二三九
翌朝、レオポルドは朝風呂と朝食の後、ナジカ市内の視察に出かけることとした。
市内の視察は元々計画されていたもので、視察先は復興工事が進められている建設現場や市場、隊商宿などが予定されている。
キスカやライテンベルガー侍従長らは前日に彼が度々腹痛を訴えていたため、視察を中止して安静に過ごすよう提案したものの、その提案が取り上げられることはなく、二人は心配そうな顔のまま視察に随行した。
一個騎兵中隊と二個歩兵中隊から成る警備の将兵に囲まれたレオポルドは宿所としていた会堂を出て、ナジカの北側の地区へと向かう。そこはナジカ攻防戦で最も被害が大きかった地区で、ほとんどの家屋が損害を受け、多くの住人が命を落とし、助かった人々の多くも住む家を失っていた。
そこで、ナジカ都市参事会は廃墟や瓦礫を撤去し、この地区に公共住宅を建設する復興工事を行っているのだ。
現地では案内役である参事会長らナジカ市の有力者たちがレオポルドを出迎えた。
参事会長は昨日のことを気にした素振りもなく、相変わらず媚びたような笑みを浮かべながらレオポルドに付き従い、彼是と復興工事の計画や内容、進捗状況などを説明した。
廃墟や瓦礫を撤去した後の更地に建設されているのは共同の水場を囲むロの字型の日干し煉瓦で造られた二階建ての共同住宅であった。一棟には十数世帯が入居することができるという。大きな道路に面した側は店舗として賃貸され、その賃貸料で家賃を低く抑えることができ、住人の仕事や雇用の場にもなる。
既に十棟程が完成しており、更に十棟が建設途中であるという。
ここでもハヴィナの再開発と同様に城壁が解体されてその資材が流用されている。
これはレオポルドの指示であったから、ナジカが反抗した報いとして城壁を取り壊され、二度とは向かうことができないよう丸裸にされているのだと感じている市民も少なくないという報告を受けていた。
その為、レオポルドは建設現場あちこち歩きまわりながら、火砲が発達した今日において城壁などというものは前時代の遺物と言うべきものであり、建設費や維持費を考えれば無用の長物というべきで、その資材を復興工事の為に流用することは費用対効果に適うもので、ハヴィナでも同じように城壁を取り壊して都市再開発に活用している。ということを参事会長以下ナジカの有力者たちに言って聞かせた。
参事会長らは神妙に聞いて納得したように頷いていたが、果たして彼らの疑念を完全に取りされたものかは確信が持てなかった。とはいえ、何も言わないよりはマシというものであろう。
ところで、この復興工事は戦災によって破壊され、従来の指導者層が一掃された今日のナジカにおける最大の経済活動であり、これより他の雇用は極めて少ないのが現状であった。
その為、城壁や廃墟の解体、瓦礫の撤去、公共住宅の建設工事では、資材や瓦礫の運搬などの単純労働には仕事のない住人が多く雇用され、女子供の姿も少なくなかった。
不安定な場所で重く硬い物を運ぶ仕事である為、危険も多く、事故や災害は日常茶飯事で、死人や怪我人も珍しくはないという。
先の戦争で夫や父親が亡くなったり、仕事をすることができないほどの怪我を負った家庭は数多く、女子供といえど働かなければ生きていくことができないのである。
危険な現場だからといって女子供を雇用しないとなると彼らは仕事を失い、より劣悪な環境の仕事に就くか、自分の体を売るか、飢え死ぬかしてしまう。
彼らが働かなくても済むよう生活を保障する術が財政的に不可能であることは言うまでもなく、復興工事が進んで、ナジカの経済が活発化し、より安全で安定した雇用が増えるまでは危険と隣り合わせの現場で働くより他ないのである。
そのような説明を聞いたレオポルドは陰鬱は面持ちで暫く黙った後、口を開いた。
「ナジカの復興はサーザンエンド全域の経済活動にも寄与する重大事であり、これに従事する彼らの働きは称賛して然るべきである。よって、彼らに褒美を取らせよ」
「彼らと言いますと、ここで働く者全員にでございますか」
ライテンベルガー侍従長の言葉にレオポルドは頷いた後、参事会長に尋ねる。
「ここで働く者は何人いるのか」
「二〇〇〇人は下りません」
「では、一人につき五セリン与えよ」
五セリンはここで働く最も低賃金の労働者の一月分の給与に相当し、切り詰めればどうにかこうにか一月は暮らせる程の金額である。貧しい民にとっては暮らしをいくらかは改善させ得るであろう。
しかし、これを二〇〇〇人に与えるとなると合わせて一万セリンという大金となる。万年金欠なレオポルドにとって平気な出費というわけではないが、戦災からの復興の現場で働く民を慰撫する為には必要な出費であると彼は判断したのだ。
「ありがたきことでございます。彼らも大いに喜びますでしょう」
参事会長はそう言って深々と頭を下げた。
レオポルドは軽く頷いた後、次の視察先である市場の方へ足を向けた。市場はナジカ市の中心部近くにある。
ナジカの市場は、戦前は大変な賑わいでサーザンエンド以南では最も多くの物産が集まるとされ、ここで手に入らない物は帝国南部ではどこでも手に入らないと言われるほどであったが、今日ではそれ程の賑わいはないようであった。それでも店先に並ぶ物産は種類も量も豊富である。
「この市場での取引高は如何程か。季節によって扱い高は如何程の変動があるのか。商人は日に何人ほど訪れるのか。どの方面からどのような物産が多いのか」
表敬に訪れた市場の役員や管理人らにレオポルドは熱心に彼是と尋ね、その答えを細々とメモした。彼は交易をはじめとする商業活動の活性化によってサーザンエンド経済を振興することを目的としているので、ナジカの商業取引の実態は彼にとって大きな関心事なのである。
市場を一通り見て回った後、レオポルドは随行している参事会長に声をかけた。
「ところで、貴殿の家はこの辺りか」
通常、有力な商人は市場の近くに家を構えることが多い。言うまでもなくその方が仕事の利便が良いからである。
「はい、そこの通りを少し行った先にございます」
参事会長は何故そんなことを聞くのだろうという疑問を表情に浮かべながら答える。
「では、迷惑でなければ、貴殿の家で一休みさせてくれないか。今日は暑い。喉が渇いた」
「そ、それは、いや、突然申されましても……」
レオポルドの唐突な申し出に参事会長は狼狽する。
当然のことながらサーザンエンドにおける最高権力者である辺境伯の視察ともなれば行き先は事前に全て決まっており、途中で行程を変えるということは基本的にはあり得ないことである。
もっとも、レオポルドはあまり決められた道を進み、決められたものだけを見せられる視察というものが好みではないので、途中で行き先を変えたり寄り道したり、想定にないものを見たり聞いたりということは度々であった。
それを踏まえても、随行者の家に押し掛けようというのは初めての試みであった。
「恐れながら、それは如何かと存じますが」
随行のライテンベルガー侍従長が渋い顔で苦言を呈する。
彼が懸念しているのは参事会長の迷惑になるとかそういうことではない。サーザンエンド辺境伯フェルゲンハイム家の分家筋であり、ハヴィナ貴族でも最も格式高いと自負する侍従長にとって、庶民に過ぎない参事会長の迷惑など知ったことではないのだ。
彼が問題としているのは、辺境伯が一庶民の家を訪問するという栄誉を軽々しく行うことの是非である。
古来より君主が臣下の家を訪問し、供応を受けるということは、相手を信頼していることを示す行為に他ならず、それは臣下にとっては大変な名誉と言える。貴族でさえその誉に与る者は多くない。
特にレオポルドはハヴィナ貴族の家を訪問することも数えるほどしかない為、その貴重性はより高いと言える。
そもそも、レオポルドはライテンベルガー家を訪れたことも未だないのだ。
「侍従長。これはただの小休止だ。暑さを凌ぎ、足を休める為に他ならず、特に大きな意味を持つものではない。如何か」
「まぁ、閣下も長旅でお疲れのご様子。適切な場所で適度な小休止を行うことは必要不可避と考えて宜しかろうと存じます」
レオポルドの言葉に侍従長は気難しい顔のまま渋々同意を示す。
「それでは行こうか。無論、貴殿にとって迷惑至極というのであれば無理にとは言わないが」
そう言われて断ることなどできようか。
「滅相もございません。粗末な家ですし、急なことで何のおもてなしもできませんが、ご容赦ください」
狼狽し、脂汗を拭う参事会長の案内でレオポルドとその随行者たちは連れ立って彼の家へと向かった。
参事会長の家は、前述した公共住宅と似たような構造で、大きさは半分ほどの平屋であった。公共住宅では共同水場になっている部分には、専用の水場とちょっとした菜園もある中庭になっている。
レオポルドはその中庭にあるベンチに腰を下ろした。
今日は天気が良かったし、他人の家族の生活の場である家の中に踏み込むのも気が進まなかったので、中庭で一休みすることとしたのだ。キスカとライテンベルガー侍従長、二人の士官だけが後に続き、一〇名ほどの兵が玄関前に立ち、残りの人員は市場の近くにある広場で待機するよう指示された。
キスカや警備責任者である近衛騎兵連隊長や中隊長らは渋い表情を浮かべたが、レオポルドの指示となれば従うより他ない。
「急なことで、このようなものしかございませんが、お口に合いますと幸いです」
参事会長から差し出されたのは小ぶりなカップに入った濃い色の珈琲だった。
キスカが何か言いそうな気配を見せたが、レオポルドは礼を言って受け取ると、すぐに口をつけた。
「随分甘いがとても美味い。特に香りが良いな。気品のある香りがする」
そう言ってすぐに飲み干してしまう。
「過分のお言葉を頂き痛み入ります」
その言葉に参事会長は慇懃に頭を下げた。
「もう一杯如何でしょうか」
「頂こう」
参事会長が空のカップを持って家に引っ込むと渋い顔をしたライテンベルガー侍従長が近くに寄ってきて囁くような小声で言った。
「閣下。このように無防備な真似はなさらない方が宜しいかと存じますが」
「これは必要のあることだ」
レオポルドはきっぱりと言い切った。
つまり、彼は昨夜の宴で献上された酒に口をつけなかったことを詫び、改めて信頼していることを示すつもりなのである。故に僅かな随行者のみで参事会長の家に行き、出された飲み物を毒見をせず飲み干したのだ。口にして言うよりもずっと確かというものであろう。
今やレオポルドはナジカの占領者ではなく、統治者なのである。統治するということは、支配することであるとともに、保護することでもある。保護すべきナジカの民を信用せずしてどうして統治などできようか。相手を信用しなければ、相手からも信用されないということでもあり、それは相互不信を生み、果ては敵意と対立になろう。
これからナジカは復興し、再び交易都市として再生しなければならない。それがナジカ自身の利益でもあり、サーザンエンド全体の利益でもあるのだ。ナジカは最早敵対すべき相手ではなく、保護し、助け、信頼すべき相手なのである。
また、ナジカの敵意や反意に備えて、いつまでも一個連隊を貼り付けておくことは軍事的な制約というものである。
ナジカ市民からの信頼を得る為には、まずはその代表である参事会長からの信頼を得る必要がある。
その為には先日の非礼を詫び、改めて彼を信頼していると行動で示す必要があろう。というのがレオポルドの考えなのであった。
キスカと侍従長はレオポルドの態度からその考えをなんとなく察して、大人しくしていることにしたようで、そのまま黙って傍らに佇んでいた。
珈琲のお代わりを待っている間、ぼんやりと空を眺めていたレオポルドはふと人の気配と視線を感じた。そちらへと顔を向けると七、八歳程度の少女が柱の陰からレオポルドたちの様子を物珍し気に見つめていた。
目が合うと少女は恥ずかし気な様子で家の中に引っ込んで隠れてしまう。
「参事会長の孫でしょうな」
同じように少女に気付いた侍従長が素っ気なく呟く。
つまり、レオポルドが処刑を命じた参事会長の子息か娘婿の娘ということだ。レオポルドはきりきりと腹が痛むのを感じた。
少しして少女は再び姿を現した。小さな籠を手にしている。彼女は恐る恐るレオポルドの方へと歩み寄ってきて、傍まで来ると籠を差し出した。見ると中には干したナツメヤシが入っている。
ナツメヤシは乾燥地でもよく育つ樹木であり、その果実は乾燥させると長期保存が可能で、干したものをそのまま食べることもできるし、菓子やジャム、ジュース、酒、ソースなどに加工したり、家畜の餌にすることもできる極めて有用な植物で、サーザンエンド以南では広く栽培されている。
干したナツメヤシは庶民にとっては日常的な菓子代わりであり、日頃から多くに人々に広く食されており、レオポルドも南部に来てから口にすることは少なくない。
「くれるのかな」
レオポルドの問いに少女は答えない。どうやら帝国語はわからないらしい。
とはいえ、そういう意味であろうとレオポルドは解釈し、籠から干しナツメヤシを一つ手に取って齧った。
それを見て少女はあどけない笑みを浮かべる。
ムールド人もそうであったが、テイバリ人も客人を歓迎し、もてなす文化があり、幼い彼女にもその意識が根付いているのであろう。
「おお、申し訳ありません。私の孫がお邪魔をいたしまして」
ちょうどコーヒーを持ってきた参事会長が申し訳なさそうに言った。
「いや、邪魔ではないよ。私の方が君たちの家に邪魔している立場だからな。彼女は客人である私をもてなしてくれていたのだ」
レオポルドはそう言ってから、頭の中をひっくり返してどうにかテイバリ語で「ありがとう」という意味の言葉を口にしてみた。
少女はニコリと笑って小さな籠をそのままレオポルドに渡して家の中に駆けて行った。
「礼儀のなっておりませんで恥ずかしい限りでございます」
参事会長は苦笑いを浮かべながら言い、二杯目のコーヒーを差し出す。
レオポルドは礼を言ってカップに口をつけた。気品ある香りが鼻孔をくすぐり、程よい苦みと酸味、濃い甘さが口の中に広がる。
暫く珈琲を味わった後、レオポルドは参事会長に顔を向けた。
「突然の来訪にも関わらず美味しい珈琲と菓子をご馳走になった礼をいたしたい。何でもというのは難しいが、何なりと望みを申してみよ」
「いえいえ、そんな、粗末な対応しかできず申し訳ないばかりです。お礼を頂くなど滅相もないことでございます」
参事会長は慌てた様子で拝辞の言葉を重ねたが、それでもレオポルドが何度か促すと、彼は脂汗を浮かべて暫く沈黙した後、やおらその場にひれ伏した。
「身に余るありがたきお言葉を頂けただけでも過分のことでございますが、恐れながらお願いいたしたいことがございます」
突然の行動にレオポルドが面食らっている間にも彼は言葉を続ける。
「先の戦にて閣下に反逆いたしました者たちは、処刑された後、教会の方々が弔って下さりました。これを我々の、ナジカの伝統に倣った弔い方に改めることをお許しください」
参事会長の息子を含むナジカのかつての有力者たちは反逆罪により尽く斬罪され、その躯は広場に晒されることとなった。
レオポルドらが去った後、その遺体を引き取ったのはナジカの教会の聖職者たちであった。罪人とはいえ、いつまでも弔われないことを不憫に思ったのである。ナジカに駐留していた占領部隊も西方教会の聖職者には遠慮する気持ちがあり、その行動を黙認した。
とはいえ、教会の弔い方はあくまでも西方教会の作法に従ったものであり、ナジカ人が昔から行ってきたやり方とは異なるものだ。先祖たち同じように弔ってやりたいという気持ちは当然であろう。
「貴殿の望み通りにせよ」
レオポルドは険しい顔で答えた。また腹が痛み始める。
「ありがたきことでございます」
参事会長はひれ伏したまま礼を述べたものの、そのまま顔を上げる様子がない。
「差し出がましいことながら、また一つお願いいたしたいことがございます」
「何か」
レオポルドに促された後も参事会長はなかなか言葉を続けようとせず、黙って地面にひれ伏している。
再び声をかけようかと思ったところで、ようやく彼は声を発す。
「先の戦で犠牲となった者たちを追悼し、慰霊し、何があったのかを後世に残す記念碑を建立させて頂きたく存じます。何卒、何卒、お願いいたします」
参事会長は情けない涙声でそう言いながら額を地面にこすりつけた。
人々の記憶というものは風化し、忘れ去られるもので、世代を重ねたならば、それはなおのこと顕著となる。忘れられてしまうということは無かったことと同義といっても過言であるまい。
しかし、忘れたくない。忘れてはいけないことを記録して残し、次の世代へと引き継いでいけば、それはいつまでも人々の心に世代を超えて残されるであろう。
文書は保管の状況によっては失われ消えてしまうこともあるが、公共の場に事の成り行きと犠牲者の名を記した記念碑を建立すれば、それはより確実に後世へと語り継がれることであろう。
犠牲者を追悼し、その経緯を記した物を作り、残すということは、それを歴史として後世に残すことに他ならないのである。
つまり、参事会長は息子たちを含む同胞が何故どうして死ぬことになったのかを忘れないように残したいというのである。
しかし、それは彼らを処断したレオポルドの行為を歴史として後世に伝えるということも意味している。
読書家であり、歴史を学ぶことを好むレオポルドはそれがどのような意味であるかをよく理解していた。歴史上の人物が後世からどのように評価されるかを彼は数多読み聞きしてきている。偉大な事績を残した人物であっても、幾度かの取り返しのつかない過ちから辛辣な評価を下されたり、道徳に反する行いをしたとして非難されている事例は少なくない。
自分が歴史からそのような評価をされること。そして、子孫がその責を問われ得ることを受容できるのか。ということを問われているようにレオポルドは感じた。
「宜しい。好きになされよ」
「ははぁっ。ありがたきことにございます」
レオポルドの言葉に参事会長は更に額を地面に押し付けて礼を述べた。