二三八
「見ろよ。参事会長が辺境伯に尻尾を振りに行っているぞ」
「よくできるものだな」
少し離れた席でナジカの有力者の二人が交わす言葉にキスカは耳を傾ける。彼らの言葉はテイバリ語で、多くの帝国人には馴染みのない言語だが、彼女はテイバリ語にもある程度通じており、日常会話くらいならば何を話しているのか大まかに理解することができた。
ちょうど少し前、キスカたちの前を通ってレオポルドの席に向かったナジカの都市参事会長は自分の息子くらい年下であろうレオポルドにへこへこと頭を下げている。
「よくあそこまで媚び諂うことができるものだな」
「まったくだ。私が同じ立場なら到底無理だろう」
「ほとんどの人間はそうだろうさ。何せ憎き敵だぞ。まともな人間なら相手の顔すら見たくないだろうさ」
「いや、それでも、ご機嫌伺いはせねばならん。それが政治というやつなのだろう」
二人の会話を盗み聞いたキスカは険しい表情を浮かべ、近くの席にいた第三サーザンエンド歩兵連隊の連隊長に声をかけた。
「参事会長はどういう方なのですか」
「あぁ、あの男はナジカでは古くから続く一族の出身でしてな。今のナジカでは数少ない名家の人間と言えるでしょう」
第三サーザンエンド歩兵連隊はナジカに駐屯している為、連隊高官はナジカの事情にある程度通じている。
古くから続く名家が共同体の中で力を持ち、指導的地位を占めるということは珍しいことではなく、大概の国や都市、村で見られる現象である。
しかしながら、ナジカでは先の戦争での敗北によって、古くから続く名のある家々の人々は一掃されたはずだ。
ガナトス男爵軍とその援軍であるアーウェン槍騎兵に敗退したレオポルドを見捨てて裏切り反抗したナジカに対して彼は極めて厳しい処置を取り、当時の参事会長や参事会員ら指導者層のみならずその一族の成人男子ら数十名は尽く処刑された。生き延びたのは女性や子供ばかりのはずだ。
「ナジカの名家の人々は皆いなくなったはずでは」
「あぁ、先の攻防戦の際、彼は商談でハヴィナに出かけていたようです」
キスカの疑問に連隊長が答える。
つまり、運よくその時その場から離れていた為、生き延びることができたらしい。
今日のナジカの指導的地位にあるのは商業組合や職人組合の役員クラスの商店主や工房の親方、法律家、都市役人といった元々は中流というべき地位にいた人々なのだが、これまで権力とは少し離れた立場にいた彼らだけで数万人の市民をまとめ、市政を運営することは容易ではない。
そこで、これまで市政を担ってきた指導者層の唯一の生き残りである彼が参事会長の座に収まったのだろう。
「彼の一族もナジカを離れていたのですか」
キスカの問いに連隊長は一瞬視線を彷徨わせる。
「いや、違いますな」
「では、彼の一族も処断されていると」
連隊長は渋い顔で頷く。
これで二人のナジカ人の会話の意味が理解できた。レオポルドはナジカにとっては町を破壊した侵略者であることは今更この場で話すまでもないことである。わざわざ、彼らが仇敵呼ばわりしていたのは、参事会長にとってはそれ以上の憎き相手であるという意味だったのだろう。
「先の戦争で参事会長の身内は何人が処断されたのですか」
その問いに連隊長は返答を躊躇う。歓迎の宴席に相応しい話題とは言えまい。
しかし、キスカは鋭い視線を向けたままじっと返事を待ち、連隊長は声を潜めて言った。
「処断されたのは彼の息子三人と参事会員であった兄とその息子。叔父とその息子二人、娘の夫の合わせて九人です。また、家が戦火で焼け、次男三男の妻子全員、使用人数人が亡くなっております。後に妻は病死したと言われておりますが、息子や孫を失ったことによって心を病み自殺したとの噂もあります。生き残っている家族は娘とその男子、次男の妻子と三男の妻のみです」
キスカは背中に冷や汗が流れるのを感じた。
彼女はムールドとハルガニ地方には情報網を構築し、各部族の情報などを事細かく収集していたが、テイバリ人の領域であるナジカに対する情報収集は手薄で、ナジカの参事会長の出自や家族構成などは承知していなかったのだ。
「つまり、彼にとってレオポルド様や我々は、妻子を殺した憎き仇敵ではありませんか」
「それはそうですが、いや、しかしですな。彼は極めて協力的であり、辺境伯閣下の命令は勿論のこと、連隊からの要望にも反対したことは一度としてありません。ナジカには未だ反抗的な態度の者も少なくありませんが、そういった者たちに同調するようなこともなく、一貫して我々に従順な姿勢を示しております」
そんなことは真の目的を果たすための表向きの仮面ではないか。真意を隠すための隠れ蓑に過ぎないのではないか。レオポルドの来訪という絶好機を迎えるため、鋭い牙を隠し、従順な羊を演じていたのではないか。と彼女には思えてならない。
長く従順な人柄を装う相手を見てきた為、連隊長は知らず知らずのうちに警戒感を緩めてしまっているのではないか。
「懸念は尤もですが、心配には及びません。この場にいるナジカ人は誰一人武器を持っておりません。入る前に入念な身体検査を行っております。調理場と会場までの通路にも監視の兵を配置しておりますし、閣下の料理はお出しする直前に控えの間で毒見をしております」
「では、参事会長が手にしていた酒瓶は」
「いや、それは……」
連隊長が口ごもる。
レオポルドに対して恐ろしい程の憎悪を抱いている人間が全く検査されていない酒を飲ませようとしている。これが危険でなくて何だというのか。
キスカが視線を向けると、レオポルドが勧められるがまま杯に口をつけようとしているところだった。
彼女は考えるより先に叫んだ。
突然のことに宴席の場がシンと静まり返る中、彼女は席を立ち、猛然とレオポルドの席へと駆け寄り、鋭い瞳で参事会長を睨みつける。
「レオポルド様は長旅でお疲れです。これ以上の酒は控えられた方が宜しい」
キスカの冷厳とした言葉に参事会長は怯えた様子で震えている。
レオポルドは少し考えた後、手にしていた杯をテーブルに置く。
「そうだな。確かに今日は体の調子が良くない。すまないが、飲酒は控えた方が良さそうだ」
「さ、さようですか……。それでは、私めはこれにて……」
「お待ちなさい」
おどおどと退こうとした参事会長をキスカが呼び止める。
「今日は酒を控えられた方が宜しいが、後日、閣下が頂くので献じられると宜しい」
「は、はい、それは嬉しい限りです。お具合の宜しい頃に召しあがって頂けますと幸いでございます」
参事会長は酒瓶をキスカに手渡し、脂汗を浮かべて怯えた様子で席に戻っていった。
「それでは、私はこれで」
キスカは酒瓶を手にしたまま大広間を歩き、外へと出て行った。
その唐突な行動に人々はしばらく唖然としていていたが、やがて口々に囁きあう。
非公式ではあるものの第一の妻にして副官でもある彼女のレオポルドへの愛情と忠誠は絶対的なもので、彼の安全に極めて敏感であることは多くの人にとって周知のことで、時に過激な行動に出ることもよく知られていた。今回の行動も忠誠心故に過剰な警戒感から及んだことなのだろうと捉えられた。
やがて宴席は元のように賑わいが戻り、何事もなく夜は更けていった。
「つまり、彼には俺を殺すのに十分な理由があるわけだ」
キスカから参事会長の事情について説明を受けたレオポルドは陰鬱そうに呟く。
レオポルドも子を持つ親である。子を殺された親の怒りと無念は十分に理解できるというものだ。怨恨による暗殺を目論む動機は十分するぎるほどあると言えよう。
無論、レオポルドとて理由もなく彼らを処断するに至ったというわけではない。
自らを裏切り反抗したナジカの指導者たちに厳しい懲罰を与えることは、眼前で城門を閉められたレオポルド軍の将兵の怒りと不満を発散させる為であり、今後同様の卑劣な行為に手を染めようとする者達への教訓とする為でもあった。
また、迫りくるガナトス男爵軍に対し、レオポルドはナジカに籠城して迎え撃つつもりであったが、市内に不穏分子を抱えたまま籠城戦に挑むのは不安が大きく、内通者の芽を摘むという目的もあった。内通は籠城戦を行うにあたって最も警戒すべきことの一つであることは言うまでもない。
実際、指導者を喪失したナジカ市民は組織的な意思決定能力を失い、唯々諾々と命令に従うより他なく、籠城戦の最中でも市民の不服従や内通者の発生を強く警戒せずに済んだのである。
もっとも、それは純粋に政治的軍事的な理由によるものであって、それ故に貴方の家族を処刑しましたといって何の反発もなく納得し、仕方がないことと従順に受け入れることができるような無感情な人間は滅多におるまい。
論理的に全く正当な理由があったとしても、それによって家族を殺された遺族の心情が慰められ、悲しみと苦しさが癒え、怒りと憎しみが消え失せるというものか。そうではあるまい。
遺された者がこの恐ろしい惨劇の下手人であるレオポルドを犠牲者に成り代わって復讐せんとする思惑を抱いたとして何の不思議があろうか。
このような事情を知ったキスカが暗殺を危惧したのは無理からぬことと言えよう。
「それで、毒は入っていたのか」
レオポルドの問いにキスカは呻くように言った。
「酒を銀の食器に注ぎ、犬に与え、毒見役が飲みましたが、特に異常はございません」
そう言って深々と頭を下げる。
「礼を失した差し出がましい振る舞いをいたしました。まことに申し訳ありません」
結局、彼女の危惧は思い違いだったというわけだ。参事会長はレオポルドの暗殺を目論んだというわけではなく、ただ私物の上等なザクロ酒を献上してご機嫌を取ろうとしただけなのだろう。
「いや、君の疑念は尤もだ」
レオポルドはそう言ってから苦し気に腹を抱えた。
「レオポルド様っ。大丈夫ですかっ」
「いや、ちょっと腹が痛むだけだ。大したことはない」
「医者に薬を処方させましょう。すぐ呼んでまいります」
そう言ってキスカは部屋を飛び出していった。
一人になった部屋でレオポルドは腹を抱え、額に脂汗を浮かべ、苦痛に顔を歪めながら、宴席で見た参事会長の笑顔を思い浮かべる。彼は自分の子や家族を殺した相手にどうしてあのように笑い媚び諂うような真似ができたのであろうか。