やれ、腰の位置が高過ぎるだの。肘が曲がっているだの。視線が定まっていないだの。と、指導を入れていた。
「剣術教室でも開いているのか」
「やりたくてやってるわけじゃありません」
レオポルドの言葉にソフィーネは渋い顔で答えた。
聞くところによると、やることもなく暇を持て余していたソフィーネは広場で毎日欠かさず、剣の鍛練を続けていたのだという。それを見ていた近所の子供たちが興味を示し、見学に集まり、それどころか、自分にも剣を教えてくれと言い出したらしい。
無愛想で面倒見が良い方とは思えないソフィーネがよく子供たちの願いを受けたものだと、レオポルドは感心した。
しかも、剣術だけでなく、帝国語や数学、歴史などの学問も教えているという。ちょっとしたソフィーネ学校だ。
「大したもんだな。さすがは修道女といったところか。意外と優しいところもあるじゃないか」
子供たちの世話をしてやり、ものを教えてやる姿は、まさに修道女である。
レオポルドが褒めるとソフィーネはしかめ面で彼を睨んだ。
「そうやって、女性を誰彼構わず、褒めるのはよくないと思いますけど。一応、忠告です」
「どういう意味だ」
「そのままの意味ですよ」
レオポルドが問うと彼女は素っ気なく言い返す。
どういう意味だ。と、レオポルドは困惑して考え込む。
「そういえば、今日はカルマン族の姫と会う日じゃありませんでしたか」
「そうだが。もう会ってきた」
「どうでした」
「どうもこうも」
なんと答えるべきか悩み、レオポルドは言葉を濁す。
はっきりとした答えが得られないので、ソフィーネは周囲で様子を伺っている子供たちにカルマン族の族長の孫娘について尋ねた。
「それって、アイラさんのことだよね。凄い美人だよ」
「綺麗で優しい人っ」
「すごく綺麗だし、刺繍が上手だよね」
「優しくて親切なお姉さんかな」
「確か帝国の偉い人と結婚するんだよ」
子供たちは口々に答える。同じ町の人間なだけあって、皆、よく知っており、しかも、レオポルドと婚約することも既に知れ渡っているようだった。
「ふーん。美人なんですか。そりゃ良かったですね」
子供たちの話を聞いたソフィーネはレオポルドを突き刺すような視線で射止めて言った。その声はどこか刺々しい。
「良かったも何も、別に、美人だから結婚するとかそういうわけではない」
レオポルドはぶつぶつと反論しつつ、その場から撤退した。
そうして、どうしたものかと、再び自身の結婚問題について思い悩むのであった。