二四二
レオポルドが離れて半月もしないうちに、ハヴィナでは不穏な気配が漂いはじめた。
その原因は明確であった。アルトゥール・ウォーゼンフィールド男爵である。
サーザンエンド辺境伯フェルゲンハイム家の庶流の一人である彼は、先代ウォーゼンフィールド男爵の一人娘エリザベートと結婚して男爵位を継承した後は、基本的に男爵領に居住しており、用事の度にハヴィナへ上っていたのだが、レオポルドの不在を見計らったかのように、特段の用もなくハヴィナにある屋敷へと移りそのまま滞在を続けたのである。
このこと自体はレオポルド及び辺境伯政府にも知らされており、無論咎めるようなことではない。
ハヴィナの屋敷で大人しくしているならば、それほど気に留める必要もないのだが、彼はそのような玉ではなかった。
辺境伯宮廷の軍事長官たる自分は辺境伯政府の会議や辺境伯軍の軍事評議会に出席し、意見を述べる権利があると言い出したのだ。
軍事長官職は辺境伯宮廷では古くからある名誉ある役職であるが、長い歴史を経た今日では、特に実権も職掌もない名誉職でしかなく、従来は第一線を退き、隠居生活に入りかけた老将軍を処遇するような地位と化していた。当然、各種の会議に出席するようなことはなかった。
さりとて、れっきとした宮廷の高官職であることは確かであり、然したる理由もなく会議への出席を認めないというのも道理のない話である。
しかしながら、アルトゥールは帝都から現れた余所者のレオポルドを好ましく思っておらず、サーザンエンド辺境伯位を奪おうと狙っているとの風聞のある男である。各種の会議への出席を認めて政治的影響力を示されることは好ましいことではない。
統治総監ヘーゲル卿と軍事評議会議長ケッセンシュタイン将軍らは対応に苦慮し、レオポルドに事の次第を報告するとともに指示を仰ぐこととした。
レオポルドたちが長い旅をしたことからもわかる通り、ハヴィナとファディの間は早馬を飛ばして容易に連絡ができるような距離ではない。
この為、レオポルドはサーザンエンドの支配権を確立すると、真っ先にサーザンエンド、ムールド、ハルガニを南北に貫く街道の整備にとりかかったのだが、それとともに連絡体制の構築にも取り組んでいた。
その仕組みはというと、街道沿いにある隊商宿を整備し、経営者や管理人に対し、伝令と馬を休息、飲食させ、換えの馬を提供させる義務を負わせるものである。その代わり街道から一定の距離に位置し、一定の部屋数以上の隊商宿の経営と設置は辺境伯政府の免許制として、彼らの利権を保障することとした。
規模の大きな隊商宿には控えの伝令が常駐し、至急の連絡の場合は、四半日ごとに馬を換え、半日ごとに乗り手を換えるリレー方式によって、理論上は一時も休まずに走らせることができるようになっていた。
もっとも、さすがに夜中も走り続けるのは危険であるので、日が落ちても走ることは稀であった。
また、控えの伝令は専任で、それ以外の仕事は何もないというわけではなく、治安部隊であるサーザンエンド竜騎兵隊の隊員が兼ねていることが多く、隊商宿がある町や村に、伝令を務めることができる隊員が数人居住していて、都合の良い者が臨時の伝令を務めるというのが実態である。
ともあれ、この方式によって、ハヴィナとファディの間は通常ならば片道一週間程で通信することができた。
そうして駆けて来た伝令がファディに到着した時、レオポルドは自室で正装に身を包んで黙って突っ立っていた。深紅の上着に白いシルクのシャツ、紺色のズボンと乗馬靴を履き、銀で装飾されたサーベルを腰に提げている。灰色の幅広帽子は手に持っている。
彼の前には一人の中年男がいて、帆布に鉛筆を走らせていた。男は不健康そうな青白い肌に小さな目と大きな鷲鼻、くすんだ赤色の髪と髭はもじゃもじゃと伸び放題で、頭頂部は禿げかけていて、お世辞にも整っているとは言い難い容貌である上、着ている灰色の衣服はあちこち汚れたり破れていたりしていた。見すぼらしい身なりの男の表情は真剣そのもので、視線をレオポルドと帆布の間を何度も行き来させながら握りしめた鉛筆を走らせ、時折古いカビの生えかけたパンで鉛筆の線を消していた。
もう四半刻程もそのままの姿勢で佇んでいた為、疲労を感じ始めたレオポルドは深く息を吐いてから声をかけた。
「些か疲れた。暫し休もう」
男はその言葉に頷いたが、手を休める様子はなく、一心不乱に帆布に向き合っている。
レオポルドは自分の言葉が通じているのかどうか不安になりながら、ぶらぶらと男の傍に歩み寄り、帆布を覗き込んだ。
帆布には幾重にも走った鉛筆の線によって若い男が描かれていた。言うまでもなくレオポルドである。それは鏡で見る自分と全く瓜二つに見えた。
「流石に上手いな。下描きの時点でこれだけのものを描くのだから、完成が楽しみだ」
男はレオポルドの賛辞を受けても、顔を上げることもなく微かに頭を下げるような薄い反応を見せるだけであった。失礼極まる態度であるが、レオポルドは然程気にした様子もない。人間性に多少の問題があろうが、良い仕事をしてくれるならば文句はないというのが彼の考え方なのである。
とはいえ、このような態度は上流社会ではあまり通用しないものと言えよう。
画家などの芸術家が成功する為には、王侯貴族や教会、裕福な大商人などからの援助や庇護が不可欠である。大衆が日常的に芸術と触れ合い、楽しむような時代は未だ来ていない。
そういったわけで、芸術家は後援者のご機嫌を失えば生活の術を失い、芸を磨くどころの話ではなくなってしまう。芸術には金がかかるし、それ以外のことで食い扶持を稼ごうとすれば、芸術に打ち込む時間が失われる。
レオポルドと同じように良い仕事をしてくれるならば多少人間性に問題があっても構わないという者もいなくはないが、傲慢高慢たる王侯貴族の中には気に入らない言動や態度を許容できない者も少なくない。
この人見知りで口下手な画家ヤン・ケーニッヒもそういったわけで、顧客であった貴族の勘気を被って仕事を失い、無一文となって途方に暮れていたところを芸術の庇護に熱心なマドラス公に拾われたのである。公が芸術に関心が深いのは、西方教会と深い繋がりを有している為でもある。教会は西方大陸における芸術の最大の擁護者なのだ。
ちょうどその頃、腕の良い画家を探していたレオポルドは帝都のマドラス公に紹介と仲介を頼んでいて、渡りに船ということで、送り込まれたのがこのケーニッヒであった。
レオポルドとマドラス公は互いに関係性を維持、深化させることに意欲的で、頻繁に連絡を取り合っていた。色々と融通を利かせるのもその一環である。
顧客であった貴族との問題やら帝都での人付き合いの煩わしさやらに辟易としてたケーニッヒにとっても帝都を離れることは希望に沿うものであったし、未知の地である辺境ムールドに行くことは彼の好奇心を満たすことでもあった。
その上、マドラス公は旅費をたっぷり持たせてくれたし、レオポルドの示した報酬は帝都での同様の仕事の半額程度という吝いものであったが、それとは別にファディに小さな住居兼アトリエが提供され、数人の使用人が付けられて家事や食事の世話をしてくれていたので、生活に困ることもない。
その上、レオポルドは彼是と煩く注文を付けるような依頼主でもないので、ケーニッヒは存分に仕事にして生きがいである絵に取り組むことができていた。
この費用は多額の債務に苦しむレオポルドにとって決して安いものではない。それでも彼がわざわざ帝都から優れた画家を呼び寄せてまで肖像画を描かせているのは道楽というわけではなく、理由がある。
幼い娘ソフィアの死とナジカで自分が下した処断によって失われた多くの命と遺された家族の思いなどに触れ、ここ最近、レオポルドは人の死についてよくよく考えることとなった。
そうして彼是と考えた結果、自分や家族の姿を形として残したいと考え、肖像画を描かせようと思い至ったのであった。
故に彼が依頼したのは自身のみならずリーゼロッテ、キスカ、アイラの他、長男ルートヴィヒ、次男ヴィルヘルム、三男ニコラウス、それに亡くなった長女ソフィアの肖像画であった。
もっとも、ソフィアは既に亡くなっている為、レオポルドと母のアイラをモデルとして、生前の特徴を伝えて描かせることにしている。
これだけの人数となるとケーニッヒ一人に任せていては完成まで何年かかるか分かったものではないので、レオポルドは領内各地から絵画に興味のある若者を集めてケーニッヒに弟子入りさせ、制作を手伝わせることも考えていた。有名な画家ともなると工房を構えて多くの人を雇い、分業制で作品を作り上げることも珍しいことではないのだ。
また、更に数人の画家を帝都から呼び寄せ、同時並行で家族の肖像を描かせることも考えていた。
そういうわけで、今日のレオポルドは絵のモデルをする為、朝からずっとぼんやりと突っ立っているのだった。
足の疲れを覚え始めて座った姿勢で描かせれば良かったと後悔の念を抱き始めた頃、扉がノックされた。
「失礼いたします。レオポルド様、少し宜しいでしょうか」
部屋の扉を開けたキスカに呼ばれ、レオポルドはケーニッヒに中座する旨を告げてから部屋を出た。
キスカから手渡されたハヴィナから今しがた届いた手紙を一読してレオポルドは顔をしかめる。そこにはアルトゥールがハヴィナに来て、各種の会議への出席を主張しており、対応に苦慮していることが綴られている。
「余計なことを」
「如何いたしましょうか」
レオポルドは少し考えてからライテンベルガー侍従長を呼ぶことにした。ハヴィナ貴族屈指の名門たるライテンベルガー卿の意見を聞きたかったのである。
「余計なことを」
手紙を一読してライテンベルガー卿はレオポルドと全く同じことを呟き、渋い顔で言葉を続けた。
「アルトゥールを政治の意思決定の場に加えるのは好ましいこととは言えますまい。奴の影響力が増すことは害でしかないでしょう」
卿はあからさまにアルトゥールを毛嫌いしてるようだ。
「しかし、正当な理由もなく会議への出席を拒むことは道理に反するのではないか」
「そこが問題ですな」
ライテンベルガー卿は暫く考えた後、口の端を吊り上げる。
「閣下不在時の名代としてレッケンバルム卿にも出席して頂くというのは如何でしょうか」
レッケンバルム卿は辺境伯宮廷で長く侍従長などの要職を務め、現在は最高諮問機関である枢密院の議長を務める最も有力なハヴィナ貴族である。
レオポルドに対して好意的というわけではないが、基本的には協力的であり、レオポルドも卿には敬意を払いその立場を尊重してきたところである。
最高諮問機関の長という立場から卿も政府の会議には基本的に出席していないのだが、これを出席させることによってアルトゥールを牽制しようというのがライテンベルガー卿の思惑であろう。レッケンバルム卿がいる席では如何にアルトゥールといえども発言を遠慮せざるを得まい。
とはいえ、レッケンバルム卿を枢密院議長に祭り上げていたのは各種の会議に出席させて、政治に彼是と口出しされると厄介であったからだ。レオポルドの不在中に限定する形とはいえ、出席させる前例を作るのは如何なものだろうか。
「まぁ、それが妥当か。会議の進行が面倒なことになりそうだが、上手くやってもらうしかあるまい」
これでどうにかなるだろう。と考えたレオポルドはライテンベルガー卿にハヴィナへの指示を任せて、絵のモデルに戻った。
しかし、レオポルドの期待をよそにハヴィナの情勢は更に不穏な状況へと陥るのであった。