三〇
帝国南部を南北に縦断する南部街道は帝国本土の主要街道のように石敷きではないものの、サーザンエンドの首都ハヴィナまでは道幅も広く、平らに整地されていて、人も馬も車も比較的安全に移動することができる。
しかし、ハヴィナを過ぎると途端に街道と称するのも烏滸がましいと思えるような悪路へと変貌する。土が剥き出しの路面はでこぼこと波打ち、雑草が生い茂り、石が転がっている。
その上、誰かが悪戯で掘ったのではないかと思えるような大きな穴ぼこが各所に点在している。道の真ん中に細い木が立っているなんてこともあった。かなり長い間、ほとんど整備されていないようだ。
周辺は砂漠のような荒野のような有様で、あちこちに乾いた茂みや干からびたような細い木が立っている。生き物の気配はまるでなく、鳥が輪を描くように空高くを飛んでいるのをたまに見かける程度だった。
地面を焼く日差しは極めて強く、たまに吹き付ける乾いた風は砂埃を纏い、涼しさを感じるよりも息苦しさと不快感を覚える。吹き荒ぶ砂埃から顔を守ろうと人々は自然とムールド人がするように布を顔に巻くようにしていた。
レオポルドたち、ハヴィナを脱出した一行は馬の脚や馬車の車輪が穴にはまったりしないよう慎重に進んでいく。大きな穴や木が邪魔で通り難い箇所では馬車は道を外れ、盛大にガタガタと揺られながら障害物を迂回する。
とはいえ、それくらいの障害物と道の悪さはまだ我慢できる。問題は日差しと暑さだ。
刺すように強い日差しと厳しい暑さは一行の体力を容赦なく奪っていく。
辺境とはいえ、都市に生まれ育った貴族の子女はこんな旅が数日も続くと、すっかり参ってしまっていたが、黙って乗り心地が最悪な粗末な荷馬車の荷台で横になっていた。ハヴィナを出ると決めた時から、これくらいの困難は覚悟の上なのだろう。
ところで、レオポルドたちの一団は、いくつかの隊に分かれていた。
一つは荷物や女子供を乗せた十数台の荷馬車と百頭近い数の駱駝から成る荷駄隊。
次にジルドレッド卿が指揮する五〇騎ばかりの騎兵。ほとんどが辛くも先の戦いを生き延びた近衛騎兵であった。彼らは荷駄隊の周囲に散開して、これを警護している。
荷駄隊の後ろには二〇〇名ほどの歩兵が隊列を組んで続き、ほぼ全員が比較的新式の軽いマスケット銃を装備している。彼らは後方から来るかもしれない敵の追撃に備えており、バレッドール准将が指揮をしていた。
そして、先頭を行くのは二〇騎ばかりの馬や駱駝に乗ったムールド人騎兵である。彼らは先の戦いの前に雇われたムールド人傭兵の中でキスカの部族やそれに近い者たちだった。
非常に有能な彼らにレオポルドたちは大いに助けられた。
彼らは普段は遊牧や隊商の警護をしている為、地理に明るく砂漠や荒野を旅する術にも長けていた。彼らなしではレオポルドたちのサーザンエンド南部落ちは犠牲者を出すような悲惨なものになったかもしれない。地理に疎く旅慣れない者の長旅はそれくらいの危険を伴うものである。
レオポルド自身はムールド人騎兵と共にいた。傍らにはキスカの姿もある。フィオリアとソフィーネは二人よりもいくらか後ろの荷駄隊の馬車に乗り込んでいた。
ムールド人騎兵の多くは駱駝に騎乗していたが、レオポルドとキスカは馬を選んでいた。
というのも、キスカはともかくレオポルドは駱駝を乗りこなすことができないからである。前述した如く駱駝は馬よりも背が高く、気性の荒い獣で、馬と同じように乗りこなすというわけにはいかず、一朝一夕で乗れるような獣ではないのだ。キスカはレオポルドに合わせて馬を選んでいた。
「中々厳しい道だな」
道の真ん中にできた穴ぼこを迂回しながらレオポルドは渋い顔で呟く。騎兵や歩兵は少し迂回すればいいだけなので、それほど苦ではないが、馬車は道を外れるくらい迂回しなければならず、それにはかなりの労力と時間を要した。大きな障害物がある度に彼らはそうやって貴重な労力と時間を費やしていた。
「我々や兵たちはまだいいが、女子供の中には疲労が激しい者も少なくない」
「明日にはナジカが見えるでしょう。それまで御辛抱下さい」
レオポルドにキスカが無表情で応じる。
「ナジカには入ったことはあるか」
レオポルドの問いにキスカは頷く。
「幾度が訪れたことがあります。ハヴィナやコレステルケよりは馴染みがあります」
聞くにサーザンエンド南部のオアシス都市ナジカはコレステルケのような帝国風都市でもなく、ハヴィナよりも更に異民族が多く居住しているという。二万程いる住民の中に帝国人は一割もいないようだ。ハヴィナよりも南に居住する帝国人はかなり希少と言って良い。
「帝国本土の諸都市に比べれば見劣り致しますが、西岸や南岸の港湾都市との交易で賑わう交易都市で、大変多くの人や物が行き交います」
「南岸は分かるが、西岸の港湾都市からも人が来るのか」
キスカの説明にレオポルドは顎に手をやって疑問を抱く。
サーザンエンドを含む帝国南部と呼ばれる大きな半島はその付け根にグレハンダム山脈が聳え、西岸にもプログテン山脈が南北に走っている。この山脈が湿気を含んだ西風を阻んでいる為に南部一帯は乾燥した気候になっているという。
「確かにプログテン山脈を越えることは容易ではありません。ただ、ナジカから西へ行くと山脈が途切れている箇所があり、商人たちはそこを行き来しているそうです」
南部西岸部の山脈はプログテン山脈と一つの山並みとしてまとめられているが、実際にはナジカの西で途切れているのだという。故に山脈は北プログテン山脈と南プログテン山脈と分けて表現されることもある。
この途切れになっている峠を越えることはそれほど難儀ではないらしい。道も整備され、気候が温暖な為、冬でも雪に閉ざされることはなく、一年を通じて往来可能である。この峠を利用して西岸の港湾都市と交易が営まれているらしい。
ナジカは西岸の港と南岸の港を結ぶ中継地点なのだ。
「なるほど。そのナジカでならば少しは休めるか」
「おそらくは。ただ、彼らは既にブレド男爵の影響を受けているかもしれません」
ナジカに居住する主要な民族はテイバリ人であり、テイバリ人の中で最も有力な存在であるブレド男爵には逆らえないだろう。
「しかし、彼らは商人ですから利益になる取引であれば応じるかもしれません」
辺境の交易都市に住む商人たちの商魂は逞しいものがある。商売相手が有力者の敵であれば、積極的に味方はしないにしても商売の相手ならばしないとも限らない。利益になると思えば、ブレド男爵に目を付けられない程度の協力は期待できるだろう。
幸いにもレオポルドたちは当面は困らない程度の資金を確保していた。その資金というのはサーザンエンド辺境伯の宮廷費である。
基本的に辺境伯領の資金は財務長官が管理するものであるが、唯一、辺境伯の私費である宮廷費のみはレッケンバルム侍従長がその管理に与っていた。
辺境伯が不在で一族もほとんどが天に召されているにも関わらず、侍従長は財務長官よりも強い立場を利用してしっかりと宮廷費を確保していた。その宮廷費は実質的にはレッケンバルム派の財布と化しており、それを今回の逃避行にもしっかり運んで来ていたのだった。
「ふむ。では、たらふく物を買ってやれば、街の近くで数日休んでも目を瞑ってくれるかな」
「おそらく」
そう言ってからキスカは視線をレオポルドの手元へとやった。
彼の手は手綱を握ると共に小さな本を開いていた。先程から彼は時折、その本に視線を落としていた。つまり、乗馬しながら読書するという少し危険な行為をやっている。
「その、本は、えっと……」
キスカはレオポルドの顔を見たり彼の手元の本を見たりして言葉を濁らせる。尋ねて良いものかどうか躊躇しているようだ。彼女はいつもこのような遠慮がちな態度を示す。
「あぁ、これか。これは、そうだな。キスカについての本だ」
「私についての、本ですか」
その答えにキスカは怪訝な表情を浮かべる。眉を八の字にして困ったような顔になって主を見つめた。
レオポルドは彼女の反応に機嫌良さそうに微笑んで、本の表紙を見せた。革張りの表紙には「ムールドの民たち」と読み辛い装飾文字で綴られている。
「レッケンバルム卿に頂いたものだ。百年ほど前にサーザンエンド南部を旅した宣教師の著作だそうだ。ムールド人の文化、生活、習慣、装束、言葉なんかが記録されている。いくらか差別的表現もあるが。例えば間違った神を信仰しているとか。文化が遅れているとか。まぁ、そこに目を瞑れば参考程度にはなる」
レオポルドはそう言ってから本を睨んで、たどたどしく帝国人には意味不明な言葉を口にする。
それを聞いた周囲のムールド人騎兵たちは一斉に笑い出し、キスカは目を丸くしてレオポルドを見つめた後、慌てた様子で顔を俯かせた。
「む。間違えたか。さっきのは、君と、旅ができて、良かった。じゃないのか」
レオポルドは苦い顔をして本を睨みつける。
「旦那が今言ったのは直訳すると、君と旅を共にできたら良い。だよ」
近くの中年のムールド人騎兵が帝国語で言った。彼らのように度々帝国人に雇われるようなムールド人の中には帝国語を解し、自由に話すことができる者も少なくない。
「少し間違えたくらいじゃないか。少しくらい発音が悪くても笑うことはないだろう」
レオポルドはむっとして言うが、ムールド人騎兵たちはにやにやと笑うばかり。
どういうことかと、キスカを見やると彼女は俯いたまま口を開く。
「私たちの言葉で、旅という単語は人生という意味にもなるんです。レオポルド様が先程仰ったのは、私たちの言葉では、あの、その、えっと……」
キスカはそこまで言って口籠る。
レオポルドは顎を摩りながら考える。旅という単語は人生という意味にもなる。ということは先程の自分の台詞は「君と人生を共にできたら良い」という意味にも取れるということらしい。
「その言葉は、ムールドでは結婚を申し込む時の慣用句なんです」
つまり、周りのムールド人から聞くと、先程のレオポルドの言動は、彼が唐突にキスカに結婚を申し込んだように聞こえたらしい。
レオポルドはキスカと同じくらい顔を真っ赤にして気まずそうに黙り込む。
揃って赤い顔をした主従はそのまま黙って馬を進めた。