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サーザンエンド辺境伯戦記  作者: 雑草生産者
第二章 南都ハヴィナ
28/249

二七

 全面的な敗走に陥った辺境伯軍左翼の騎兵を散々に追い散らしたブレド男爵軍右翼の騎兵は陣形を整えた後、第四歩兵連隊の左側面に進出する。

 辺境伯軍左翼を指揮するバレッドール准将は自軍騎兵部隊が壊滅したのを見ると直ちに歩兵連隊の進軍を停止させた。前方は勿論のこと、側面と後方にも兵を配して敵騎兵の襲撃に備えた。

 歩兵連隊は八個中隊から成り、中隊は一八人で構成されるパイク兵小隊と二四人で構成されるマスケット銃兵小隊が各三個。合わせて六個小隊に中隊本部の要員、予備兵(とは名ばかりで実際は欠員であることが多かった。その分の給与は将校の懐に入る)、合わせて定員は一五〇名である。連隊全体の定員は連隊基幹要員を合わせて一二〇〇名であるが、実際の人員はそれよりも一割程度少なかった。

 帝国軍の規定ではパイク兵は胸甲と兜を装備し、長さ一七フィート半(およそ五二五cm)のパイクを持ち、剣を携えることになっている。

 ただ、予算の関係から甲冑や剣が省略されることもあった。また、パイクの長さを維持することは困難であった。行軍の際、パイクは非常に邪魔になるので、切りつめられてしまうことがよくあったのだ。

 マスケット銃兵は帝国中央のような正規軍であれば銃剣が付いたフリントロック式(火打石式)の軽いマスケット銃を装備しているところだが、南部のような辺境では未だにマッチロック式(火縄式)で、銃架が必要な重いマスケット銃が現役であり、近衛歩兵連隊以外はこちらの方を使用していた。このマスケット銃は非常に重く、両手で持っても狙いをつけるのが非常に難しい為、銃身を支える銃架を用いる。

 ブレド男爵軍右翼の騎兵部隊は陣形を整えると重騎兵を先頭に据え、第四歩兵連隊の陣地へ突撃を仕掛けた。剣を掲げ、雄叫びを上げながら数百騎もの騎兵が突進してくる様はそれだけで大変な迫力があり、練度や士気の低い兵ならば見ただけで狼狽え、陣を離れ、逃げ出すことだろう。

 しかし、そんなことをすれば、その兵士は直ちに士官のサーベルで斬られるか、ピストルで撃ち殺される。或いは下士官の持つ短めの槍に貫かれるだろう。戦場において脱走は容赦なく即決で処刑される大罪なのである。

 第四歩兵連隊の兵士たちは誰一人そのような死刑に処されることもなく、じっと配置について、向かってくる数百の騎兵を見つめていた。パイク兵はパイクを押し並べ、マスケット銃兵は火の付いた火縄を取り付けたマスケット銃を構え、狙いを定める。

 バレッドール准将の他、連隊長のレッケンバルム大佐ら連隊幹部、中隊長、中隊副長、旗手らは騎乗にあって、向かってくる敵騎兵を睨みつける。

 やがて、騎兵たちの顔の一つ一つが表情が見えるほど近づいた頃、しかめ面をしたレッケンバルム大佐が連隊副長に頷いて見せた。

 副長は直ちに号令をかける。

「放てっ」

 傘下の中隊長ら士官、下士官が復唱し、銃兵たちは上官の命令に従い、引き金を引く。火縄が落ちて火皿の火薬に着火し、銃弾が放たれる。

 一斉に飛び出した鉛弾は空気を切り裂き、重騎兵の鉄の鎧を突き破り、肉に食い込み、骨を砕く。銃弾を食らった騎兵は悲鳴を上げながら落馬し、被弾した馬は嘶きながら乗り手を振り落して倒れ込む。

 銃弾の雨をかい潜った騎兵たちは仲間の悲劇には目もくれず、臆することなく突撃を敢行する。マスケット銃は一度射撃すると次弾を装填するまでに数十秒を要す。騎兵はその間にマスケット銃兵の戦列に食い込んで蹴散らせなければならない。それができなかったとき、騎兵は新たな出血を強いられることとなる。

 第四歩兵連隊のマスケット銃兵が次弾を装填し、マスケット銃を銃架に置く前にブレド男爵軍の騎兵は第四歩兵連隊の目前へと迫る。

 しかし、彼らを待ち受けていたのは中世より騎兵を阻む憎きパイクの壁である。

 パイク兵は後方へ下がった銃兵の盾になるように前に進み出て広がり、パイクを突き出して騎兵の突撃を阻む。パイクに突かれた騎兵は馬から転げ落ち、体を貫かれた馬は悲鳴を上げながらひっくり返る。土に塗れた騎兵には容赦なく、突きが繰り出され、甲冑の隙間に鋭い刃が突き刺さる。

 騎兵はピストルを撃ってパイク兵を撃ち殺したり、どうにかパイクの隙間を縫って歩兵の戦列に躍り込もうとするが、その試みは尽く失敗に終わる。

 やがて、装填を終えたマスケット銃兵がパイク兵たちの隙間から銃身を突きだし、パイクの前で右往左往する騎兵を狙い撃ちにする。

 喇叭の音色が響くと騎兵たちは一斉に背を向け、一目散に後方へと逃げ出した。敵騎兵を打ち破った勢いで、そのまま歩兵を潰そうという目論見は諦め、一度後退して体勢を整えるつもりだろう。

 騎兵を追い払ったバレッドール准将たちは一様に安堵の息を漏らす。

 とはいえ、味方騎兵の擁護を失った第四歩兵連隊はこのまま敵の騎兵に釘づけにされ、動くことはままならなくなってしまった。少しでも動けば、敵騎兵がその隙を突いてくるのは言うまでもないことであり、行軍中の歩兵に騎兵を追い払う能力はないのだ。


 辺境伯軍左翼騎兵が敗北し、第四歩兵連隊が動くことのできない状態に陥った頃、中央は一進一退の攻防を繰り広げていた。

 男爵軍中央に配された二〇〇〇の歩兵は積極果敢に辺境伯軍中央の第一歩兵連隊と近衛歩兵連隊に向かって攻め寄せ、マスケット銃を撃ちかけ、突撃を繰り返していた。

 辺境伯軍は前衛の第一歩兵連隊が応戦し、砲兵をはじめとする、旺盛な火力によって敵を寄せ付けず、戦列に辿り着いた数少ない敵兵もパイクの前に倒れ伏す。第一歩兵連隊の前には男爵軍の歩兵の屍が死屍累々と横たわっていた。

 しかし、それでも男爵軍は攻撃を止めていない。既に一割以上の死傷者を出しているにも関わらず積極的な攻勢をかけていた。仲間の死骸を踏みつけ、呻く負傷者を足蹴にしながら武器を振りかざしてパイクの穂先とマスケット銃の銃口が並ぶ第一歩兵連隊へと突進していく。

 辺境伯軍としては守勢に回ってはいるが悪くない戦況である。敵の攻勢によって第一歩兵連隊は少なくない数の死傷者を出してはいるが、まだ十分に持ち堪えているし、その後ろには無傷の近衛歩兵連隊を温存している。このまま敵が無謀ともいえる攻勢を継続してくれれば、こちらは無理に攻勢に転じずとも敵の出血を強いることができるのだ。敵が攻勢に疲れ、士気が落ちた頃合を見計らって反転攻勢に出て一気に敵を突き崩せばよい。

 しかし、そんな優位な戦況にあってもジルドレッド卿の顔は不機嫌そのものであった。左翼の自軍騎兵が敗れ、第四歩兵連隊が身動きできない状況にあるのは勿論のことだが、その他にも彼を不機嫌にさせる要因があった。

 辺境伯軍右翼の戦線は激しい戦闘が続き、既に両軍共に数百もの死傷者を出している中央と左翼に比べると、全くと言って良いほど静かなもの。

 時折、男爵軍のムールド人傭兵騎兵が数十騎ばかり馬を駆けさせて辺境伯軍に近寄っていくと馬上からマスケット銃を撃ち放つ。とはいえ、射程距離ぎりぎりからの射撃はほとんど命中していなかった。ほんの数発が不運な兵士を貫くのみだ。

 ムールド人傭兵騎兵の攻撃に対して辺境伯軍右翼に配された第五歩兵連隊は時折威嚇するようにマスケット銃兵が射撃をするものの、こちらも射程距離ぎりぎりで、しかも、動く標的が相手とあって命中率は非常に低い。

 両軍ともそのような散発的な攻撃を繰り返すに止めており、前進する気配はない。辺境伯軍軽騎兵連隊は第五歩兵連隊の後方にあって待機している。

 本来であれば、左翼が苦境に陥り、中央が激戦を繰り広げているのならば、右翼は前へ出て、敵左翼を打ち破り、敵中央に圧力をかけるか。もしくは中央に増援を送るべきであろう。

 ジルドレッド卿も勿論そう考えている。そして、何度も右翼指揮官のヨハンス・ルーデンブルク准将へ伝令を発して、行動を促しているが反応はない。

「おのれ。どうなっているのだ。ヨハンスめ。まさか異教徒に寝返るわけではあるまいな」

「まさか。准将の御令弟は教会の助任司祭ですぞ」

 ジルドレッド卿の独り言に第一歩兵連隊の連隊長ジューディ大佐が声を上げる。

 ルーデンブルク家はサーザンエンドでは有数の名門であるだけでなく、教会との結びつきが強く、多くの聖職者を輩出してきた一族である。そのような教会に近しい人物が異教徒の側に付くなど想像できない。ついでにいえば准将の弟の助任司祭は教会出身のボスマン財務長官とも親しいことで知られており、あまり有能とはいえない主任司祭に代わって、教会を取り仕切っているという。

「大佐。戦場において、まさかや有り得ないは禁句だぞ」

 ジルドレッド卿は険しい顔で言った。

「それはそうですが。いや、しかし」

「それ以外に右翼が動かない理由など考え付くまい。まさかの事態を想定して、対応策を取るべきだろう」

「確かにその通りですね。では、もしものときは近衛歩兵連隊に動いてもらいましょう」

 ジューディ大佐の進言に将軍は黙って頷く。

 こうして辺境伯軍の予備兵力である近衛歩兵連隊は自由に動かすことができなくなってしまった。戦況によっては中央が前に押し出て敵を押し潰すことや近衛歩兵連隊の一部を左翼の応援に向かわせることも可能ではあったが、右翼の裏切りという事態を想定すると近衛歩兵連隊を動かすのは難しい。

 近衛歩兵連隊が動かせないとなると途端に中央が苦しく感じられる。第一歩兵連隊は一〇〇〇の兵員で敵の歩兵二〇〇〇の猛攻を耐えているのだ。後方に近衛歩兵連隊一二〇〇はいるが、これは前述の理由で動かせない。

 辺境伯軍中央の苦しい状況を知ってか知らずか男爵軍はこれまで以上の総攻撃を仕掛けてきた。ほぼ全軍が雄叫びを上げながら押し寄せ、辺境伯軍はマスケット銃兵の一斉射撃で応戦する。三度の一斉射撃が繰り返された後、男爵軍の数百もの歩兵がついに辺境伯軍中央の陣地に乱入した。

 マスケット銃を撃ち終えたばかりの銃兵に半月刀を振り下ろし、槍で突き、斧で斬りつけ、棍棒で殴る。銃兵も負けじとマスケット銃を振り回す。旧式のマスケット銃は非常に重く、ちょっとした棍棒代わりを務めることができる。パイク兵も押し出して、中央の戦線は敵味方入り乱れての乱戦に突入した。

 こうなると、あとはもう兵士たちの士気と根性、そして、兵士の数で勝敗は決まると言っても良い。

 その点でいうと両軍の士気と根性は互角のようであったが、数の上では第一歩兵連隊は圧倒的に不利であった。

 時間が経つにつれ、男爵軍の優位が目立ち始め、第一歩兵連隊の兵士たちは自分たちがじりじりと後退していることに気付いた。

「閣下っ。近衛歩兵連隊を投入してくださいっ。このままでは持ち堪えられませんっ」

 前線で指揮を執っていた第一歩兵連隊のジューディ大佐は本営に戻るとジルドレッド卿に懇願した。

「連隊の損失は既に二割を超えますっ。中佐と少佐に加え、中隊長も二名戦死しております」

 第一歩兵連隊は既に壊滅的な打撃を受け、戦闘継続が危ぶまれる瀬戸際まで追い詰められていた。増援がなければ瓦解することは目に見えている。

 しかし、相変わらず辺境伯軍右翼は不気味な沈黙を続けている。今ここで近衛歩兵連隊を増援に出したとして、その時、右翼が裏切って、こちらに攻め込んできたとしたら、それは敗北と同義であろう。それも大敗北。惨敗と言っていいだろう。

 戦闘において最も死者が出るのは戦線が持ち堪えられず、兵士が逃げ出し、全軍が撤退するときである。この時、敵の容赦のない追撃が敗北者の背に浴びせられる。特に今回の戦いでは男爵軍は騎兵を多く擁しているのだ。追撃戦は騎兵が最も得意とするところである。走って逃げる敵兵に何倍もの速力で追いついて、その背を斬り捨て、銃弾を撃ち込み、馬蹄にかける。戦死者の半数以上或いはほとんどはこの時に出るものだ。

 ジルドレッド卿ははっきり言って迷っていた。彼は優柔不断な男ではないし、慎重な方でもない。この場面で虎の子の近衛歩兵連隊をどう動かすかはいくら決断力のある指揮官であっても難しい判断だろう。

「わかった。近衛歩兵連隊を前に出す」

 結局、ジルドレッド卿はルーデンブルク卿の忠誠心を信用することにした。

 真っ赤な軍服に統一された近衛歩兵連隊が行進し、奮戦する第一歩兵連隊に代わって前に出た。マスケット銃を押し並べ一斉射撃を食らわせ、銃剣を突き出す。

 第一歩兵連隊の疲労し、傷ついた兵士たちは一旦後方に下がって体勢と陣形を整える。

 精鋭の近衛歩兵連隊の投入で、ずるずると下がり始めていた戦線はどうにか維持された。

 しかし、将軍たちの注意は引き続き激戦が繰り広げられる前線よりも右翼に注がれていた。今この瞬間にも自軍右翼が敵に寝返りでもすれば、辺境伯軍は瞬く間に全面潰走に陥るだろう。

 辺境伯軍首脳の心配を余所に第五歩兵連隊と軽騎兵連隊は不気味な沈黙を続けていた。

 ジルドレッド卿は一先ず安堵の吐息を漏らす。まずは目前の敵に集中できるというものだ。

 辺境伯軍随一の精強と名高い近衛歩兵連隊の勇名は伊達ではなく、じりじりと男爵軍を押し返し始めていた。

 数が少ないにも関わらず押し返すことができているのは近衛歩兵連隊が練度や士気、忠誠心の高い精鋭部隊であることも理由の一つだが、戦闘開始から二時間余。それまで休むことなく蛮勇ともいえる突撃を繰り返す猛攻を続けてきた男爵軍に対し、後方でずっと温存されていた為、疲労と消耗が極めて少ないのである。

 もう少し数が多ければ、近衛歩兵連隊を投入した段階で、男爵軍中央を潰走させることもできただろうが、そこまで優勢には立てないでいる。

 しかし、疲労と消耗が限界に近付きつつある男爵軍中央の戦意は見るからに落ち込んでおり、やや浮き足立っているように見えた。攻めよりも守りの姿勢が多くなり、踏ん張りが足りず、ずるずると下がり始めている。

 そこに満身創痍ながらもどうにか再編成された第一歩兵連隊を再び投入すれば、敵の戦線を一気に打ち破ることができる。と、ジルドレッド卿は踏んでいた。

「第一歩兵連隊の再編成が完了しました。しかし、戦死者に加え、負傷者も多く、戦える兵は七〇〇いるかどうかといったところです」

 第一連隊長ジューディ大佐がジルドレッド卿の傍に馬を寄せて報告した。

「構わん。直ちに前に出せ」

「しかし、士気も非常に低く、疲労も回復しておりません。あまり長くは戦線を維持できません」

「それでも構わぬっ。今、投入せずしていつするのだっ。今は優勢だが、近衛歩兵連隊が押し返されたときに半死の第一歩兵連隊を出しても挽回できぬぞっ。優勢な今だからこそ、一気呵成に攻めねば勝機は望めぬっ」

 ジルドレッド卿は唾を吐き散らしながら一喝し、大佐は青い顔で黙って頷いて馬を駆けさせた。

 直ちに再度陣列を整えた第一歩兵連隊が前進する。主に前へ戦う近衛歩兵連隊を後ろから支援し、攻勢をかける。

 やがて、辺境伯軍決死の反撃に二時間半に渡って無理な攻勢を続けてきた男爵軍中央は崩壊し、兵たちは震えながら後ろに下がり、背を向けて走って逃げだす兵も続出した。

「勝てるっ。この勢いならば勝てるぞっ。全軍突撃っ」

 ジルドレッド卿は腰のサーベルを引き抜きながら絶叫し、馬腹を蹴って、前線に躍り出た。突撃喇叭が狂ったように吹き鳴らされ、太鼓が乱打される。兵士たちが雄叫びを上げながら走り出す。

「神よ我らとともにっ」

 近衛兵お決まりの合言葉を狂ったように怒鳴り散らしながら、勇猛果敢な総司令官に率いられた辺境伯軍中央は一丸となって突き進む。

 これには堪らず男爵軍歩兵は浮き足立って全面的な潰走に陥った。武器を捨て、敵に背を向け、仲間を見捨て、士官や下士官の怒号にも耳を貸さず、走り出す。

 その背中を辺境伯軍の兵士が放った銃弾が貫き、パイクが突き刺さり、サーベルが斬りつける。悲鳴を上げながら卑怯な逃亡者は地面に沈む。即死でなく負傷だったとしても遠からぬうちに天国か地獄に足を踏み入れることになるだろう。

 辺境伯軍は歓喜に満ちていた。絶体絶命ともいえる戦況から一転して奇跡のような勝利を得たのだ。

 少なくない犠牲ではあったが戦術的にも戦略的にも意味のある勝利だったと言えるだろう。こちらの犠牲に負けず劣らずブレド男爵軍も大きな犠牲を出している。再起して戦を仕掛けてくるには軍の再編成に少なからぬ時間が必要になる。その前に辺境伯軍は更に多くの兵を集めることができるだろう。次の戦いがあるとすれば、より辺境伯軍にとって有利な戦いとなるはずだ。運が良ければ、この戦いで男爵を捕えることができるかもしれないし、もしかすると打ち取ることができるかもしれない。そうなれば少なくともサーザンエンド中部は安泰といえるに違いない。

 価値ある勝利を手にした将軍や士官たちの顔にも安堵の色が浮かんでいた。

「閣下っ。敵の騎兵がっ」

 そこに飛び込んできたのは彼らの頭からぽっかりと抜け落ちていた言葉だった。

 そうだ。敵にはまだ両翼に騎兵がいる。いや、しかし、自軍両翼が抑えているではないか。そんな容易にこちらに攻め入ることなどできまい。

 ジルドレッド卿をはじめ士官たちは、両翼は膠着状態に入っているという認識であった。故に両軍とも動けないはずである。

 しかし、辺境伯軍左翼は第四歩兵連隊のみで騎兵を相手にしていた。バレッドール准将と連隊長レッケンバルム大佐は非常に慎重な人物で、機動力に勝る敵騎兵に側面や後方から攻撃されないようしっかりと腰を落ち着けて前には出ず、ただただ防御に徹していた。迂闊な攻勢に出て陣形が乱れたところを突かれては敵わない。

 一方、男爵軍右翼は目の前の第四歩兵連隊が攻め難いと考え、下手な攻勢には出ず、睨みを利かせていた。

 そこで自軍中央が崩れるのを目撃したのである。と同時に辺境伯軍中央が逃げる敵を追撃せんと突撃をかけるのも見ていた。騎兵が恐れるのは歩兵の突撃ではない。歩兵が押し並べたマスケット銃とパイクだ。防御隊形ではない歩兵など騎兵の敵ではない。

 男爵軍右翼の騎兵は目前の第四歩兵連隊を無視して、辺境伯軍中央に向かって突撃した。

 これを見ていた第四歩兵連隊も慌てて牽制せんと動くも歩兵の足では騎兵に追いつけない。マスケット銃の射程に入る前に男爵軍右翼の騎兵は敵を追うのに夢中になっていた辺境伯軍中央の近衛歩兵連隊、第一歩兵連隊の兵の群れに突っ込んでいった。

 数百騎もの騎兵の突撃は見ただけで震え上がるほどの勢いと迫力を持ち、実際、大変な衝撃力を持つ。馬に跳ね飛ばされた兵が吹き飛び、騎兵が馬上から振るう半月刀の一閃で歩兵は血飛沫を上げながら倒れ伏す。

「下がれっ。下がれっ。戦列を組み直せっ。マスケット銃兵っ。装填だっ。装填っ」

 ジルドレッド卿は慌てて兵たちに早口で下知を飛ばす。

 前に向かって走っていた兵たちは慌てて後ろに下がり、銃兵はマスケット銃の銃口に火薬と鉛弾を押し込む。

 しかし、陣を組み直す前に騎兵ができかけた脆い戦列を一気に突き破る。銃兵はマスケット銃を構える前に斬り捨てられる。

「閣下っ。堪えきれませ……」

 そう叫んだジューディ大佐の帽子が吹き飛んだ。一瞬のうちに大佐は表情を凍らせ、体はゆっくりと傾いて地面に落ちた。土の上に横たわる大佐の目は開いたままで頭にできた穴からは血が流れ出ていた。慌てて従兵や軍医が駆け寄るが、おそらくは手遅れだろう。

「将軍っ。撤退致しましょうっ。これ以上は無理ですっ」

 血塗れのサーベルを手にした副官が叫んだ。兵たちは半数近くが後退りし、半数近くが敵に背を向けて一目散に逃げ出していた。戦線は既に崩壊していると言っても過言ではない状況であった。

「糞っ。ヨハンスめっ」

 ジルドレッド卿は自軍右翼を睨みつけて、吐き捨てるように叫んでから馬の腹にキツイ蹴りを入れた。

 撤退の喇叭が鳴り響き、辺境伯軍中央は一目散に逃げ出す。連隊の大佐、中佐、少佐という主な指揮官を失い、激しく消耗した第一歩兵連隊は統率も何もなく個々人がバラバラに逃げ出していた。

 まだ統率がとれている近衛歩兵連隊はジルドレッド将軍の弟で連隊長のジルドレッド大佐が殿の指揮を執った。逃げながらマスケット銃に装填し、僅かな余裕を見て、陣列を組んで、一斉射撃を食らわせる。時折十数人の決死隊を送り込んで敵を足止めする。そうやって、どうにか自軍の兵が一兵でも多く逃げられるように努める。

 全面的な敗北を悟った第四歩兵連隊も隊伍を組んで戦場を後にした。こちらは敵の追撃が少なく、また、消耗も酷くなかった為、比較的安全な撤退をすることができた。

 静観というか味方を見殺しにしたルーデンブルク卿率いる辺境伯軍右翼はその後も沈黙と不動を維持し続けた。


 聖オットーの戦いは辺境伯軍の完全なる敗北で幕を閉じた。

 戦い自体は三時間ほどで決したが、逃げる辺境伯軍は男爵軍の執拗な追撃に遭い、多くの戦死者を出しつつも、どうにかハヴィナの城門を潜り抜けて逃げ込むことができた。ブレド男爵軍もハヴィナには手を出さず、ハヴィナの城壁近くになると追うのを止めて引き下がっていった。

 辺境伯軍の最終的な戦死者は不明であるが、ハヴィナを出立した六〇〇〇以上の軍勢が二〇〇〇足らずに激減してしまったのは確実であった。二〇〇〇余の右翼は離反し、残りは戦死したか、負傷して戦場に転がっているか、敵に捕らわれたか、どこか遠くへ逃げていってしまった。

 つまり、二〇〇〇の兵を損耗したことになる。大敗北といって間違いない結果だ。

 こうして、聖オットーの戦いは後世においては異教徒の軍勢を前に西方教会の兵が聖オットーよろしく大勢殉教を遂げた悲劇として語られることになる。

 しかし、この戦いの敗北の原因はいくつかあれど、その最大の原因は異教徒でも異民族でもなく、同じ神を信じる西方教会の人間の裏切りによるものであった。同胞の裏切りによって起きた悲劇であり、殉教であった。

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