三五 キスカの裏切り
キスカは一人、集会所の廊下を走るように歩いていた。
かなりの早歩きで、足は自然と早まっていく。心臓は既に走った後のようにばくばくと鼓動している。頭の中は同じ場所をぐるぐると走るように空回っている。空転する脳内を落ち着かせて、彼女は思考を整理する。
先程、レオポルドが言っていた言葉。あれは全て自分に向けた言葉だ。そう、彼女は確信していた。彼は話している間、ほとんどキスカとは目を合わさず、前を向いていたが、しかし、他の誰かと目を合わせることもなかった。まるで空気に向かって話しているようで、しかも、帝国語で、通訳を待たず、一気に言い切ってしまった。あの場には彼女の他にも帝国語を解する者もいたが、後半ともなると、確実にキスカを指名して話しかけている。
散々、裏切りを責めておきながら、最後にはやっぱり信じていたと口にして、あまつさえ、もっと、ずっと、一緒に旅をしたかった。とは。一度落としておいて、持ち上げて、そして、旅。
「まるで、これは……」
そこまで思考を巡らせてキスカは立ち止まる。真っ赤になった両頬に思いっきり平手を打ち込む。
考え過ぎた。想像が飛躍している。
キスカは自身の思考を否定する。頭の中に浮かび上がる一つの結論を振り払うように頭を振ってから、再び歩き始める。
それでも、その考えは甘美で理想的で魅力的だ。つい、今しがた否定したばかりのはずなのに、彼女の頭は再びその考えで満ち溢れていた。もしも、自分の考えが正しく、レオポルドもそれを望んでいるならば、自分が選ぶべき道は……。
しかし、それを選んだとしても、上手くいく見込みは、
「おい、キスカ」
歩きながら考えを巡らせていると、不意に背後から呼びかけられた。聞いたことがある声だ。聞きたくもない声だ。
いつの間にか表情を緩ませていたキスカの顔つきは途端に険しくなり、不機嫌そうに顔を顰め、声を振り切って歩き出す。
「おいっ。待てっ」
後ろで怒声が聞こえ、腕を掴まれた。反射的に腕を掴んだ相手を睨みつける。
「何だ。その目は。それが、夫となる男に向ける目か」
キスカの従兄にして婚約者であるオルバイは険しい顔で彼女を睨み返してきた。
前の族長であったキスカの父の長兄の五男である彼はキスカよりも数歳年上で、背が高く大柄で逞しく黒々とした髭を蓄えた大男だった。逞しさや強さが重要視されるムールド人の中では理想的とも言うべき男だろう。
しかし、キスカは彼が好きではなかった。
そもそも、族長の遺児である自分との結婚が政略結婚というのが気に入らないし、オルバイの女を見下すような言動も好きではない。
男社会であるムールド人社会では男尊女卑は自然なことなのだが、幼い頃から、女性の社会進出が進んでいる帝国の文化や言葉を学んだキスカには耐え難い悪しき風潮としか思えなかった。
また、父の死後、比較的自由に動けていたのが、結婚によってその自由が制限されることも耐え難いことである。
その上、今回の裏切りである。ムールド人の誇りと伝統に泥を塗りつけるような所業は彼女にとって許容できるものではなかった。この裏切りを主導したのがネルサイ族であり、かつ、キスカの伯父であるカリエイの家であった。
キスカのオルバイに対する感情は嫌悪どころか憎悪に近いものがあった。
「放して下さい」
キスカは努めて冷静に、感情を押し隠して、はっきりと彼を拒絶した。
「主人が妻の手を取って何が悪いのだ」
そう言われ、彼女は途端に憎悪を露わにした。
「まだ、夫ではありません」
「婚約は部族会議で決まっているのだ。最早、結婚したも同然ではないか」
その言葉にキスカは苦々しく表情を歪めさせた。ムールド人の部族では部族の会議での決定は絶対である。今回の裏切りも部族会議で決められたことだ。それ故に、キスカも従ったのだ。
ただ、その決定にあっさり素直に応じたわけでもないし、納得しているわけでもない。最初、この決定を知らされたとき、彼女は猛然と抗議した。抗議はしたが既に部族会議で決められてしまったことだ。部族の総意だと言われれば、従うより他に道はない。
こうして、彼女は不本意で不愉快な裏切りをする羽目になったのだ。
キスカは不機嫌さを隠そうともしていない。顔にも態度にも表情にも声にも不愉快さを露わにしている。それでも彼女がご機嫌だと思うような奴がいれば、そいつの目と耳は節穴で、脳味噌は空っぽとしか思えない。
「何を怒っているんだ」
オルバイはそれほど頭が悪くもないし、空気が読めない男でもない。キスカが機嫌が大変宜しくないことくらい理解できるし、その原因が何かくらい察しも付く。
「なんだ。まだ、あの間抜けな帝国人どもをはめてやったのを根に持ってるのか」
オルバイはなんでもないことのように言い、飽きれたように嘆息した。
「お前はどっちの味方なんだ。ネルサイの娘だろう。どうして、そんなに帝国人どもに味方したがるんだ。連中に味方したところで、良いように利用されるだけだ。万が一、勝ち馬に乗れたとしても、連中は俺たちに助けられたことなんかけろっと忘れて、支配者ぶるんだぞ」
確かに帝国人のやり方はいつもそうだった。辺境伯が帝国に刃向う反抗的な部族の追討に向かう際、親帝国派の諸部族は従軍を求められ、軍資金の供出を命じられ、糧食を徴発された。この貢献に対する帝国からの見返りはいくらか税が軽減されるのと、何かあったときには帝国軍が助けてくれるという保障くらいのものであった。帝国人はいつも尊大で傲慢で、異民族を見下し、差別していた。
それでも、親帝国派諸部族が余所者である帝国人に頭を下げてきたのは帝国の後ろ盾という安全を確保する為であった。
この最も重要なものが失われた今、彼らに従っても何の意味もないし、何の得にもならない。と、考えるのは当然といえば当然だろう。未だに遊牧生活を営むネルサイ族は帝国との商売で利益があるわけでもなく、帝国の文化に触れているわけでもないので、帝国には全く親近感を抱いていない。それどころか、心の底では反感を抱いてきたのだ。
ただ、唯一、ネルサイ族の中にあって、キスカだけは違っていた。
「そうであったとしても、帝国から離れては部族に未来はありません。帝国はあなたたちが思っているよりもずっと強大な国です。私たちはできる限り、彼らと友好的に接し、彼らと協力関係を築かなければなりません。何があっても、彼らと敵対するようなことは避けなければなりません」
それが彼女の思想であった。
彼女はネルサイ族の中では比較的開明的であった父の影響で帝国語を学び始めた。父親としては避けることのできない帝国との付き合いの中で、帝国語が話せる人間がいくらかいた方が良いと思って、帝国語を教えたのだろう。いくらか話せる程度になると、父は帝国人との会合で町に行く度に帝国の本を持ち帰り、彼女に与えた。
キスカはそれらを読んで、帝国語を学ぶと共に帝国の風俗や文化、制度に興味を持った。自分たちとは全く違う生き方に純粋に好奇心を抱いたのだ。
両親が流行り病で相次いで亡くなり、自由に行動できる立場を手に入れると彼女は近くの町やサーザンエンド南部の都市ナジカに出かけては帝国人と話をしたり、帝国の本を手に入れたりして帝国のことを勉強するようになった。それは帝国という異文化に対する好奇心と共に自分たちを支配する強大な支配者を知っておくべきであるという政治的な考えからでもあった。
いくらか帝国について学んだ結果、彼女は多くのムールド人や他の諸部族が思っているよりも帝国はもっと強大な国家であることを知った。それでも、帝国に反抗的な部族が生きていられるのは帝国が南部を辺境と見做して放置しているからだ。
それでも、南部で何か大きな事件が起きれば、反帝国勢力が大きな勢力を形成するようなことがあれば、帝国はその動きを許さないだろう。最新の大砲とマスケット銃を装備した十数万もの大軍が押し寄せ、数万も集まればいいくらいの反帝国勢力を踏み潰してしまうだろう。
そう考えた彼女は帝国から付いて離れないことが部族の安泰に繋がると主張した。
キスカの帝国かぶれは一族で問題視されたが、伯父たちは誰が族長の地位を継ぐか、族長の一人娘であるキスカの婿は誰にするかという後継問題で揉めていて、キスカに構っている暇などなかった。
そんな頃、サーザンエンド辺境伯が崩御し、辺境伯の後継問題が顕在化した。親帝国派のムールド人部族から成る七長老会議はフェルゲンハイム家の生き残りであるレオポルドを帝都からサーザンエンドへ呼び寄せようと画策し、使者を出すことにした。
これに帝国に強い興味と憧れを持っていたキスカが乗らないはずがない。折しも、婿も決まり、結婚させられようとしていたこともあって、彼女はかなり強引に自分が帝都に行くと殆ど一方的に言い残して、サーザンエンドを飛び出し、さっさと帝都に行ってしまった。
帝国を見て回った彼女は従来の考え方を更に強いものとし、決して帝国に刃向ったり、逆らうような真似はしてはいけないとの確信を深めた。
それが今回の事件だ。ネルサイ族は、あっさりと目先の、短期的な利益の為に帝国人を裏切り、屈辱を与えてしまった。部族の誇りと矜持の問題でもあるが、長期的に見て、この事件は確実に部族の損失となるとキスカは考えていた。
ネルサイ族は帝国人を裏切った蛮族というレッテルを貼られ、後々まで歴史に書き残され、帝国人はネルサイ族にマイナスの感情を抱くだろう。
ブレド男爵派に鞍替えするにしても、他にもっとうまいやり方もあったはずだ。こんなふうに帝国人を騙し討ちするような卑怯な手ではなく、穏便に、正直に味方できない旨を伝えて、町を出て行ってもらうとか。それであれば、まだ恰好も付いたし、今回のようなやり方ほど帝国人に憎悪されることもない。
しかし、カリエイたちは勝ち馬に乗るだけでは飽き足らず、ブレド男爵に渡す手土産まで欲したのだ。その強欲さ故に帝国人を裏切り、捕縛するという卑怯極まりない行為に及んだ。
「この行為は必ず帝国の反感を買い、ネルサイ族は卑怯者の蛮族として憎悪されるでしょう。その報いはいつか必ず火の粉となって私たちに降り注ぎます」
「ふん。貴様は帝国びいきだからな。帝国が何ほどのものか。もう何百年も前から帝国人はここにいるが、結局、未だに全部族を従属させることもできていないではないか」
キスカの言葉にオルバイは顔を顰めて言い放つ。
そう言う彼は帝国が数千万もの人口を誇り、サーザンエンド全域の数十倍もの領土を持つことを知っているのだろうか。全部族合わせてもたかだか十万人程度しかいないムールド人が敵う相手だと思っているのか。
キスカは今までも何度か帝国について、帝国との関係について意見を述べてはいるのだ。しかし、その度に虚しい反応が返ってくるばかりだった。
「女が政に口を出すなっ。少々ものを知っているからと偉そうにっ。身の程を弁えろっ」
オルバイが苛立ち、怒鳴り散らす。
今までも、このように叱責され、彼女の意見は耳さえも傾けられず、排除されるのが常であった。
キスカは憮然として黙り込む。自分の一族はどうしてこんなにも短絡的で思慮が浅いのかと辟易としていた。同じ部族だというのに、同じ言葉を話しているはずなのに、話が通じない。
これでは自分とは異なる民族である帝国人と、レオポルドと話している方がずっと話が通じる。レオポルドは自分の話を真摯に聞いてくれるし、意見を取り入れ、尊重してくれる。彼も意見を言うし、知らないことを教えてくれる。旅の進路について旅中の生活について、それどころか、政治的なことにも、戦場での戦術的な意見にも耳を貸してくれた。彼女の意見を最初から聞く価値のないものとして排除することは絶対になかった。今まで言葉を頭から無視されてきた彼女にとって、レオポルドとの会話は大変心地よく貴重な経験だった。
ムールド人の裏切りの直前、彼はカルマン族を疑う発言をした。それをキスカは自分たちムールド人が信用されていない証として受け取り憤慨したが、今思い返すと、レオポルドはカルマン族が信用できないことを他ならぬ自分に明かしたのだ。それは、つまり、カルマン族は、ムールド人は信用していなかったが、キスカ個人はムールド人という民族とは切り分けて一人の個人としてそれ以上に信頼していたことに他ならない。先のレオポルドの発言はその証左であろう。
それに対してムールド人は、誰も彼も、個人の考えよりも部族や家族の考えを重視し過ぎている。親帝国派ムールド人への不信をキスカが自身への不信と考えたのは彼女自身があくまで自分を部族の中の一人として捉えていたからだ。故に、彼女は部族の、帝国を裏切り、クロス卿派を騙し討ちにして捕縛するという計画を知らされても、それをレオポルドたちに漏らさなかったのだ。部族の決定は絶対であり、個人がそれに逆らうなんてことはあり得ないのだ。
そして、目の前にいる、女を見下す男との婚姻も部族の決定なのだ。
キスカは心が暗い地の底に落ちていくかの如き重苦しさと思うように生きられない苛立たしさを感じて、一層不機嫌になった。かなり乱暴に捕まれていた腕を振りほどく。
「用がないなら失礼します。急いでいますので」
殺気すら含まれる黒い瞳でオルバイを睨みつけ、吐き捨てるように言うと、彼女は集会所の廊下を歩き出す。急ぎの用も目的もないが、これ以上、オルバイの傍にいたくなかった。
「おいっ。待てっ」
しかし、オルバイは彼女を逃がさない。婚約者だというのに以前から全く自分と接しようとしないどころか、益々反抗的になり、思い通りにならないキスカに若く血気盛んな彼も苛立っていた。妻は夫に従うものという風潮が強いムールド人で、しかも、ネルサイ女は、愛情豊かで、亭主には従順で一生懸命に尽くすと評判なのだ。周りの同世代の男たちは従順な妻を得て、愛されているというのに。
このまま彼女を自由にさせておくわけにはいかない。どうにかして、自分に従わせなければならないと彼は強く感じていた。多少強引なことをしても、自分が主人であると彼女に認めさせねばならない。
オルバイは再びキスカの手を掴み、半ば引き摺るように手近な部屋に引っ張り込んだ。キスカは不意を突かれた上に、大男の力には抗うこともできず、部屋に連れ込まれ、床に組み敷かれる。
大声を上げようとするキスカの口をオルバイの大きな無骨な手が覆い隠す。
「誰がお前の主人かを、お前の体に思い知らせてやる」
彼の言葉にキスカは目を見開く。ムールド人の文化、風習では、男女共に貞操は結婚まで守らねばならず、初めての性交渉は初夜でなければならないとされている。
キスカは婚約者のあまりの暴挙に驚き、唖然とした後、自分の婚約者は、なんと短絡的で、暴力的で、下劣な男だと軽蔑した。
そう思った瞬間、彼女の頭の中に、もう一人の異性の姿が浮かんだ。
先に言われた言葉を再び思い返す。
「私は、君と、まだ、もっと、ずっと、一緒に旅を続けたかった」
彼は帝国語でそう言ったが、そこで、あえて「旅」という単語を使ってきたことに、どういう意味があるかを彼女はずっと考えていた。
ムールドの言葉で「旅」は「人生」そのものを表すとは以前に話したことがある。レオポルドはそれを忘れていないだろう。そして、ムールドの言葉で、旅を一緒にしたい。とは、愛の告白の慣用句である。
レオポルドはこれを意識して言ったのだろうか、キスカはこの言葉を聞いたときから、ずっとそれを考えていた。彼は、私に愛している。と、これからも、ずっと一緒に人生を歩みたいと言ってくれたのか。
彼女はそう言われたいと思っていた。願わくば、そういう意味の発言であって欲しい。
では、レオポルドの発言がそのような意味合いを持っていたとすれば、彼女はどうすべきか。どう行動すべきか。愛する人の為に、何を為すべきか。
彼女の頭は瞬く間に目まぐるしく思考し、一つの結論を出した。
キスカは自分の上に圧し掛かるオルバイの腹に膝蹴りを食らわせて、押し退けると、腰に提げていた半月刀の鞘を払った。窓から差し込む月光に半月刀の刃が鈍く光る。
「貴様っ、何をする気だっ」
抜き放たれた半月刀を見て、オルバイが叫んだ。
キスカは何も答えず、無表情で半月刀を振り上げると、一切の躊躇もなく、袈裟懸けに斬り捨てた。血飛沫が噴き上がり、部屋中に鮮血が飛び散る。
「ひっ、キ、キスカ、貴様、裏切り者めぇっ」
血塗れになりながら、床に転がったオルバイは憤怒の形相でキスカを睨みつけながら、断末魔の呻き声を上げる。
「裏切り者などと、よく言えますね」
返り血を浴びたキスカは冷え切った声で呟くと、仰向けに倒れているオルバイの胸を踏みつけ、止めを刺すべく半月刀を構える。
「糞っ、何故だっ、どうしてっ」
オルバイは己を踏みつける足を掴み、もがきながら叫ぶ。既に致命傷ともいえる重傷を負っている為、彼女を押し退ける力は残っていないようだ。
「貴方がどうして理由を問うのか私にはわかりません」
そう言ってから、キスカは顔を寄せる。
「ただ、私は愛する人には従順で、愛される為ならば、何でもする典型的なネルサイ女なんですよ」
彼女は微笑を浮かべて囁くと、半月刀をオルバイの首に突き刺した。鋭い刃は皮膚を破き、肉を引き裂き、骨に突き当たる。そのまま更に力を込めて首の骨を砕く。血管が断ち切られ、鮮血が撒き散らされる。
返り血を浴びて真っ赤になったキスカは半月刀を引き抜き、立ち上がる。無表情で元婚約者の亡骸を見下ろした後、抜き身のままの半月刀を持ったまま、部屋を出る。
「私も、貴方と一緒に旅をしたいです。これからも、ずっと、永遠に、あの世まで」
キスカは真っ直ぐ前を見つめて、歩を進めながら呟いた。ここにはいない。愛する人に向けた答えを。