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サーザンエンド辺境伯戦記  作者: 雑草生産者
第三章 ムールド
38/249

三六 罪と愛

 従兄にして婚約者であるオルバイを斬り捨てたキスカは、盛大に返り血を浴びたまま、集会所の廊下を軽やかに歩を進めていた。窓から差し込む月光に半月刀が鈍く光る。彼女の歩いた後には、てんてんと血の跡が続いていた。

 その歩みに迷いはなく、元来た道を戻っていく。

 角を曲がったとき、ちょうど向かいから来た数人の男たちと鉢合わせた。いずれも、キスカとは顔馴染。数人いる伯父のうちの一人とその息子たちだ。

「何だその血はっ」

 真っ赤に染まったキスカの姿を見た伯父が仰天して叫ぶ。

「オルバイはどうしたっ」

 彼は先程のレオポルドを呼び出した場に居合わせていた。キスカが部屋を出て行った後、カリエイとオルバイの父子の間で交わされた会話を聞いており、オルバイがキスカを追うように部屋を出るのを見送ってもいた。そして、両人の関係の悪さはネルサイ族ならば知らない人はいない。

 その後、出くわしたキスカが一人で血塗れになっていれば、最悪の事態を想起するのは自然なことといえよう。

「無礼を働いたので斬り捨てました」

 伯父の問いにキスカは無表情で率直に答える。

 彼女の言葉に伯父と従兄弟たちは唖然として言葉を失い、立ち尽くす。

 どの民族でも、どの社会でも、同族殺しは大罪である。ましてや、彼女が殺めたのは婚約者である。ムールド人の文化では妻は夫に従うものとされている。それを刃向ったどころか、手にかけたともなれば、衝撃的な事件である。

「なんということをっ。一族から同族殺しが出るとはっ」

「卑怯な裏切りと無礼を働く者を粛清するは一族の名誉と矜持の為です。裏切り者どもは族長の娘である私の責任でもって粛清いたします」

 伯父の嘆きに、キスカは涼しげな顔で応じる。

「それで、貴方たちは如何します」

 彼女の言葉に伯父と従兄弟たちは顔を見合わせる。

「お前一人で我々と戦おうというのか。勝てるものか」

 従兄弟の一人が嘲るように言った。

「勝てる勝てないではありません。やるか、やらないか。それだけです」

 キスカは彼らを見つめて、はっきりと言い切った。

 漂う不穏な空気に従兄弟たちは腰の半月刀に手をかけた。

「つまり、貴様はやる気というわけだ」

「今からでも、過ちを認め、恭順するならば、許しましょう」

「何を偉そうにっ。斬れっ。同族殺しは身内の恥辱ぞっ。我々の手で彼奴の血をもって恥を雪がねばならぬっ」

 身内に罪人や悪人が出たとなれば、それは一族全体にとっての恥辱である。その恥辱を晴らすには、身内において、その恥知らずを粛清せねばならないというのはムールド人共通の概念である。キスカも伯父たちもそういった意識のもとで動いていた。

 つまり、伯父たちは同族殺しという大罪を犯したキスカを粛清することによって恥辱を雪がんとし、キスカは裏切りという不名誉を犯した一族を残らず粛清することによって名誉を回復しようとしているのだった。

 従兄弟たちが一斉に半月刀を抜き放つ。その寸前に、キスカは手にしていた血に汚れた半月刀を振り抜いていた。従兄弟の一人の右腕が、抜いたばかりの半月刀を握ったまま斬り飛ばされる。

 痛みに悶絶し悲鳴を上げる従兄弟を蹴り倒しながら、キスカは半月刀を構え、突進する。彼女の進路にいた従兄弟は間一髪でその突きを避けるが、彼女はその回避を予想していた。避けた拍子に崩れた体勢になっている彼の脚に足を引っ掛けて、転倒させる。彼は横にいた伯父を巻き込みながら転倒する。

 まず、前にいた三人を、一旦、戦闘状態から切り離した彼女は、そのまま後ろにいた二人の従兄弟と対峙する。同時に振り下ろされる二本の半月刀を、半月刀で受け、力強く押し返す。

 二人が後退りする間に、キスカは屈むほどに姿勢を低くして、一人の腹めがけて突きを繰り出す。彼はそれを寸でのところで避け、再び半月刀を振りかざした。低い姿勢を維持した彼女は、突きを放った勢いを緩めず、彼の脚に刀を持っていない方の左腕を絡めて、そのまま引き倒した。

 もう一人は、一瞬、キスカの行方を見失っていた。その一瞬が彼の命取りとなる。隣にいた兄弟を引き倒した後のキスカは彼らの背後に抜け、姿勢を直し、半月刀を振り下ろす。背後からの斬撃を背中に受けた彼は断末魔の悲鳴を上げながら、血飛沫を上げる。

「糞っ。ちょこまかと動きやがってっ」

 転ばされただけで、まだ無傷の伯父と二人の従兄弟が立ち上がる。憤怒で、顔を真っ赤に染め上げ、半月刀を構えて突進する。とはいえ、廊下は狭く、大の男が三人同時に突き進むのは難しい。自然と、伯父が後ろに立ち、息子たちが前に立った。男二人くらいならば並べるくらいの廊下の幅なのだ。

 キスカは前に立つ二人の従兄弟が繰り出す突きや斬撃を、半月刀で受け、弾き、時に斬り返しながら、じりじりと後退する。幾度か刀を交えた後、彼女は素早く後ろに飛び退くと同時に手にしていた半月刀を投擲する。放たれた刃は一直線に空気を切り裂き、二人の従兄弟の間を飛び抜け、伯父の胸に突き刺さった。予想もしなかった唐突な最期に、伯父は目を見開き、唖然として、呻き声を上げながら、ゆっくりと仰向けに倒れ伏した。

 唐突な半月刀の投擲と父親の死に、残る二人は意識を逸らされた。そこにキスカは襲いかかる。フォークのように突き出した人差し指と中指を、敵の両目に突き刺し、抉り込む。眼球を突かれた男は悲鳴を上げながら、武器を取り落とし、両目を押さえて激痛に悶絶する。

 キスカは素早く落とされた半月刀を拾い上げて、彼を斬り捨てると、返す刀で、残る一人に斬りかかった。最後の一人は初撃をどうにか避け、次の斬撃を半月刀で受けとめたが、次の突きを避けることに失敗した。半月刀が腹に突き刺さる。その突きの勢いで背中が壁に当たった。半月刀を抜き去ると、血を吐きながら、ずるずると崩れ落ち、壁に背中を預けたまま床に座り込むような体勢で絶命した。

 彼女は休むことなく、重傷を負い、立ち上がって逃げることもできず、廊下でのたうち回る従兄弟の髪を掴み上げ、喉笛を掻き切った。鮮血が飛び散り、廊下が真っ赤に染まる。

 キスカは荒い息を吐きながら立ち上がった。最初に右腕を切り落とした従兄弟の姿がない。おそらくは逃げたのだろう。

 背後から迫る騒々しい足音に、彼女は躊躇なく振り向きざまに半月刀を振り抜く。騒ぎを聞きつけ、キスカが従兄弟に止めを刺す場面を目撃したカリエイの息子の一人は一刀のもとに斬り捨てられた。

 キスカは新手が現れる前にその場を後にする。

 廊下を駆けていると、背後で悲鳴が聞こえた。おそらく、あの惨状を誰かが見たのだろう。騒ぎは既に相当広まっていると考えていいだろう。

 前方から騒ぎを聞きつけた男たちが駆けてくる。血塗れで走ってくるキスカを見て、一様に唖然とした。

「一体、どうしたのだっ」

 中年の髭面の男が叫ぶ。ハヴィナからキスカに同行してきた十数騎のムールド人騎兵のうちの一人だった。

「貴方は薄汚れた裏切り者どもの味方をしますか。それとも、ネルサイの名誉と矜持の下に生きますか」

 キスカは血走った目で彼らを睨みつけて問う。その手には血塗れた半月刀が握られている。

 彼女の問いの意味を、彼らは十分に理解したし、彼女のしたこと、しようとしていることにも察しがついた。帝国人たちを裏切ったカリエイたちに従い、この場でキスカと斬り合うか。それとも、キスカの側に付いて、同族と戦うか。

 男たちは顔を見合わせる。ムールドの戦士は名誉と矜持を重んじ、約束は違えず、仲間を裏切らないことを絶対とする誇り高い男たちだ。カリエイたち、指導部の方針ややり方に納得できない者も多かった。本心ではムールドの戦士の誇りを簡単に投げ捨て、平気で裏切りをやった指導部の連中を軽蔑していた。彼らの胸中には強い不満が渦巻いていた。

 その上、目の前にいるキスカの様子はただならぬものがあり、屈強な砂漠の戦士ですら、気圧される殺気と迫力を放っていた。ここでカリエイたちに従うと答えれば、即座に斬り捨てられそうな勢いだ。

「わかった。俺は、あんたに付こう」

 先頭に立っていた中年の男はキスカに味方することを決めた。一人がそう言うと、他の者も、その流れに逆らわず、彼女の側に付いた。

「では、貴方たちはレオポルド様たちを解放して下さい。それから、一人でも多くの者を味方に付けて下さい」

「あんたはどうするんだ」

 その問いに、キスカは無表情で答える。

「家族を殺しに行きます」

 彼女の氷のように冷たい顔、乾ききった声、血走った目に、気圧された男たちは自然と道を開け、キスカはその間を悠然と歩いて行く。

「なんつぅ恐ろしい女だ……」

 一人の呟きに、全員が頷いた。


「一体、どうしたのだっ。この騒ぎは何なんだっ」

 集会所の一室で休もうとしていたネルサイ族の族長代行カリエイは先程着たばかりの寝間着を脱ぎ、再び普段着に袖を通しながら怒鳴った。

 彼は事態を全く把握できていなかった。

 集会所の各所で発見される惨殺された同族の遺体、どこからか聞こえてくる剣を交える音に、怒号と悲鳴。どういうわけだか、同族同士が集会所内のあちこちで斬り合っている。

 事態が把握できないのも致し方ないというものであった。騒ぎの張本人であるキスカと出くわしたカリエイ派の人間は一人残らず殺され、生きて彼女の裏切りをカリエイに報告できた者がほとんどいなかったのだ。その上、全てが夜の闇の中で行われていたものだから、余計に状況把握を難しくしていた。

 カリエイ派が混乱しているうちに、指導部が主導した今回の裏切りに不満を持っていた者たちは次々とキスカの下に入り、集会所の各所を占拠していた。

 状況を把握できないまま、カリエイは着替えを終え、腰には半月刀を提げて、部屋を出た。傍には二人の息子と一人の部下が付き従っていた。

 そこへ一人の男が駆けてくる。

「オルバイ様が遺体で見つかりましたっ」

 報告を受けたカリエイたちは顔を見合わせ、途端に憤怒に顔を赤く染める。

「糞っ。あの女だっ」

 息子の一人が叫び、壁に拳を打ちつけた。

 キスカとオルバイの関係の悪さは誰もが知っている。しかも、彼は彼女を追うように部屋を出て行ったのだ。誰がオルバイに手を下したのか察しがつかないはずがない。

「待てっ。拙速に動くなっ。まずはここに兵を集めるのだっ」

 兄弟を殺され、復讐の念に駆られ、今にも走り出しそうだった兄弟を押し止める。

 状況が把握できない中で、安易な行動に移るのは危険と考えていた。まず、まとまった数の兵を確保し、それから行動に移るべきだ。

「兵を集めろっ。掻き集められるだけ集めて、ここに集合させろっ。それとカルマン族の族長たちも呼び寄せるのだ」

 側近の部下と報告に来た男に指示を与え、二人を走らせる。

「兵が集まるまではここに留まろう」

「しかし、父上。その間に奴が逃げるのでは」

「あの女はそんな玉ではない」

 息子の懸念にカリエイは確信に満ちた答えを返す。

「逆にこっちへ向かってくるような奴だ」

 彼の印象は正しくその通りであった。

 音もなく現れた影は矢の如く真っ直ぐ廊下を駆け抜け、無言で彼らに襲いかかった。最初に餌食になったのは運悪く背を向けていたカリエイの長男だった。

 べっとりと血に塗れた手に握られた半月刀が彼の喉笛を掻き切る。既に数人を葬り去り鋭さを失った刃が皮に食い込む、勢いだけで強引に肉を食い千切り、血管を引き裂き、骨に噛みついて止まった。

 父親と弟が異変に気付いたとき、彼は首から宙に鮮血を撒き散らしながら仰向けに倒れ込むところで、キスカは彼の腰に提げた鞘から半月刀を抜き放っていた。

「おのれっ」

 カリエイは怒りの形相で、半月刀を抜き、上段から振り下ろす。キスカは新たな半月刀で、重い一撃を受け止める。

「この悪魔めっ。今すぐ殺してやるっ」

 カリエイは血走った目で彼女を睨みつけ、唾を撒き散らしながら怒号を上げる。

 キスカは無言で、半月刀を押し返し、素早く後ろに飛び退く。その一瞬後に彼女が寸前までいた場所にカリエイの息子が渾身の突きを放っていた。前傾姿勢になった彼の頭上に鋼鉄の刃が振り下ろされる。容易く頭皮を引き裂き、強引に頭蓋を砕き、脳漿と血潮が撒き散らされる。

「貴様ぁっ。絶対に殺してくれるわっ」

 目の前で息子たちを殺されたカリエイが、憤怒に満ちた鬼の形相で、半月刀を振るった。

 キスカは躊躇なく敵の頭に食い込んだ半月刀を手放し、後ろに飛び退き、左右に身を躱して、次々と浴びせられる斬撃を避ける。

「よくも息子たちをっ。この悪魔めぇっ」

 カリエイは怒りと悲しみに満ちた叫びを上げながら遮二無二半月刀を振り回す。額には青筋が浮き上がり、顔は怒りに歪み、血走った眼には涙が浮かぶ。

 感情を露わにする伯父とは対照的に、キスカの顔は氷のような無表情のままで、黒い瞳は、波のない闇夜の湖のように静かで、冷え切っていた。瞳に映るのは己を殺さんと襲いかかる鈍い銀色の光を放つ鉄の刃だけ。冷静に落ち着いて斬撃を避け続ける。

 カリエイの息が上がり始めた頃、キスカは獲物を捕らえる蛇のように素早く左腕を突き出した。半月刀が握られた伯父の右手手首を掴み、その刃の先を逸らす。その一瞬後に伸ばされた右手は伯父の喉笛に噛みついた。爪が皮膚を突き破り、肉に食い込み、血が滲み出る。それと同時に足払いをかけ、体重を前に伯父の体に預けて、押し倒す。

 巨体が廊下に倒れ込む。したたかに後頭部を床に打ち付け、カリエイは一瞬意識を手放す。倒れた拍子に半月刀は手放され、床の上を回転しながら滑っていく。キスカはその上に馬乗りになって、両手で彼の首を押し潰すように全体重をかけていく。爪を食い込ませ、喉の肉を引き裂き、首の骨を圧し折り、喉笛を握り潰さんばかりに力を込める。意識を取り戻したカリエイは耐え難い苦しさと嘔吐感を覚え、死に物狂いで足をばたつかせ、自らの首を絞めるキスカの首を逆に掴み返した。

 しかし、彼は既に酸欠状態になりかけていた。意識は揺らぎ、消えそうになる。それでも、必死の抵抗を試みる。

 ごつごつとした太い指に細い首を掴まれ、呼吸ができなくなっても、骨を折られそうなほどの力を込められても、爪が肌に食い込む鋭い痛みを感じても、キスカは彼の首から手を放さず、僅かたりとも力を抜かない。

 二人は暫しの間、瞬きもせずに相手の首を絞めながら、互いのよく似た黒い瞳を見つめ合う。キスカの瞳には憤怒と苦しみに満ちたカリエイの黒い瞳が映り込み、カリエイの瞳には何の感情も感じさせないキスカの黒い瞳が映り込む。

 明かり一つない廊下の闇の中で二人は一つの影となって蠢く。

 暫く後に、一つの影が立ち上がった。壁に手を付き、激しく咳き込んでから、胃の中身を嘔吐した。胃液まで廊下にぶちまけた後、その影は床に転がる半月刀を拾うと、動かなくなった敵の首に押し当てた。肉が千切れ、骨が砕かれる鈍い音が響き渡る。


 レオポルドたちクロス卿派の幹部たちは集会所の一室に集まっていた。

 彼らは唐突に現れた味方らしきムールド兵に解放され、武器を取り戻し、新たに味方になったムールド兵から状況報告を受けていた。既に集会所の各所は味方のムールド兵たちが占拠し、町の弾薬庫、武器庫、食糧庫も制圧したという。

 また、抵抗を続けていたクロス卿派と睨み合っていたムールド兵の多くもこちら側に付き、辺境伯軍残党の兵と共にこちらへ向かっていた。それに、カルマン族の族長を含む多くの者は抵抗せず恭順の意を示しているという。

「一体全体、どういうわけで、彼らは我々の側に付いたのだ」

「ありがたいことだが、まさか、神の思し召しというわけでもあるまい」

 ムールド兵から事の次第を聞き及んだクロス卿派の幹部たちが困惑した表情で口々に囁き合う。彼らには上手く状況が把握できていなかった。

 絶体絶命と思い、最早、これまでと思っていたのが、そこへ、突然、味方が沸いて出て、一気に大逆転とは。唐突過ぎる展開に困惑するのも無理はない。

 レオポルドは上座の席でずっと無言のまま座っていた。

 そこへ、静かな足音が近付いてくる。幹部たちが議論する声の隙間に、その音を聞いたレオポルドは顔を上げ、部屋の入口を見つめる。彼の視線に気づいた幹部たちがそちらに目をやる。

 褐色の肌に銀色の短い髪、黒い瞳。背は高く、手足は細く長い。冷涼とした美しい顔立ちには氷のような無表情を張り付けている。全身を鮮血で真っ赤に染め上げ、体中に傷を負い、血を流している。首にはくっきりと締め上げられたときの指の跡が残る。抜き身の半月刀を握った右手はべっとりと血に汚れ、ぼたぼたと指先から血が滴り落ちる。逆の左手は髪を掴んでいた。胴体から切り離された男の生首だ。切り裂かれた首から流れ出た血潮が床に血溜りをつくっている。

「キスカ……」

 レオポルドは漆黒の瞳を見つめて、彼女の名を呼んだ。

「レオポルド様……」

 キスカは赤い瞳を見つめて、愛すべき主の名を呼んだ。

 彼女は数歩歩み寄ると、部屋の中心に跪き、生首を差し出した。

「私は、レオポルド様に、恭順し、服従し、隷属し、今後、二度とっ。未来永劫、裏切らぬと誓いますっ。これは、その誓いの証っ。裏切り者たちの、私の一族のっ、血をもって、

二心無きことの証左としますっ」

 キスカの声は、乾き切り、掠れ、聞いているだけで痛々しかったが、それでも、彼女は血を吐くような勢いで、レオポルドへの忠誠を誓い、その覚悟を、泣き出しそうな声で叫んだ。

 彼女の言葉で、その場にいた人々は全てを理解した。つまりは彼女が同族を裏切り、一族を殺して、レオポルドに味方した。と、そういうことであるようだ。

「あのムールド女が身内も部族も裏切り、レオポルド殿に味方したというのか」

「挙句、同族を殺したとな。恐ろしい女だな」

 クロス卿派の幹部たちが囁き合う。帝国においても同族殺しは大罪だ。まず、天国行きは望めない。聖職者が口を揃えて地獄に落ちると言うであろうほど、憎悪され、軽蔑され、忌み嫌われる大悪だ。

「レオポルド殿はこの女が味方すると知っておられたのか」

 ジルドレッド将軍の弟がレオポルドに尋ねる。

「いや、それはおかしいじゃろう。この娘が味方なのであれば、カルマン族とネルサイ族の裏切りを知った段階で、レオポルド殿に告げるべきであろう」

 シュレイダー法務長官が異を挟む。

「では、初めは部族側に付いておったが、変心して、再びこちら側に寝返ったということか」

 レッケンバルム卿が渋い顔で言い、キスカを侮蔑するように見下しながら、続ける。

「なんと姑息な。何度も心変わりする者など信用できぬ。しかも、同族すら手にかけるとは冷酷で残虐なっ。これだから、汚らわしい異民族どもはっ。この女も、今はこのように口先だけで、恭順を口にしておるが、いつなんどき、我らを騙し、裏切るか」

「黙れっ」

 鋭い怒声が部屋中に轟いた。

 歴戦の将軍であるジルドレッド卿ですら、目を剥くような裂帛の怒号だった。

「レッケンバルム卿。彼女は私の大事な人です。これ以上、彼女に酷いことを言わないで頂きたい」

 レオポルドはレッケンバルム卿を見つめ、穏やかな調子で言った。

 その赤い瞳は夜の湖のように静かで、しかし、その奥には、揺らめく怒りの炎が見えた。レッケンバルム卿は思わず視線を逸らした後、相手がはるかに年下の若造だということを思い出したのか、顔を朱に染め、苦々しい顔をして、黙って部屋を出て行った。

 レオポルドはキスカの傍に歩み寄り、屈み込む。

「キスカ、どうして、ここまで……」

 確かに、キスカが告白として受け取ったレオポルドの言葉はキスカに味方して欲しいという意思を含めたものであったが、まさか、ここまで、同族を殺してまで味方しろと言いたかったわけではなかった。彼らが寝静まった後にでも、こっそりとレオポルドたちを逃がしてくれれば、それくらいでよかった。同族殺しという大罪を背負わせたかったわけではなかった。

「私は、貴方に仕えると言いながら、その誓いを破り、一度、貴方を裏切ってしまいました……」

 キスカは跪いたまま、震える声で呻くように答える。

 彼女は、一族が、ネルサイ族が、レオポルドたちを裏切るという部族の決定を知った後、レオポルドと会った。しかし、彼女はその事実を彼に告げなかった。告げずに、逃げた。裏切りも同然である。と、彼女は強い罪悪感を胸に抱くことになった。

「これは、裏切った一族を粛清すると同時に、主を裏切った私への罰なのですっ。そして、二度とっ、二度とっ、貴方をっ、レオポルド様を裏切らないというっ、私の覚悟ですっ」

 レオポルドはキスカの頬を撫で、顔を上げさせる。

 いつもの冷たい氷のような無表情の仮面は崩れ落ちていた。悲しみと嘆きに顔は歪み、充血した目からは透明な涙が流れ出て、顔に飛び散った返り血の上を流れ、赤くなって床に落ちる。

 レオポルドはキスカを胸に掻き抱く。彼女は彼の胸に顔を押し当てて、子供のように泣きじゃくった。

 伯父たちは、従兄弟たちは、生まれたときから、見知った家族だった。伯父たちは彼女を可愛がり、膝に乗せて、肩車もしてくれた。従兄弟たちは一人っ子だった彼女の遊び相手であり、馬に乗るのも、弓を射るのも、剣技も彼らに学び、共に稽古して、鍛練した。

 特にカリエイ伯父は彼女の名付け親で、彼女の馬術や剣術の才能を高く評価していた。酒に酔うと、彼女が男であったら、ネルサイ族最高の族長になっただろうと、大笑いをしながら喚いていた。

 彼女も、伯父たちを、従兄弟たちを、好いていた。最高の家族、一族のはずだった。

「全て、全て、私のせい、なんですっ。私が、一人だけ、我儘を言ってっ、私がっ、私が悪いんですっ。私だけっ、皆と違うことを言って、我儘を言ってっ、勝手なことをしてっ。私が、皆を、殺したんですっ。全部っ全部っ全部っ全部っ全部っ、悪いのは私なのにっ、何でっ、何でっ、伯父さんがっ、兄さんたちが死なないといけないのっ、私が、私だけ、死ねばよかったのにっ」

「違うっ」

 キスカの嘆きにレオポルドは強く彼女を抱き締めながら言った。

「いいか。君がやったことは全て私の罪だ。君は、全て、私の為に、やっただけだ。全て、悪いのは私だ。私が、君にやらせたんだ」

 レオポルドはキスカに言い聞かせるように繰り返す。

「それに自分が死ねばよかった。とか、言うな。君が死んだら、愛する人に死なれたら、私は、どうすれば、いいんだ」

 キスカは顔を上げ、レオポルドを見つめる。

「今……」

「キスカ。私は、これからも、君と旅がしたい。勿論、帝国語の旅ではない。ムールドの旅だ」

 レオポルドは彼女を真っ直ぐ見つめて言い、硬直する彼女に口付けする。

「ん、ぁ、ちゅ、だ、ダメです。レオポルド様、血が付きます。それに、私、さっき、その、吐きました……」

「うむ。臭いで分かる」

 彼の言葉にキスカは顔を真っ赤にする。更に瞳から涙が溢れる。

「それでも、構わん」

 再び二人は唇を合わせる。

 クロス卿派の幹部の面々はお熱い二人を見て、飽きれたり、困ったり、苦笑いしたりながら、部屋を出て行った。

「私、凄い、恐い女ですよ……。好きな人の為に、家族まで殺すような……」

 唇を離してから、キスカが呟くように言った。自覚があるらしい。

「それくらい愛されているのならば、男冥利に尽きるというものだ」

 レオポルドは平然と言い放ち、彼女の睫毛に浮かぶ涙の滴を指で拭う。

「それよりも、私の方が大変だ。君への愛を証するのに、何をすれば君と肩を並べられるんだ」

 キスカは儚げに微笑んで答えた。

「もう一度、キスをして頂ければ十分です」

 そうして、二人は三度唇を合わせた。

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