三一
交易都市ナジカの有力者たちはレオポルドたちの市内への入城を明確に拒絶した。
しかし、キスカの予想どおり、こちらが糧秣や水、馬、駱駝などの購入やハヴィナから持ち出した宝飾品などの換金などを申し出ると「ナジカは何人にも商売の自由を許している。罪人であろうとも奴隷であろうとも悪魔であろうとも商売を望む者をナジカは拒まない」というナジカに伝わるという言葉を持ち出して取引は許可された。
取引するとなると麦の袋を五個六個買うような契約ではないのだから、短時間に済むものではない。額が額だけに腰を据えて話し合い、契約書を交わさなければならないので、話し合いは数日に及ぶだろう。また、取引した荷物を積む時間も要する。
そこで、レオポルドたちは市内への入城は許可されなかったものの、市門のすぐ近くで野営することが許された。彼らはそこに天幕を張って横になって体を伸ばし、旅の疲れを癒すことができた。
ナジカ商人たちはこちらの苦しい立場を知っているので、かなり強気の態度で取引を行おうとした。つまりは売る商品の値をふっかけ、こちらの商品を買い叩こうとしたのだ。
しかし、こちらの交渉者はレッケンバルム卿であった。長らく辺境伯の宮廷を牛耳ってきたこの老獪な御仁にかかれば、ナジカ商人たちなど稚児にも等しい。
交渉初日、レッケンバルム卿は貴族的に居丈高な態度を崩すことなく、生意気なナジカ商人たちを一喝して尻込みさせ、立場の違いというものを改めて理解させた。以後、ナジカ商人は卿の前に出ると猫に怯える鼠のような有様になってしまった。
更に、いくつかの商会と同時並行で取引を進め、安い方と取引しようと見せかけて値引きを誘い、将来的に自分たちがが復権した暁には今度の取引でしこりが残るようなことがあればどうなるかを思い起こさせ、都合の悪い事ははぐらかし、場合によっては恫喝し、幾人もの商人たちを掌の上で転がして、結果的には三つの商会とそれぞれ互いに利益が見込める値で取引を成立させた。
「お見事ですね。さすがはサーザンエンド辺境伯を支えてきた御方です」
レオポルドが感嘆するように言うとレッケンバルム卿は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「帝国中央政府や他の諸侯、教会との交渉に比べれば、彼奴らのような野蛮な異民族相手の交渉など児戯のようなものだ」
彼がサーザンエンド辺境伯の宮廷を実質的に率いていた間、幾多もの外交的な試練があったのだろう。それをどうにかこうにか乗り切ってきた御仁なのだ。交易都市とはいえ、辺境も辺境の田舎商人相手から物を安く買い入れるという単純な取引は彼にとっては朝飯前なのかもしれない。
「ところで、我々の行く先はファディらしいな」
レッケンバルム卿の言葉どおりレオポルドたちはナジカから更に南へ進み、まずはファディという町に向かう予定であった。
ファディはムールド人が住む地域では最も北に位置し、人口二千ほどの辺境にしてはまずまずの規模の町である。
「ファディにはキスカの部族ネルサイ族と親縁のカルマン族が住んでいるそうです」
二八あるムールド諸部族のうち帝国寄りの部族は七あり、まずはファディでカルマン族と接触し、帝国寄りの諸部族を味方に引き入れる足がかりとする予定である。
「キスカはネルサイ族では族長の家柄にある娘のようですから、カルマン族にも話が通じるでしょう」
「異教徒の遊牧民なんぞに助けを求めねばならんとは忌々しいことだ」
レッケンバルム卿は不機嫌そうに鼻を鳴らす。
以前から感じていたことだが、レッケンバルム卿は異民族に対してあまり良い感情を抱いていないようだ。はっきり言って蔑視しているとも取れる言動が見られることがある。
レオポルドはこの傾向を好ましいものとは思っていなかったが、あえて無視することにした。ハヴィナから逃れてきた一行の実質的な指導者はレッケンバルム卿なのである。些細なことで卿と対立することがレオポルドにとって利益になるわけがない。
レオポルドは黙ってレッケンバルム卿の言葉を聞き流して話を続ける。
「帝国寄りのムールド人たちはその他の帝国に敵対的な諸部族に対抗する為、同盟を結んでいるようです。その同盟は七長老会議と呼ばれています」
「では、まず、その七長老会議とやらをこちら側に付けねばならぬな」
レオポルドたちの方針としては最初に七長老会議を味方に引き入れ、可能であればムールド人全体を掌握するつもりだった。
ムールド人はほとんどの部族が帝国の支配に反発しているが、それらの部族間でも争いが絶えず、まとまりはない。これを各個撃破して、従属させようという目論見だ。
そのようにしてムールド人を配下に収めると同時に帝国中央へも働きかけ、レオポルドの正当性を主張して、ブレド男爵の辺境伯就任を妨害する。
従属させたムールド兵を掻き集めて増強した戦力でハヴィナを奪還し、ブレド男爵を追い落とす。これが彼らの方針であった。
問題は七長老派が素直にこちらの味方になってくれるかという点。次に他の反帝国諸部族を配下に収めることができるかという点である。
レオポルドたちが持つ軍事力と資金力はそれほど多くはない。
戦力となるのは騎兵一〇〇騎に歩兵二〇〇人。それにムールド人騎兵二〇騎。
資金も暫くの間、生き延びるだけの物資を補給するには足りるが、いくつもの部族に資金的な工作を仕掛けたり、大勢の傭兵を雇い入れるには少なすぎる。
頼りはネルサイ族の族長の家柄だというキスカだけなのだが、彼女がいつまで自分に従っていてくれるのかレオポルドは不安を感じていた。
彼女がレオポルドに従っているのは彼を辺境伯にする為であり、それは帝国寄りである彼女の部族の立場を保持する為である。安定した辺境伯政権が維持されればネルサイ族は満足なのである。
レオポルドがすんなりと辺境伯の椅子に収まっていれば、キスカは引き続き彼に従い、ネルサイ族は安泰であっただろう。
しかし、事態はすんなりと思惑通りには進んでいない。
レオポルドの辺境伯就任は見通しが立たず、ハヴィナから追い出される始末である。辺境伯の椅子にはテイバリ人のブレド男爵が手を伸ばしている。
変わってしまった現在の状況においてキスカやネルサイ族がどう動くかレオポルドには予想ができなかった。場合によっては彼女が裏切ることも十分に考えられるのである。
とはいえ、今、レオポルドにできることは七長老派を味方に付けるべく、キスカを頼るしかない。あとは手紙を書くくらいである。
ナジカに滞在している間、レオポルドは天幕の中で何枚もの手紙を書いて送った。
宛先は帝都のレイクフューラー辺境伯の他、道中で知り合った教会関係者らであった。その内容は支援を求めるものであったが、あまり期待はできない。彼らはレオポルドに好意的ではあったが、無条件で強力な支援をしてくれるほどお人好しではない。
とはいえ、手紙を出しておく意味はある。大きな支援は期待できずとも、僅かならば支援の資金や物資を送ってくれる可能性はある。
また、何よりもレオポルドの存在を忘れさせない必要がある。彼らはいずれも多忙な身であり、いつもサーザンエンドのことを気にかけているほど暇ではないのだ。そんな彼らにレオポルドという若者が南の辺境サーザンエンドで頑張っているということを知らしめなければならない。彼らとレオポルドの間の細い繋がりが途切れないようにする為の手紙であった。
レオポルドたちは三日の滞在の後、ナジカを発ち、そのまま南へと進んだ。
相変わらず気候は乾燥して砂埃が酷く道は悪かった。
とはいえ、ブレド男爵の手の者に追われることはなく、野営中に野盗の襲撃を受けることも野生動物に襲われることもなく、比較的安全に移動することができた。
襲撃するには一行があまりにも大きな集団で、なおかつ、十分に武装していたからであろう。
また、彼らは常に注意深く行動し、集団から離れて少人数で行動することを避け、必要な場合でも数十人単位で行動するように心がけていた。
ナジカを発って四日後、一際日差しが強く風のない日。
ムールド人騎兵が「ファディが見えてきた」とレオポルドに報告してきた。
報告を受けたレオポルドは目を凝らして前方を注視するが、茶色い土の地面と枯れたよう細木。青すぎる空とうっすらとした雲の他は何も見えない。陽炎の向こうを見ようと目を細めても何も見えなかった。
「何も見えないが」
困惑してキスカに顔を向けると、キスカは困った顔をして前方を指差した。
「あちらに」
その指差す方を見ても何かあるようには見えない。眼を細め、眉間に皺を寄せて睨むように遠くを見るが、地平線の辺りはぼやけていて何があってもわからない。
結局、レオポルドは視認を諦め、とりあえず、ムールド人たちの言葉を信じて、そのまま進むことにした。
レオポルドの視力でも、町影らしきものが見え始めたのは半日も経った頃合で、彼はムールド人たちの視力の良さに感心した。
ファディの町に入ったのはその翌日の昼過ぎであった。