二四〇
ナジカ市内の視察を行った日の翌日は安息日であった。
安息日は西方教会においては労働を休み、主に祈りを捧げる日とされ、正しき神の僕は教会へ赴き、聖職者の説教に耳を傾けることが強く推奨されている。
無論、病気や体調不良、看病や介護、子守り、重要な用事、遠方への外出など理由があればやむを得ないが、普通は教会へ足を運ぶものであり、理由もなく欠席でもしようものならば、翌日から教会に来なかった不信心者と町中の人々から後ろ指差されるのが帝国本土の風潮であった。
異教徒が多く住み、教会の数も多くないサーザンエンドではそこまで強い同調圧力があるわけでないが、それでも、やはり、正教徒は安息日には教会へ行くのが一般的である。
信仰心篤いというわけではないが、正教徒の端くれであるレオポルドも普段はハヴィナ城に付属している聖堂へ赴き、手短ながらも主に祈りを捧げ、日によってはハヴィナ市内の教会まで足を運ぶこともあった。
西方教会を国教とする神聖帝国の諸侯の一員である身としては、己の信仰心はともかくとして、忠実たる主の僕の範でなければならない。
そういうわけで、この日、レオポルドはリーゼロッテやフィオリア、ライテンベルガー侍従長ら近臣らを伴ってナジカの教会へ足を運ぶこととした。キスカやアイラは正教徒ではない為、留守番である。
異教徒であるテイバリ人が住民を大半を占めているナジカでは正教徒は少数であるが、市内には教会の数が少なく、将兵のほとんどが正教徒である第三サーザンエンド歩兵連隊が駐屯している為、安息日の教会はいつも混み合っていた。
その上、レオポルドたち出席している今日ともなると席は全て埋まっており、立ったまま聖堂の後方に立っている人々もいた。
レオポルドらは最前列の席を案内され、後ろの席には近衛騎兵連隊及び近衛歩兵連隊、第三サーザンエンド歩兵連隊の士官たちが陣取っている。
出席者の多くが教会に入り、刻限となると祭壇の前に白い聖服を身にまとった小柄な老人が現れた。この教会の主任司祭である。ナジカにおける聖職者たちの最年長で代表格である為、レオポルドとも幾度か顔を合わせているが、特に印象のない人物であった。
主任司祭の登場を見て、一同は起立する。
主任司祭は祭壇を仰ぎ見て、祈りの言葉を述べ、一同はこれに唱和する。
その後、主任司祭は参列者に向き直り、厳かに告げる。
「皆さん。神聖なる祈りの前に、我らの過ちを認め、全能なる主が我らを憐れみ、その罪を許されることを祈りましょう」
主任司祭の言葉を受けて、一同は頭を下げ、少しの沈黙の後、唱和する。
「全能なる主よ。罪深い我らを憐れみ、慈しみ、許しと救いをお与えください」
「いとも尊き神聖なる主に栄光あれ」
そう主任司祭が告げた後、聖歌が合唱される。終わりに再び祈りの言葉が唱えられてから、一同は着席する。
続いて、主任司祭は手元の聖典を開き、朗読する。参列者は声に出して読む者もいるが、黙読だけする者もいる。そもそも、聖典を持っていない者も少なくない。聖典を所有することができるのは富裕な者に限られるのだ。
朗読の後、主任司祭が参列者に説教を行う。大概は今しがた読んだ聖典の解説やその意味合いを説明することが多いものの、話の内容は人によって異なる。
参列者が興味を持って話を聞くように聖典やそれに類する逸話を面白おかしく話してみたり、地獄の恐ろしさをおどろおどろしく語ってみたり、参列者の生活や信仰の態度を咎めて叱りつけるような者もいる。毎回同じような話をして済ますようなやる気のない聖職者も少なくない。
中には異教排撃を訴えたり、教会中枢や敵対する派閥を批判したり、政治的なことを演説するような聖職者もおり、教会改革や運動の一環として用いられることもある。
無論、それぞれの聖職者に好き勝手なことを説教されては堪らないので、教会総本山は手順書や規則書を作って配布したり、許容し難い説教を行う聖職者を指導や処罰したりして、聖職者の統制に努めている。
とにかく、司祭の説教には個性が出るもので、今しがた朗読した聖典と無関係な話だったとしてもそれほど珍しいことではない。
「さて、皆さん。昔々、ある所にとても幸福で裕福な商人の男がおりました。彼には妻と五人の子供がおり、大きな家と豊かな財産と数多くの家畜を持っておりました。彼は無垢で信心深く全能なる主の偉大さを疑ったことなど一度もありませんでした。安息日には必ず教会へ寄進し、困っている友人や隣人には気前よく援助し、事あるごとに恵まれない貧しい人々に食べ物や衣服を分け与えておりました」
レオポルドはこの話を知っていた。聖典に準ずると教会が定める書物に挿入されている逸話で、少しばかり学のある人間ならば一度くらいは読んだことか聞いたことがあるだろう。
「ある時、天使がこの男の無垢な魂と善行を称賛したところ、それを聞いた悪魔が言いました。この男が善行を行い、主への信仰を保っているのは、自らが恵まれた境遇にあるからに他ならない。己が不運と絶望の底に突き落とされれば忽ち主を罵り、呪うであろう。私にお任せ頂ければ、この男の信仰心が、主の恩寵と幸運を期待せんが為の打算的な思惑によるものであるか。はたまた見返りを期待などしていない真のものであるか。明らかにしてみせましょう。主は彼の命を奪ってはならないという条件を付けて、悪魔の試みを許しました」
さて、そういうわけで、悪魔の力によって、男は様々な不運を見舞われることとなる。
まず、家畜が次々と病で倒れ死に、彼の財産を載せた船は沈み、家は火事で焼け、更には息子たちが次々と病や事故によって一人残らず死に、終いには男は重度の皮膚病に侵され、寝ていても起きていても座っていても痛みに苦しめられる有様となった。
多くの友人や隣人は男が主に呪われているのだと思って距離を置くようになり、妻でさえ彼が何らかの過ちを犯したのだと疑い、彼は孤独に苛まれることとなった。
男は、財産も健康も家族も友情も愛情も失ったのである。
それでも男は信仰を失ったり、主を疑うようなことはなく、主への祈りを欠かさず、主を罵り恨むことはなかった。
「主から与えられたものは幸福も不幸も甘受しようではないか」
と男は妻に述べた。
そこへ遠方に住む数人の友人が男を訪ねてくる。友人は彼のおかれた境遇を憐れみ同情したが、こう言った。
「君がこのような不運に見舞われているのは、やはり、何らかの過ちを犯したからではないか。人は知らず知らずのうちに過ちを犯すこともある。悔い改めて主に許しを請うべきではないか」
友人の言葉に男は反論した。
「私は常に全能なる主を崇める忠実な僕であり、信仰を欠かしたことなど一時たりともない。一体、私がどのような過ちを犯して、このような罰を受けなければならないというのか。私が過ちを犯したというのであれば悔い改めることは勿論だが、自らがどのような過ちを犯したのかもわからないままに懺悔することに意味などあるだろうか。自らの罪を深く自覚し、省みることができなければ懺悔のしようもないというものであろう」
男の主張に友人たちは反駁し、幾度か論争が繰り広げられる。
友人たちが主張したことを要約するならば「正しき者は救われ。悪しき者は罰される」という因果応報である。これは極めて素朴で分かりやすい論理ではあるが、貧しい家に生まれた人や生まれつき障害を持った人、不運な事故に遭った人には極めて残酷な論理と言えよう。家の貧しさや障害の有無、天運に恵まれるか否かは全てその人か或いはその祖先か子孫かに罪があったからだというのか。この論理は悪魔の主張を肯定するものでもある。人は何のために主を称え、祈るのか。報いとしての恩寵を期待する為であるならば、それは果たして正しき信仰と言えるのか。
はてさて、そうして、議論が尽くされた後、主は男の内面に向けて語りかけられた。
主の結論はこうである。男の述べたことは概ね正しい。つまり、因果応報は全てではない。主の思惑と目的と計画は人知を超えた先にあり、人間は世界の中心ではなく、人間の価値観によって主の営みを理解しようとすることは不可能であり、驕りである。
「つまり、この世は因果応報勧善懲悪という単純な仕組みによって成り立つものではなく、必ずしも善が勝ち、悪が負けるということではないし、悪が栄え、善が災いを受けることもあり得るのです。主の思考と計画と営みを小さな人間が理解することは不可能なのです。確実なのは全ては主の手の中にあり、全能なる主の計画のうちであるということです。我々は偉大なる主の崇高さと権威を知り、主を畏れ敬い、信仰を忘れず、謙虚な気持ちで振る舞い、家族や友人、隣人と助け合いながら、一生懸命に生きていかねばなりません」
主任司祭はそのように述べてから手にしていた本を閉じた。
「では、最後に祈りましょう。全能なる主に栄光あれ。主よ。私たち憐れみ許し給え」
最後の祈りの言葉で安息日の祈りは終わりとなる。主任司祭が立ち去り、参列者もぞろぞろと聖堂を出ていくが、今日はレオポルドたちがいる為、一般の参列者はレオポルドの退去まで待機しなければならない。
聖堂を出る途中、レオポルドは教会の隅に座る参事会長の姿を目にして驚いた。彼はテイバリ人であるので、安息日の祈りが行われている教会にいるということは意外と言ってよいだろう。
もっとも、異教から改宗した異民族の正教徒がいないわけではない。南部では珍しいが、帝国本土ともなれば異教徒はただ生きて暮らすことも難しく、ほとんどの異民族が改宗している。改宗に応じなかった異民族は辺境に追いやられたか、淘汰されている。
「司祭様の説教だけれども、あれはナジカの人々に向けて言っていたのかしら。それとも、貴方に向けて言ったのかしら」
迎えの馬車に乗ってから向かい側に座ったリーゼロッテが素っ気ない顔で言い放つ。
「さて、どうかな」
レオポルドは窓の外を見やりながら呟く。
主任司祭は前の戦いによって命を落とした人々と遺された家族、戦禍によって荒廃した町に住む市民を憐れみ、その境遇は必ずしも過ちや罪による結果ではない。と慰める意図があったのではないだろうか。
わざわざレオポルドが訪問してきた日の題材に選んだのだから、彼に向けられた言葉であったとも考えられる。
勝利者は必ずも正義というわけではなく、結果というものは必ずも主の望みに適うものでもない。と戒めようという意図があったのかもしれない。
「司祭様が仰っていたことは確かにその通りではある。主の裁きは最後の時まで行われることはなく、私が誰かの行いが必ずしも主の望まれたこととは言えまい。しかし、現世に生きる我々としては、我々の価値観において善悪を見定め、善を助け、悪を挫き、正しき道へと進んでいかねばなるまい」
その言葉は自らに言い聞かせているようであった。
レオポルドのナジカ滞在は更に数日続き、出立の前日には到着日と同じように見送りの宴が催された。
この宴ではナジカからレオポルド及びリーゼロッテ、更にレオポルドの近臣たちへ土産及び記念の品が贈られた。
その目録は駱駝、乳香、テイバリ風のランタン、テイバリ風の反りの大きなナイフ、ナツメヤシの酒などテイバリ人の伝統的な品の他、東方大陸との貿易で手に入れた絹布、象牙、陶磁器、香辛料、珈琲豆、ザクロの蜂蜜漬けなどであった。
献上された品々を受け取ったレオポルドは鷹揚に礼を述べ、それでは、さようなら。とはならないのが社交というものである。物を受け取ったからには必ず返礼をしなければならない。
次々と見送りの挨拶に来るナジカの有力者たちに、レオポルドは滞在中の歓待に感謝の意を述べ、これからのナジカの発展と安寧を願うと述べてから、返礼の品を下賜する。
下賜する品は、こういう時の為に、帝都滞在中に買い集めておいた物で、望遠鏡、大鏡、手鏡、懐中時計、置時計、絵画、金笛、銀の食器、硝子の酒瓶、羅紗のマント、サーベル、葡萄酒、珊瑚などである。
特に参事会長には、孫への贈り物として銀の菓子器、銀の髪飾りも合わせて下賜した。
「孫にまでこのような素晴らしい品を頂き、ありがたきことで恐れ入るばかりでございます」
参事会長は平伏せんばかりに頭を下げて言った。
レオポルドは彼にそっと顔を寄せて小声で告げる。
「許してほしいとは言えないが、貴殿やその家族には惨いことをしたと慙愧に堪えぬ。この罪は消えることなく、後世へと残り、多くの哀れな犠牲者がいたことを、後々の人々は知ることとなろう。私は最後には主の裁きを受け、歴史によって断罪されるであろう」
参事会長はぱっと顔を上げてレオポルドを見つめた後、再び深々と頭を下げた。
「主が閣下を憐れみ、お許しになりますようにお祈りしております」
そう言って参事会長は退き、レオポルドは腹の痛みを感じながら嘆息した。
翌日、レオポルドたちはナジカを発ち、ムールドへの旅を再開した。
「お腹の具合は如何ですか」
「悪くはないが、気分は良くもない」
馬首を並べたキスカに心配そうな顔で尋ねられ、馬に揺られながらレオポルドは渋い顔で答える。
「念のため、薬を用意させましょうか」
「いや、結構。意味があるとは思えんからな。無用な薬を取ることは健康を害する」
レオポルドは硬い表情のまま言い、振り返って遠ざかるナジカの城壁を見つめた。
「この世で犯した罪は全て背負って主の御許に行くと決まっているものだ」
レオポルドは口の中で呟いてから溜息を吐く。
許されることなど微塵たりとも期待していなかったが、責められ、詰られ、糾弾されれば、まだ気は楽になったかもしれない。
しかし、そのようなことはなく、ナジカにおいて多くの人々を斬刑に処し、失われるべきではない命を奪ってしまったこと。その家族に筆舌にしがたい絶望を与えたこと。人の道を外れてしまったことへの後悔と罪悪感が僅かなりとも晴れることはなく、彼の心の中に居座り続け、これからも心をじくじくと傷め続けるだろう。主が裁きを下す時まで。
「主よ。救いと許しを与え給え」
博識なる読者諸賢はご推察の通りと存じますが、作中にて主任司祭が語った逸話は「ヨブ記」を基にしております。