二四一
レオポルド一行がムールドの首府ファディに到着したのは秋も暮れようかという頃で、ハヴィナを出立してからは一月程も経った日の昼過ぎであった。
ファディではムールド地方総監のシュレーダー卿、ハルガニ地方総監のバレッドール将軍、ムールド地方に駐屯する連隊の連隊長たちの他、ムールド及びハルガニ諸部族の族長ら有力者たちが勢揃いでレオポルドたちを出迎えた。
挨拶もそこそこにレオポルドたちはそのままファディの外周を迂回し、町の郊外に建設された邸宅へと向かう。
この邸宅はレオポルドがファディに滞在する際に使用する為、サーザンエンド辺境伯に就任した頃から建設が開始されたもので、レオポルドは設計の時点から携わり、多忙の仕事の合間にも建物の設計やら内装やらに彼是と注文を付けてる拘りようであった。
そうして建設された邸宅をレオポルドはこの日ようやく初めて目にすることができたのだが、思い描いていた通りのものとなっていた。
石造りであるが、壁は漆喰で白く塗られ、外観の装飾は少なく、扉や窓も小さい為、些か素っ気ない見た目をしている。形状はサーザンエンド及びムールドで伝統的な、中庭を取り囲むような四角い本宅に厨房と風呂、便所がある離れを渡り廊下で結んでいる。厨房や風呂場が離れているのは火事があっても延焼を防ぎやすく、退避する時間を確保する為と水回りの整備の都合である。この他、使用人の宿舎、警備兵の屯所、厩、倉庫などが併設されていた。
諸侯の邸宅としてはそれほど大きなものではないが、地上二階地下一階建てで広々とした部屋が十四もあり、レオポルドの家族と数人の近臣と使用人が暮らすには十分と言えよう。
もっとも、ライテンベルガー侍従長は自身の使用人だけで十数名もいるので、ファディの町内にある別の家に入居し、そこから通勤することになっている。
また、少し離れた場所にはサーザンエンド辺境伯軍の駐屯地があり、随行してきた軍勢の大半と馬や馬車、駱駝などはそちらへ移動する。
レオポルドとその家族、近臣たちは邸宅に入ると、まずはそれぞれの部屋に行き、旅装を解く。それぞれが割り当てられた部屋には前日までに先行していた部隊が先んじて運び入れていた家具が配置され、絨毯が敷かれ、すぐに生活できるよう用意が済んでいる。
それでも生活用具や衣服などは本人とともに運ばれており、それらが次々と部屋に持ち込まれ、飲食料品や有力者へ送るための贈物などの荷物は大勢の将兵も動員して地下の倉庫へ運ばれていく。
また、家具の配置やらも各人の好みなどがあるので、部屋の中で家具を移動させるなど邸宅内は上へ下へ右へ左への騒ぎであった。
そんな最中、着替えていたレオポルドは期待を抱いた顔で言った。
「入浴はできるかな」
「無理です」
キスカは無下に切り捨てられ、彼は不満げに顔をしかめるが、それは当然というものであろう。風呂に水を入れ火を焚いて沸かすには、ある程度の時間と手間が必要であり、この騒ぎの最中にやるものではない。
レオポルドがゲンナリしているとシュレーダー卿とバレッドール将軍の来訪があった。二人はかなり初期の頃からレオポルドに従い仕えてきた信頼できる臣下であり、その為に両名は地方総監としてムールドとハルガニの統治を任されていた。
シュレーダー卿は赴任してまだ数月であるが、バレッドール将軍はハルガニ地方の港湾都市ラジアに赴任して二年程の月日が経っている。この間、手紙では多々やりとりをしていたが、実際に顔を合わせたことはなく、久方ぶりの再会であった。
「お久しぶりでございます。ご健勝そうで何よりです」
「ラジアでは色々と苦労されているようだな。とはいえ、将軍の手腕によりハルガニは安寧を取り戻している」
レオポルドはそう声をかけて労う。
南岸ハルガニ地方は熾烈なラジア攻防戦の果てにレオポルドの統治下に入った地方である。それまではムールド以上にサーザンエンド辺境伯の支配が欠片たりとも及んだことがなかった。
その上、ラジア攻防戦はレオポルドの軍勢も多大な損害を被り、市街戦では多くの住民の犠牲もあり、ラジアを支配するアルトゥン族の族長一族は尽く玉砕して果てた激戦であったから、侵略者であるレオポルドへの反発は相当なものであった。
その為、族長一族の生き残りの娘はハヴィナまで上ってきてレオポルドの暗殺を試み、ハルガニ地方総監として赴任したバレッドール将軍も幾度も暗殺されそうになる有様であった。
しかしながら、ラジアは南岸では唯一の良港を持つ重要な交易拠点で、南洋貿易の振興を意図するレオポルドにとっては極めて重要な地域である。
故にレオポルドは腹心たるバレッドールにラジアの統治と戦災からの復興を任せ、ハルガニ地方に駐屯する一個騎兵連隊三個歩兵連隊の指揮権を与えた。
将軍は頻発する小規模な反乱や暴動を軍隊によって鎮圧する一方、ラジアに課される税を減免し、ハルガニ諸部族の有力者と定期的に会合を設けて統治への協力を求め、レオポルドの南洋貿易にラジア商人の出資や参画を認め、水夫や荷運び人夫などの仕事を与えるなど、硬軟織り交ぜた統治を行い、時間は要したものの安寧を取り戻すことに成功した。
ラジアの住人も、強力な支配権を確立したレオポルドに反抗を続けるよりも、彼の行う南洋貿易の片棒を担いだ方が利口な生き方であると気付いたのだろう。
「将軍の功績は極めて大である。君の誠実な働きに心から感謝している」
「過分なお言葉を頂き、痛み入ります」
バレッドール将軍はもとより感情を表す性質ではないから表情に変化というものはなかったが、どこかしら誇らしげな様子に見える。
「シュレーダー卿においてもムールド諸部族と上手く連携し、今後とも安定した統治に努めて頂きたい」
「承知仕りました」
そう述べた後、シュレーダー卿は手にしていた羊皮紙をレオポルドに手渡す。
「長旅でお疲れかと存じますが、明日はムールド・ハルガニの諸部族の者たちを謁見して頂く予定でございます。こちらはその名簿でございます」
名簿には一〇〇人近い名前が連ねられていた。
「夜にはムールド司教主催の会食があり、翌日は七長老会議派主催の宴、次の日はムールド南部諸部族主催の宴、その次の日はハルガニ諸部族主催の宴がございます。また、こちらは諸部族からの献上品の目録でございます」
レオポルドは辟易とした表情を浮かべる。
「やれやれだな。面倒極まる式典やら礼儀作法やら慣習やらしきたりやらから逃れようとムールドまで来たというのに、ここでも彼是やらねばならんことが山ほどあるのか」
「恐れながらムールド・ハルガニの者たちは誇り高く、客人をもてなすことを大変な名誉と考えております。謁見や歓迎の宴を見送ることは彼らの心証を大いに損ねるかと」
「わかっているとも」
シュレーダー卿の忠告にレオポルドは苦笑いを浮かべながら答える。
「ともかく、それは明日からだ。今宵は貴殿らと久々の旧交を温めながら夕食を共にしたいのだが、如何だろうか」
レオポルドの誘いに二人は喜んで応じ、この日は三人で翌日に控えている諸部族の有力者との謁見の打ち合わせも合わせて夕食を共にした。
翌日は予定通り朝からファディの広場に設けられた大天幕にて、ムールド・ハルガニ諸部族の有力者たちの謁見に応じる。
帝国の慣習では君主は夫婦揃って謁見に応じるもので、実際、ハヴィナやナジカなどでは辺境伯夫人たるリーゼロッテと並んでいたのだが、あらゆる場面で厳しく男女が区別される慣習が根強いムールドやハルガニの男たちが君主の妻にも謁見するとなると、違和感や反発を招く心配がある為、レオポルド一人が謁見に応じる形式となっている。
謁見を許されたのはムールド・ハルガニ諸部族の族長やその子息、長老などの有力者で、見知った顔もいれば、初対面の相手も、久々に顔を合わせる者もおり、その人数は合わせて一〇〇名程にもなる。
歓迎を言葉を受けるレオポルドの傍にはライテンベルガー侍従長とアイルツ侍従、帯同してきた書記官一名とムールド地方総監とハルガニ地方総監の補佐官が控えていて、次に目の前に現れる相手がどこそこの誰それで、いつどこで会ったことがあるとか初対面だとか。父親は誰それで去年亡くなって族長を継いだとか。息子の誰それが一昨年どこそこの誰それの娘と結婚している。といったことをレオポルドに囁いていく。
そういった事前情報を得た上で、レオポルドは目の前に現れた相手の挨拶を受け、二言三言程度だが言葉を交わす。
族長らとしてもレオポルドが自分の名前や素性を全て記憶しているとは思ってもいないが、あからさまに見知らぬ相手として対応されるよりは、きちんと自分の情報を把握した上で謁見に応じ言葉を交わすことができた方が気分が良いのは言うまでもない。
また、形式ばった挨拶だけして終わりというのでは、相手は蔑ろにされていると感じかねない。時間に追われている感を出さずゆったりと鷹揚に構えて、些細なことでもいいので言葉を交わすくらいはしなければなるまい。
このような些細なやりとりや気配りが人間関係の構築と維持には欠かせないとレオポルドは認識しており、こういう場面で困らないよう面会者の名前や素性などをきちんと調べて記録しておき、必要なときに参照できるよう前もって指示していたのである。
ムールド・ハルガニ諸部族の謁見は、合間合間に小休止と昼食とお茶の休憩を挟みながら一日中続き、全てが終わった頃にはすっかり日が沈んでいた。
邸宅に引き上げたレオポルドは、まず風呂に入って汗を流した後、昼とは違う正装に身を包んで再び馬車に乗り込んでファディに戻り、建てられたばかりの真新しい司教館に足を運んだ。この日の夜は司教との会食が予定されているのだ。
ムールド司教はレオポルドがムールドを支配した後に設置された司教座で、初代司教は有力な帝国諸侯であるマドラス公の庶子であったが、辺境での勤務を嫌がって赴任せずに辞任し、後任として来たのはバルタ・シュヴァルツェルトという神学博士であった。
博士は西方教会の主流派とは少し離れた学流にあって、教会総本山から警戒されており、総本山にとって気分の宜しくない学説を唱えられたくないが為に、異教徒異民族ばかりのムールドへと流罪同然に赴任させられた人物であった。
とはいえ、司教という上級聖職者ともなれば帝国式の序列としてはサーザンエンドでは辺境伯たるレオポルド、ハヴィナにいる大司教に次ぐ地位である。
司教との会食に同席したのはライテンベルガー侍従長、シュレーダー卿、バレッドール将軍の三人だけで、供された食事も簡素なものであった。
「ムールドは聞いていたよりもはるかに厳しい環境ですな。ここに住む人々は厳しい環境の中でも、誇り高く、隣人や同胞と協力し合って逞しく暮らしている。まことに尊敬に値するものです」
辺境に流されたにも関わらず司教は悲嘆したり鬱屈したりしている様子はなく、南の果ての辺境での暮らしを楽しんでいるようで、聖職者でありながら異民族や異教徒に然程の偏見を持っていないらしい。
シュレーダー卿らからの報告でも、身の回りの世話をする者が少ない為、自分で掃除や洗濯、料理などをしなければならない日があっても不平不満を言うこともなく、強引な布教や教化を推進する様子もなく、毎日のように彼方此方へと出かけてムールドの言葉を覚えようとしたり、通訳を通じて言葉を交わしたり、帝国語が通じるムールド人を招いたり招かれたりして食事やお茶、雑談などを共にしているという。
「猊下は異教徒たちを改宗させるべきとのお考えではないのですか」
レオポルドが率直に尋ねると司教は微笑んで答えた。
「たとえ、私たちの教えが正しいものだとしても、それを無理に押し付けるというのは大きな過ちと言えましょう。私がすべきは彼らの暮らしや考え方を観察して理解し、彼らが主の教えに耳を傾けてみようと感じてくれるまで待ち、そうなった時に主の教えをわかりやすく説いてあげることです」
司教の考え方は、随分と教会総本山の方針とは異なるようだ。異教や異端を片っ端から捕らえては火炙りするようなことを仕事にしている異端審問官たちが聞いたらなんと言うだろうか。
本物の聖職者とは本来このような人物を言うのではないかとレオポルドは感じるのだった。
翌日からの三日間は諸部族からの歓迎の宴が朝から夜まで行われ、勧められるがままにレオポルドは腹がはちきれるかと思う程、ありとあらゆる調理法の羊肉を食い、山羊乳の酒を飲み続けた。
三日間の宴が終わって、ようやくレオポルドは羽根を伸ばして心身を休めることができた。
日に何度も入浴し、読みたいと思っていた本を読み、キスカやアイラ、リーゼロッテと子供たち、フィオリア、ソフィーネらと食事をしたり、菓子や茶を喫しながら遊戯をしたり、とりとめもない話をしたり、バレッドール将軍、シュレーダー卿、幾人かのムールド人らと馬に乗って遠乗りし、狩猟を楽しんだり、駱駝レースを観戦したりという気ままな暮らしを楽しむ。
勿論、その合間合間でハヴィナや各方面から届く報告書に目を通したり、官房長レンターケットや首席調査官ネルセリング卿から報告を受けたり、指示を出したりという仕事もするが、ほとんどの日々をゆったり自由気ままに過ごすのだった。
しかしながら、レオポルドが贅沢な余暇を楽しんでいる最中、ハヴィナ城は不穏な気配に包まれていた。