三八 第二夫人
後年、「ファディの夜」と呼ばれることになる惨劇の後、レオポルドたちクロス卿派は、そのままファディの町に留まり、ネルサイ族とカルマン族の掌握に努めていた。
相変わらず幹部と婦女子は集会所を宿舎とし、兵の多くは郊外に野営していたが、前回の事件を受けて、集会所の周辺には常に五〇人ばかりの帝国兵が警備に立っていた。
レオポルドは恭順を誓う者たちを寛大に扱い、一切の罪を問わなかった。
しかし、従属を良しとしない者もいる。
あの夜、族長一族でありながら、運よくキスカの手にかからなかった者、或いは命だけは取り留めた者たちはレオポルドに従うことを良しとしなかった。というより、正しくは父、伯父、兄弟たちを殺したキスカを許さなかった。
彼らの処遇はクロス卿派で議論され、最終的にレオポルドが決断した。
女子供らの生命は保護され、多くは子供と共に妻の実家に帰されることとなった。子供たちは妻の実家の養子となるか、或いは妻が結婚した次の夫の子供とされる。
残る成人の男たちは全員が処刑されることとなった。裏切りの責任を誰かが取らなければならないという意識は誰の頭にもあり、また、従属を拒絶する彼らを生かしておいては、後々、厄介の種となることが考えられたからだ。彼らが一族の中を動き回って、反抗的な活動を始めないとも言い切れない。後々、面倒になるかもしれない種を、しかも、素直に従おうともしない者を、寛大に放置しておくことは利口とは言えまい。
従属を拒否した男たちの処刑は速やかに執り行われた。場所は町の郊外で、クロス卿派の下士官が首切り役人の代理を務めた。
レオポルドとキスカは処刑の場に立ち、彼らの憎悪の視線と罵声を身に浴びながら、次々と首が斬り落とされていくのを黙って見つめていた。
その翌日、集会所の広間には頭を垂れ、跪く十数人もの男たちが並んでいた。ほとんどの者が老人で、いずれも長い髭を生やし、腰には半月刀を提げている。
ネルサイ族とカルマン族の有力者たちである。族長とその一族、長老たち、村の長たち、主な氏族の長たち。彼らはいずれも頭を低くして、上座に座る未だ二十歳にもならぬ若造であるレオポルドに恭順の意を示した。
レオポルドは彼らの先の背信行為を寛大に許し、今後は自分に忠実に仕え、尽くすように命じた。
「レオポルド様。つきましては従順の証を差し上げたく」
カルマン族の族長が顔を上げて言った。
「従順の証はこれからの諸君の働きで示してくれれば良い」
ムールド人は仁義を尊ぶ民族だ。一度はキスカの伯父カリエイらの主導で義に背く行動に及んだが、やはり、義に背くことには強い抵抗感を抱く。先の事件において、多くの者が裏切り者に従わず、義を通したキスカに付いたことからも明らかだ。
安易に人を信用するなど愚の極みだが、レオポルドは彼らを信じることに決めていた。それに、これ以上、彼らの忠誠を疑っていては彼らから目を離すことができず、身動きできなくなってしまう。
ただ、これにレッケンバルム卿以下、宮廷派の貴族たちの多くは不満であるようだった。彼らはネルサイ族とカルマン族の恭順に半信半疑であった。
「恭順の証だと。それは何か」
レオポルドの左隣に座ったレッケンバルム卿が尋ねる。今しがた、レオポルドが言った言葉を無視するかの如く。
表面上、レオポルドは顔色一つ変えなかったが、心の中では苦々しい思いでいっぱいだった。ネルサイ族やカルマン族との付き合いよりも貴族たちとの付き合いの方がずっと難儀だ。彼らは自分を主と認めていない。彼は、ただ、フェルゲンハイム家の血筋と、ネルサイ族を掌握したキスカの主ということで、連中の上に立っているだけなのだ。レオポルドの立場はクロス卿派の中でさえ不安定で弱々しかった。
「遠慮なく申せ」
相反することを口にするレオポルドとレッケンバルム卿を交互に見て、どうしたものかと悩んでいたカルマン族の族長にレッケンバルム卿が声をかける。レオポルドも渋い顔で頷いた。
「我が孫娘とレオポルド様を縁組させたく」
要するに人質ということだろう。既にネルサイ族はキスカをレオポルドに差し出しているのだから、カルマン族からも、という理論であろうか。
また、婚姻によって両者の結びつきを強め、血による盟約関係を築くこともできる。
「なるほど。宜しい。では、そうしよう。そなたの孫娘をレオポルド殿に差し出すことによって、カルマン族の恭順の証とせよ」
レオポルドは唖然としたが、レッケンバルム卿は乗り気のようであった。信用できない相手から人質を取るのは、よくよく有り触れたことである。
「いや、しかし、私にはキスカが」
レオポルドは狼狽しながら、傍らに控えるキスカに視線をやる。キスカはいつものような無表情のまま黙って大人しくしている。主の視線を感じると、小首を傾げる。
「何か」
「いや、何も」
キスカは何も思っていないのか。さしたる反応も見せなかった。
幹部や部族の有力者が居並ぶ前で、キスカがどう考えているのか問い詰めるわけにもいかず、レオポルドは思案の末、とりあえず、その件は保留とする旨を回答した。
「困ったことになったぞ」
部族の有力者たちとの会合の後、レオポルドとキスカは集会所の廊下を歩いていた。その道すがら、レオポルドは頭をぼりぼり掻きながら渋い顔で呻く。
「何がですか」
弱っているレオポルドを見つめてキスカが尋ねる。
「何がって、あのカルマン族の族長が差し出してくる娘のことだ」
「受け入れればいいではありませんか」
キスカは何でもないことのように言った。確かに、カルマン族の族長一族の娘と結婚すれば、カルマン族との結びつきは強固なものになるだろう。
「いやいや、私の妻は君だろ」
これから夫婦になろうという二人の中にもう一人嫁さんが増えたなんて意味がわからない。
彼の言葉にキスカは顔を赤く染めつつ答える。
「もう一人くらい妻が増えてもよいのでは」
「何を言ってるのだ。妻は一人きりだろう」
レオポルドは当然というふうに答える。何を言っているんだと言わんばかりである。
夫婦とは男女が一人ずつ。ということは帝国をはじめ西方大陸各国においては地面が足の下にあって、空が頭の上にある。ということくらい常識的な概念である。勿論、中には夫や妻以外に愛人を持つような不埒な男女もいるが、それでも、結婚という神の前で行われる契約で結ばれている相手は一人きりである。極稀に妻ある身にも関わらず、それを隠して別の女と結婚したとかいう輩が現れることもあるが、それは重婚という罪であり、厳しく罰せられる対象である。
しかし、それは西方教会を信奉する帝国や西方各国の人間にとっての常識である。西方教会から外れた異民族・異教徒の中には別の夫婦観を持つ民族もある。
「ムールド人は古より男は四人まで妻を持っていいのです」
文化や宗教観の違いというものだろう。言われてみれば、そういう文化の民族もいるな。と、レオポルドも思い至る。
ムールド人の場合は四人まで妻を持てるという。しかし、実際、全てのムールド人の男が四人の妻を持っているわけではない。多くの庶民は貧しく、妻を何人も養うことができない為、自然と一夫一妻の夫婦が多いという。何人もの妻を抱えているのは生活に余裕のある部族でも上の方のクラスの者だけである。
しかし、レオポルドはムールド人ではない。帝国人にして、少々不信心ではあるが、西方教会の信徒なのである。当然、帝国人の結婚は一夫一妻であり、レオポルドの妻も一人と決まっている。
その旨を話すとキスカは首を傾げた。
「しかし、帝国人も何人か妻を迎えてましたけど」
「そんなわけあるまい」
レオポルドはキスカの言葉を否定したが、彼女の言う話が嘘とも思えず、彼女と同じように首を傾げた。
「それにだ」
とりあえず、その疑問はさておき、レオポルドは渋い顔をして呟く。
「もう一人、嫁さんを迎えるとか言い出したら、フィオになんと言われるか」
彼とキスカが結婚することになったと聞いたフィオリアは、まず、驚愕し、その後は大騒ぎになった。一体全体、なんだって、いきなり、そんなことになっているんだ。と、フィオリアからすれば全く納得できないことだったのだろう。
とはいえ、彼女は二人の結婚に反対とは言わなかった。心の底でどう思っているかはわからないが、少なくとも反対を口にはしなかった。
「では、妻という形にしなければよいのでは」
キスカの言葉にレオポルドは眉根を寄せる。
「そりゃ何か。愛人にでもしろという意味か」
実際、帝国の大貴族や大商人、上級の聖職者には正式な妻の他に愛人を抱えている者が少なくない。しかし、勿論、それは倫理的に宜しくないことであり、信心深い人々からは強く非難されることだろう。それでも、事実、愛人を抱える王侯貴族は数多いのだから、愛人をつくれないというわけではない。
「そもそも、君はいいのか」
「いいも何も。男とはそういうものだ。と、祖母が申しておりました」
「あぁ、そう」
彼女の祖母は男というものをよく分かっていらっしゃったのだろう。
一夫多妻制度のムールド人社会で生きてきたキスカは大変物わかりがよかったというよりも、あっさりしたものだったが、誰も彼もそういう反応をしてくれるとは限らない。
そんなことはレオポルドも承知していたが、しかし、それでも黙っているわけにはいかない。
ファディに来たときから、ずっと滞在している四人の部屋に戻り、そろそろと、そういう話が出ているというようなことを口にすると、フィオリアとソフィーネは揃って彼を睨みつけた。
「はぁ。あんた、何言ってるの」
「いや、俺が言っているわけじゃなくてだな。あちらさんが……」
鋭い視線に突き刺されたレオポルドはしどろもどろで応じる。
「あっちが何言おうが、レオはもうキスカと結婚するっていうんだから、もうどうしようもないじゃない」
フィオリアの言葉は刺々しい。例の結婚話をしてから、彼女はずっとこんな調子であった。
「それがそうもいかないようで……。よくわからんのだが……」
「何言ってるのさ。馬鹿じゃないの」
ぶつぶつと歯切れ悪い回答を繰り返すレオポルドにフィオリアは冷たく言い放ち、ソフィーネは軽蔑を込めた氷のような視線を突き刺してくる。
「俺も断りたいのは山々なんだが、その政治的にというか、なんというか。人間関係とか、そういうのもあって、断り辛いところでな。とりあえず、会うだけ会ってみることには、なりそうなのだ」
「あっそ。もう、あんたの好きにしなさいよ」
フィオリアは素っ気なくそう言い放つと、途中だった読書に戻ってしまった。かなり機嫌を損ねているらしい。
「フィオはどうしてこんなに機嫌が悪いのだろうな」
困惑した様子でレオポルドが傍らのキスカに尋ねると、彼女は呆れ顔で、彼を見返した。
「おそらく、一番の原因はレオポルド様が、そう疑問に思っていることだと思います」
部屋の片隅でソフィーネが黙って強く頷いていた。