二九
レオポルドはハヴィナを捨て、キスカの部族を頼ってサーザンエンド南部へ落ち延びることを決め、その旨を侍従長レッケンバルム卿に告げた。
「なんと、ハヴィナを捨て逃げるつもりかっ」
レッケンバルム卿は眉を吊り上げて叫んだ。
「しかし、このままハヴィナに留まっても勝てる見込みはないでしょう」
レオポルドは努めて冷静に改めて現状を説明した。
現状、辺境伯軍が動かせる兵力はブレド男爵軍に大きく劣る。また、ハヴィナ市内は一致団結しているわけではない。異民族もいれば裏切ったことが確実な教会もいる。とてもじゃないが、籠城戦などできる状況ではないのは明らかだ。
そして、ブレド男爵は有力な辺境伯候補であり、血統的には明らかに正当といえるレオポルドを生かしてはおかないだろう。彼にとっては己の生命の危機が迫っているのだ。
レッケンバルム卿は説明を受けて渋い顔をしながらも納得した。
「しかし、命が危ないのは君だけではない。私とて危ういことに違いはないだろう」
侍従長は裏切り者である財務長官ボスマンや教会と激しく対立していた経緯があり、以前から辺境伯の椅子に意欲を見せていたブレド男爵の就任に強く反対していたのだ。
「そこで相談なのだが、私も君達に同行してもよいか。いや、私だけでなく、ブレド男爵に反対する者を全て連れて行くわけにはいかないか」
レッケンバルム卿はブレド男爵反対派を丸ごとサーザンエンド南部へ亡命させようと考えているらしい。
味方が増えることは良いことだが、大人数で逃げるとなると追手に発見され、追いつかれる危険も増す。
レオポルドは僅かの間、考えてから答えた。
「よいでしょう。しかし、追手を上手くかわす方法を考えねば」
「では、私はジルドレッド卿らに話を付ける。それと物資と馬や駱駝を調達しよう」
そう言ってレッケンバルム卿は杖を突いて部屋を出て行った。
「さて」
レッケンバルム卿を見送ったレオポルドは腰に手を当て、顎を摩りながらぼやく。
「どうしたものかな」
彼はこれから限られた短い時間のうちに敵の追手をかわして逃げる算段を付けなければならないのだ。この難題は彼を大いに悩ませたが、あんまり考えている暇もないのだ。
レオポルドは頭の中で考えをまとめると紙とペンを持ってくるよう指示した。
さすがに侍従長という要職にあるだけあって、レッケンバルム卿の動きは早かった。
まず、味方になることが確実な貴族や軍人の一族郎党をレッケンバルム家の屋敷に集めた。
レッケンバルム家の他、ジルドレッド家や法務長官を務めるシュレイダー卿の一族、辺境伯軍の左翼を指揮していたバレッドール准将、ルゲイラ兵站監ら多くの貴族や士官が集まった。更にブレド男爵に付いた教会指導部の決定に反発したサーザンエンド司教付司祭をはじめとする聖職者が加わる。その他、反対派貴族や軍人に従う兵や従者とその家族。反対派の総数は五〇〇人程度にも上った。
また、そこら中から物資と資金、馬、駱駝を掻き集める。馬や駱駝の数は三〇〇頭にも及び、糧秣や飲料水、武器弾薬、衣類、薬品などの物資は木箱や樽に詰め込まれ、広場の片隅に山積みにされた。
これらの物資を大慌てで馬車に載せ、駱駝の背に積み込む。
積み込みの指揮はジルドレッド卿が行い、兵士や従者たちだけでなく、貴族も女子供ですら、その作業を手伝った。
レオポルドはレッケンバルム卿の屋敷の一室で、その様子を横目に見ながら、手紙を書いていた。それほど長い文面ではない。速やかに書き終えると、何も書かれていない羊皮紙を手にして再びペンを走らせる。
彼はブレド男爵側の状況を理解していた。男爵側に裏切ったとも言える教会と男爵が結んだ約束についてもよく知っていた。
というのも、教会の決定に反対したサーザンエンド司教付司祭が教会を飛び出し、レッケンバルム卿に事の次第を詳らかに報告していたのだ。レオポルドはこれを侍従長から聞いていた。
教会とブレド男爵の約束というのは大きく三つの条項から成る。
まず、ブレド男爵軍は市民の生命と財産を保護し、略奪も破壊も行わない。
次に、ブレド男爵は西方教会に改宗する。
そして、教会はブレド男爵がサーザンエンド辺境伯として、認められるように帝国政府に働きかける。
追記として、ハヴィナの有力者を集めた評議会を組織し、男爵はその意見をよく聞いて、統治にあたること。ウォーゼンフィールド男爵は可及的速やかにハヴィナに入ることが決められていた。
サーザンエンドを実質的に支配し、教会や地元有力者の支持を得て、しかも、西方教会に改宗すれば、帝国政府も辺境伯の就任を認める可能性がある。
ただ、そこには血統的な問題がある。原則として、貴族の称号は血から血へ。血統による継承に正当性がある。この問題をどう解決するつもりなのか。
それを考えるのはブレド男爵たちの仕事なので、レオポルドとしてはブレド男爵派の支配下になりつつあるハヴィナから安全に脱する方策を講じなければならない。
レオポルドはそれを今書いているいくつかの手紙だけで為そうとしていた。
彼が最後の手紙を書き終えた頃、部屋の扉がノックされた。
「どうぞ」
声をかけると扉が開かれ、いつものとおり無表情なキスカが音もなく部屋に入ってきた。
「御指示通り二人の帝国人、ムールド人、テイバリ人、アーウェン人を連れて参りました」
「結構」
レオポルドは手紙をそれぞれ封筒に入れて封をすると、キスカが連れてきた五人の男たち、一人につき一通ずつ手紙を手渡し、それぞれの宛先に届けるよう指示した。
レッケンバルム卿の忠実な従者である帝国人にはレイクフューラー辺境伯宛の手紙。
もう一人の普段は行商人の護衛などをしている帝国人には帝国中央の教会本部への手紙。
キスカと同じ部族であるムールド人にはサーザンエンド南部の帝国寄り部族の指導者たちに宛てた手紙。
金で雇ったテイバリ人にはウォーゼンフィールド男爵宛の手紙。
同じく金で雇ったアーウェン人にはサーザンエンド北部のガナトス男爵への手紙。
報酬の金は全て前払いで支払われ、男たちは部屋を出て行った。
「レオポルド様」
扉を閉めた後、キスカは少し言い辛そうにレオポルドを見つめる。
「ん。何だ」
「お言葉ですが、先の者たちは……」
「信頼できないか」
レオポルドの言葉にキスカは頷く。
「侍従長様の御家来と私の同胞はともかく、他の者たちは金で雇った輩ですし、その謝礼も前払いしてしまっては……」
彼女は金で雇われた連中がちゃんと手紙を届けないのではないかと危惧しているらしい。
それどころか、彼らはその手紙をそのままブレド男爵や教会へ持ち込み、それを売るかもしれない。敵方が出した手紙ならば、どんなものでも買うだろうし、それがレオポルドという辺境伯候補のものともなれば、さぞ高値が付くだろう。
「手紙がブレド男爵や教会の手に落ちるかもしれないか。いや、恐らく、何通かは敵の手に渡るだろうな」
しかし、彼はそれを裏切り行為だとはあまり思っていなかった。テイバリ人やアーウェン人が余所者の帝国人である自分への忠誠を尽くすより同胞であるテイバリ人のブレド男爵に協力するのは自然なことだろう。
彼らのような南部に遥か千年以上前から住んでいる民族にとって、帝国は侵略者であり征服者に他ならない。帝国に対する嫌悪感は拭い難いものがある。
また、地元の帝国人であっても、余所から来た新参の貴族に忠義を尽くすよりは教会や地元の有力者に味方する方がずっと利に適っているというものだ。
「それでは、あの手紙は」
レオポルドの言葉を聞いて、キスカは合点がいったようであった。
「うむ。あの手紙のうち、レイクフューラー辺境伯閣下宛ての手紙と君の部族宛てのもの以外は実際は男爵や教会に読ませる為のものだ」
彼が書いた手紙の内容はいずれも同じような文面である。
ハヴィナにおいて教会が裏切り、ブレド男爵が侵攻してくる窮状を訴え、救援を求めるというものである。レオポルドは宛先に指定した人々、教会本部の上級聖職者、ウォーゼンフィールド男爵、ガナトス男爵の三名とは全く面識がない。にもかかわらず文面は旧知の間柄であることを匂わせ、レオポルドと彼らに繋がりがあるように装っている。
さて、この手紙を読んだ男爵はどう考えるだろうか。南へ落ち延びるレオポルドたちを追う間に、北からガナトス男爵が襲来するかもしれない。もしくはウォーゼンフィールド男爵がレオポルドを保護しに来るかもしれない。
彼らはいずれもサーザンエンドの有力な領主であるが、いずれもサーザンエンド辺境伯の椅子を窺うような間柄である。互いに潜在的な敵対関係にあり、いつ剣を交えてもおかしくはない。そういう状況にあって、レオポルドの思わせぶりな手紙は男爵を疑心暗鬼に陥らせるほどではなくとも疑念を抱かせるには十分だろう。
そして、教会本部宛の手紙はハヴィナの教会に読ませる為である。
ブレド男爵側に付いたハヴィナの教会は大きな負い目を背負っている。異民族にして異教徒(改宗すると表明してはいるが)に味方して、同じ西方教会信徒を裏切ったことがレオポルド側から教会本部に一方的に伝えられれば、ハヴィナの教会は窮地に陥るだろう。
最初、彼らはその手紙が帝国本土の教会へ届かずに済んだことを安堵するかもしれない。
しかし、その手紙を齎した使者に話を聞けば、手紙を預かったのは他にも何人かいたことを知ることになる。そのうちの一通でも帝国本土へ届けば今回の件は西方教会の総本山の耳に入ることになるだろう。
また、手紙を出すのがレオポルドだけとは限らないのである。他にも何通もの手紙が帝国本土へ向けて放たれる。
ハヴィナの教会はどうにかして自分たちが異教徒に味方して、西方教会信徒の同胞を裏切ったというレッテルが張られることを避けねばならない。
彼らは今までのところ、そのレッテルが完全に張り付けられることを巧妙に避け続けている。
確かに教会は男爵側についたことが明白ではあるが、それを公にしているわけではなかったし、レオポルドたちを攻撃するようなこともしていない。先の聖オットーの戦いにしても辺境伯軍右翼は戦況を静観し、味方を見殺しにしたが、味方を殺しはしなかった。
そして、戦場は市外であって、教会はこれに干渉することはできなかったという言い訳もできる。
だが、しかし、ハヴィナに背を向けて南へ下るレオポルドたちにブレド男爵が追手を放つのを座視するわけにはいかない。
いくつもの手紙によって、レオポルドたちがハヴィナを出ることは知られるだろう。それ以降、ぱたりと手紙が来なくなれば、勿論、多くの人々はレオポルドたちがブレド男爵らに追われ殺されたか捕らわれたと考えるだろう。
そして、何人かの思考は廻っていく。さて、その時、ハヴィナの教会はどうしていたのか。異民族の異教徒がハヴィナから南へ追手を放ち、同じ西方教会信徒を追い殺すのを見逃したのか。聖オットーの戦いは言い逃れられたとしても、こちらを言い逃れるのは難しい。男爵軍はハヴィナから南へ向けて教会の面前を通って信徒を殺しに行くのである。これを見逃せば、ハヴィナの教会は同胞殺しの異端か異教徒と弾劾されるだろう。
つまり、この手紙を読んだことによって、教会は異民族、異教徒が西方教会信徒に手を出すことに反対せざるを得ない立場に追い込まれる。
そして、本音は追手を出したいブレド男爵にしても他の領主たちの動向を見極める必要が生じる。ハヴィナ市内の男爵に味方した教会勢力も警戒しなければならない。彼らは利害の一致で結託しているだけであって、真からの同朋とは言えないのだから信頼しきることはできない。しかも、ブレド男爵軍は先の戦いで少なくない数の損失を出している。彼は慎重に行動せざるを得ないだろう。
ただでさえ少なくなっている兵力を割って追手を差し向けるよりもハヴィナを手に入れたことに満足して、教会や有力者と交渉を重ねて、連携を深め、支持を取り付けることに注力すべきだろう。
ブレド男爵や教会が実際、レオポルドの書いた手紙を読んで、どう考えたかわからない。
しかし、唯一確かなのは、レオポルドたちは無事にハヴィナを脱し、サーザンエンド南部へと落ち延びていくことに成功したということである。